沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第26回 2018年1月19日掲載
第二部 「ざんげの値打ちもない」という夜明け

第六章 歌に惚れたところから生まれる戦略

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スポーツニッポンの記者から文化部長を経て常務取締役になった小西良太郎は、記者時代から音楽評論家とプロデューサーの肩書でも活躍してきた。しかし自分では評論家でなく、“はやり歌評判屋”であると称していた。1960年代の半ばからは、小西が書いた原稿やドキュメントに共鳴して動いてくれる人たちが自然に集まってくる――。
有線という新しいメディアを使ったプロモーション

心から惚れ込める歌に出合ったら、それをできるだけ多くの人に届ける――、小西良太郎がそうした姿勢で仕事を始めてから、すでに半世紀の歳月が過ぎています。しかし近年はオフィシャルサイトに連載するエッセイの中で、「興奮する歌が出て来ない」と口惜しさをにじませることが増えてきました。2016年12月18日に公開された第969回では、「ざんげの値打ちもない」に触れつつ昔を振り返って、こんな文章を綴っています。

《昔はこんなじゃなかったのにな……》
 ひとりで酔った僕は、はやり歌評判屋の世迷い言を呟く。「いいものは、いい!」と口火を切りさえすれば、それに呼応してフォローした仲間がいた。菅原洋一の「知りたくないの」の小澤音楽事務所社長・小澤惇。彼とは北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」でも意気投合した。水原弘の「君こそわが命」は、東芝音工の宣伝マン田村(ママ)治が躍起になり、佐川満男の「今は幸せかい」はアルト企画社長の高見和成、藤圭子の「新宿の女」は作詞家石坂まさとが大騒ぎで話題をふくらませた。しかし、それもこれもはるか昔の話。
(中略)
プロモーション勢のフォローなしでは、悪ノリ騒ぎも孤立して三振止まり。歌も玉石混こう石沢山の品ぞろえで、悪ノリする球が少ないのが現状。「もっといい歌を!」「もっと刺激的な歌を!」の歯ぎしりで、今春、「昭和の歌100・君たちが居て僕が居た」を幻戯書房から出版。評判屋の物狂いに一応のケリをつけた。

(小西良太郎オフィシャルサイト 新歩道橋969回)

ここからは話を1968年に戻して、同年代だった小澤の作戦参謀になった小西が、佐川満男のカムバックをめぐって繰り広げた「今は幸せかい」のプロモーションについて詳述していきます。

その年はアマチュアの学生だったザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が、リクエストが殺到したラジオの深夜放送を発火点として、メジャーのレコード会社から発売されて200万枚ともいわれる驚異的なヒットになりました。そんな現象を目の当たりにした小西の頭に浮かんだのがその歌謡曲版で、自主制作したレコードを有線放送で発見されるように仕組むという作戦です。そこで有線放送を選んだのは、楽曲が若者向けではなかったこともありますが、「知りたくないの」のヒットで新たなメディアとしての勢いと、確かな影響力を実感したからでした。

プロデューサーのおけいさんは、素朴でシンプルなデモテープにポップな感覚を加えたいと考えて、ポリドール時代に加藤登紀子の出世作となった「赤い風船」の作曲を頼んだ小林亜星にアレンジを依頼します。そんな手順で完成した音源をもとに、有線放送用の自主制作盤レコード500枚がプレスされました。白紙で何も印刷されていないレーベルには、寺本幸司のアイデアで「M・SAGA」というイニシャルが、青いマジックペンの手書きで1枚ずつ書かれていきます。これは当分の間、佐川満男が歌っているということを伏せるためです。

そんな作戦に有線放送所のリストを持って参加してきたのが、東芝レコードの宣伝マンだった田村廣治でした。小西とは2年ほど前に水原弘の「君こそわが命」で、ゼロからプロモーション展開を考えて“奇跡のカムバック”と呼ばれる大ヒットをものにして以来の仲間です。その時には水原弘がレコード大賞の歌唱賞に選ばれて、綿密な宣伝計画による作戦勝ちで、お互いに美酒を味わいました。そして小西が白羽の矢を立てたのは、大阪を拠点にして勢力拡大を計っていた大阪有線(現在のUSEN)です。

