沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第27回 2018年1月26日掲載
第二部 「ざんげの値打ちもない」という夜明け

第七章 歌詞に内在するメロディーと映像

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阿久悠という作詞家を語る上で欠かすことのできない「ざんげの値打ちもない」は、レコーディングが終わった段階で、内容の過激さからB面になるところだったという。しかし出来上がった音源を聴いた新聞記者の小西良太郎が、すっかり惚れ込んだことによって、当初の予定どおりにA面として発売されたのである。そこから運命の歯車が回り始めていく――。
「シャンソンだろう」と思った和田誠

1985年8月に文藝春秋から発行された『A面B面 作詞・レコード・日本人』は、歌謡界のトップランナーとしての地位にいた阿久悠と、イラストレーターとデザイナーから出発してエッセイストとしても活躍していた和田誠による対談をまとめた共著です。クラシックからジャズやシャンソン、ミュージカルに至るまで、音楽に造詣が深い和田誠は名うての聞き上手としても知られていました。また映画マニアとしてもつとに有名で、1984年には初監督した角川映画の『麻雀放浪記』も公開されています。

そんな和田誠を相手に気持ちが通じ合えた阿久悠は、自らの作品にまつわる誕生の裏話を交えながら、1960年代の後半から激変を遂げてきた日本の歌謡曲について、かなりのびのびと自分の気持ちを語っています。ここからは『A面B面 作詞・レコード・日本人』の中で言及された「ざんげの値打ちもない」に関する部分を紹介しながら、この歌が誕生した経緯や完成までの行程に迫っていきたいと思います。二人の話はまず、シャンソンに関する和田誠の質問から始まりました。

 シャンソンはお好きでしたか。 シャンソン自体は、ああいうスタイルは好きじゃなかったですね。 ぼくは「ざんげの値打ちもない」っていうのが、系列からいうとシャンソンだろうと思ったんですけど。

(阿久悠、和田誠『A面B面 作詞・レコード・日本人』文藝春秋)

和田誠が「ざんげの値打ちもない」について、「系列からいうとシャンソンだろう」と思ったという言葉を受けて、阿久悠は然りとばかりに、歌がレコーディングされた時の違和感について本音を口にしています。

 ぼくは、あの詞書いたとき、シャンソンとかファドとかね、ああいったつもりで書いてるんです。あれを演歌メロがついてくるとはね、ちょっと思ってなかったんですよ。 ああ、そうですか。 だから、できてきたときはあんまり気に入ってなかったんだよね、あれ。 むしろびっくりした。 うん、まあ、あれでよかったのかもしれませんけどね。

(同前)

そして、自分ではポルトガルのファドやフランスのシャンソン、あるいは南米のフォルクローレなど、日本ではなく海外の曲調を想定していたと繰り返します。さらに、自分ではまったく気が付いていなかった意外な事実、すなわち言葉のリズムが日本的な七五調になっていて、そのことに大いに戸惑ったという話に進展していきます。

 うん。売れるとか、残るとかということでいえばあれでよかったのかと思うんですけどね。あとから考えてみて、自分としての詞のトーンとかね、世界とかっていう意味合いでは、ファドだとか、フォルクローレとか、シャンソンだとか思ってたんですけど。あれ七五になってんですよね、完璧に七五調になってんですよ。 あ、そうか、「あれは二月の寒い夜……」そういう意識なく聴いてたわけですね。 そうですか。書いたほうも七五調で書いてないつもりなんですよ。不思議なことに。

(同前)

和田誠が「ざんげの値打ちもない」を聴いて、系列からいうとシャンソンだろうと思ったのは、歌の全体からフランス文化の匂いを感じ取ったからでしょう。そして阿久悠もまたそれを肯定し、歌詞を書き上げた段階では「ファドだとか、フォルクローレとか、シャンソンだとか」をイメージしていたと、はっきり答えています。ところが予想外の演歌調メロディーが付いたことで、日本的な七五調になっていることに初めて気付いて、それを不思議に思ったと述べていたのです。

阿久悠は作詞の仕事を始めた時から、旧来の形式に縛られた七五調の歌詞を拒否し、それを意識して書かないようにしてきました。なぜならば、圧倒的に主流である七五調の歌詞を書く限り、遅れてシーンに足を踏み入れた作詞家は未熟者であり、いつまで経っても初心者に過ぎないという自覚を持っていたからです。「僕らの世代の作詞家のテーマは、七・五の壁をいかにして破るかにあったと言っていいだろう」と、複数の著書で同様のことを述べています。

それにもかかわらずまったく気が付かないまま、完璧な七五調の歌詞を書いていたというのです。

にわかには信じがたい話なのですが、それが事実だというのであれば、考えられる理由は一つしかありません。歌詞を書いている時に阿久悠の頭の中では外国の音楽、すなわちファドやシャンソンなどが流れていたということでしょう。

