沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第33回 2018年3月23日掲載
第三部 新たな風を吹かせた作詞家たち

第四章 いつまでも空気中にただよっている歌

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「天使の誘惑」でレコード大賞を受賞して以降、作詞の依頼が殺到したなかにし礼は、書いて書いて書きまくることで、一気にヒットメーカーとなって音楽シーンに躍り出た。しかし1970年の秋に兄の借金を肩代わりしたことから、流れが変わり、絶好調だった創作活動に暗雲が立ち込めていく——。
気がついたら作詞家

1980年に発表された『遊びをせんとや生まれけむ なかにし礼の作詞作法』(毎日新聞社)は、第1章が「気がついたら作詞家」というタイトルです。そしてヒット賞のトロフィーやゴールドディスクといったものは、家に何ひとつ置いていないという文章で始まります。さらには自筆の原稿もないし、歌謡曲が流れることもないと述べています。

 ぼくの家には、自分が作詞したレコードは一枚もない。他人が書いた歌謡曲のレコードも、これまた一枚もない。ましてや、ヒット賞とか、ゴールデンディスクとかいったたぐいのキラキラとまぶしいものはまるっきり飾っていない。
 下書きの原稿もない。
(中略)
歌を書くときは鉛筆を使うようにしている。途中、何度か書きなおしても消しゴムで修正できる。修正しながら書いてゆくから、書きあがったときは、文字通りの書きあがりで清書の必要がない。なんで、もっと早くに気がつかなかったのかと、今頃、くやしがっている。
 黒いインクとか青いインクでなきゃならない理由はどこにもないのだし、鉛筆で作詞していけない法などあるはずないのに、ぼく自身、つまらんことにこだわっていたようだ。
 と言ったわけだから、ぼくの家の中に歌謡曲が流れることは全くない。

(なかにし礼『遊びをせんとや生まれけむ なかにし礼の作詞作法』毎日新聞社)

時が少し経てば歌というものは消えていく——、それが流行歌の宿命だと気がついたその日に、なかにし礼は記念となるようなものをすべて、自らの意思で手放しました。それは消えてしまった歌であるにもかかわらず、まるで亡骸むくろのように思えるレコードが残っていることを、気持ち悪いと感じたからだと言います。その気持ち悪さに耐えられなかったという言葉は、それだけ真剣に命を削って書いていたからこそ、言えたのではないかと思います。

 ヒット賞だって同じことだ。メッキがはげてくる、ネジはゆるんでくる。歌は消えてゆく。いかにも過去の栄光めいたボロボロのゴールデンディスクが、壁にかかっていることの情けなさ。
 これ、どんな歌? と人にきかれて、説明することのバカバカしさ。
 歌は、空気中にただよっていれば良いのだ。
 そう気がついたその日に、みんな手元から放してしまった。

(同前)

なかにし礼にとって「いい歌」とは、いつまでも空気中にただよっている歌のことを指していました。詞がメロディーと、メロディーが詞と出合うことで歌が生まれ、空気をふるわせて、人の心をふるわせる——、それが「いい歌」の定義です。

 歌は誰にだって書ける。誰が書いても良い。当たり前の話なのだ。歌は、詩人や作者が尤もらしい顔つきをして、ひねり出すものとは決まっていない。学生がギターをつまびきながら書いても歌は歌だし、バァのママが書いたっていい歌はいい歌なのだ。
 要は、いい歌であればいいのだ。

(同前)

なかにし礼は「いつの時代でも、人々はいい歌に飢えている。いい歌が世に出てこないはずはない」とも述べていました。そしてヒットメーカーとして脚光を浴びた体験から、歌が生まれる必然性について独特の見解を披露しています。

 或る日突然、天から声が聞こえる。
 お前がやれ、お前以外の人間には出来ない、と。
 その日から、急に人が変わったように、情熱的に歌を書きはじめる。
 自分がやらなくては。
 こう思った人なら誰にだって歌は書ける。いや、こう思った人しか歌を書いてはいけない。この実に、不遜な考えが大事なのだ。
 他人にやれることなら、他人の方がまさっていると最初から思うなら、何も、貴重な時間をやたら苦しむことはない。ましてや、他人様に、一瞬でも愛されるというような失礼をおかす必要もないのだ。
 今、世の中に流れている歌に満足している人は歌を書かない方がいい。気持ちよく唄う方にまわっていればいい。
 何かちがう、どこかちがうという感じが、その距離感が、情熱の火つけ役なのだ。

(同前)