大阪スポニチの仲間松枝忠信記者に問い合わせたら、経営する宇野兄弟とは旧知の間柄だと言う。小澤社長と僕はすぐに大阪へ飛び、松枝の仲介で宇野兄弟の協力を取りつけた。中村と佐川はともに関西出身の縁もある。「今は幸せかい」は大阪のネオン街限定で有線放送の波に乗った。

(石原信一『おけいさん――菅原洋一からTMNまで 女性音楽プロデューサーの人間記』八曜社)

これはホテル高輪にあるトロピカルラウンジという拠点から始めて、銀座や赤坂、六本木のホステスさんたちに売り込んだ「知りたくないの」で、東京の有線放送を使った作戦を踏襲し、大阪に置き換えたものです。それが絵に描いたような大当たりとなって、誰が歌っているのかわからないまま、「今は幸せかい」へのリクエストが大阪で急増していきました。

次なる展開は佐川本人の露出ですが、それについては慎重に検討がなされました。なにしろ顔を出したらその瞬間に、「あの佐川満男だ」ということになるのは目に見えていたからです。その時に好印象を与えるにはどうすればいいのかについて、おけいさんのひらめきで髭を伸ばすという、意外ともいえるアイデアが採用されます。

1964年から1年半余り、佐川は胸部疾患で入院していたことがありました。その入院を境にして佐川が世の中から忘れられた歌手となり、やつれて無精髭が伸びていた頃の写真を見て、おけいさんは胸に迫って来るものを感じたのです。肺を病んだことが無精髭から伝われば、単に人気が凋落したために忘れられたのではないことを理解してもらえるかもしれません。

その読みは的中し、再起にかける決意と逆境に立ち向かう真剣さを、髭が十分に物語ってくれました。プロモーションを担当した寺本がこう語っています。

 佐川が病気で入院してた時に髭を伸ばしてたんだけど、その時の写真を見て、おけいさんが「これだぁ!」と言ったんですよ。当時歌手がむさくるしい髭を生やして歌うなんてことは、考えられなかったわけですよ。あれは当たった。あの髭には感動したもの。

(同前)

「今は幸せかい」がひっきりなしに有線放送から流れてくるようになったところで、いよいよプロモーションの第2弾として、佐川満男と中村泰士が二人で大阪の街を歌って歩く、弾き語りのキャンペーンが始まりました。その時に行われる取材等の受け答えについて、小西は自ら「椅子に深々と座るな」「相手より低くなって話をしろ」と、細かな注意を出していきます。かつて居丈高だという印象を持たれていた佐川にとって、それはマイナス・イメージを減らすために必要なことでした。そこまで徹底したことで人々は初めて、謙虚な態度の佐川に共感してくれたのです。

「あの歌は何? 歌ってるのは誰?」の問い合わせ用に、有線嬢が答えるコメントも用意する。反響ほどほどの段階で、中村、佐川が有線契約店を軒並みキャンペーンで回る。頼みはホステスさんの口コミという局地戦だが、その方が歌社会大阪勢の目につきやすい利点がある。「仕掛けたのは誰? 所属会社はどこ?」の問い合わせ用に、第二次コメントも用意する。

(小西良太郎『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』幻戯書房)

そして「M・SAGA」が誰かという秘密が明らかになると、スポーツ新聞と雑誌が記事で取り上げたので、話題は関西だけでなく全国にまで広がっていきました。やがて「今は幸せかい」をめぐってレコード会社の間で争奪戦が起こり、噂を聞きつけた各レコード会社から「今は幸せかい」のリリースを熱望する連絡が、小澤音楽事務所とJ&Kに入り始めます。経営者になったおけいさんにとって、そこからが勝負の始まりとなりました。

