タイトル
七三一部隊を逃すな!『月光仮面は誰でしょう』ジャンル
書籍/小説・文学公開日
2022年07月28日更新日
2024年03月02日作品紹介
石月正広はこの小説で新しいドンキホーテを書いた。月光仮面(がっこうかめん)は交番の山田巡査というサンチョパンサを従えて、七三一部隊という巨大な悪に挑む。まさしく石月節とでもいう語りで狂気の小説は始まる。舞台は戦後13年を経た1958年。七三一部隊特別班に徴用された男、朝倉忠雄は記憶に何を刻んで復員したのか。人体実験を繰り返し細菌戦に手を染めた七三一石井部隊と満州開拓村をめぐる移民たちの資料を渉猟し史実を手繰り寄せながら物語は進む。
Facebookで拡散してきて拝読。これまで知らなかった側面から731部隊のことが書かれていて戦慄しました。これだけの内容の本が無料というのも凄いと思いました。
ありがとうございます。今後の電子書籍の展開をどうするかまだ思案中ですが、どうぞ次作もご期待ください。
多くの日本人に伝えたいので、無料という手段にでました。
『月光仮面は誰でしょう』 731部隊を逃がすな❗️ 石月正広
読後の《個人的雑感・所感》
Toshihiko Mizuta
この作品は『事実は小説よりも奇なり』という言い古された慣用句の意味では、小説の範疇からは遠く、それだけ事実に限りなく接近している作品と言えるだろう。ちょうど『神が自殺をえらぶ時』とは対極にある作品と位置付けてもいい。小説の膨らみは読み手を多かれ少なかれいわば夢幻的な領域へと誘うのであるが、この作品はそのことをどこかで強く拒絶しているように感じてならない。そう強く感じる個人的な理由がある。自分の亡父が二十歳前後に哈爾濱(ハルビン )に出征しており、終戦時ロシア(旧ソ連)軍の捕虜となりシベリア鉄道でバイカル湖の周りを通って、ノボシビルスク近郊まで連行され、1年間ラーゲリ体験をしていたからだ。戦時中の話と捕虜生活の話を、一体何十回聞かされたことか。強姦や略奪は日常茶飯事であったこと、日本軍が妊婦の体から胎児を引きずり出し銃剣で刺し殺したとか、兵士らが自動小銃で大量に射殺し続けた事など、それはそれは多くの事実を語ってくれたものだ。(しかし、本当に思い出したくない場面については、無論口を濁すことが多かったが。)だから中鉢伝八の奇譚な物語の中に出てくる日本兵の暴挙もまるで眼に浮かぶように了解できた。しかし、731部隊については詳しく知らなかったようで耳にした記憶はない。どちらにしろそういった事実が重なって、自分にとってこの作品を一般的な『小説』というジャンルから随分遠ざかっていると感じさせたのかもしれぬ。
そんな印象の作品の中で、祖母から読み聞かされた『馬鹿ぞろい』というイタリアのお伽話には、自分が唯一、いわゆる小説が内包している寓話のように胸をときめかせ、さらに息抜きをも感じたのであった。祖母がこのお伽話を読み聞かせて主人公に伝えたかったことが次の一文に凝縮されている。『世の中は馬鹿と悪党で成り立っておるでな。、、、知らんうちに自分まで馬鹿になってしもうたり、悪党の仲間にされてしもうたり、真っ当に生きていくのもままならんでな。』『世の中はみんな馬鹿ぞろいなんじゃから、そこで自分はどうしたらええのか、よーく、考えるんじゃぞ。』との祖母の捨て台詞は爽やかですらあった。つまり余りにも真っ当なことを余りにも庶民的な言葉で言い当てている気がしたからだ。
この作品のテーマ(というより作品全体を通底しているテーマであろうが)は作者の根源的な問いでもある、『善悪の彼岸』ということだろう。その問いかけは作品の随所に繰り返し登場する。
教派神道の一つ天理教のふるまいについての述懐の中では、
『〈ツァラトゥストラが白昼に行燈を灯して神を探している〉
ぜんたい、何が「善」で、何が「悪」であるのか。関東軍と天理教団が満州の大地で、肩を組んで歩く、、、、、「人を殺してはいけない」というのも、「人を殺してもかまわない」というのも、実は同じだ。戦争も平和も、信仰の中から生まれる。信仰の祈りの中にあって、善と悪の境界線は無い。』