こうして、「気がついたら作詞家」になっていたというわけです。そして1968年に黛ジュンの「天使の誘惑」でレコード大賞に選ばれた頃から、依頼が殺到していた作詞の他に、以前から関心があった小説にも挑戦し始めました。さらにはラジオ番組のDJやテレビの司会にまで進出していったのです。

 死ぬほどの忙しさがやって来た。
 文化放送の深夜放送、『セイヤング』の火曜日を受け持つことになった。十二時から朝の三時まで、しゃべりっぱなしである。
 TBSに『只今募集中』という、作詞募集のテレビ番組ができて、私がそこで添削など毎週やってみせる。
 NET(現・テレビ朝日)の『二十三時ショウ』の金曜日を加茂さくらさんと二人で司会する。
「週刊平凡」に『戦士は傷つきながら眠る』という小説を連載、「週刊女性」に『花物語』という読み切り短篇小説を連載、「週刊大衆」に『ズッコケ勝負』というエッセーを連載、「東京スポーツ」紙上に小説『昭和左膳只今参上!』を毎日連載、「若い女性」にエッセーを月に一回連載。
 ほかに単発でテレビ出演したり、雑誌に載ったり、一週間に睡眠時間が八時間しかなかったときさえあった。
 そのうえ、歌を書くのである。

(なかにし礼『翔べ!わが想いよ』文春文庫)

そんな状態にあっても作詞は依然として好調で、1969年には鶴岡雅義と東京ロマンチカ「君は心の妻だから」(作曲 鶴岡正義)、森進一「港町ブルース」(原詩 深津武志/作曲 猪俣公章)、奥村チヨ「恋の奴隷」(作曲 鈴木邦彦)、「恋泥棒」(同)、黛ジュン「雲にのりたい」(原詩 大石良蔵/作曲 鈴木邦彦)、弘田三枝子「人形の家」(作曲 川口真)、ピーター「夜と朝のあいだに」(作曲 村井邦彦) 、ザ・ドリフターズ「ドリフのズンドコ節」(作曲者不詳)と、休みなくヒットを出し続けていきます。

■弘田三枝子「人形の家」

ライバルとして見ていた阿久悠

新人作詞家のなかにし礼の快進撃に目を見張りながらも、時代との関係性を冷静に見ていたのが、まだ作詞家よりも放送作家の仕事が主であった頃の阿久悠です。1967年から68年にかけて起こったグループサウンズのブームを経て、専属作家ではなくフリーランスのソングライターの時代が訪れた1969年の「夜と朝のあいだに」について、こんな感想を述べています。

 昭和四十四年、ぼくは何枚かのレコードの作詞はしていたが、まだ作詞家と名乗るのはおこがましいと、自ら思っている状態であった。しかし、作詞には興味を持ち始めていた。そういう目で見ると、歌の傾向はすっかり変わり、作詞家も作曲家も全く新しい顔ぶれが並び、面白そうな気配がしていた。彼らの創作した詞を書き写しながら、ぼくが座る場所もありそうな気がしていた。これなら勝てる、と思ったかもしれない。
 だが、一人の作詞家だけは、これはなかなか手ごわい、彼に勝つためには、全く違う感性で、全く違う切り口の作品を書かなければ勝負にならない、と思った。
〽夜と朝のあいだに ひとりの私
 天使の歌をきいている 死人のように……
 なかにし礼である。その時彼はもう圧倒的に売れていた。他の追随を許さない勢いでヒットを連発し、その一つ一つが、伝統的流行歌とは全く異質の世界を描いていて、新鮮な衝撃も覚えたし、いささかのねたましささえあった。
〽鎖につながれたむく犬よ
 お前も静かに眠れ お前も静かに眠れ……

(阿久悠『愛すべき名歌たち—私的歌謡曲史—』岩波新書)

昭和元禄といわれたのは1968年のことですが、その翌年の10月に歌手デビューしたピーターこと池畑慎之介は、その年に公開されたATG映画『薔薇の葬列』(監督・松本俊夫)に主演して評判の美少年でした。映画はピーターが演じる母を殺したゲイボーイのエディと、エディが働く「ジュネ」という店のオーナー、そしてその愛人が繰り広げる愛憎劇を軸に、新宿など東京の繁華街を舞台にすることで、当時のカウンター・カルチャーやアングラ文化をリアルに映し出したと評判になります。

