短編小説の航路

  • 『追憶のグレープフルーツ』
  • 『追憶のグレープフルーツ』

     フリーランスのライター、早坂結城を主人公に彼が生きる十年間を追った物語です。短い小説ですが、物語の中では十年の月日が流れ、二十四歳で餃子二人前と和布スープとライスを注文し、バーではシングルモルトのウイスキーをグレープフルーツジュースをチェイサーにして飲んでいた彼は三十四歳になります。それだけの月日の間には、様々な形での出会いがあり、それぞれの関係が生まれますが、その記憶の中の多くの場面には、グレープフルーツジュースが登場するのです。そして十年の変化も色んな場所や人に起こり、また物語が始まります。

    公開日 2021年8月25日

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  • 『人生は野菜スープ』
  • 『人生は野菜スープ』

     大学を卒業してから、4つ目のアルバイトが契約満了となった29歳の秋野久美子は、最後の勤務を終えて、その日のうちに実家に戻ってくる。母親が用意してくれた新しい職場はあるし、母や父、そして高校の同級生だった友人との会話には楽しさがあり、小さな希望もあるけれど、しかし29歳の彼女の未来はあまり見えてこない。めずらしくうっすらと苦さの感じられる短編です。作者自身による短いあとがきには、「人生は野菜スープ」というタイトルで短編小説を書くのはこれで三度目だとある。こんなふうに、同じタイトルで複数の短編を書いて楽しむ作家が他にいるでしょうか? 三つの短編に共通するのは、タイトルと、なんらかのかたちで野菜スープが登場することだけ。三つ続けて読んでみてください。

    公開日 2021年9月8日
    『これでいくほかないのよ』(亜紀書房/2022年4月刊)に収録

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    人生は野菜スープ 1976年バージョン
    人生は野菜スープ 2016年バージョン

  • 『当駅北口徒歩三分』
  • 『当駅北口徒歩三分』

     52歳で独身の作家椿健太郎は、神保町で食べたタンメンの香りと餃子の味が残っている口をシングル・モルトで浄化しようと、電車を乗り継いで、行きつけのバーに急ぐ。バーには初めて見る若い女性楠木美代子がいて、彼女には、お散歩、という新しい業務システムがあった。椿は2杯目のウイスキーを飲むかわりに、お散歩料金を払い、彼女とともにバーの外の商店街を歩く。次の週にも二人はお散歩の約束をして、タンメンと餃子を食べる。餃子は偉大だ、二人の関係のいろんなきっかけを作るのだから。その日の夜、椿はかつての同僚とバーで待ち合わせをしていた。そして、かつての同僚の2杯目は、美代子との小一時間のお散歩となった。彼の自宅は店から歩いて数分のところにある。だから彼はお散歩相手を自宅に連れて行き、妻を誘って3人でここに戻ってくるはずだと、椿が推測するところで小説は終わる。推測のとおりに3人が戻って来たなら、そこから別のストーリーが始まるに違いない。

    公開日 2021年9月22日

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  • 『スルメと空豆ご飯』
  • 『スルメと空豆ご飯』

     写真家の木村邦彦は五十歳になったばかりだ。喫茶店で月刊誌の編集者からインタヴューを受けている。「五十歳を過ぎた男たちが語る、人生のあのとき。いま、そしてこれから」という連載のためだ。木村の話は前半と後半とのふたつあり、彼の話すことがそのまま小説となっている。
    前半のテーマは「スルメ」で木村が三十歳のときにフォークランドで経験したこと。後半は「空豆ご飯」がテーマで、四十歳になった木村は広東省の胡同で驚くべき出会いを経験する。フォークランドと広東をつなげたのは、中国人のマドロス、写真とそこに写っている木村の帽子だった。

    公開日 2022年1月31日
    『これでいくほかないのよ』(亜紀書房/2022年4月刊)に収録

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  • 『雨は降る降る』
  • 『雨は降る降る』

     シリーズ短編小説の航路のはじめのころに『餃子ライスにどしゃ降り』というタイトルの作品があり、その後しばらくして『どしゃ降り餃子ライス』という別の作品が書かれた。ふたつのタイトルはあまりにも似すぎている。というわけで、片岡義男は先に書かれた『餃子ライスにどしゃ降り』のタイトルを変更するだけでなく、過激にも小説自体を書き改めてしまった。それがこの『雨は降る降る』だ。ストーリーには『餃子ライスにどしゃ降り』と重なる部分があり、餃子ライスは最初と最後に少しだけ登場するが、存在感は変わることなく大きい。新しい小説としてお楽しみください。

