沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第40回 2018年5月18日掲載
第三部 新たな風を吹かせた作詞家たち

第十一章 歌を育てていく美空ひばり

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1976年の春に美空ひばりと阿久悠が初めて言葉を交わした直後、テレビドラマの主題歌を歌ってほしいという話が、ひばりが所属する日本コロムビアに持ち込まれた。それは「さくらの唄」という楽曲をカヴァーするもので、阿久悠の朋友だったTBSの久世光彦による企画だった——。
なかにし礼の遺言歌

テレビドラマの演出家で作家でもあった久世くぜ光彦てるひこは、子供の頃から聴いてきた歌や時代を照らした歌にまつわるエッセイを、雑誌『諸君!』に1991年から14年にわたって書き続けました。そして連載の半ばだった2005年3月、虚血性心不全で急逝しています。そのエッセイのテーマは、「人生の最期に1曲だけ歌を聴くとしたら、あなたはどんな曲を選ぶか」というものでした。

その中で久世は名曲かつ絶唱でありながら、なぜかまったく売れなかった歌として、美空ひばりの「さくらの唄」を取り上げています。それはこんな書き出しから始まります。

 昔、なかにし礼という不良がいた。不良には不良のつらさがあって、辛くてしょうがないので歌を書いた。売れっ子になってからの華麗なフレーズなどどこにも見当たらない、ポツリポツリと呟くような歌だった。歌ってくれる歌手のあてもない、それは不良少年のプライヴェート・ソングだった。こっそり咳きこんで、ふとを見たら、そこに色の薄い血が散っている——そんな歌だった。だからいま口にしてみても、言葉の一つ一つが、掌にすくった夕暮れの砂金のように優しく光っている。

(久世光彦『ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング』文春文庫)

この歌詞を1970年に書いたとき、なかにし礼は兄の莫大な借金を背負わされて、失意に打ちひしがれていたところでした。そのために自分の身代わりとして、もう一人の自分をあの世に送り出すつもりで、遺言を歌に託そうとしたのです。もちろんヒットすることを期待されて、注文に応じて特定の歌手に書いた作品ではありません。久世はそのことを指して、不良少年のプライヴェート・ソングと言ったのです。なかにし礼は自分で、遺言歌だと述べています。

 昭和四五年に兄の会社が倒産し、その借金を私が払った。それでもまだ残った多大な借金を私がかかえることになった。私の胸の内には兄弟というものへのロマンティックな思いがあったのだ。私は得意の絶頂から借金地獄のどん底にたたき落とされた。
 死にたかった、けど死のうとは思わなかった。自分は死なない。その代わり一曲の歌をあの世へ送り込んでやろう。そんな思いで書いたいわば私の遺言歌でもあった。

(なかにし礼『天皇と日本国憲法』毎日新聞出版)


「さくらの唄」
作詞 なかにし礼/作曲 三木たかし

何もかも僕は なくしたの
生きてることが つらくてならぬ

もしも僕が死んだら 友達に
ひきょうなやつと わらわれるだろう
わらわれるだろう

今の僕は何を したらいいの
こたえておくれ 別れた人よ

これで皆んないいんだ 悲しみも
君と見た夢も おわったことさ
おわったことさ

愛した君も 今頃は
僕のことを忘れて 幸福だろう
おやすみをいわず 眠ろうか
やさしく匂う 桜の下で
桜の下で 桜の下で


これに曲を付けたのは三木たかしで、自ら歌ってCBSソニーからシングル盤を発売しています。しかしそれはほとんど話題にならず、まったくといっていいくらい知られないまま、時の流れとともに埋もれていきました。久世はそのことについても、このように述べています。

 おなじころ、三木たかしという、これも不良がいた。食べられないので毎晩ギターを抱えて縄のれんを流して歩き、そのくせ女の優しさが恋しくて、半年に一人、死ぬ気で女に惚れていた。みんな自分が悪いのだが、怯懦きょうだの日々に押しつぶされて、塵芥ごみの臭いのする露地裏の部屋にうずくまってうめいていた。辛くてたまらないので歌をつくった。自分では言葉がつくれないので、なかにし礼の「さくらの唄」を貰った。気持ちがわかりすぎて、歌いながら涙がこぼれた。安手の感傷と言えばそれまでだが、明日の見えない不良少年にしてみれば、せめて感傷ぐらいなければ生きていけなかった。歌手が誰も歌ってくれないから、自分で歌ってレコードを出した。一枚も売れなかった。

