1992年ひっそりと日本で公開され、さしたる話題にもならず消え去っていった映画が約25年ぶりに公開されている。デジタルリマスター全編236分、約4時間のノーカット版『牯嶺街少年殺人事件』だ。有楽町角川シネマでは連日満席というという状況が続いている。何とも驚くことばかり。なぜこのような映画がいまになって注目を集めるのか……? 当時、評価も得ず、すでに監督のエドワード・ヤン(楊德昌)も世を去り10年以上を経過している。生きていれば70歳になるという、多くの人にとって忘れられたといってなんの痛痒もないはずなのに……
映画とはいったいどういうものなのか? 私たちはそれをあたかも知り尽くし、慣れ親しんだもののように納得している。ある時は刺激や享楽の一助として、ある時は時間つぶしの慰みものとして。いずれにしろ、かけ離れた無関係の中に与えられる甘い飲み物のように消費している。このどっぷり浸かり込んだ予定調和の中に、社会や政治とは無縁に座っているのだ。だから映画は浮世のはけ口となって価値を見出す営利ビジネスになっていく。逃避の空間を一歩も二歩も外れることは自由だとは言いながら、誰も容易にそれを踏み込もうとしないのは、のしかかる経済的な重圧があるからだろう。
でも日常を凝視することはできないことじゃない。カメラのもつ現実の模写機能を駆使することで、私たちは逃避から世界に目を向けることができる。意図しようとしまいと。現実を見たいか、見たくないか……きっと見たくはないはずだ。過酷な中に生きているからこそ、しばしであろうと、そこに戻りたいとは思わない。逃げたい……隙あらば、とにかく立ち去りたい。そうすることでかすかに残されたわずかな幸福のおこぼれにあずかろうと願う。なんという弱さか。この弱さに私たちの崩れかけた幸福が寄り掛かっている。ささやかな幸せという幻影だ。
☆画像クリックで映画予告編
『牯嶺街少年殺人事件』は黙っている。なんの主張もすることはない。ただ私たちに少年を見続ける目を離させない。目がスクリーンに刺さったままだ。結果、私たちは少年以外の映像を現実として目撃する。目撃してしまったのだ。美しく……限りなく悲哀に満ちた街が、人々が、建物が、そこに立ちつくしていることを。
『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』公式サイト