沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第17回 2017年10月27日掲載
第一部 歌謡曲の黄金時代を予告していた「ない・ソング」の登場

第十七章 和田アキ子の成功

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ホリプロダクションの大型新人として期待されていた和田アキ子のデビュー曲「星空の孤独」は、まったくといっていいほど売れなかった。しかし当初は思うような成果を上げられなくても、継続して作詞の依頼を受けて売れるものを追求できたことから、「笑って許して」の大ヒットに結びつく。そうした経験がプロの作詞家として生きる覚悟につながり、和田の代表作となる「あの鐘を鳴らすのはあなた」に結実していった――。
「白い蝶のサンバ」の成功で得た大きな自信

「白い蝶のサンバ」は1970年3月9日からヒットチャートの1位になり、森山加代子がロカビリーのアイドル・スターから大人の歌謡曲歌手として、華麗にイメージ・チェンジを遂げたことはマスコミにも大きく取り上げられました。

おりしも3月14日からは「人類の進歩と調和」をテーマに、世界の77カ国が参加した大阪万博が開催されています。高度成長を遂げた日本が経済大国になったことを示す象徴的なイベントに、3月から9月までの半年間で、約6422万人もの人たちが訪れました。海外から日本を訪れた外国人も多く、そうした来場者たちの大半が、漠然とではあっても人類の進歩と明るい未来を信じていたと考えられます。

そしてわずか数人のスタッフによって発足して1年ほどの弱小レーベル、デノン・レコードの「白い色は恋人の色」と「白い蝶のサンバ」が続けて大ヒットしました。「白い」という言葉がタイトルに入った2つの大ヒットが生まれたことは、音楽業界に新しい時代の到来を告げるものとなります。白はすべての始まりの色であり、清潔感や開放感、明るい未来を感じさせたからです。

その2曲の作詞家と作曲家がレコード会社の専属作家ではなく、フリーランスの目新しい顔ぶれだったことも新鮮でした。一方は、解散したザ・フォーク・クルセダーズのメンバーだった北山修と加藤和彦。この時点ではまだアマチュアとプロの境目にいる若者たちです。そして片や、さほど実績のない新人作詞家だった阿久悠と、同じくまだ作曲家としての実績には乏しい井上かつおでした。

このとき、4人の作家のなかでもっとも注目を集めたのは、作詞家の阿久悠です。第一線から退いていた人気歌手を鮮やかにカムバックさせたのは、「白い蝶のサンバ」という歌から放たれる、華やかで刺激的なイメージによるところが大きかったからでしょう。そうした世界を言葉でつくりあげた作詞家に、関心が高まったのは当然のことです。

「白い蝶のサンバ」における阿久悠は、プランナー的なポジションにもいましたから、この成功によって大きな自信を持ったに違いありません。ありきたりの歌謡曲ではないもの、それまでにないものに挑んで来たことが、ついに実を結んだのです。それと同時にヒットした歌が持つ伝播力や、その影響について真剣に考えるようになったことを、自伝に記しています。

「白い蝶のサンバ」一曲で、「作詞・阿久悠」が知られたのである。それに、歌というものが社会を翔けめぐる速さというものも実感した。これは只事ではない。歌は好みの人のお遊び品として届けるものではなく、未知の無限の人々に対して、時代の気分を発信するものだと思ったのである。

(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社)

多忙な放送作家であった阿久悠の名前は、それまでにも毎日のようにスタッフロールなどで、テレビの画面に表示されていました。しかし、実際にどれだけの人がそれを認知していたかといえば、限りなくゼロに近かったでしょう。それが「白い蝶のサンバ」の大ヒットによって、少なくとも音楽業界のなかでは一変したのです。「阿久悠」という一風変わった名前が知られるとともに、仕事の依頼が次々に入ってきました。そこから身のまわりの状況も仕事の環境も、急激に変わっていくことになります。