和田誠はすべて七五調になっていた歌詞について、その先に話を進めようとしますが、阿久悠は「七五調を拒否する」と言い切って終わらせます。そこからはタブーを打ち破る歌詞を作った動機へと、話題を展開させていくのです。

 作詞家としての出発は比較的七五調を拒否したところからと思うんですけどね。 ええ。七五調を拒否する。それから、「ざんげの値打ちもない」のときには、わりといろんなタブーを、歌が持ってるタブーみたいなものを破ってやろうみたいな、ちょっと意気込みありましてね。当時、ぼく、音楽番組やってて、なにがなんでも一曲二分十秒でカットしてしまう。そうすると、一番、二番、三番ある歌だと、大体二番をカットして一番、三番を歌う。それ、たいした根拠ないんですね。そういう習慣になってきて、二分十秒で切るもんだとディレクターが思い込んでて、今度はほかの歌手とのバランスがあって、これは実は切らないほうがいい歌だなと思ってても二分十秒で切るみたいな。ただし、これは、逆に言えば、切られるほうも悪いと思ったんですよ。切られてもなんともない歌っていうのはね、これはどこか切られる側に問題あるんじゃないかなと思ってたんで、切りようがない歌ひとつつくってやろうという狙いがあった。だから、これ、年代記物になってて、途中抜いてしまうと感銘が薄くなる。それから、タブーといえば殺人を匂わせる雰囲気であるというようなことも。 におわせるだけじゃなくて、明らかにね。刺したという瞬間は描かれてないけれども。 ナイフが出てくる。 完全に物語のあるものだし、しかも暗いですよね、話が。 もう、あんな暗いのはない。

(同前)

テレビの放送作家として音楽番組の台本を書いてきた中で、阿久悠が手を抜かないで律儀に歌詞を書き写すという行為を、何年間も続けてきたことは以前にも紹介しました。その書き写す行為の積み重ねの中で、いつしかふくらんでいた疑問の一つが、途中をカットされてもなんともない歌詞のあり方です。「途中をカットされてもいい歌詞に、どうして満足しているのか?」

そのことでテレビ局の扱いに不満を述べるのではなく、そうした扱いに甘んじている作詞家に目を向けたところが、阿久悠ならではの視点と言えます。フルサイズで聴かなければ全体の物語がわからない、そんな歌を書いてみようと思い立ったのです。

こうして作詞家としての大きな特徴となるストーリー性の強い作品へと、自らの意識を向けていった時に、阿久悠は映画の手法を用いていきました。そこにこそ、新たなる表現者として活躍するヒントやテーマが揃っていたのです。映画のようにストーリーを歌詞で語りながら映像を想起させていく手法を使えば、3分から4分の歌謡曲によって、1時間半から2時間の映画にも匹敵する感動を与えることが可能になるはずだと、阿久悠はそこから実践的に新しい作詞術を確立していくことになります。

書きたいテーマや素材が決まったら、まず全体のストーリーを考えて物語を作り、そこからどの部分をどのように歌詞にしていくのかを選ぶところから始まります。ストーリーの全部を語る長編形式がいいのか、それともクライマックスと言える象徴的なシーンを短編形式で描くのか。どちらが訴える力を持っているかを決めたら、そこからは短時間で一気に書き上げていく――。

それが「ざんげの値打ちもない」で到達した、阿久悠ならではの作詞術になりました。

歌詞に内在しているメロディーとリズム

第3章でも詳述しましたが、1969年から70年にかけては若い女性が歌う「暗い歌」が、若者たちから強く支持されていました。そこへ新人歌手のイメージに合わせた商品性を考えなくてもいいという、めったにない依頼を受けたことで、阿久悠は思い切ったタブー破りに挑むことにします。そうした現実をにらみながら、行き場のなくなった迷い子のような若者たちをテーマに、暗い時代にふさわしい歌を思い浮かべたのです。

その時に手がかりとしてイメージした「暗い歌」は、聴くと自殺者が出る歌という噂のあった「暗い日曜日」と、ポルトガルの国民的歌手だったアマリア・ロドリゲスが歌ったファドの「暗いはしけ」でした。

1933年にハンガリーで発表された「暗い日曜日」は、1936年にシャンソン歌手のダミアによってフランス語でカヴァーされたことから、世界的に知られるようになっていきました。そして日本でも淡谷のり子を筆頭に、越路吹雪、美輪明宏、戸川昌子、岸洋子、金子由香利、加藤登紀子などのシャンソン歌手に歌い継がれていたのです。

J&Kの寺本幸司は「暗いはしけ」に関して、「アマリア・ロドリゲスにはずいぶん影響された」と阿久悠から言われたそうです。また自分が担当していた浅川マキに歌詞を提供している寺山修司について、「阿久さんが強い関心を持っていることがわかって、体験したエピソードなどを話しました」と述べています。

■ダミア「暗い日曜日」

■アマリア・ロドリゲス「暗いはしけ」

阿久悠は日本の「暗い歌」の中でも、特に強い印象を受けた藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」と、寺山修司が作詞した浅川マキの「かもめ」にインスパイアされて、独自の物語を作っていきました。そして当時としては画期的だった年代記という形で、「ざんげの値打ちもない」を書き上げたのです。