■『薔薇の葬列』予告編

ピーターのまわりには江戸の若衆歌舞伎に代表される男色文化の気配が、時代を超えてそのまま続いているかのようでした。とても不思議な姿でありながら何ら違和感を覚えさせないピーターと、正面からゲイであることをテーマに書いたなかにし礼の歌詞によって、阿久悠には時代が色づいて華やかに見えたと述べています。そして「夜と朝のあいだに」という歌が持っている気だるさと毒々しさは、1969年という時代の空気によく似合っているとも感じたそうです。


「夜と朝のあいだに」
作詞 なかにし礼/作曲 村井邦彦

夜と朝のあいだに
ひとりの私
天使の歌をきいている
死人のように
夜と朝のあいだに
ひとりの私
指を折ってはくりかえす
数はつきない
遠くこだまを
ひいている
鎖につながれた
むく犬よ
おまえも静かに眠れ
おまえも静かに眠れ

夜と朝のあいだに
ひとりの私
散るのを忘れた
一枚の花びらみたい
夜と朝のあいだに
ひとりの私
星が流れて消えても
祈りはしない
夜の寒さに
たえかねて
夜明けを待ちわびる
小鳥たち
お前も静かに眠れ
お前も静かに眠れ


阿久悠は歌謡番組の構成台本に歌詞を書き写す時に、なかにし礼の場合だけは一語一語を舐めるように読んでいたとも述べています。さらには「行間にひそんでいるであろうもののけすら探ろうとした」と、なんとかして作品にひそむ本質をつかもうとしていたことを、後年になってから明らかにしていました。

当のなかにし礼はといえば、性別のはっきりしないピーターが男と女のあいだにあるような少年だったことから、「夜は女で、朝は男だ」とインスピレーションが閃いたので、歌詞もタイトルもすぐに出来上がったと記しています。

 ピーターという美少年がいた。
 男でもあり、女でもある少年。男でもない、女でもない少年。不思議な生きもの。
 男—男性名詞—太陽(ル・ソレイユ)、朝(ル・マタン)……
 女—女性名詞—海(ラ・メール)、夜(ラ・ニュイ)……
 男と女のあいだをゆれ動く生きもの。
『夜と朝のあいだに』という歌も、タイトルも、こんなことからフワリと出来た。

(なかにし礼『遊びをせんとや生まれけむ なかにし礼の作詞作法』毎日新聞社)

阿久悠は小西良太郎から出された「歌を書くという仕事は、阿久さんの中でどういう意味を持つの?」という問いに、「狂気の伝達です」ときっぱり答えたそうです。エレキ・バンドの番組に関わることになった阿久悠は、革新的だったビートルズの音楽に影響を受けているにもかかわらず、日本でヒットしているグループサウンズの曲には花、雨、夢、恋といった言葉をちりばめた常識的なものが多く、肩透かしを食う思いがしたところから作詞の仕事を始めています。

「歌は、狂気の伝達だと思うんだがな」という疑問が出発点となったので、初期には意識してそれまでにない革新的な歌づくりを目ざしたのです。その意味ではなかにし礼に一目置いて、ライバル視していたと言えるのではないでしょうか。

小西良太郎がなかにし礼に同じ質問をしたところ、「世の良風美俗に一服の毒を盛る」という答えが返ってきたそうです。その言葉から二人の作詞家を比較して、小西良太郎がこのように述べています。

こちらは斜に構えて、退廃の美学が売りの人です。いかにも彼らしい発言で、阿久悠となかにし礼という二人の天才の違いが際立って面白いと思いました。
 礼さんのいう「毒」は、文字通りの毒や背徳の匂いだけれど、阿久さんの場合の「狂気」は、説明しないとわかりにくいかもしれません。本当は「情熱の伝達」といったほうが素直なんだけれど、阿久さんにしてみると、歌づくりという仕事は「情熱」などという言葉ではとても言い足りない。時代と切り結ぶんですから、「狂気」というくらい尋常ではないものなんだと言いたかったにちがいない。長年付き合ってきた僕には、その真剣さがよくわかります。
 阿久さんは、目標を設けると、そのために自分を律しながら、いつも攻撃的、戦闘的に事を進めました。それが時として周囲の誤解を招くこともありましたが、そのくらい真剣に取り組まないと、目標が達成できないと考えていたのではないでしょうか。

(『NHK知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 阿久悠』2008年10・11月号 NHK出版)

阿久悠は作詞家としての仮想敵ではなく、追いついて乗り越えなければならない目標として、なかにし礼の背中を見ていたのでしょう。「夜と朝のあいだに」について書いた文章を、このように締めくくっています。