たかが一曲が稼ぎ出す金額としては、驚くべきものであった。半年後、最初の印税の支払いを受けた時、ぼくの当時の生活感覚より、ゼロが一つ多いと思った。そして、これを美味しいと思ってはいけない、大変な、重いことだと考えるべきだと、気を引き締めたものである。

(同前)

それまでは頭の中のどこかにいつも「本職は放送作家である」とか、「本当は小説家を志している」という気持ちがあり、プロの作詞家だという意識が薄かったことに対して、阿久悠は考え方を改めていきます。

いつでも逃げられる姿勢で、いいところだけを(ついば)むわけにはいかなくなったのである。作詞に対して本気であるところを、社会や業界に対しても示さなければ、失礼というものだろうと思うようになる。

(同前)

それからの1年間に発表になった作品を見ていくと、ヒット曲としてまっさきに挙げられるのが、3月25日に出した和田アキ子の「笑って許して」(作曲 羽根田武邦)です。この楽曲の成功によって、阿久悠は自分にとっての作詞術を確立したと考えられます。これ以降は、売れなかった頃と変わることなく、“歌謡曲らしくない”詞を書きつづけていったのに、ヒット曲が出るようになり、阿久悠の名前が広まっていくのです。

失敗から始まった和田アキ子のプロジェクト

初めて自分の歌詞がレコード化されたザ・スパイダースの「モンキー・ダンス」以来、阿久悠にはホリプロダクションとのつながりが出来ていました。そこからモップスの仕事を依頼されて、作詞家としてのデビューを飾ることになったのです。それに続いて1968年の秋に、社長の堀威夫が大阪でスカウトした大型新人、和田アキ子のデビュー曲「星空の孤独」(作曲 ロビー和田)を作詞しています。それがまったくヒットしなかったことは、前にも記したとおりです。

デビュー曲が当たらなかったためにソングライターの交代が行われて、セカンド・シングル「どしゃ降りの雨の中で」が1969年の春にヒットします。それによって和田アキ子は前途有望な新人歌手の一人として、芸能界にポジションを得ることができました。

ソングライターの交代と「どしゃ降りの雨の中で」のヒットについて、阿久悠は「かなり口惜しかった」と正直に語っています。したがってそれに続く3枚目のシングル曲を、あらためて担当させてもらえることになったとき、期待に応えようと意欲を燃やしたのは当然でした。そして自ら“ジャーナリスティックで、新しくて”という自信作を書きあげます。ただし、その頃の阿久悠は「白いサンゴ礁」と「港町シャンソン」がヒットしていたにもかかわらず、プロの作詞家だという意識は薄いところがありました。

作詞家ではないといいきるつもりはなくなっていたが、ぼくはきっと売れないタイプの作詞家になるだろうと、自分では思っていた。
 売れないけれど、いいねとか、凄いねとか、面白いねとか、新しいねとかいわれる作品は書けるはずで、そっちのタイプでありたいと思いつづけ、それがぼく流の意欲であった。
 売れなくてもいいと、思っているわけでは決してない。売るために志を変えないだけのことで、これが売れたら最高なんだがな、と常に思っている。(中略)だから、和田アキ子のいわゆる次の曲に、「その時わたしに何が起ったの……?」というタイトルの歌を書いたのも、ジャーナリスティックで、新しくてという自負はあったのである。

(阿久悠『なぜか売れなかったが愛しい歌』河出書房新社)


「その時わたしに何が起ったの……?」
作詞 阿久悠、作曲 田口ふさえ
 
その時わたしに何が起ったの
さすらう男に 夢を求めた
なぜだかわからない
汚れた町は出たいわ 夜明けの前
 
恋はあてもない あてもない
風まかせ 風まかせ
遠い国へ 連れて行って
 
その時わたしに何が起ったの
見知らぬ男に 夢をあずけた
明日はわからない
それでもいいわ わたしはくやまないわ
 
恋はあてもない あてもない
風まかせ 風まかせ
遠い国へ 連れて行って
 
その時わたしに何が起ったの
旅ゆく男に 夢をみつけた
片道切符なの
いつかは一人のこして 行ってもいいわ


しかし10月25日に発売されたこの作品もまた、残念ながらヒットにはつながりませんでした。阿久悠はそのとき、作詞という仕事についてのこだわりを、あらためて自分に問いかけたにちがいありません。十分にいい作品が出来たのに、売れなかったのはなぜだったのか。そこで和田アキ子の次回作を頼まれたときのために、以下のように企画のポイントを整理しなおしたのです。