    公開日 2022年2月1日

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  • 『「今日は三月十二日です」』
  • 『「今日は三月十二日です」』

     ともに四十三歳の宮田陽一郎と松本昭彦が郊外のバーで落ち合い、スコッチを飲みながら会話をしている。ふたりは出身地がおなじで、おなじ高校からおなじ大学のおなじ学部へいき、おなじ会社に勤めた。宮田陽一郎は三十三歳でその会社をやめ、作家となった。二杯目のスコッチを飲みながら、ふたりが交わす会話のあいだに、松本昭彦が語る女性とのエピソードが小説のワンシーンのような書きかたで挿入されて、ストーリーの抽象度を高めている。三杯目のスコッチとともに宮田が語るのは、ひとりの女性作家のごく平凡な一日のこと。こうして語って、メモを作れば、短編小説はなかば出来ている。

    公開日 2022年1月31日
    『これでいくほかないのよ』(亜紀書房/2022年4月刊)に収録

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  • 『あの餃子を二人前』
  • 『あの餃子を二人前』

     吉村夏彦は27歳でフリーランスのライターだ。木曜日の午後五時に、ひとりで餃子を食べた。その帰り道、山崎美也子から電話があり、土曜日にいつものホテルで待ち合わせる。ふたりはおなじ高校を出て10年になる。吉村は「将来に関する、はっきりした希望や見通し。そんなものがあるの?」と問われる。翌日の日曜日には吉村が美也子を木曜日とおなじ餃子の店に誘う。餃子を食べ終わると、美也子は「30歳までに作家になるのを目標にしたらいいわ」と言う。27歳という微妙な年齢のふたりだが、餃子をいっしょに食べれば、フリーランスの仕事は作家へと続いていることがはっきりと見えるようになるのだった。おいしい餃子には、こんな効用がある。

    公開日 2022年6月3日

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  • 『なぜかふたつずつある』
  • 『なぜかふたつずつある』

     43歳の主人公三浦卓也はライターであり、短編小説も書いている。最近の主人公には小説を書く人が多い。片岡さんにとって最大の関心事は小説を書く人なのだ。三浦卓也は六月のその日、二子玉川、大門、神保町と三つの場所にある編集部を訪れて、打ち合わせをおこなう。その三つの編集部へ行く道順と、打ち合わせの内容は具体的で楽しい。
    もうひとつの主題は、ひとりで暮らす、ということで、これも最近の主人公が望む生きかただ。三浦卓也には、松原弘美という同棲相手がいたのだが、ストーリーの始まりではすでに同棲を解消していて、この日は最後の荷物を彼女が取りに来る日でもあった。同棲した理由は切実であり、同棲を解消したのもまた切実な理由だ。もとのひとり暮らしに戻った三浦卓也は彼らしさをとり戻して、快適だ。

    公開日 2022年6月3日

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  • 『バラッドの終わりかた』
  • 『バラッドの終わりかた』

     「短編小説の航路」シリーズのなかではこれまででもっとも短い一編です。前半では33歳で独身の作家、辻堂圭子がどのようにして作家となったのかが明らかにされる。大学生のときに書店でアルバイトを始めたことから展開していく作家への道は辻堂圭子の歴史だろう。後半は、33歳の作家辻堂圭子の現在だ。彼女は部屋でいつものようにスニーカーを履き、届いたばかりの新しいシャツを着て、小説雑誌に依頼された短編小説をどのように書くのか考えている。「このLPを小説に」という企画で、ジョン・コルトレーン四重奏団の「バラッズ」をあてがわれた彼女は、収録されている8曲を聴き楽譜を読み、さまざまな分析をこころみる。バラッドをどのように小説にしていくのか、辻堂圭子の思考に身を委ねてみましょう。

    公開日 2022年6月3日

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  • 『一昨日』
  • 『一昨日』

     30歳になったばかりの作家西野恵子は、4歳年上の貝殻一郎というペンネームの作家に誘われて、キャバレーの舞台に上がる芸人たちに会うため浅草に行きます。貝殻一郎はその芸人たちの世話を伯父から頼まれています。ストリッパー、ピアノの弾き語り、マジシャンの3人は、みな中年以上でそれぞれに特徴がある人たちです。
    ストーリーのなかほどで、最年長のマジシャンが自分の今日の体験を「一昨日きやがれ、てなもんだよ」と表現します。それを聞いた西野恵子は、結婚を申し込まれて断った自分の一昨日を「遠い過去」の出来事として思い起こすのです。ふたつの「一昨日」のイメージの落差が快い物語です。

    公開日 2022年9月30日

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