あしたの影の中で


あしたの影の中で

タイトル

あしたの影の中で

ジャンル

書籍/人文科学

著者

ヨハン・ハウジンガ/上野潤訳

公開日

2017年09月24日

更新日

2019年06月01日

作品紹介

『あしたの影の中で』は一九三五年の十月に初版本が出版された。もともとこの本の内容は、第一、二版の序文にもあるようにその年の三月八日にブリュッセルで開かれた講演「文化の危機」(Crisis der Cultuur)を土台にしている。現代文化における精神の衰退、「存在、生」の称揚(ということはつまり、「あるがまま」を容認するということにつながる)と、それに付随して起こった「自分」と自分に属するものへの称賛と「他」の否認、倫理観の衰退、「ピュエリリスム」(幼稚性)や根拠の無い迷信や神話の台頭といった問題から現代に巣くう精神的病弊を明らかにし、それをどのように克服するかについて考察を加えている。このエッセイが出版された一九三五年は、その二年前に隣国ドイツでヒトラーによるナチス政権が樹立し、ロシア(ソ連)ではスターリンによる独裁体制が強固な足場を作っている最中という、近、現代史上まれに見る政情不安な時代であった。まだ戦争への機運は高まっているというわけではなかったが、何かちょっとした火種ですぐさま豹変しかねない一触即発の可能性が日に日に高まりつつあったのは事実である。これは一九三二年以来議会制度に代わり軍部が国家の統率権を掌握し、発言権を強めていた日本も同じである。しかしハウジンガはこのような事態を単に政治的問題として取り扱わなかった。彼は、このような事態はそれよりもはるかに広範囲に広まっている現代人の精神的病弊の一つの表れに過ぎないと見たのである。ハウジンガのこのエッセイは、現在よく「予言的」だと言われる。彼が今から七十年以上前に唱えた現代人の精神的病弊が、我々の生きている現在この時点の現代人の精神状態そのものだと思わざるを得ないからである。そう、全く、彼の言う現代人の病弊は出版当時よりも現在もっとエスカレートしているように思われる。科学技術は当時よりもはるかに進歩し、そのために便利なツールが市場にあふれている。しかしそれを使っている「現代人」は当時よりもっと「幼稚」になっているように見える。他人に配慮出来ない自己中心的な「甘ったれ」はもっと増え、漠然と社会に不満があるというだけで「誰でも良かった」などとうそぶいて無差別殺人や通り魔殺人といった社会問題を引き起こしている。そう、ハウジンガがこのエッセイで鋭くえぐりだしているのは、何もファシズムやコミュニズム、経済混乱や社会現象といった、派手に目につく表面的な事象だけではない。それらをも含めて、「現代」が抱える様々な問題を引き起こす精神の問題、そしてその精神が生み出す文化の問題なのである。現代人の精神そのものが病んでいるから現代の政治も経済も教育も広報も、全てが病んだ様相を示しているのだ。ではこういった精神的病弊を彼はどうやって克服しようとしているのか。彼は二つの、現在人にとっては非常に困難に思われる解決の糸口を示している。それが「献身」と「自制」である。ハウジンガの要求する精神態度は非常にストイックである。便利なものはあること自体が悪いのでは決してない。ただ、それに呑み込まれるような生き方をするな、いつでも「なくても生きられる」精神状態をしっかりと確保せよ、ということなのだ。これこそが「自制」であり、これが出来るためには非常に高度な精神力と意志力を必要とする。彼の言う「献身」とは「禁欲」(原文ではaskese(ascese))であり、これは「努力、鍛錬」(exercise)をも意味する語である。つまり彼の言う「献身」と「自制」とは、表裏一体の精神なのである。
その一方で彼は、地道に努力し続ける名も無き人々、特に若い世代に温かく希望に満ちたまなざしを向ける。だからハウジンガは言うのだ、「私はオプティミストだ」と。彼の言う「オプティミスト」とは、一般に言われているような底の浅い意味でのそれではない。「改善への道がほとんどどこにあるかも見えない中で、それでも希望をあきらめない人を私はオプティミストと呼ぶのである」(第七版の序文)。-(訳者あとがき)より

作者からの言葉

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