街も人の関係も、そして歌も、それはいつも何もないところから始まる。何もないからこそ自由に創り上げていけるのだ。作詞家・阿久悠もそうだった。「ない」から始め、昭和の歌謡界に金字塔を打ち立てた。阿久に続いたソングライターたちもそう。何もないことの不安より、創作する喜びや使命感によって彼らは駆けた。時代の創造者たちの物語や足跡は教えてくれる。前を向き明日を見据えた者にしか、新しいものは生み出せないということを。そこに目を向け、耳を傾けたとき、未来への風はきっと吹く。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第4回 2017年7月15日掲載
第一部 歌謡曲の黄金時代を予告していた「ない・ソング」の登場

第四章 “ニューエレキサウンド”と「ミスター・モンキー」

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歌わないエレキ少年が黙々と演奏したところで、テレビ番組は面白くならなかった。エレキ・ブームはどうせすぐ終わる、音楽業界は冷ややかだった。そこでスタジオに集まった少年少女たちが踊る曲「モンキー・ア・ゴーゴー」を歌にしようと、放送作家だった阿久悠は必要にかられて詞を書く。そして願いを込めた歌は、ザ・スパイダースのシングルになった――。
東京発のトーキョー・サウンドを発信しよう

ジャッキー吉川とブルー・コメッツは1966年6月30日から7月2日まで、日本武道館で開催されたザ・ビートルズの日本公演のオープニング・アクトとして出演しています。そして日本の出演者が全員で歌った「ウェルカム・ビートルズ」(作詞 安井かずみ、作曲 井上忠夫)の演奏を受け持っています。このときにビートルズと同じステージに立つことを断っていたのが、ザ・スパイダースでした。ビートルズのコピーバンドが、本物の前に前座として出演しても意味がないと、リーダーの田辺昭知は辞退していたのです。そして当日はメンバー全員が揃って、客席でライブを楽しんだのでした。

1961年に田辺昭知によって結成されたスパイダースは、歌手のバック・ミュージシャンとしての活動を行ってきました。しかし1964年にビートルズのアルバム『ミート・ザ・ビートルズ』を、輸入盤で聴いて衝撃を受けた歌手のかまやつひろしがメンバーに加入したことによって、ビートルズを徹底的に研究してヴォーカル&インストゥルメンタル・グループとなります。さらに堺正章と井上順が加わったことで、ライブでの人気が上昇していったのです。

「ビートルズっていうバンドがあるんだ。こういうのやろうぜ」と呼びかけると、それからは毎日のようにスパイダースのメンバーが家に集まってきた。
 それまでのロカビリーやジャズといった音楽と、ビートルズのサウンドは全く別物に感じられた。
 1枚のレコードしか教材がなかったので、毎日みんなでそれを聴いて演奏の秘密を探った。
 どうすればビートにうまく乗れるのか、それを解明しようといろいろ試しているうちに、全員がエイト・ビートで弾いたり叩いたりするのではなく、ギターとベースはエイト・ビートでも、ドラムがシャッフル・ビートで叩けば、ヴォーカルとバンド全体が前へ前へと突っ込んでいけることを発見した。

■TAP The POPより
『ミート・ザ・ビートルズ』を聴いたかまやつひろしが確信した近未来、そこから生まれたスパイダースの「フリフリ」

スパイダースはいち早く輸入盤のレコードを購入し、日本でレコードが発売になる日には、もうステージで完璧なカヴァーを演奏していたというエピソードが残っています。そしてレコードを徹底的に聴き込んで、それをステージで再現していくうちに、田辺昭知のひと声でオリジナル曲にも挑戦し始めました。

阿久悠はその頃、広告代理店の宣弘社に勤務するサラリーマンでありながら、日本テレビに勤務しているのではないかと思うほど、たくさんのレギュラーを抱える放送作家になっていました。それらの仕事の中には歌謡曲の番組もあり、その構成台本を書きながら阿久悠の目線は知らず知らずのうちに、作詞家の道へと向き始めることになります。

