沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第8回 2017年8月18日掲載
第一部 歌謡曲の黄金時代を予告していた「ない・ソング」の登場

第八章 ユーミンとモップス~大瀧詠一の「分母分子論」より

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阿久悠が作詞したザ・モップスの歌は、当時はまだ中学生だった荒井由実の心にも確かに届いていたようだ。時代の空気に突き動かされている焦燥感や、切迫した思いが込められていた一連の歌詞に、鋭いセンスの持ち主として実力派グループ・サウンズのメンバーからも認められていた少女は、何を受けとめたのだろうか――。
古賀メロディーの代表曲「酒は涙か溜息か」

大瀧詠一が明治以降の日本の音楽の歴史を振り返って研究し、1983年に雑誌『FM fan』で連載した「ナイアガラ対談 分母分子論 ゲスト・相倉久人」によれば、ヨーロッパのクラシック音楽、アメリカのジャズ、世界の民族音楽、ポップス、ロックなどの輸入音楽を受容していくなかで、そこに付けられた日本語の歌詞と日本人の情感を活かすために工夫された楽曲が、戦前から戦後にかけての流行歌というものです。明治時代につくられて、学校教育によって国民に普及した唱歌から始まった輸入音楽文化を、時間をかけて消化吸収していくなかで、いつしかパターン化された日本の楽曲の構造を、大瀧は分母・分子の関係によって解き明かそうとしました。

古賀政男が生んだいわゆる「古賀メロディー」の代表格で、戦前の最大のヒット曲「酒は涙か溜息か」は、ドイツ民謡に強く影響を受けたメロディーが分母となり、そこに乗っている日本的な七五調の歌詞が分子です。

「酒は涙か溜息か」
作詞 高橋掬太郎、作曲 古賀政男
 
酒は涙か 溜息か
こころのうさの 捨てどころ
 
とおいえにしの かの人に
夜毎の夢の 切なさよ
 
酒は涙か 溜息か
かなしい恋の 捨てどころ
 
忘れた筈の かの人に
のこる心を なんとしょう

これを歌ったのは藤山一郎、本名を(ます)(なが)(たけ)()といいます。東京日本橋の呉服店「近江屋」に5人兄弟の末っ子として生まれ、大店のお坊ちゃんとして育った子供の頃から、ピアノやバイオリンを習いました。そして慶應義塾の幼稚舎から普通部で学んだ後、音楽の道へ進むために東京音楽学校へと進みます。

ところが昭和2年、16歳の時に起こった昭和恐慌によって実家が倒産し、家計を助けるために楽譜を書き写す写譜のアルバイトを始めます。その頃からジャズ歌手の二村定一がカフェで歌うときには、ピアノ伴奏を務めるなどしながらジャズの唱法も身につけた音楽の才能は、音楽学校でもひときわ秀でていました。

やがてアルバイトでレコードの吹き込みをするようになり、20歳になった昭和6年には1年間でおよそ40曲を吹き込んでいます。しかしその頃は流行歌を聴くことが、教育上よろしくないと言われていました。音楽学校でクラシックを学んでいて、成績もトップだった学生が流行歌を歌うなど、言語道断の行為だったのです。増永はそのために花房俊夫、藤村二郎、田垣宣文、南一郎、藤井龍男、井上静雄といった、多くの芸名を使っています。

レコードに写真はなく、舞台にも姿を見せたことがない、謎の歌手だった増永の歌声に惚れ込んだのが、コロムビアに所属する新人作曲家の古賀政男です。そして増永のために古賀が書いた「酒は涙か溜息か」は、昭和6年に藤山一郎の名前で発売されると、空前の大ヒットを記録しました。

ドイツ民謡の影響を強く受けていた「酒は涙か溜息か」では、歌の伴奏としてギターが三味線風に用いられています。クラシック音楽の牙城である東京音楽学校を主席で卒業することになる藤山一郎は、声を張り上げることなく明快でソフトな日本語で歌い、その歌唱力のおかげで戦後になっても広く歌い継がれました。

モップスが好きだった荒井由実

古賀メロディーの「酒は涙か溜息か」や「影を慕いて」という日本調の楽曲を分母にして、1960年代からヒット曲が頻出したのがコブシを効かせた、演歌といわれるジャンルです。それらは分母と分子のいずれもが「日本史」に聞こえるかもしれません。しかしそうした演歌にも、しっかりと分母たる「世界史」が潜んでいるのです。