『星空の孤独』(ロビー和田作曲)
 身長一七二センチ、束髪、GパンのR&B歌手。一見男かと見まちがうような風貌、これが何よりのテーマになってしまった。
 異色・大型・迫力。これらがストレートに感じられるように、歌も大きく大きくと心がけて創ったのである。
 しかし、スケールは生まれたが、人々が受けとめようとしているハートの位置よりはるかに上を通り過ぎたのか、前評判、そして、こちらの熱意にもかかわらず、まったくといっていいほど売れなかった。

『土砂降りの雨の中で』(大日向俊子作詞・小田島和彦作曲)
 和田アキ子、初のヒット曲である。ただし、残念ながら、ぼくの作詞ではない。このヒットで、ぼくらスタッフは、一作目に対する反省を強いられた。一作目では、結果的には売れなくてもいい、いいものを作ればという姿勢があったことは確かである。それが、やっぱり売るという、売れるものをたずねるという姿勢を捨ててはいけないということである。

『その時わたしに何が起ったの……?』(田口ふさえ作曲)
 まだ、ぼくは、和田アキ子のスケールにとりつかれていたようだ。だから、歌の舞台も日本に置いていない。タイトルといい、詞の内容といい、たいへん気に入っているし、和田アキ子の個性も一〇〇パーセント引き出していながら、時代の接点のとり違えか、前作に及ばなかった。

(阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波書店)

これを読むと「その時わたしに何が起ったの……?」がヒットしなかった結果、時代との接点を取り違えたかもしれないと感じたことがわかります。ここから阿久悠は時代というものを強く意識し、作詞にとどまらず全体のイメージまでを考えて、制作全体に関与していくようになったと想像できます。そこからは自然に、プロデューサー的な立場を兼ねるようになったのではないでしょうか。

時代の飢餓感と「作詞家憲法」

1969年も終わろうとしていたこの時期に、阿久悠は作詞とヒット曲の関係について徹底的に考えたことによって、15条から成る「作詞家憲法」を制定しています。その段階で“時代の飢餓感”というキーワードを見つけ出したことが、作詞家として肚をくくって生きていく上での推進力となったのです。話をわかりやすくするために、再びここに「作詞家憲法」を掲載します。

  1. 美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、違う道はないものであろうか。
  2. 日本人の情念、あるいは精神性は、「怨」と「自虐」だけなのだろうか。
  3. そろそろ都市型の生活の中での、人間関係に目を向けてもいいのではないか。
  4. それは同時に、歌的世界と歌的人間像との決別を意味することにならないか。
  5. 個人と個人の実にささやかな出来事を描きながら、同時に、社会へのメッセージにすることは不可能か。
  6. 「女」として描かれている流行歌を、「女性」に書き換えられないか。
  7. 電信の整備、交通機関の発達、自動車社会、住宅の洋風化、食生活の変化、生活様式の近代化と、情緒はどういう関わりを持つだろうか。
  8. 人間の表情、しぐさ、習癖は不変であろうか。時代によって、全くしなくなったものもあるのではないか。
  9. 歌手をかたりべの役から、ドラマの主人公に役替えすることも必要ではないか。
  10. それは、歌手のアップですべてが表現されるのではなく、歌手もまた大きな空間の中に入れ込む手法で、そこまでのイメージを要求してもいいのではないか。
  11. 「どうせ」と「しょせん」を排しても、歌は成立するのではないか。
  12. 七・五調の他にも、音楽的快感を感じさせる言葉があるのではなかろうか。
  13. 歌にならないものは何もない。たとえば一篇の小説、一本の映画、一回の演説、一周の遊園地、これと同じボリウムを四分間に盛ることも可能ではないか。
  14. 時代というものは、見えるようで見えない。しかし、時代に正対していると、その時代特有のものが何であるか、見えるのではなかろうか。
  15. 歌は時代とのキャッチボール。時代の中の隠れた飢餓に命中することが、ヒットではなかろうか。