「俺は人を殺したい。」という人間に対して、「その考えは根本的に間違っている❗️私はあなたの考えに絶対反対である‼️しかしあなたのような考え方が意見として存在し得る事は認めざるを得ない、、、」などと平然と言えるだろうか? それ程までに根源的な未解決の問いであることを誰も否定できない。
そしてこの辺りから作者と朝倉の心情吐露が交錯するように出現する。
『そもそも、善悪など、この世には存在しないのだ。正義は、縄張と群れの持つ信仰でしかない。』
『人間が理性的な生き物だという考えは間違っている。』
多分現存する宗教の創始者や様々な哲学、思想を築き上げた連中はその発現当初から人間のそういった側面(本質)をギリギリのところで見抜いていたのだろうと確信せざるを得ない。いわゆる科学技術の発展により生活環境が格段に改良されていっても、人間の秩序の中での行動パターンや、善悪に対する精神の対処の仕方は本質的に何も変わっていない。理性が透き通るような透明性に満ち溢れるなんてことはこの先も到底考えられない。そう心の奥底では考えていたに違いないのだ。結果としてそれらの落差から生じる摩擦が時代とともに激しさを増しているのが現状である。
時折登場して、本質を鋭く指摘するヌルの朝倉への教示でも同様の発言が繰り返される。
『善悪というのは信仰の中にあるんだよ。信仰は宗教だけにあるのではなく、大勢の人間が集まるところに巣くう。仕事場には仕事場の信仰が、村には村の信仰が、国家には国家の信仰が巣くう。』 『善悪には境界線がないんだ。』
ここでは、個人幻想と共同幻想の逆立する構造が浮かび上がっている。人間が集まってできる決まりごとなど幻に過ぎないのであるが、その構築によって、善悪の本質的な境界線は更に見境がつかなくなる。
『さて、月光よ。阿修羅は、正義を司る神ぞ。されど、それがいかに正義であっても、それに固執しつづけると善心を見失う。そして妄執の悪となる。、、、』
731部隊への報復と追撃を画策する主人公朝倉はこの一言に恐怖を感じる。
中心をなして繰り返されるテーマはドブ助とヌルの最後の対話の中でも再現される。
『自然界には善も悪もないよ。人間の弱さが造らせた概念だ。』
全ては人間が造り上げた幻想であるに過ぎないのだ。正義も不義も、天国も地獄も、そもそも死後の世界という概念そのものも、そしてもちろん善も悪も、、、
ヌルの結びの句『朝倉忠雄の正義は、誰のためでもない。自責の苦しみからのがれるための行為だ、、、そんな正義もあるのさ。』との一言は、正義の味方『月光仮面』への哀感に満ちた呟きに聞こえる。
人間は必然の契機が存在したなら、本人の意志と無関係に何百、何千という人間を殺してしまうこともあるし、契機が無ければたとえ憎しみと殺意に憑依され強く意志したとしても、ただの一人をすら殺めることが出来ない存在なのだ。自分は父親の繰り返された思い出話を聞くにつれ、次第にその考えに囚われるようになった。だから、主人公朝倉が、『自分が悪魔の一員であったことの罪と罰の刻印を額に押され、恐怖の断末魔の幻覚を脳裏に植えつけられた。』としても、誰もが例外なくそうなる可能性と隣り合っているのだ、と自然に感じ入ってしまうのだ。
以前、自称伝統的保守派の人物が『人類というのは、ひょっとしたら定期的に戦争をしなければ生きていけない生物種なのかもしれぬ、、』と吐き捨てるように言っていたが、自信を持って否定できる人間などいるだろうか。
少し考えを広げれば簡単に了解できるのだが、我々が現時点で存在し得ているのは、ほとんど先祖のどこかの段階で殺戮あるいはそれに近い行為をして勝ち残ってきたからなのだ。つまり圧倒的多数の人間は『なんらかの意味で』殺戮者の子孫なのだ、と断言してもそれ程真実から遠くはないだろう。敢えて極論すれば、ほとんどの人間は殺人を犯した人間達の子孫なのだ。だから、事あるごとに世間で流布される『何の罪もない人々』などいう存在などないのである。むしろその思考回路こそが集団殺戮をいつでも開始させる密かに仕組まれたスイッチなのかも知れぬ。この点は、宗教、哲学、思想の創始者らが直感で捉えていた本質であろう。国家をはじめとして、自分が所属する集団の防衛の為なら大量殺戮は善とされる。部族であろうが、民族であろうが、宗派であろうが、全てその本質は変わらない。そして、単独の怨恨等による殺人は重罪と断定されるのである。これが狂気でなくしてなんであろうか?
