2017年7月24日 15:00
平尾昌晃さんを悼んで
佐藤剛
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かつては、ロカビリーのトップ・スターとして人気を集め、作曲家に転じてからは「霧の摩周湖」「よこはま・たそがれ」「わたしの城下町」など数々のヒット曲を送り出した平尾昌晃さんが21日、肺炎のために79歳で亡くなりました。平尾さんの功績について、「阿久悠と歌謡曲の時代」連載中の佐藤剛さんに寄稿していただきました。

2011年撮影、提供 月刊カラオケファン

平尾昌晃さんは、阿久悠さんと同じ1937(昭和12)年の生まれです。

明治大学に入学するために阿久悠さんが淡路島から東京に出てきた1955(昭和30)年の秋、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツが「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を歌った映画『暴力教室』が公開されています。そのとき、文部省は若者たちに鑑賞させないようにという通達を出しました。こうした大人たちの反応によって、ロックンロールは社会現象にまで押し上げられます。

その翌年にはアメリカでエルヴィス・プレスリー人気が爆発し、若者たちの新しいスターの登場は、大きな社会問題にまでなっていきました。ジャズのヴォーカル・スクールに通う17歳だった平尾昌晃は、ロックンロールの衝撃をこう語っています。

 主題歌「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が決定的だった。ジャズはおしゃれで好きだが、映像とビートの効いた音楽が一緒に目に飛び込んできた衝撃は忘れられない。

(2017年2~3月、スポーツ報知連載「平尾昌晃・生涯青春」)

平尾さんと同様に「ロック・アラウンド・ザ・クロック」に「音楽的衝撃」を受けた阿久さんは、「腰が抜けるようなおもいになった」と、『愛すべき名歌たち 私的歌謡曲史』(岩波書店刊)のなかに書いています。また「それまで、音楽とか歌とかは流れるようなものだと思っていたのが、叩くという種類のものがあることを知った」とも述べています。だからエルヴィスの「ハートブレイク・ホテル」を聴いても、「叩く」音楽としてすんなり受け入れることができたそうです。

映画監督の井上梅次が銀座にあったジャズ喫茶「テネシー」を訪れたのは、1957(昭和32)年の秋のことです。年末に公開する石原裕次郎主演による映画を撮るにあたって、舞台となるジャズ喫茶でうたう歌手を選ぶためでした。候補になっていたのは後に「ロカビリー3人男」と呼ばれる山下敬二郎、ミッキー・カーチス、そして平尾昌章(昌晃)の3人です。

そのときのことを平尾さんはこう述懐しています。

 1、2曲歌ったところで楽屋に呼ばれて依頼を受ける。「憧れの石原裕次郎さんと共演できる」と胸が張り裂けそうだった。決め手になったのはステージ衣装だったようだ。歌手である以上、常に目立ちたいという意識を持っていて、その日の衣装も真っ赤なジャケット。これが良かったらしく、監督から「その格好で来て下さい」と言われた。

(同前)

同じ頃にキングレコードのディレクター、牧野剛が「テネシー」を訪ねてきました。彼は江利チエミの「テネシー・ワルツ」をはじめとして、英語詞を日本語にする訳詞家の草分け的な存在でした(ペンネームは他の訳詞者との共用で、音羽たかしを名乗っています)。その1年ほど前、平尾さんは歌手になりたい一心で、築地にあったビクタースタジオを訪ねたことがあります。しかし、名物ディレクターとして名を馳せていた磯部健雄から、「せっかく来てもらったけど、今は女じゃなくちゃダメなんだよ。悪いな」と、歌も聞かずに門前払いされました。その平尾さんがオーディションを受けないかと、誘われたのです。

 収録のため音羽のスタジオに行くと床がミシミシと音が…。あまりの古さに驚いたが、このスタジオでザ・ピーナッツや伊東ゆかりも歌を吹き込んでいたと思うと力も湧いてきた。兄たちは歌手デビューに「大丈夫なのか」と心配顔だったがお袋は賛成してくれた。父はいつも黙って話を聞くだけで、私のことはずっと母に任せて口を出すことはなかった。『嵐を呼ぶ男』の公開から2週間後、年が明けた1958年1月にデビュー曲は発売された。それから約1カ月後の2月8日に日劇ウエスタンカーニバルが開催される。

(同前)