手応えも自信もあった意欲作がヒットせずに終わり、気楽に居直って書いた「港町シャンソン」がヒットしたことは意外な結果でした。そこから阿久悠は「歌は時代とのキャッチボール」であると認識し、時代の飢餓感に命中させなければ、いい作品でもヒットしないということを痛感したのでしょう。そして自分が和田アキ子に書いた作品の分析と反省をふまえて、ときには信念へのこだわりを捨ててでも売れなければいけないときがあると、「笑って許して」を書きあげるのです。

 どう見ても和田アキ子は大きい。大き過ぎる。それをますます大きく見せる努力をぼくはしていたようだ。そして、イメージ的にかけはなれて大きくなり過ぎることは、決して、いい結果が出ないのじゃないかということを、ここに来てやっと気づいたのである。だから、この歌では、和田アキ子を、実物の半分ぐらいの大きさに見えるように、そんな歌を創ったのである。そして、これは成功した。

(阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波書店)


「笑って許して」
作詞 阿久悠、作曲 羽根田武邦
 
笑って許して ちいさなことと
笑って許して こんな私を
抱きしめて 許すといってよ
いまはあなたひとり あなたひとり
命ときめ 命ときめ
愛してるの 愛してるの
しんじてほしい
笑って許して 恋のあやまち
笑って許して おねがいよ


時代の飢餓感に命中することをめざして、野球でいえば思い切りスイングするのではなく、相手の投げたボールに軽くミートさせた「笑って許して」は、デビュー以来の最大のヒット曲になりました。阿久悠はここでようやく、ホリプロダクションの関係者たちを喜ばせることができたのです。和田アキ子はこの曲で人気歌手の仲間入りを果たし、1970年の『第21回NHK紅白歌合戦』に初出場しています。

そして編曲を担当した()(かい)()俊一が、この曲で第12回日本レコード大賞編曲賞を受賞しました。そのことから、阿久悠はヒット曲が生まれるためには制作チームが優秀でなければならないこと、個々の気持ちや意欲がひとつになることの大切さを再確認したのでしょう。そうしたことを重要視して、企画を練っていく段階からスタッフとのディスカッションで、イメージや方向性を共有する方法を実践していくようになります。

著書『愛すべき名歌たち―私的歌謡曲史―』のなかで、阿久悠は社長の堀威夫から直々に、和田アキ子がレコード大賞の歌唱賞を獲得できるような楽曲を書いてほしいと頼まれたと記しています。当の堀威夫は母校の明治大学昭和歌謡史研究会が行ったインタビューの中で、「あの鐘を鳴らすのはあなた」について、こういう発言を残しています。

阿久さんと淺草国際劇場の客席後のガラス張りの幹事室ってところで和田アキ子ショーを観ていたら、エンディングが自分の曲ではなくてアメリカの曲だった。それで、阿久さんに「次は胸張って上を向いて歌える歌を作ってくれないかな」と言ったんですね。

(大学史紀要 第21号「特集 阿久悠・布施辰治」明治大学史資料センター)

ショーのフィナーレを飾るための「胸張って上を向いて歌える歌」とは、実にゼネラル・プロデューサーらしい発言です。阿久悠はその要望に応えるために、「笑って許して」の路線からもう一度、もとのスケール感ある歌に戻す試みに取り組みました。そして1971年6月5日に発売された「天使になれない」で、満足のいく結果を得ることができたのです。


「天使になれない」
作詞 阿久悠、作曲 都倉俊一
 
今日まで賭けた愛が
音をたててくずれて行く
信じられない 最後のことばに
こうしているのが やっとの私
それでも笑って 話せというの
とてもそれは できないわ
愛はあまりにも 私を傷つけた
とても天使になれないわ
泣いて泣きつかれて 眠るまで