独裁者一人の命令で戦争なるものが起こるのではない。何故ならば(これも極めて簡単明瞭なのだが)それを多くの民衆が狂熱的に支持してこそ起こるからである。したがって、戦争を起こしているのは我々民衆なのだ。
これまで人類という生物種は、そのような過程を経て何度大量殺戮である合戦、騒乱、抗争、紛争、動乱、戦争を繰り返してきたことか。
人間というのは、極限的な状態に放り込まれれば、何をしでかすかわからないような危うい生物なのである。一人の例外もなくだ。
我々人類は善と悪、正気と狂気、平和と戦争の境界線を形成する細い稜線をトボトボと不安げに歩いているような存在なのかもしれぬ。
その稜線から踏み外さないほとんど唯一の(そしてはぐらかされるかも知れない)道は、日々生起する一見異常な現象から自分は決して無縁ではないと思い巡らせることくらいだろうか。とは言うものの多くの人間にそんな振る舞いを期待することが果たして許されるのか、、、
だがそれでも言い続けなければならぬ。確かなのは、善の中に悪を、悪の中に善を、正気の中に狂気を、狂気の中に正気を、平和の中に戦争を、戦争の中に平和を見出し取り込まない思想は全て偽物であるということだ。(人間はみんな日常的に思想家なのである。)常に自分も当事者になる可能性があるとの意識を持ち続けること、、、それ以外に、戦争に代表される際限なく発生する大量殺戮を僅かなところで防ぐ方途はないように思い続けてきた。それなしには、いつでも人間は雪崩を打って戦乱に突き進むのは自明である。この『月光仮面は誰でしょう』を読んでいて、一度も途切れることなくそういった不可視の境界線について考えさせられてきたのであった。
いつ異常な世界に突然変異するかも知れない強いられありふれた日常の繰り返しの中で、如何にしたら自らの精神を自責の苦しみから解き放つことが可能だと言うのか。
そう自問する自分には、果てしなく遠くに見える明日に向かって、ある詩人の次の言葉を記すしか術がない。
『言葉だけの希望が無い方がいい。言葉だけの絶望が無い方がいいように。』
丁寧な感想を有難うございます。鋭い洞察力に感服しました。
やっと秋が来たかな?という今日この頃。台風15号が酷い爪痕を残して去った後のこの青空の下で、また石月さんの「731部隊を逃がすな 月光仮面は誰でしょう」を読んだのでした。
電子書籍となってとても読み易く、スッと物語に入り込めました。
昭和33(1958年)年―秋の東京から話は始まる。この小説は何度も読んで来たけれども、冒頭の街の描写は、都度、否応なく誘い込まれる魅力に満ちている。
街のあらゆるもの-ドブ川、ネズミ、風、一輪の青い花、赤いアドバルン、、、諸々が、作者によって命を吹き込まれ、或るものは喧しく、或るものはひっそりと語り出す。
戦後の気配が濃厚に残る東京という街の秋が、すっと眼前に浮かび上がる。
この導入部は、石月小説の真骨頂と私は思うのだけれど、すべてが平等な視線で捉えられ、有機的な繋がりの内に在る。
ここを読むだけでも、未知の風に触れたかのように、細胞は思いがけない新鮮な血が送られたかのように悦ぶ。
ピュッ。キャッ。😆何度読んでも。
敗戦後の欠乏は、当然のこととして欲望を生む。エネルギッシュな息吹に満ちている。混沌とした中での、ある意味アナーキーなエネルギーだ。
そんな様子の街に、一人の少年が現れる。敗戦後に巷に溢れた孤児か?トレンチコートの裾を秋風に揺らし、唄を口遊みながら登場する。この9才の少年が、物語を開いて行く。天平の仏像の目を持ち、「しなやかな気品」を持った少年は、地面から少し浮いているかのように飄々と街を彷徨い歩く。
ドブ川や他のあらゆるものを観察し、言葉を交わして街を顕わにして行く。それは恰も彫刻家が無駄な石を削って、石の中に眠る命を掘り出して行くかのよう。