どれだけのレコード枚数を考えているのか、おけいさんは各社とセリをするように話し合いに入った。
 心の中では、もう死んでもいいほどディレクター冥利に尽きる快感があった。それを必死でこらえて各社と交渉を重ねた。各社各様で、地味だがじっくり売っていきたいとか、20万枚から30万枚はいけると思うとか、様々なアプローチはあったが、50万枚という最大規模の枚数に、100万円の企画料まで提示したコロムビア・レコードと契約がまとまった。

(石原信一『おけいさん――菅原洋一からTMNまで 女性音楽プロデューサーの人間記』八曜社)

10月10日、初回プレスの10万枚が出荷されて、3日間の段階で順調に消化されたことから、コロムビアには次々とバックオーダーが入ってきました。そこですぐに30万枚の再プレスが決まり、さらに追加プレスが行われたことで、思ったとおりに大ヒット曲が誕生したのです。

歌に惚れ込むことへのこだわり

6月に発売されたロス・インディオスの「コモエスタ赤坂」がヒットしたのに続いて、「今は幸せかい」がそれを上回る大ヒットになったことで小澤音楽事務所は活気づきました。そして第一プロダクションから高見和成をスカウトし、佐川満男のためにマネージメント・オフィスのアルト企画を任せることになります。

音楽出版社としてのJ&Kもまたそこから一気に軌道に乗り、さまざまな動きが始まりました。作詞作曲した中村泰士は有能なソングライターであると認められ、ここから大きく才能を開花させていきます。阿久悠とコンビを組んで、佐川満男に「別れの時が来た」を作るのは、発売からちょうど2年後のことです。

またプランの立案と実行に協力してくれた東芝レコードの田村が、これを機会にスタッフとして迎えられることになったのです。こうして一つの歌と歌手に惚れ込んだ人間が集まって、それぞれの持ち場で役割を果たしながらチームを組み、時代と歌を結び付けてヒット曲を誕生させていった経緯を、作戦参謀の小西がこう振り返っています。

僕は終始この作戦の成功に、迷いも懸念も持たなかった。生来楽天的なせいもあるが、作戦決定前夜、佐川の歌を聴いて、泣いた女性が一人いたのが根拠。いわれのない自信といえばいえたが、歌のマーケットリサーチなどその程度のもの。惚れ込む楽曲といい歌手がいれば、後は闇雲に賛同者を集めればいい!
 後日、佐川と伊東ゆかりの結婚と離婚は、もちろんスポニチのスクープになる。作戦首謀者として当たり前の対価!?だ。その後しばらく佐川は歌手生活を続けたあと、味のあるバイプレーヤーとして役者に転じた。中村の作曲活動は軌道に乗り、ちあきなおみの「喝采」(四十七年)、細川たかしの「北酒場」(五十七年)で二度もレコード大賞を受賞した。

(小西良太郎『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』幻戯書房)

1965年にプロダクションを起ち上げた時に小澤惇が信じていたのは、それまでも地道な努力を重ねてきた菅原洋一とロス・インディオスが、本当に歌と音楽が好きだからこそ、黙々と活動を続けていたということです。そこでは音楽を仕事にすることの信念と、歌へのこだわりが歌手とスタッフの間で、明確に共有されていました。そうした信念と情熱はもちろん、おけいさんにも共通するものです。

菅原洋一がポリドールから1963年にデビューしたとき、「声がいいのはわかるが、年が年だし歌謡曲を歌う雰囲気じゃない」と、社内的には強い抵抗がありました。それを情熱の一手で押し切ったのは、新入社員だったおけいさんです。また1965年に整理の対象になったとき、「どうしても菅原は残してほしい」とすごい剣幕で上司の五十嵐課長を説得したのも、園まりの「何も云わないで」で大ヒット曲を出した直後のおけいさんでした。