和田アキ子の歌手としてのスケール感を実証した「天使になれない」は、彼女のキャリアにおける最大のヒット作になりました。それについて阿久悠は、次のように自己評価を下しています。その視点は作詞家というよりはもはや、プロデューサーのものだと言えます。

 前曲あたりからの念願であった和田アキ子のスケールの拡大が、やっと実現できたものである。小きざみにリズムをとりながら動きまわっていたのを、大きく、ゆれるようなイメージに仕上げた。詞としては、最大限、女の心を歌いあげたもので、これでまた、新しい層、ホステス層にまでファンを広げた記念すべき作品である。今後、何年歌い続けても、この歌は、重要なレパートリーとして残るに違いない。

(同前)

なお、これを作詞したと推測される2月から3月にかけては、北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」がヒット中でした。斬新な作品を生み出すプロの作詞家として、ジャーナリストの間で阿久悠が高い評価を得た時期にあたっています。また作家の個人史においても、森田健作の「友達よ泣くんじゃない」(1972年)、山本リンダの「どうにもとまらない」(1972年)と、「ない・ソング」の連続ヒットが始まっていったのです。

暗い時代に身を置いて求めた「あなた」

1968年から始まった和田アキ子のプロジェクトで、阿久悠はメインの作家としてデビューからの4年間に、11枚のシングルのうち8枚を作詞しています。そのなかでも会心作となったのが、1972年3月25日に発売された「あの鐘を鳴らすのはあなた」です。この曲はオリコンのチャートで最高53位だったので、当時はさほどヒットしたわけではありません。しかし楽曲への評価が高かったことから1972年の日本レコード大賞で、堀威夫が希望していた歌唱賞に選ばれました。そして和田アキ子の代表作となっていったのです。


「あの鐘を鳴らすのはあなた」
作詞 阿久悠、作曲 森田公一
 
あなたに逢えてよかった
あなたには 希望の匂いがする
つまずいて 傷ついて 泣き叫んでも
さわやかな 希望の匂いがする
 
町は今 眠りの中
あの鐘を 鳴らすのは あなた
人はみな 悩みの中
あの鐘を 鳴らすのは あなた
 
あなたに逢えてよかった
愛しあう 心が戻って来る
やさしさや いたわりや ふれあう事を
信じたい心が 戻って来る
 
町は今 砂漠の中
あの鐘を 鳴らすのは あなた
人はみな 孤独の中
あの鐘を 鳴らすのは あなた


阿久悠はこれを作詞したときの気持ちについて、プロデューサー的な観点から次のように述べています。なおこの言葉はレコードが発売された直後のもので、後に日本レコード大賞の歌唱賞に選ばれることを知る由もない、5月に出版された著書のなかに書いてありました。

 ここ三年、大きな和田アキ子を小さく見せようと仕組んでき、女であることを強調してきたが、ここで、大きくなれるだけ大きくしようと考えたのである。果たして、女性歌手はどこまで大きなテーマ、どこまで大きな曲を歌うことができるのか、そういうスケールの限界に挑戦したものである。
 詞の内容も、男と女の一対一の感情の動きみたいなものはやめて、人間、そして、青年に対して、どこまで期待をするかという、大きな愛をテーマにしてみたのである。

あなたに逢えてよかった
あなたには 希望の匂いがする
…………

“あなた”とは何も特定の人物ではない。本来のやさしさを備えた人間なのである。そして、この二行が、今、ぼく自身がいちばん欲しがっていることなのである。

町は今 砂漠の中
あの鐘を 鳴らすのは あなた
人はみな 孤独の中
あの鐘を 鳴らすのは あなた

 ほんとうに、この現代に、いろんな鐘の音を鳴り響かせたいと考えている。

(阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波書店)