彼の浮世離れした視線-時制を越えて俯瞰する-と、言葉を溢れるがまま吐き散らすドブ、真の意味で「批評する」犬、野良公。この絶妙バランスの三者
によって、この小説のテーマは表出されて行くのだ。
それにしても、この前段の世相の描写は見事。1950年前後に生まれた方々には、繰り出される当時のトピックや核心をついた社会の描写に、記憶にはなくても懐かしい煙の匂いを嗅いだかのような心持ちになるだろう。この頃の日々が、確かに私たちの身の内にあることを確認する。今現在の自分と繋がっていることを、確認する。
さて、交番の巡査が登場し、事件勃発の報を受けて、そこに登場するのが主人公、月光仮面(がっこうかめん)の朝倉忠夫だ。
貧しい村に生まれた朝倉忠夫は、自然と文字通り交感し得るという、特性を持って生まれている。夏の草いきれの虫どもの騒乱に巻き込まれて、自分を喪失して混乱の渦に溺れたりする少年だった。
そんな彼が満州開拓団として満州に赴き、731部隊の企てに巻き込まれるのだ。
戦争に勝つために手段を選ばず、ロシア人捕虜を使って生物兵器の生体実験を繰り広げる日々。そんなことは、人間的感情を捨てないことには出来ることではなく、「戦場では、普段善良な小市民も集団発狂する」。
朝倉もまた、存在の混乱と消せない傷を持って戦後を迎えた。彼が他の人々と違っていたのは、忘れなかったこと。生きるためには、これにケリをつけないことには生き続けられないたちの人間であったこと。1の次は2、飛び越えて3に行ったり出来ないと、彼は記憶に固執する。
「逃れられない記憶がある」と、記憶に向き合う者もいるのだ。山上くん、君もそうだったんだね。
街角のテレビ番組「月光仮面」のポスターに誘われ、朝倉忠夫は「月光菩薩に導かれた月光仮面(がっこうかめん)になる」ことを決意する。
白装束で自転車に跨がる姿は、街の中での異物の体をなす。
横並びに固執し、見張り合うニッポン人の中の憎悪が、「アブナイよ。朝倉~!」。私たちは読みながら朝倉の身を思い、心を痛めるのだが、朝倉はそんなものを認知しない。彼は、彼として生きるしかない。
満州での記憶は、街を行く宗教者を見張らせる。怪しい者を征伐するのだ。
二度とあんなことにならないように。
朝倉忠夫の月光仮面(がっこうかめん)は、彼の必死の奮闘にも拘わらず、伊勢湾台風の嵐の夜、見張り台の上でゆらゆらと縊られ揺れる朝倉の姿で終わるのだが、幾度も読んだどの時よりも、現在の日本の情況に思いを誘う。
月光仮面(がっこうかめん)、無念だったね。
しかも、この国は益々残虐で、情けない国になっている。
国葬で送られるやつは、日の丸と731と記した飛行機✈に乗ってニヤニヤ笑っていた「いかれポンチ」だよ(作者曰く)。
だけど、彼を棺に入れたのは同じように記憶から逃れられず、記憶に向き合うしかないと思い定めた青年だ。
「何という的確なテロル」と勝手に思う。金集めカルト宗教と政権与党の関係も曝かれて、「イヨマンテの夜」さながら。
彼を縊れさせたりしないと、そっと胸の裡で月光仮面(がっこうかめん)に誓う。
この小説は、月光仮面(がっこうかめん)の思想性?と731部隊と日本が主テーマの小説だと思うけれど、今回読み直してその物語を浮かび上がらせる地の部分―ヌルやドブや野良公の存在、それから流れに沿うように挿入された、小さな、木漏れ日や枯れ葉のような挿話の魅力は、同じ重さでありましたねー。テーマの重さはさて置き、読む愉しみに満ちておりました。
山上クンと朝倉忠雄とのオーバーラップはいいセンスですね。……もっともこの小説を書いているときは山上クンは未知の存在であり、そこがまた楽しいのです。
以前から言ってるように、この作家はドストエフスキー他も凌ぐと思っている。しかも読んでおもしろい、となればなおさらではないか。