レコーディングの現場でのおけいさんは、歌手に対して遠慮なくさまざまな注文を出し、時には身振り手振りによる歌唱指導も行いました。菅原洋一は音楽大学で声楽を学んだ後、タンゴ楽団でもプロとして歌ってきたキャリアの持ち主でしたが、おけいさんの要求にはいつも心を開いて対応したといいます。それはアカデミックな歌を求められているのではなく、歌謡曲の場合は人の心を突き動かすことが重要だとわかっていたからです。

お互いに本心で言いたいことを口にして、理解し合えたらそれぞれが目標に向かって突き進んでいく、それがJ&Kと小澤音楽事務所の制作における基本的なポリシーでした。そのためには納得できないまま意見が対立し、何度も話し合いの場を持つといった、非効率的なことも起こります。浅川マキに関しての方針を決める時が好例です。

時代が求めている歌を作ってそれを歌わせようとするおけいさんと、時代を自らのものにするだけのキャラクターを身につけることが先決だと考える寺本は、なかなか意見がまとまらない状態が続きました。そのとき、おけいさんは寺本のこだわりと情熱を尊重して、思うようにやらせてみることにします。

そして1968年12月13日から3日間にわたって、寺山修司の演出によるコンサートが新宿3丁目の「アンダーグラウンドさそり座」で、開催されることになったのです。それが成功を収めたことで、寺山が作詞した「かもめ」が誕生し、1年半後の「ざんげの値打ちもない」誕生へとつながっていきます。

スタッフだけでなく歌手も含めて、誰もが歌に対しては強いこだわりを持っていました。「ロング・グッドバイ」という歌をめぐる問題が表面化したのは、前日のリハーサルが終わる段になってからのことで、その晩の出来事を浅川マキがこう書き残しています。

 深夜はとうに過ぎていたと思う。地下にある小さな劇場の隅に、ふたつ椅子を置いた。明日の夜には、此の場で、わたしは化粧をして唄う。わたしのために書かれた詩がます目いっぱいになって、わたしはその分厚く束になった原稿用紙を力なく持っていた。寺山修司さんは膝に手を置くと、大きなからだを屈めるようにして座った。彼は目線を上げると、まっすぐこちらを見ても黙っている。

(浅川マキ『ロング・グッドバイ 浅川マキの世界』白夜書房)

二人が向き合うことになったのは「ロング・グッドバイ」について、浅川マキが「この詩が、わたしには歌える自信がない」と言ったからでした。当初は「朝鮮人のおじさん」という仮タイトルだったその長い歌は、コンサートの最後に歌われる予定になっていました。

寺山修司が書いたその歌は、在日韓国人2世だった金嬉老が、その年の2月に起こした殺人を発端とする監禁事件に触発されて書かれたもので、“朝鮮人”という単語が繰り返し歌の中に出てきます。


「ロング・グッドバイ」
作詞 寺山修司/作曲 山木幸三郎

しあわせな日は長くない
さようならだけが人生で
あとはみじめな夜ばかり
朝鮮人だという事で誰にも名前を教えない
お風呂屋に貼ってあった指名手配の殺人犯の長田こと韓甲晩
巨人軍に入った静岡の名投手 新浦こと金
自分の名前に銃を向け叫びつづけた金嬉老

ああ おじさん!
いくじなしのおじさん
遺書も書かなかった
ひっそりと死んでしまった朝鮮人の
ぐうたらの一人もののおじさん


浅川マキは寺山修司に対峙して、小声ながらも抗議の意志を込めて「朝鮮人と云う響きに、自信がない」と訴えました。しかし寺山は浅川マキの目を見据えて、「朝鮮人のおじさんの歌は、明日からの舞台で、ぼくがあなたに、一番うたって欲しい歌だとしたら」と、問いかけてきたのです。

その時に浅川マキは心の中で「いやよ」と思いながら、もう一つの歌のことを思い出していました。寺山が書いた「かもめ」という歌についても、やはり「わたしはそんな女じゃない」と思っていたのです。そしてあらためて、「朝鮮人のおじさんが、アパートでひとりで自殺する話なんて、わたしは素敵に歌えないもの」と思い直しました。