 通常、歌謡番組の構成台本では、途中に挟まれる歌の部分はタイトルだけ書いて空白にするのが普通だった。僕はそこに歌詞を忠実に書き写していた。そこに差し挟まれる映像や演出に必要なアイデアも指定した。
 それが採用されることもなく、いつも同じ映像が使い回されるのが自分なりにわかっていた。それでも番組の構成をしている以上、細部にいたるまで手を抜くことはできない性分。この一見無駄にも思われる作業をしながら、僕は歌謡界の何かが変わっていくのを感じていた。
 さまざまな作詞家の作品を原稿用紙に書き写していく作業の中で、歌の中で書かれてあるもの、書かれてないものを知り、第一線で活躍しているプロの作詞家たちの仕事を肌で感じて、それぞれの作風や方向性を知ることができた。

(阿久悠『「企み」の仕事術』KKロングセラーズ)

歌詞を書き写すことを繰り返したことによって、だれが歌謡界に新しい作風を持ち込んでいるかがわかり、時代から置き去りにされる歌も見えてきたのでしょう。そこにエレキ・ブームがやってきて、番組作りに参加したことで、音楽のスタイルが根本的に変化していく時代の流れを目の当たりにするのです。

東京オリンピックが終わってまもない頃、日本テレビに呼ばれて行ってみると、阿久悠を3人の男たちが待っていました。

 日本テレビの音楽班のディレクター笈田光則と、ホリ・プロダクション社長の堀威夫、ザ・スパイダースのリーダーの田辺昭知である。彼らはあたかも新時代を切り拓く志士のように、日本の音楽界の現状を嘆き、到来する時代への夢を語った。ビートルズという名が何度も出る。そして、リヴァプール・サウンドという言葉も繰り返し語られる。

(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社)

全員にテレビで新しい音楽番組を作りたいという現実的な事情があったために、阿久悠も企画者としてこの流れに身を投じることになります。若者から熱狂的に支持されているエレキ・ブームを、テレビ番組として成り立たせるための企画書、「世界へ飛び出せ! ニュー・トーキョー・サウンド」を仕上げると、阿久悠は実際に番組の立ち上げにも関わっていくのです。

 ビートルズの登場以来、信じ難いスピードで動き始めた世界の若者の音楽に、今のままでは取り残されるというおそれと、新しい場で勝負したいという思いが、それぞれの夢として芽ばえたのである。
 笈田光則も堀威夫も田辺昭知も、この時にこの動きをする意味がある。野心もある。テレビの音楽番組ディレクターは、伝統的歌番組から脱皮したものをやりたいと、願っている。プロダクション社長は、帝国と畏怖される業界一位の会社と勝負するには、ブームを起こすのが第一だと考え、それにはエレキ・ブームが最も実現性のあるものだと、企てている。バンドのリーダーは、外国の音楽のコピーを重ねながら、今やっと独自のオリジナルのチャンスが訪れた、いや、チャンスにしなければと、熱が入る。

(同前)

「リヴァプール・サウンドがあるんだから、東京発のトーキョー・サウンドを発信しよう」そんな掛け声も勇ましく企画がスタートします。番組はレギュラー出演者の「ザ・スパイダースによるニュー・サウンドの紹介」、「ニュー・ステップの紹介」、「ゲスト歌手によるポピュラー・ヒットパレード」、そして毎回登場するアマチュアのバンドによるコンテストという内容です。コンテストで優勝したグループは、ビートルズが誕生したリヴァプールを訪問し、ロンドンでレコーディングできることになっていました。

ところがなかなかスポンサーが付かず、春から開始する予定が半年ほどずれ込みます。その間にフジテレビが『勝ち抜きエレキ合戦』という、類似したエレキ・バンドのコンテスト番組を6月から始めて、すぐに人気番組になっていきました。