(久世光彦『ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング』文春文庫)

美空ひばりの絶唱

それから5年ほどの月日が経って、世の中からすっかり忘れ去られた歌を蘇らせようとしたのは、日音の制作担当だった恒川光昭でした。作品の出来に自信があった恒川は、いつかは日の目を見る日があると時期を待っていたのです。そして次々にヒット曲が生まれていたテレビドラマ、TBSの水曜劇場を仕切っていた久世光彦に、「さくらの唄」を聴いてもらいました。

すると「なぜか聴くたびに泣けてしまう」と、久世が歌に惚れ込んでくれたのです。なかにし礼とも三木たかしとも面識がなかった久世ですが、誰にも知られずに眠っていた歌を、どうすれば蘇らせることができるのかと考えます。そこで導き出されたのが、美空ひばりの歌で主題歌にしたドラマを作るというアイデアでした。そんな考えに至った時の気持ちを、久世はこのように綴っています。

 どう考えても、この歌を歌えるのは美空ひばり以外にないと私は思い込んでしまった。芝居や歌がその人の人生経験だけだとは言えないが、この歌だけは泥水を飲んだことのない人には歌えないし、歌って欲しくないと思ったのである。生きている日々の中で、顔も上げられないくらい恥ずかしい思いを幾つも重ね、重ね重ねた恥の数がとっくに年齢としの数を越え、それでもまだりないで、という厄介な奴が伏し目がちに歌ってくれてはじめて「さくらの唄」はほんのりと匂うのである。ちょっと大袈裟に言えば、この歌は地獄を覗いて、そこから命からがら、這うように逃げかえった卑怯未練の歌なのである。
 それなら美空ひばりしかない。

(同前)

久世は高視聴率だった『寺内貫太郎一家2』の後番組として、TBSの「水曜劇場」で歌と同じタイトルの連続ドラマを企画し、脚本を山田太一に頼みました。その『さくらの唄』というドラマの主題歌として半年間、2クールにわたって番組で流すことを前提に、日本コロムビアに出向いて交渉したのです。

久世が手がけていた「水曜劇場」の『時間ですよ』シリーズからは、それまでの5年間で堺正章の「涙から明日へ」や「街の灯り」、天地真理の「水色の恋」、浅田美代子の「赤い風船」、さくらと一郎の「昭和枯れすゝき」、徳久広司の「北へ帰ろう」など、たくさんのヒット曲が生まれていました。プロデューサーと演出家を兼ねていた久世は、当然のようにレコード会社から協力が得られると思っていたでしょう。

ところが担当者の反応は意外なもので、過去にまったく売れなかった歌を、天下の美空ひばりに歌わせるわけにはいかないと、あっさり断られてしまったのです。用意万端整ったと思っていた久世は諦められず、名古屋で長期公演中だった美空ひばりを訪ねて、「せめて聴いてもらうだけでも……」と直談判することにします。

久世がそこまでこだわったのは、TBSに入社して間もない1965年から66年にかけて、『美空ひばり劇場』という連続ドラマ枠で演出をした経験から、可能性はあると思ったからでしょう。その1年間に築いた信頼関係によって、本人やスタッフとのつながりが生きていたのです。

美空ひばりは4月から1カ月間、名古屋の御園座で定期公演が始まったところでした。

御園座で彼女のステージを観た。圧倒的な歌だった。どろどろに濁った沼の底から髪振り乱して這い上がり、そのままの姿でにっこり笑ってみせる凄惨さがどの歌にもあった。通俗の果ての美しさがそこにはあった。なかにし礼や、三木たかしもかなわない聖娼婦が、そこにいた。何日通ってでも、「さくらの唄」を歌って貰おうと私は思った。

(同前)