「日劇ウエスタンカーニバル」の初日の幕が開いたのは1958(昭和33)年2月8日、平尾さんも出演した映画『嵐を呼ぶ男』が大ヒットを記録した直後のことでした。世界中に新しい変革をもたらしたロックンロールの人気が、日本でもここで爆発したのです。そして平尾さんは人気の頂点に押し上げられます。

ロカビリーが社会現象になって騒がれ始めたその時期に、平尾さんは日劇によく足を運んでくれる読売新聞の安倍亮一さんという音楽記者と出会いました。そして「一度じっくり話をしたい」とリクエストがあったことから、バーで会ってみるといきなり「平尾君、外国曲もいいけど日本の歌もうたいなよ」と水を向けられたそうです。

 彼は酔いが回ると紙ナプキンにペンを走らせる。何か書きながら「どんな歌が好きなの」と聞いてくる。「西部劇が好き」と答えると「じゃあ、ウエスタンみたいな歌詞を作ればいいね。次に会う日までに書いておくから」と。1カ月後に再会すると「星は何(原文ママ)んでも知っている」を仕上げていた。タイトルも良かったが2番の木彫りの人形握って眠る―という詞が気に入った。すぐキングのディレクターに「これやりたい」と電話を入れた。

(同前)

平尾さんは安倍さんの詞に自ら曲を付けました。こうしてソングライターの平尾昌晃が誕生し、「星はなんでも知っている」が大ヒットしたことで、安倍記者は作詞家の水島哲として世に出ていくことになります。そして平尾さん自身は、ビートに乗せてがむしゃらにメッセージを叩きつけるロカビリー唱法を卒業し、角が取れて丸みを帯びた叙情的な歌をうたうようになるのです。

1960(昭和35)年には自ら作詞作曲した「ミヨちゃん」を発表、これも大ヒットしたことによって、いよいよ歌謡曲の作曲家として下地が固まっていきました。しかしその後、ロカビリー人気が下火になった1962(昭和37)年の春に肺を患って3カ月ほど療養生活を送り、さらに体調が悪化してしばらくは不遇な時期を過ごします。

医者から歌手業を止められていたことが決め手になり、作曲家の道を歩んでいた1966(昭和41)年に書いた布施明の「霧の摩周湖」が、翌年にかけて大ヒットして注目を集めました。その頃はソングライターにとって大きな変革の時期で、平尾さんはレコード会社の専属作家にはならず、フリーランスのまま活躍していくことにします。そして「霧の摩周湖」と「渚のセニョリーナ」(梓みちよ)によって、1967(昭和42)年の日本レコード大賞で作曲賞を受賞したのです。

以降は作曲家として五木ひろし、小柳ルミ子らを世に送り出して多数のヒットを飛ばしたほか、歌謡教室を開いて狩人や松田聖子といったスターを育てました。

平尾昌晃さんと阿久悠さんには、同じ年の生まれで共にロックンロールの洗礼を浴びたという共通項があります。しかし阿久さんがそこから受けた「叩く」音楽という意識を、絶えず持ちながら歌作りを続けたのと違い、平尾さんはロカビリーを通過して抒情的な日本の歌謡曲を志向していきます。その根底には純邦楽を好んだ父親の影響があるのかもしれません。平尾流の洋楽と邦楽の適度な融合は、経済の発展にともなって文化的な成長を続ける昭和40~50年代の日本人の感性に、実に見事にフィットしたのは事実です。

日増しに便利になっていく暮らしの中で、希薄になることなく大切にされる家族や人間同士の細やかな心の交流。平尾さんの作品には、そうしたテーマが情緒ゆたかに描かれています。それは誰にでも穏やかに丁寧に接し、長く福祉活動に携わった、人としての優しさが生んだものと思われます。時がどのように流れても、人が大切なものを忘れてしまわない限り、平尾さんが遺したメロディーは時代とともにあり続けることでしょう。

ご冥福を心よりお祈りします。


著者:佐藤剛平尾さんの訃報に接して、急きょ本稿を執筆していただき、連載中の「阿久悠と歌謡曲の時代」に掲載予定の一部分までもあえてまとめてここに掲載した。甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけた音楽プロデューサー。なお、本稿の題字は、連載との調和をとるために、急きょ小豆島に連絡をとり、平野甲賀さんに書いていただいた。