 まだ、ライバルとは彼のことを言えなかった。遠かった。

(阿久悠『愛すべき名歌たち—私的歌謡曲史—』岩波新書)

2度目のレコード大賞で極めた頂点

なかにし礼は1970年に入ってもなお、ヒット曲が途切れなく続いていました。朝丘雪路「雨がやんだら」(作曲 筒美京平)、由紀さおり「手紙」(作曲 川口真)、ザ・ドリフターズ「誰かさんと誰かさん」(スコットランド民謡)、「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」(作曲 倉若晴生)、森進一「波止場女のブルース」(作曲 城美好)、青江三奈「昭和おんなブルース」(作曲 花礼二)、いしだあゆみ「あなたならどうする」(作曲 筒美京平)、弘田三枝子「燃える手」(作曲 筒美京平)など、自分で打ち立てた作詞家のレコード売り上げ記録を、前年に続いてこの年も更新していきます。

■由紀さおり「手紙」

そして1968年の「天使の誘惑」に続いて、「今日でお別れ」で2度目のレコード大賞に輝きます。菅原洋一が歌った受賞曲はまだヒット曲が出ていなかった頃に書いたもので、レコードになって発売されてもしばらくの間、まったく眠ったままだった作品でした。

シャンソン歌手で作曲家でもあった宇井あきらの作品リサイタルが、東京・大手町のサンケイホールで開催されたのは1966年6月29日のことです。そのコンサートで初めて人前で発表された新曲だった「今日でお別れ」は、ポリドールの新人歌手で松村慶子(おけいさん)が手がけていた加藤登紀子によって歌われました。

東京大学に在学中だった加藤登紀子は、スポーツニッポン新聞社が主催するシャンソンコンクールで優勝したことから、なかにし礼の作詞による「誰も誰も知らない」で5月にデビューしたばかりの新人歌手でした。ちなみに作曲は中島安敏でしたから、「恋のハレルヤ」の作詞家と編曲家だったわけです。

しかしおけいさんは自分の琴線に触れた「今日でお別れ」を、加藤登紀子ではなく菅原洋一でレコーディングしています。そして菅原洋一もまた、ことのほか気に入って、ステージで取り上げて歌いました。


「今日でお別れ」
作詞 なかにし礼/作曲 宇井あきら

今日でお別れね もう逢えない
涙を見せずに いたいけれど
信じられないの そのひとこと
あの甘い言葉を ささやいたあなたが
突然さようなら 言えるなんて

最後のタバコに 火をつけましょう
曲ったネクタイ なおさせてね
あなたの背広や 身のまわりに
やさしく気を配る 胸はずむ仕事は
これからどなたが するのかしら

今日でお別れね もう逢えない
あなたも涙を 見せてほしい
何も云わないで 気安めなど
こみあげる涙は こみあげる涙は
言葉にならない さようなら
さようなら


レコーディングに立ち会ったなかにし礼は菅原洋一の歌い方について、“泣き”がオーバーだと感じたのでスタジオで指摘し、それをセーブしてもらったと述べています。詩と曲とアレンジの三位一体で完成した楽曲に、歌としての生命を吹き込むのは歌手の役目です。「知りたくないの」のレコーディング時にも歌唱法をめぐって、二人の間で意見の食い違いが出たというエピソードにもあるように、なかにし礼は気になる作品に関してスタジオに足を運び、歌録りに立ち会って率直に意見を言うことがありました。

しかし1967年3月に発売された「今日でお別れ」は、折しもその頃から「知りたくないの」が本格的にヒットし始めたことで、いつしか忘れられそうになっていきます。にもかかわらず、歌に惚れ込んでいた菅原洋一は機会があれば、必ずこの歌をうたいました。

すると「知りたくないの」がピークを過ぎたあたりから、満を持していたかのように「今日でお別れ」が注目されていくのです。それまで手放しで受け入れられていた高度成長経済による発展の陰で、ないがしろになっていた公害問題がクローズアップされ、激化していた学生運動が先鋭化して孤立し始めた1969年という暗い時代が、この歌を必要としてきたということなのかもしれません。菅原洋一がステージで歌い続けたことでしだいに認知が高まり、スタッフもそうした反応に気づいて、新しくレコーディングされたレコードが発売になると、最初のヴァージョンが世に出てから3年後の1970年に、大ヒットを記録することになったのです。