久世は東京から運んできた大型ラジカセを持って、終演後の楽屋を訪れました。そして人気がなくなって静まり返った楽屋で、三木たかしの「さくらの唄」を聴いてもらったのです。曲が終わると美空ひばりから、「もう一度聴かせてください」と言われて、久世はテープを巻き戻して、それをかけ直しました。

 しんとした終演後の楽屋に、三木たかしのむせぶような歌が流れた。ちょっと泣き過ぎだと私は思った。もっと、微笑わらいながら人に話しかけるように歌えばよかったのに——。すると、私が思ったその通りの歌い方で「さくらの唄」が何処かから聞こえてくるではないか。びっくりして見ると、美空ひばりが目をつむって歌っていた。だるそうに楽屋の柱に寄りかかり、疲れた横顔に、疲れた笑いを浮かべて、歌っていた。

 これで皆んないいんだ 悲しみも
 君と見た夢も おわったことさ

 安っぽい人情噺と言われてもいい。私はこの夜のことを一生忘れないだろう。ひばりはポロポロ涙をこぼして歌っていたのである。

(同前)

テープが終わると美空ひばりは久世に向かって座り直して、「歌わせていただきます」と言った後で、にっこり微笑んだといいます。こうして美空ひばりが歌う「さくらの唄」のレコーディングが急遽行われ、「水曜劇場」の枠で1976年5月19日から11月10日まで、主題歌として流れることになりました。

レコードは7月1日に発売され、当時の音楽業界誌には、プロモーションを展開する日音の担当者が語った、“1965年に大ヒットした「柔」以来となる11年ぶりの主題歌なので、同じなかにし礼の作品だった「石狩挽歌」のように、じわじわと息長く売れるヒット曲になることを期待している”という発言が掲載されていました。

ところがどういうわけか視聴者からの反応は今ひとつで、ドラマの視聴率も意外に伸びず、レコードはほとんど売れないという結果に終わったのです。「さくらの唄」がヒット曲にならなかったことについて、久世は『ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング』でこのように述べています。

私は、美空ひばりの絶唱だったといまでも思っている。どう聴いても文句のつけようのない、文字どおりの絶唱だった。言い訳めくが、あまり良過ぎても、レコードというものは売れないのである。けれど、いつ、どんなときに聴いても泣いてしまうという歌は、そうあるものではない。いまからでも遅くはない。「美空ひばり全集」で、一度でいいから聴いてみて欲しい。少なくとも私一人は、あの歌が美空ひばりの〈ラスト・ソング〉だと信じているのだから——。

(同前)

■美空ひばり「さくらの唄」

歌を育てていく能力と情熱

先の日音の担当者による発言に出てきた「柔」(作詞 関沢新一/作曲 古賀政男)は、1964年11月20日に発売されて、およそ190万枚を売り上げ、美空ひばりのレコードとしては最大のヒットとなっています。そしておよそ1年後の65年12月に、美空ひばりは第7回日本レコード大賞を受賞しました。作曲家の服部良一と二人で日本レコード大賞を制定した古賀政男にとっても、この受賞は晴れがましいものだったに違いありません。

そして翌66年6月には古賀政男作曲による「悲しい酒」(作詞 石本美由起)が発売になりました。しかし美空ひばりの代表曲になる「悲しい酒」は、このときのレコードがそのままスムーズにヒットしたわけではありません。コンサートによってファンに浸透し、時間をかけて育ったことで知られていったのです。

そもそも「悲しい酒」は石本美由起がコロムビアのディレクターから、古賀政男の代表曲である「酒は涙か溜息か」の現代版を書いてほしいという依頼を受けて、1960年に作詞した作品でした。それに古賀が作曲し、北見沢じゅんの歌でレコードが発売されたのです。しかしこれといった反響もないまま、まもなく消えてしまいました。そこには北見沢が若くして他界したということもあり、古賀政男の意向で封印されたという事情がありました。そのことについて、石本がこのように述べています。