それがこうして以前出版済みの書籍と異なった電子出版で、なおかつ無料で読めるとなれば、どうか。
ニーチェの作になる「善悪の彼岸」という書がある。善・悪さらには神・悪魔などというのは人間が勝手に作った便宜的区別・範疇であって、その定義こそがかえって己の首を締め上げている、と。
しかしまあ、そんなことは般若心経がとっくに喝破していることであって、この小説の軸・問題意識にはなっているものの必ずしも主題とは言えないだろう。
小説の読者にとっては、とにかく「おもしろい」ことが何よりである。登場人物は常軌を逸し、正体不明の精霊やドブや野良犬が冒頭から現れて語り、過去・現在・未来が混ざり合い、読者を一気に現実から引き剥がす。起承転結などはおよそ埒外である。
さてさて、それで、である。
安倍元首相の銃撃死があり、例の統一協会・勝共連合があり、民主主義・議会主義・平和憲法って幻想じゃないかという失望があり、2011原発事故があり、9・11があり、バブル崩壊があり、遡ればベトナム戦争・日米安保・朝鮮戦争そして77年前の原爆投下と敗戦があり、さらにさらに日清・日露戦争と明治維新があった。
驚くべきは、これらすべてをこのクニのわれわれは何一つ総括も反省もしていないという事実である。
150年間の総括と反省?
そんなめんどくさいことを、この小説家は読者に代わってやってくれているらしいのだ。しかも、至極おもしろく。
まことに無謀と言うしかないではないか。
七三一部隊は、今も生きている。それどころかいまや世界を支配しつつあるのだ。
というわけで、これを読まずんば、あなたに明日はやってこない。
この小説のテーマは「善と悪」です。そして現在進行中の自作のテーマは「大衆」です。どうしてもそれを書いておきたいのです。……それにしても「ドストエフスキーを凌ぐ」には恐れ入ります。
まだ本文を全部読めていません。でも、Romancer〝NR エディター〟の開発に携わってきた者として、仕上がりを見させていただきました。とても素晴らしい仕上りです。とても誇らしく思いました。読み終わったらまたコンタクトします。近々、正式リニューアル公開するリリースを読んでください。
色々と世話をおかけしました。自分も今回の電信書籍の仕上がりに満足しております。まずは感謝。今後ともよろしくお願いいたします。
この秋春学期の成績をつけ終えて、それとばかりに3つの小説を書きまくっていた。どれも中学生あたりに読んでもらいたいと環境問題をテーマにして。「泣いているのは誰」「アリンコの空」「無理ーっ!」授業では伝えられなかった公害の被害者たちの思いとかも伝えたくて。もう63歳でこの後どこくらい書き続けられるんだろうという不安もあった。
目標は石月さんの「月光仮面は誰でしょう」こんなすごいものが一生にいちどでも書けたらほかに何も要らないと思った。歴史の中の汚点中の汚点。日本人たちが忘れ去ってしまいたい過去。おぞましい過去の歴史を余すところなく描いている。読んだらもう読んでしまったことを消せないくらいの強烈さだ。
例えば岸田政権が安倍政権の犯罪を暴かずに国葬にて美化しごかましたように、過去を覆い隠したまま、これからはちゃんとしますっ!って言ったって、まともな未来は決してやってこない。過去の汚物は暴き出してきちんと皆で共有して、原因は分からなくても同仕様もなかったとしても、白日のもとにさらけ出さねばならない。だって、今でも彼らの発した悪鬼は社会の裏側を駆け巡っているんだから。
なかったコトにしてはいけない歴史について、授業を受けてくれる学生たちに、私も咀嚼をして物語にして追体験させたいと思った。どうすれば説明じゃなくて、悪魔たちの飽食と酷さとやられた側の痛みが伝わるような書き方ができるのか? ところが消化不良のゲロしか出てこない。書けども書けども説明的になってしまう。今ひとつ痛みが皮膚の下まで届いてこない。