先を越された日本テレビは秋から番組を始めたものの、後発の形になってしまったこともあって、成功とは程遠い結果に終わります。しかも若いエネルギーの爆発を期待していたエレキ・バンドの多くが、単なるアマチュアのギター・オタクに過ぎないことが判明したことで、阿久悠は落胆の思いを隠せませんでした。その年の初めから企画書を作って準備してきた阿久悠でしたが、スタートで出遅れた上に、タイトルの「ニュー・トーキョー・サウンド」が「ニューエレキサウンド」になり、明らかに気落ちしたことが文章からもうかがえます。

 僕が企画書に謳い上げた、最初にして最大のエレキの登竜門、というのは嘘になった。あれだけ意気込んでいながら、結果としては、フジテレビの後追い企画、二番煎じと見られてしまうことになったのが、何とも口惜しかった。
 しかし、文句を言っても始まらないことであり、また、文句を言えるような立場でもなかった。

(阿久悠『夢を食った男たち』毎日新聞社)

最後までロックンロールの反抗を受け継ぐ気骨ある若者たちは発掘されず、エレキ・ブームが陰りを見せたこともあって、番組は6カ月の2クールで終了してしまいました。そしてインストゥルメンタルのエレキ・サウンドから、叙情的な歌詞を加えたグループ・サウンズへと時代は移行していくのです。

■宣弘社の職場にて
提供:明治大学史資料センター/阿久悠記念館

番組のために自ら作詞した「ミスター・モンキー」

阿久悠はエレキ・サウンドを掲げてテレビに殴り込みをかけるという、期待に満ちた革新的な試みが上手くいかず、日本的な叙情というものに飲み込まれいく様を、当事者のひとりとしてスタジオの隅で黙って見ているしかありませんでした。しかしこの番組に関わったことは、人生における大きなターニングポイントになります。

 番組のために、かまやつひろしや大野克夫らが作った曲に僕ははじめて作詞家として歌詞を付けた。エレキ・ブームを「どうせすぐ終わる一時の流行だろう」と見ていた音楽業界は番組に対しても冷ややかだった。レコード会社の専属作家も、このジャンルには手を出そうとしなかった。だから、半ば仕方なく、メンバーが作曲し、放送作家である僕が作詞した曲を演奏するという形になった。

(阿久悠『「企み」の仕事術』KKロングセラーズ)

番組から歌を作り出そうという発想は、堀や田辺が最初から持っていました。歌のない音楽のブームが長く続くはずはないと考えていたふたりは、歌ありのスパイダースを売り出す算段としてレギュラーを務めさせていたのです。

エレキ・バンドのコンテストに応募してくるグループのほぼ全てが、インストゥルメンタル志向でした。日本のエレキ少年たちは、なぜか歌わなかったのです。しかし、暗い印象の少年たちがただ黙々と演奏して見せても、テレビ番組としては面白いものにはなりません。そこで売り物にしているスタジオでのダンス・シーンで、100人以上の少年少女たちがギッシリと詰まって踊る「モンキー・ア・ゴーゴー」という曲を歌にしようということになり、阿久悠が必要にかられて詞を書いたのです。

「ミスター・モンキー」
作詞 阿久悠、作曲 脇野光司
編曲 ザ・スパイダース
 
ミスター・モンキー もててる奴だ
ミスター・モンキー 誰もが呼んでる
モンキー・ダンスが 得意な奴だ
G.T 乗り捨て dancing day and night
 
ミスター・モンキー しびれる奴だ
ミスター・モンキー 誰もが恋した
モンキー・ダンスで 酔わせる奴だ
身体ふるわせ dancing day and night
 
いつまでも いつまでも
誰か月をしばっておくれ
 
ミスター・モンキー 泣かせる奴だ
ミスター・モンキー 誰もが夢見た
モンキー・ダンスに 夢中な奴だ
熱い目をして dancing day and night

この曲はスパイダースが1965年5月10日にクラウンレコードから発売したデビュー・シングル「フリフリ」のB面に、「ミスター・モンキー」というタイトルで収められました。シングル盤のジャケットを見ると、両方の曲に共通のサブタイトル“モンキーで踊ろう”が付いていて、モンキー・ダンスを踊っている堺正章と井上順をメインにした、スパイダースの写真が載っています。しかしそこにはなぜか、かまやつひろしが写っていません。そのことについては、本人がこう説明しています。