そこからさらに時代は大きく下って、1960年代にビートルズから影響を受けたアーティストたちについて、大瀧はこう語っています。

日本人が作曲して英語で歌うという現象が出てきた。加山雄三の最初のアルバムは、全部自作で英語ですよ。ブルー・コメッツの最初のヒット曲である「ブルー・アイズ(青い瞳)」も英語だったんです。だから、最初は洋楽をベースにしていたけど、あまりヒットしなくて、日本語のヒット曲になっていく。そのへんで完全に「世界史」になっているんですね。

(『シンプジャーナル別冊 大滝詠一のゴー!ゴー!ナイアガラ 日本ポップス史』自由国民社・編)

「分母分子論」における大瀧詠一の視点でみると、歌は時間の経過とともに分母である「世界史」が忘却されて、あたかも「日本史」だけであったかのように、聴き手の認識が変化していくということです。こうして世代を経るにしたがって、入れ子のように分子が積み上がることで「日本史」が濃くなっていきます。その結果、原点にあった分母の「世界史」が薄まるにつれて、日本独自の歌謡曲が作られていくことになります。それは日本が太古の昔からさまざまな輸入文化を消化し、独自の文化を築き上げてきたパターンとも、同じ構造だということにもなります。

大瀧は自分たちのグループ、はっぴいえんどについてはこう語っています。

フォークとGSの流れをベースにして出てきた人たちがいるんですよね。まあ、なぜかこれは多くなくて、ひとつのバンドしかいないんですよ。これが言いたかった(笑)。

(同前)

はっぴいえんどは1970年に音楽シーンに登場してきたのですが、アメリカのロック・バンドであるバッファロー・スプリングフィールドに影響を受けており、その音楽性は当時、新しいロックとして「ニュー・ロック」という言葉で表現されました。しかし彼らの音楽を支えていたのは、浪曲の広沢虎造から落語の三遊亭圓生にまで及ぶ日本文化だったのです。デビュー・アルバム『はっぴいえんど』には、歌詞カードの最後に「下記の方々の多大なるご援助に、深く感謝したい」という言葉とともに、古今東西の作家や音楽家、漫画家、落語家、映画監督、役者、写真家、ストリッパー、友人など、100人を優に超える人々の名が挙げられていますが、つげ義春や富岡多恵子、一条さゆり、佐伯俊男、中平卓馬といった、1970年という時代ならではの人物と一緒に、フィル・スペクター、澁澤龍彦、美空ひばり、大瀧詠一、千利休らが並んでいるのには驚かされます。

■はっぴいえんど『はっぴいえんど』歌詞カードより

ところで大瀧詠一は、先の本で自分たちの後に現れたアーティストについて分析するなかで、松任谷由実(ユーミン)についても語っています。

で、この後なんですよね。この後っていうのはユーミンとか、松山千春とか、サザン・オールスターズってとこじゃないかと思うんです。ユーミンていう人は、モップスが好きだって言ってたな。モップスとはっぴいえんどとかをよく聴いた人。つまり、彼女の分母っていうのはGSとニュー・ロック、それと洋楽のなにがしというのもあったと思いますね。

(同前)

阿久悠から荒井由実に届いたもの

ユーミンこと松任谷由実は、八王子にある老舗の「荒井呉服店」に三男二女の第四子(次女)として生まれ、50人もの従業員がいる大店の娘として育ちました。6歳からピアノ、11歳からは三味線を習うという、洋と和が混合した環境のなかで音楽に目覚めていきます。おてんば娘でしたが、子供の頃から勉強はよくでき、私立立教女学院中学に進んでも成績は抜群でした。しかしその反面、夜中に部屋を抜け出しては横須賀や横浜へ遊びに出かけ、朝方にタクシーで帰っては、二階の窓によじ登って部屋に戻り、何くわぬ顔をして学校に行く不良少女だったといいます。

ユーミンの遊びで特徴的だったのは、八王子市のすぐ隣の福生市にある横田基地と、立川市にある立川基地に出入りしていたことです。彼女はPX(基地内の売店)で輸入盤のレコードを購入していたのです。中学時代に特に熱を上げていたのは、サイケデリック・ロックの先駆者だったジェファーソン・エアプレインやジミ・ヘンドリックス、それにニュー・ロックのクリーム、プロコル・ハルムなどです。ユーミンはそれらのレコードを自分でも熱心に聴いていましたが、気に入ったグループ・サウンズのバンドには、楽屋へ持っていってプレゼントしていたそうです。

■ジェファーソン・エアプレインの代表曲「あなただけを」

1967年から68年にかけてはグループ・サウンズの全盛期ですが、日本では手に入らない最新のレコードを持ってきてくれる女子中学生は、ありがたがられて顔パスで楽屋に出入りしていました。スパイダースにいたかまやつひろしが、当時のことをこう語っています。