休止して石月さんの月光仮面を再び読んでみた。すごい。一度完全消化して、うんこじゃなくて、血となり肉となった怒りと悲しみが襲いかかって来る。「干潟のピンギムヌ」を読んだときは重すぎて辛かった。もう止めてくれと思って読んでいた。この作者はいい加減ってところを知らないよなあーなどと思って読んでいた。
ところが月光仮面にはそれがない。もっとひどいしもっと凄惨で救いがないのに、そこに救いを見たのは私だけだろうか? 主人公の朝倉はどこか不器用で滑稽で悲しくて、一人無力に浮いている。でも一人で正義をなそうと思い、過去の悪鬼を追いかける。山田巡査という若い人の心にそれが変化をもたらしていく。回想はリアルでどんどんその時代に引き釣りこまれる。そして、戦後のドブ川のまだ合った時代と縦横に行き来する。街の缶くずやらドブ川やらドブネズミたちが見てきた歴史を語りだす。ヌルという妖精のようなもの、あれは歴史にちがいない。歴史が一人ひとりの人間に語りかけて、ほんの少しだが心に変化をもたらしていく。現代につながってくるのだ。そしてこの本が現代のヌルとなる。
こういう感想が、物書きの励みになり、新作を産みだす力になります。小説を生活の糧にすることをやめた今、望むことは、ただただ多くの人たちに読んで欲しいという思いだけです。
お忙しいなか、感想を有難うございました。
ぶひ
石月正広著「月光仮面は誰でしょう 731部隊を逃すな!」を読んで
照る日曇る日 第1299回
満州で悪辣非道な生体解剖や人体実験を繰り返していた731部隊を巡る身の毛もよだつ恐ろしい物語。石井四郎に率いられた731部隊の医者たちは本邦を代表する人物であるが、彼らは自らの大罪を封印しつつ機密事項を米国に渡して身の安全を図り、あまつさえ戦後も公然と要職について医学界を主導しているのである。
この小説の主人公は、月光仮面を名乗って彼らに天誅を加えようとするのであるが、いかんせん少年時代に部隊に雇用され、その実験の一端を担っていたために、「ヤマザキ、天皇を撃て」の奥崎謙三のようには、「悪を悪として」無条件に断罪できず、内臓から血を流しながら、月に吠える狼のように苦悩し、のたうちまわる。
よしや戦時の天皇や国家や天理教の様な宗教団体や軍隊の上司が殺人の許可を与えたとしても、本当に赤の他人を無慈悲に殺戮することが許されるのであろうか? 傷つき汚れたその魂は、いつかどこかで浄められるのだろうか?
はじめは波乱万丈のピカレスクロマンとして楽しみながら読んでいた私の胸中に浮かんで最後まで消えなかったのは、そういう容易に結論のでない著者からの根源的な問いかけであった。
この本に書かれていることに驚くのは、半世紀以上経っても、日本人はなんの反省もせず、現在の日本の社会は当時と殆ど変わっていないということです。この事実に早く気づかないと、日本民族はあと50年と経たないうちに滅びることになるでしょう。
熊本新聞最新の記事でハンセン病の患者たちに「治療」渡渉して強制的に劇薬を飲ませたり静脈注射したりして、731の軍医たちがひどい人体実験をして9人は確実にそのせいで直後にショック死したという記事が載っていました。京大医学部はそこに教授を送り込み実験結果を利用したとのことです。酷い話だと思いました。同じことをハルピンでももっと大規模に悪魔的に行われていたわけです。それが今の医療に応用されているなどと保健の教科書にはこれっぽっちも載っていません。どころか、悪魔たちは口を拭って今もい者ヅラを続けています。隊長は最期にキリスト教信者になったとか。すでに人間じゃないものを神がどうやって許すのか。
石井部隊の末裔が絶賛活躍中の只今、国家解体・貨幣経済廃止・銃火器撤廃が必須なる世界平和への道。