しかし2時間に及んだ二人の押し問答は平行線に終わり、結論が出ないまま問題は翌日へと持ち越されることになります。そして12月13日の夜10時、コンサートの幕が開くと、真っ黒な衣装で登場した浅川マキが作詞した「夜が明けたら」が始まりました。それが終わると出来たての新しい歌が、語りとともに次々に披露されていくという構成です。やがて壁に当たった印象的な赤いライトの中で、「かもめ」が歌われていきます。

寺本はその晩、前の日に問題になった「ロング・グッドバイ」を浅川マキが歌い終わったとき、最後列の暗がりに立っている寺山修司と目が合いました。そして「お互いに頷いた瞬間、いま「浅川マキ」という歌手が生まれた、と思った」と、浅川マキのCD「Long Good-bye」のライナーノーツに書いています。

浅川マキはこの日、客の心に届けるにはどんなふうに歌えばいいのかを、初めて自分のものにすることができたと述べています。

「朝鮮人のおじさん」のうたと「かもめ」は、わたしの感情をすべて捨てて唄った。そんなこと知りませんよ、と放り投げて唄うとき、詩は生き物のようにひとり歩きする。寺山修司の言葉が、勝手に客席に突き刺さって行く。

(同前)

「いいものは、いい!」と信じた歌へのこだわり

「知りたくないの」の大ヒットで1967年に一流歌手の地位についた菅原洋一は、その年の大晦日に「誰もいない」という暗い歌で、レコード大賞の歌唱賞に選出されました。それは孤独で行き場のない心を綴った歌で、来るべき1969年という変革の時代への架け橋となる作品だったのかもしれません。


「誰もいない」
作詞 なかにし礼/作曲 大六和元

誰もいない 誰もいない
長い長い 孤独の夜よ
寒い心に ひざかけまいて
宛名のない 手紙を書くの

誰もいない 誰もいない
信じられない 手品のようね
レースをあんで あんではほぐし
針の止まった 時計を見るの

誰もいない 誰もいない
遠い遠い 思い出だけね
涙を隠す マスクをつけて
終わりのない 本を読むの
本を読むの


おけいさんによって見出されたなかにし礼はこの年、飛ぶ鳥を落とす勢いで次々にヒット曲を発表しています。そしてヒットメーカーとして一躍クローズアップされると、あっという間に音楽シーンの寵児となっていったのです。黛ジュンの「天使の誘惑」がレコード大賞、菅原洋一が「誰もいない」で歌唱賞、「くちづけが怖い」で久美かおりが新人賞に選ばれました。作詞家による三冠の達成は、レコード大賞が始まって以来の快挙です。

そんなお祭り騒ぎのような状態にいながらも、なかにし礼は大きく変わりつつあった時代を見据えてこんな分析をしていました。

「ヒッピー族」や「フーテン族」の登場は、拡大するヴェトナム戦争にたいする反対運動でもあったが、その本来の主張は、映画を始め演劇、舞踏、音楽、美術、詩などを商業主義から守ろうとすることだった。裏返せば、あらゆる芸術の領域が商業主義によって浸蝕されつつあるということだった。つまり、芸術的才能は、商業主義と合体することによって、新しい美を創造するという時代になったのである。
 中でも、華々しくヒット作を発表しながらもなお才能の純度を落とすことなく輝いていた人たちがいた。

(なかにし礼『黄昏に歌え』朝日新聞出版)

ここで名前が挙がったのは文学界で五木寛之と野坂昭如、それに戸川昌子、映画界では大島渚と篠田正浩、演劇界では寺山修司と唐十郎、テレビ界では演出家の久世光彦と大山勝美、脚本家の倉本聰と山田太一、漫画界では赤塚不二夫と黒鉄ヒロシ、さらには劇画の上村一夫、写真界では立木義浩と篠山紀信、イラスト界では横尾忠則と宇野、和田誠、芸能界では丸山明宏(美輪明宏)という人たちでした。