「僕らはリバプール・サウンズに傾倒していたから、ビートルズのナンバーを演奏することが多かった。女性ファンがあとから楽屋に来て、さっきみたいなのはジョージ・ハリスンのギターと違うなどと指摘してくるようなコアなファンが結構いたんだ」

(松木直也『[アルファの伝説] 音楽家 村井邦彦の時代』河出書房新社)

7歳年下の中学生だった荒井由実(本名)に、この子は必ず有名になるという意味を込めて「ユーミン」と名付けたのは、オーディション番組『サトウ 勝ち抜きエレキ合戦』でグランドチャンピオンになった、ザ・フィンガーズのベーシスト、シー・ユーチェンです。ミュージシャンたちのたまり場でもあった六本木の「スピード」というライブスポットで、フィンガーズの演奏の後に初めて会った頃のことを、シー・ユーチェンがこう語っています。

「ステージが終わって楽屋に戻ると、ボーイッシュな女の子がいるんです。そのころ、僕たちのバンドでは『青い影』のプロコル・ハルムの音楽が話題で、たまたまその女の子と話したらプロコル・ハルムの旋律のきれいなところの情景を一生懸命に説明してくれて、それが鋭いセンスだった。そんなことがきっかけで、バンドのメンバーもほかのファンとは違う目で見るようになった。僕たちにとっては唯一の知的な中学生ファンという存在で、レッド・ツェッペリンのレコードを渡されたこともあります」

(同前)

日本の流行歌の歴史をたどっていくと、いつの時代にも新たな洋楽を取り込むことで、新しい時代の表現が生まれてきたという面があります。洋楽をどう受容し、それを消化したのかということが、フォーク・ソングの流行やグループ・サウンズのブーム、あるいは日本のロックやニューミュージックというところにつながってきます。中学生時代からカウンター・カルチャーの空気をたっぷり吸い込んだユーミンは、サイケデリック・ミュージックの牽引者的な存在だったジェファーソン・エアプレインのヴォーカリストで、ソングライターでもあったグレイス・スリックのことを歌った楽曲を、1981年のアルバム『昨晩お会いしましょう』で発表しています。

「グレイス・スリックの肖像」
作詞・作曲 松任谷由実
 
「私を忘れてから もうどれくらいたちますか」
少し悲しげにつぶやく 写真のグレイス
彼女の長い髪と 激しい歌が好きでした
いつしか棚の片隅に眠ったアイドル
みんなここに来て アンプに火を入れて
ひとりの心の扉 ノックして

この詞にはまさに大瀧詠一の「分母分子論」が形を変えて綴られているような気がします。1960年代の後半から72~73年まで、ユーミンは「すごい暗い時代だったじゃない、本当は。ジェファーソン・エアプレインの歌なんか、私には象徴的だった。ああ、これぞ今の私だとかって思ったもの」と、著書『ルージュの伝言』(角川書店)に記しています。

そして時は前後しますが、1976年に発行された『グループ・サウンドのすべて』(ペップ出版)には、ユーミンのもう一つの分母たる部分に、阿久悠が影響していたのではないかと思われる言葉が載っています。

私はモップスが好きだったの。なぜって歌がうまいから…というのは半分ぐらいかな。じつは、他のグループにはファンの女の子がわんさといて、変な派閥みたいなものがあって、その中で目だつのもたいへんだったから……。
まっ、ようするに目だちたかったので、中学・高校生ぐらいの頃って、女の子には誰にもある心理じゃないのかしら。
モップスは正直言って、いいと思ってたわ、パンチがあったし、男らしい詩で他のグループみたいになよなよしたところがなかったし、なーんて言うと他のグループに怒られるかしら……。
でも、私はタイガースやスパイダースも聞いていたからダーク・ホースって感じだったみたい。
あの頃は、ジャズ喫茶に、私服にかえては銀座とか新宿に通ってたわ。
私の今日があるのは、この頃があったからだと思う……。

(ペップ出版・編『グループ・サウンドのすべて』)

ユーミンがモップスの歌詞について、“パンチがあったし、男らしい詩で”あると認識し、なよなよした歌詞を歌っているグループとは、はっきり区別していたことがわかります。阿久悠が抱いていた飢餓感や切迫感は、1967年から68年にかけて中学生だった荒井由実にまで、しっかり届いていた可能性が高いのです。それは阿久悠と荒井由実という、飛び抜けて優れた感性の持ち主だからこそ共鳴したものだと思えますが、同時に歌の影響力というものが侮れないものであることを証明しているとも言えるのではないでしょうか。

次号掲載:9月1日(金)

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