失われたインスピレーション、背負わされた負債

その年になかにし礼が作詞したレコードの売り上げは、年間で1500万枚にまで達したといいます。レコード会社からもらったヒット賞の数は30を超え、音楽業界誌『オリジナルコンフィデンス』による年間ベスト100のうち34曲が、なかにし礼作詞の歌でした。

しかし、まったく寝る時間がなかったというほどの忙しさの中で、持病があった心臓はしばしば発作を起こし、三日連続で救急病院に運ばれたこともありました。

 印税の分配のたびに大金が舞い込んだ。まるで、天から小判が降ってくるかのようであった。
 中野区江原町に土地を買い、そこに家を建てた。北青山三丁目に小さなビルが売りに出たので、即金で買った。
 思いもかけぬと言ったら噓になる。ついに、待ちに待ったというべきか。とにかく、意外に早く大きな幸運がやって来たのだ。
 三十歳になったばかりの私は、夢の中にいるように呆然としていた。
 中野の家には兄の家族や母も一緒に住んだ。千家和也や初信之介といった弟子たちも寝泊まりしていた。
 北青山のビルには“なかにし礼商会”という名の会社をつくり、私が社長になって、会社の真似事をやった。

(なかにし礼『翔べ!わが想いよ』文春文庫)

「今日でお別れ」が1970年のレコード大賞に選ばれた時、なかにし礼は頂点を極めるかたちになりました。しかし好事魔多しのたとえのごとく、実際にはすでに、暗い雲にも覆われ始めていたのです。発端は兄の経営していた建設会社が倒産したことでした。

なかにし礼は兄の窮地を救うために、負債を肩代わりして返済しましたが、そのあたりから身辺が騒がしくなって、それまで賞賛していたマスコミや世間の風向きがしだいに変わっていきます。

そうした異変の中で苦境に負けまいとしたなかにし礼は、さらに仕事に闘志を燃やして取り組みました。しかし、人気歌手いしだあゆみの妹で、その年の9月にデビューする予定だった新人歌手と恋に落ちて、婚約を発表したことから一斉にマスコミの標的になります。そこから吹き始めた逆風の中で、週刊誌との間でトラブルが発生してスキャンダラスに報道されたことから、芸能プロダクションとの間に軋轢が生じて、大きなダメージを受けることになってしまいます。

 私は週刊誌とのトラブルを引き起こし、そこから始まって、もうコッテンパンにたたきのめされ、踏みつけられ、あざわらわれ、街も歩けないような状態になった。
 一生の不覚であった。痛恨事であった。すべては愚かで世間知らずな私自身の過ちであった。

(同前)

1971年になっても取り巻く状況は一向に好転しないままで、ヒット曲と言えるのは「暗い港のブルース」(ザ・キング・トーンズ)と「別れの朝」(ペドロ&カプリシャス)の2曲だけという厳しい状況に追い込まれていきました。しかも兄に次から次へと金銭トラブルを持ち込まれて、なかにし礼はその後始末に追われます。

兄は今までに増して金銭上のトラブルを引き起こすようになった。自分の弟を奪われまいとする兄の理不尽な抵抗であった。それはただわがままで、甘ったれていて、弟を困らせ衰弱させることが目的という悪魔的な暗い情熱だった。自分を受取人として、無断で私を生命保険に入れたりもした。

(なかにし礼『黄昏たそがれに歌え』朝日新聞社)

2度目の結婚生活が始まってまもなく、子どもが生まれたことで家庭は円満でした。しかし、自らの創作に関するインスピレーションがなくなってしまったことを、はっきりと認識するようになっていくのです。

 昭和四十七年四月に長男康夫が誕生。
 家庭生活は一応円満。だが、私の中から、インスピレーションというものがすっかり失くなっていた。この五年間でたぶん使い果たしてしまったのだ。

(なかにし礼『翔べ!わが想いよ』文春文庫)

なかにし礼には一時期のような閃きがなくなり、歌を作る情念そのものも見失ったかのようでした。一方で会社を作っては失敗していた兄は弟に金の無心を繰り返し、賭博による借金も作ってそれをかなりの額にまで膨らませていたのです。

そこで乾坤一擲、兄の求めに応じてゴルフ場経営の話に乗って出資したところ、許可が下りるはずのない場所だったことが発覚して、その計画は破綻してしまいます。それにより数億円もの負債を背負わされたことで、なかにし礼は決定的なダメージを被りました。家を売り、会社を畳んでも、2億8千万円の借金が残ったのです。それが明らかになると、さすがに再起は難しいだろうという見方が音楽業界にも広がりました。

次回につづく

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