その上で彼らを同志とみなして自らの指針にしていたのです。

私のいる歌謡界は中でも最も商業主義の強いところだが、それでも私は、彼らを同志と思い、ヒットを飛ばしつつもなお志を見失わないことを肝に銘じた。

(同前)

なかにし礼はそれから2年後の1970年、シングル盤の総売り上げが1500万枚を突破したほか、年間のベスト100曲のうち28曲が彼の作詞した作品でした。また菅原洋一の「今日でお別れ」によって、2度目のレコード大賞にも選ばれたのです。

この「今日でお別れ」もまた、おけいさんがポリドール時代にレコーディングしていた楽曲で、発売は1967年3月に遡ります。しかし「知りたくないの」がロングセラーになったことから、プロモーションする機会を失ってしまい、埋もれた形になりました。それが3年近い年月を経て発見された後に、大ヒットしてレコード大賞に輝いたのですから、J&Kと小澤音楽事務所の本質ともいうべき、歌についての考え方がよくわかります。

歌に惚れ込むことへのこだわりについては、菅原洋一が「今日でお別れ」がヒットした経緯とともに、自ら解説しています。

■菅原洋一「今日でお別れ」

 僕はよく“B面歌手”といわれるのですが、この曲もまたB面でした。しかも、発売されてから売れるまで、三年近い歳月がかかっています。作詞はなかにし礼さん。ただ、この曲は「知りたくないの」と違って、彼が僕のために書いたものではありません。それ以前からあった曲を、僕がどうしてもということで、レコードに入れさせてもらったのです。
 それにしても、B面であったことといい、なかにし作品であることといい、さらには売れるまで長い期間がかかっていることといい、「知りたくないの」と「今日でお別れ」の間には幾つもの共通点があります。それにそもそもこの「今日でお別れ」は、「知りたくないの」が売れていなければ、あるいは世に出ることがなかったかもしれないレコードなのです。
「知りたくないの」が「恋心」のB面として発売されたのは1965(昭和四〇)年の一〇月でした。それが六七年の一月になって、改めてA面として発売されます。僕が「今日でお別れ」を吹き込んだのは、ちょうどその頃のことでした。つまり、歌手としてのラストチャンスであった「知りたくないの」が、ジワリジワリと売れてきて既に小ヒットというところまできた。そこで会社としては、さらにもうワンチャンス与えてみようということで、吹き込んだのが、この「今日でお別れ」だったのです。
 ところが、これが発売された頃には、もう「知りたくないの」はビッグヒットへの階段を駆け上りつつありました。そこで、何よりも「知りたくないの」優先ということで、この曲は長い間、いわば置き去り同然の状況に置かれることになったのです。実際、「今日でお別れ」が発売されてから売れるまでの間、僕は「芽生えてそして」や「誰もいない」など、それぞれ思い出に残るレコードを新曲として発売しています。
 ただそのように次から次へと新曲が世に送り出されても、僕自身にはやはり「今日でお別れ」に対するこだわりがありました。何が、という具体的な理由があるわけではありません。でも「知りたくないの」に出会った時と同じように、僕はこの曲が好きで惚れ込んでいました。テレビやステージでも、機会さえあれば必ずこの曲を歌うようにしていました。やはりここでも原動力は惚れ込むこと、自分がいいと思ったものに対して、徹底的にこだわることだったのです。

(菅原洋一『忘れな草の記~歌・人生・愛~』NHK出版)

「知りたくないの」「今日でお別れ」を収録した菅原洋一のアルバム
『ピアノと唄う愛のうた~81才の私からあなたへ~』

菅原洋一の歌の原動力である“惚れ込むこと”、自分がいいと思ったものに対して“徹底的にこだわること”、それこそが小澤音楽事務所とJ&Kのポリシーだということが、本人の口から語られていました。そしてそのポリシーに基づいて作られたのが阿久悠の「ざんげの値打ちもない」という歌詞であり、それを歌ってスポットライトを浴びたのが、才能と実力を備えた新人歌手の北原ミレイだったのです。

次号掲載:1月26日(金)

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