 その歌を心底気に入ってくれていた古賀先生は、残念がっていましたが、「この人と思える歌手が現れるまで世に出すのをよそう」と歌を封印してしまったのです。何人ものプロデューサーが、自分が担当する歌手に歌わせてくれと頼みに行ったけど、古賀先生は首を縦に振らなかった。そうして一年、二年という時間が過ぎ、北見沢惇が亡くなって五年目、ようやく古賀先生が封印を解く気を起こす歌手が現れました。
 美空ひばりさんです。そして、その歌、「悲しい酒」は最高の歌い手を得て、私の才能を遥かに超えるものへと育ち始めました。

(石本美由起『別冊サライ 大特集 酒』1998年 小学館)

“この人と思える歌手”に選ばれた美空ひばりですが、制作担当者としては北見沢惇という無名の歌手の売れなかった作品を、女王に歌わせるわけにはいかないという建前がありました。そこでマネージャーだった母親の加藤喜美枝さんや本人には事実を伏せて、久々に「柔」で大ヒットを放った大御所の古賀政男の作品として、レコーディングが行われたのです。

ところがコンサートで歌うようになって、美空ひばりはしだいにレコードよりもテンポを落としていきます。そして最初に自分の長期公演で歌うことになった時、舞台のリハーサルで「悲しい酒」を歌ってみると、1番と2番の間奏が間延びして感じられたのです。そこに台詞があればもっと良くなると思って、すぐにそのことを石本に電話で伝えました。それに応じて石本が頭に浮かんだ台詞を電話で送ったことから、歌に新しい命が吹き込まれることになりました。

その電話は新宿のコマ劇場からで、翌日から一か月の公演が始まる時でした。彼女の希望を聞いた私は「一時間か一時間半待って」と言い、すぐに台詞を考え始め、できあがると電話で彼女に送ったのです。「長かったら、ひばりさん、あなたの判断で削ってくれていいから」と言いましたが、彼女は私が作った台詞をすべて盛り込んだ。その後「悲しい酒」は、演奏時間五分を超える大作になっていきました。

(同前)

■美空ひばり「悲しい酒」

もしも美空ひばりが少しずつテンポを落として、自分に最適のポイントを見つけなかったなら、あるいは台詞を加えてほしいという希望を石本に頼まずにいたならば、「悲しい酒」は次の公演でレパートリーから外れていたかもしれません。そうなってしまえば再び埋もれてしまった可能性も、十分にあったのではないかと思われます。

しかしたっぷり情感を込めた唱法で歌われた「悲しい酒」は、会場で聴いたファンの間で高い評判を集めました。そのために台詞入りのヴァージョンで、あらためてレコーディングされることになったのです。そしてテレビ出演時にも歌われるようになり、その際に必ず美空ひばりが涙を流したこともあって、「悲しい酒」は一気に代表曲へと成長していきました。

石本は「悲しい酒」の他にも、「港町十三番地」「哀愁波止場」など彼女の代表曲を書いていますが、美空ひばりの歌と時代との関係において、このようにまとめています。

 終戦後、ひばりさんはブギウギを歌って、沈んでいきそうな時代を盛り上げていきました。また、高度成長が始まった当初は「お祭りマンボ」といった歌で、人々の夢を囃し立てた。さらに、豊かになり、盛り場に浮かれている人が多くなっていった時には、しっとりと落ち着いた歌で、時代に翻弄されてしまう人々に大切なものは何かを問いました。
「悲しい酒」を美空ひばりさんが歌い始めたのは昭和四十一年です。日本人は哀愁民族だと思います。夢や希望を語るよりも人生の悲哀を忘れないでおこうとします。悲しい心を酒で忘れると言いながら、その悲しみを実は大事にしている。私はあの歌で、日本人らしさを問おうとまでは思いませんでしたが、ひばりさんが歌ったことで、表面的な成長の裏にある日本人の情念を語るような歌にまで育っていったのですね。

(同前)

なんとも惜しまれる歌

美空ひばりは1967年にジャッキー吉川とブルー・コメッツの演奏をしたがえて、ミニ・スカート姿で歌った「真赤な太陽」(作詞 吉岡治/作曲 原信夫)をヒットさせて大いに話題になりました。しかしその後は実の弟だったかとう哲也(当時は小野透)が作曲した68年の「少しの間サヨウナラ」(作詞 小野透)や「唇に花シャッポに雨」(作詞 吉岡治)、69年の「恋のパープル・レイン」(作詞 吉岡治)といったポップス調の曲でも、なかなかヒットが出なくなっていきます。