 実は撮影に遅刻してしまったので、
「いいよ、いいよ。かまやつ抜きで撮ってしまおう」
 ということになったのだ。乱暴といえば乱暴、いいかげんといえばいいかげんだが、のんびりした時代だったのだ。
 このシングルは大したヒットにはならなかったが、それでも少しずつジャズ喫茶の客は増えていった。そのプロセスを、ぼくらは楽しんでいた。

(ムッシュかまやつ『ムッシュ!』文春文庫)

『世界へ飛び出せ! ニューエレキサウンド』が終了してから3カ月が過ぎた1966年7月1日、コンテストで優勝したザ・サベージがレコード・デビューします。シングルの「いつまでも いつまでも」(作詞作曲 佐々木勉)は、叙情的なフォーク調の楽曲でした。

「いつまでも いつまでも」
作詞・作曲 佐々木勉
 
そよ風が僕にくれた
可愛いこの恋を
いつまでもいつまでも
離したくないいつまでも
花のような君のくちもと
やさしくほほえんで
僕をみつめてくれた
忘れられないいつまでも
 
夏の日の虹のように
澄んだ君の瞳
いつまでもいつまでも
想い続けるいつまでも
湖に君と遊んだ
ふたりだけの想い出
君も好きだといった
忘れられないあの言葉
 
木枯らしが僕の可愛い
あの娘を連れて行った
いつまでもいつまでも
うしろ姿をいつまでも
冷たい君の頬に
やさしくくちづけした
あふれる僕の涙
つきることなくいつまでも

阿久悠はザ・サベージについて、こんな文章を残しています。

 ザ・サベージのデビュー曲は、「ニュー・エレキ・サウンド」の優勝者というにはいささかニュアンスが違う、佐々木勉作詞・作曲の「いつまでも いつまでも」というフォーク歌謡になる。
 そして、これが売れる。続いて出したさらに抒情的な「この手のひらに愛を」も売れる。ザ・スパイダースよりも先に、ザ・サベージが売れたことは、実にちょっとしたショックで、革命とか革新とかいった挑戦的な意欲が、抒情に飲み込まれていく実体を見たのである。トウキョウ・サウンドはどうなったか。

(阿久悠『夢を食った男たち』毎日新聞社)

ザ・サベージの成功は、時代の動きに敏感だった堀の、機を見るに敏な指示があったからで、結果的にヒットしてGSブームへの先導役を果たすことになります。インタビューに答えて、堀がこう語っています。

 ちょうどサベージがロンドンへ行っていた時に、ベンチャーズのブームが終わりかけた。それで「誰か歌えるやつはいないか。インストルメンタルなんか出してもしょうがないぞ」って慌ててロンドンへ電話した。結局それが当たった。運が良いんですね。
〈略〉
 実はリヴァプールへは、ただ行っただけでレコーディングはしないで帰ってきたんです。メンバーが日本に帰ってきてから、当時うちの社員で後に作曲家になった佐々木勉に作らせたのが「いつまでも いつまでも」です。サベージの歌える奴に歌わせたら当たった。

(大学史紀要 第21号 「特集 阿久悠・布施辰治」明治大学資料センター)

番組のために阿久悠が作詞した「ミスター・モンキー」には、派手なエレキ・ギターの間奏が終わった後の、一瞬だけムーディーになったところで「いつまでもいつまでも」というフレーズが出てきます。番組が終わった後でデビューしたザ・サベージの楽曲が「いつまでも いつまでも」で、堀の狙いどおりにヒットしたという事実には、何か不思議な縁を感じさせられます。

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