デビュー前の段階から堀威夫に相談を受けて作詞の仕事として関わりをもち始め、結果的に4年の歩みを導いていく役目を引き受けた阿久悠は、はからずも和田アキ子のプロデューサー的な位置に立つようになっていきました。そして当初から思い描いた和田アキ子のイメージを、歌詞で表現するためにと試行錯誤していくなかで、ついに満足できる自信作を生んだのです。したがってこれらの言葉には、一曲一曲に作詞家として真剣に取り組んできた阿久悠の、当時の正直な気持ちがリアルタイムで吐露されていたと理解していいでしょう。ここからは未来に対する確かな希望が感じられます。孤独の中にも高らかに鳴り響く、希望の鐘が聴こえてくるようです。

■和田アキ子「あの鐘を鳴らすのはあなた」

ところが、それから30年後、阿久悠は当時を回想しながらあらためて自作を解説するなかで、この歌が生まれた1971年の年末から72年についてを、“暗い時代”だったと定義するところから始めています。その文章からはどこか、ただならぬ気配が感じられました。そして文中にもいくつか、気になる言葉が出てくるのです。

 〽あなたに逢えてよかった
  あなたには 希望の匂いがする……
と、暗い時代の中で書いた。昭和四十七(一九七二)年のことである。時代というもの、いつも今がいちばん暗いと思わせる黒魔術を使うから、なかなか他の時代と比較がし難いのだが、その年、非常に暗かった記憶がある。
 七〇年安保から二年目、社会や人は大急ぎで清算しようとした秩序の、急ぎ過ぎたが故に狂気を産んだ理解し難い悲劇を暗いと感じた。連合赤軍による浅間山荘事件、集団リンチ事件が前年十二月から二月にかけて起こる。五月にはテルアビブ空港で日本人による乱射テロが発生、八月のミュンヘン・オリンピックもテロの標的となった。
 こんな時代だからこそ、
 〽あなたに逢えてよかった
  あなたには希望の匂いがする……
と書かなければならなかったのである。ラブソングであると思えば思えるし、ラブソングではないと思うと、そうも思える。
 そもそも、「あなた」とは一体誰のことであったのだろうか。そんな時代の中での遭遇を希望と感じられるあなたが、ただの恋人やボーイフレンドであるわけがない。ましてや、和田アキ子がより大きく見えるようにと歌った歌なのだから……。
 面白かったり、心やさしかったり、親切であったり、また、長い髪で、細いジーパンが似合って、ギターを小器用にかき鳴らして、自由そうに見えて、何にも拘束されたくなくてすぐに旅に出る――そういう好ましい若者の姿と、この「あなた」は明らかに違う。

(阿久悠『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』新潮社)

阿久悠は「あの鐘を鳴らすのはあなた」を発表した直後に、「“あなた”とは何も特定の人物ではない、本来のやさしさを備えた人間なのである」と述べていました。ところがそれから30年後になって、当時は好ましいとされていた若者について、自分が書いた“あなた”とは明らかに違うと、わざわざ記せずにいられなかったようです。それはどうしてだったのか、阿久悠はどこの誰に向けて、それらの言葉を語っていたのでしょうか。

“心やさしかったり、親切であったり”という若者が、“本来のやさしさを備えた人間”と、どう違うのかについての説明はありません。ただ阿久悠が身を置いていた“非常に暗かった”という時代への認識と、“そういう好ましい若者の姿”の間には、何か越えがたい隔たりがあったことだけは伝わってきます。そして、そのことに苛立っていた感じもうかがえてきました。なぜならばここまで考察を重ねていくうちに、“面白かったり、心やさしかったり、親切であったり、また、長い髪で、細いジーパンが似合って、ギターを小器用にかき鳴らして、自由そうに見えて、何にも拘束されたくなくすぐに旅に出る――”という若者とは誰を指すのかが、ぼくの頭のなかにおぼろげながら浮かび上がってきたからです。それに当てはまるのはザ・フォーク・クルセダーズです。いや、正確にはフォークルの北山修と加藤和彦、二人が重なり合った若者の姿でした。

次号掲載:11月4日(土)

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