古賀政男や遠藤実、船村徹、市川昭介といった演歌系の作曲家の作品もまた、もはや新味がなくなったということで、売り上げが低迷していました。そこで1970年から71年にかけて、カンフル剤のように採用されたのが阿久悠だったのです。当時のシングル盤のリストを並べてみると、そのことが明らかになります。石本美由起を筆頭に、藤田まさと、川内康範こうはんおか灯至夫としおが保守本流で、吉岡治がその後継に位置し、阿久悠だけが別世界から来た異端児でした。

1970年1月10日「花と炎」川内康範/猪俣公章
1970年5月25日「涙」藤田まさと/猪俣公章
1970年7月10日「人生将棋」石本美由起/かとう哲也
1970年9月25日「女の詩」丘灯至夫/遠藤実
1970年11月10日「愁い酒」石本美由起/古賀政男
1971年3月10日「それでも私は生きている」阿久悠/井上かつお
1971年4月10日「千姫」石本美由起/市川昭介
1971年4月10日「江戸ッ子佐七」石本美由起/かとう哲也
1971年7月10日「ふるさとはいつも」吉岡治/かとう哲也
1971年10月10日「おんな道」川内康範/船村徹
1971年10月10日「旅人」阿久悠/村井邦彦

1971年は美空ひばりにとって節目の年であり、5月の四国公演を皮切りに始まった「美空ひばり芸能生活25周年記念リサイタル」は、6月に新宿コマ劇場、7月には帝国劇場でも開催になっています。そこでは敗戦の焦土から生まれた名曲の「東京キッド」や「リンゴ追分」をはじめ、「悲しき口笛」「柔」「相馬盆歌」「真赤な太陽」「悲しい酒」など全24曲が披露されました。そしてリサイタルに向けた準備の模様から舞台での熱唱の様子まで、1時間半に収めたドキュメンタリー映画『ひばりのすべて』も製作されて、映画館で上映されています。

第十章で紹介した「それでも私は生きている」は、25周年を記念する曲として舞台のフィナーレを飾り、実に堂々と歌われていました。それをあらためて観直し、音源も聴き直してみた筆者は、なんとももったいなかったという気持ちがします。

というのは1970年1月10日に発売された「花と炎」のB面に入っていた「人生一路」が、当初は目立たない曲だったにもかかわらず、美空ひばりが気に入ってステージで歌い続けたことから、いつしかファンの支持を集めて代表曲に成長したことを知っているからです。

今では伝説となった1988年の東京ドーム公演で、数あるヒット曲を抑えてフィナーレを飾る曲に選ばれたのもその歌でした。美空ひばりは39曲目となった「人生一路」を歌い終えると、外野のセンターに位置するステージからバックネットの客席に向かって伸びた、100メートルにもおよぶ花道を観客に手を振りながら歩いて去るという感動的なエンディングによって、不死鳥伝説を永遠のものとしたのです。

■美空ひばり「人生一路」

美空ひばりは発売した当時はヒットしなくても、ステージでレパートリーにすることで歌を育てていく力を持つ歌手でした。それは名曲を見抜く力、と言い換えてもいいかも知れません。「悲しい酒」や「人生一路」が今もなお、美空ひばりの代表曲としてあるのは、そのおかげだといえるでしょう。

また1970年以降はヒットが出なくなっていましたが、74年には広島平和音楽祭のために作られた「一本の鉛筆」が誕生しています。この歌も美空ひばりによって大切に育てられて、後世に受け継がれたことによって21世紀に入ってから、数多くの女性シンガーにカヴァーされてスタンダード・ソングになっています。

そうしたことを考えると「それでも私は生きている」を育てていったならば、美空ひばりのレパートリーとしてもっと成長していったのではないかと、今更ながら惜しまれてならないのです。

次回につづく

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