 まず、季節をいう。主人公の歳をいう。部屋の状態をいう。最後に自分の気持をいう。すると、非常にわかりやすい。
“ああ、二月なんだな。一四歳なんだな。寒いんだな”ということで、だれにでもよくわかる。

(阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波書店)


あれは二月の寒い夜
やっと十四になった頃
窓にちらちら雪が降り
部屋はひえびえ暗かった
愛というのじゃないけれど
私は抱かれてみたかった


それは殺人という罪を犯した一人の女性が14歳から20歳過ぎまでの生き方を、回想しながら問わず語りで歌っていくという、それまでにはなかった映画的な歌謡曲です。1番から5番まで同じ形式の中で歌詞を順に連ねることによって、映画のシナリオにある“ト書き”のようにストーリーを浮かび上がらせていく方法は画期的でした。


そしてこうして暗い夜
年も忘れた今日のこと
街にゆらゆら灯りつき
みんな祈りをするときに
ざんげの値打ちもないけれど
私は話してみたかった


当時はタイトルに使われた「ざんげ」という言葉の強さ、すぐにはわかりにくい意味が、小さな棘のようにインパクトを与えました。和田誠との対談の中で、阿久悠自身が「ざんげなんていう言葉も日本の中にあんまりない頃です」と述べています。

小学館の『デジタル大辞泉』によれば、漢字の「懺悔」は「さんげ」と読むとあります。

さん‐げ【×懺▽悔】
[名](スル)仏語。犯した罪悪を告白して許しを請うこと。→ざんげ(懺悔)

そしてひらがなの「ざんげ」については、こうありました。

ざん‐げ【×懺▽悔】
[名](スル)《「懺」は、梵 kṣamaの音写、「悔」はその漢字訳。古くは、また仏教では「さんげ」という》
1 神仏の前で罪悪を告白し悔い改めること。
2 キリスト教会一般では、罪を告白し、神の許しを請うこと。カトリック教会では「悔悛(かいしゅん)の秘跡」の俗称。
3 自分の罪を悔いて他人に告白すること。「チーム全員の前で懺悔する」「懺悔話」

(コトバンク『デジタル大辞泉』小学館)

阿久悠がひらがなで「ざんげ」と書いていたことからして、仏教語の「さんげ」ではなく、キリスト教会において神の許しを請う「ざんげ」のつもりだったのは明らかです。だから日本的な演歌調の音楽は念頭になく、ファドやフォルクローレ、シャンソンなどをイメージしていたのだと思われます。ところがその歌詞に付けられたメロディーは、阿久悠がイメージしていたものとは異なっていました。

このとき作曲したのはデビュー曲「朝まで待てない」で組んだ後に、「白いサンゴ礁」でもヒットを出していた村井邦彦です。当時、村井は洋楽的なセンスの作曲家として脚光を浴びながらも、日本の歌謡曲は音楽的なレベルが低いと感じていて、そのことが気になっていました。なんとかして世界的な水準にまでもっていきたいと思って、自らプロデューサーとしてパリやロンドンに出向いて、海外レコーディングを始めていた時期に当たります。

村井は渡された歌詞を受け取ったとき、テーマと内容に驚いたものの、すぐにメロディーが浮かんできたので、短時間で出来上がったと語っています。

 渡された歌詞を読むと、男女のもつれから罪を犯した女性のストーリーで、最後には女の子がナイフで相手を刺してしまうという内容ですから「えー、どうしよう」って感じでびっくりしました。
 当時、子供向けの漫画とは一線を画した成人用の“劇画”と呼ばれていたものよりドラマティックな内容で、歌詞って文字数が限られているから、思ったことをなかなか全部書けないんだけど、でも阿久さんは限られた音のなかにどんどんストーリーをつめこんでいっちゃう。それが阿久さんの特徴。
 僕にとって阿久悠という作詞家の一番の印象は、やっぱり偉大なストーリーテラーということです。

(文藝別冊『総特集 阿久悠 没後十年』河出書房新社)

村井は「ざんげの値打ちもない」の時に初めて、先に歌詞をもらって後で曲を付ける方法、すなわち詞先で作曲したとも話しています。それまでに書いた阿久悠との作品はすべて曲先だったそうですが、歌詞からすぐにメロディーが浮かんできたので、素直にリズムを付けてまとめ上げました。

 言葉がうまく並んでいるから、自然にメロディーが浮かんで来た。歌詞通りにリズムをつけていったら出来たという感じです。本当に三十分くらいで書いた曲です。
 よくこの曲は演歌、歌謡曲と思われがちだけど、演歌のスリーコードに対して、これは二度の和音という演歌にはない和音が入っています。実はすごい洋楽なんだよね。
 僕のなかでもこの曲は気に入っていて、コードもちょっと変えて普通の人が聴いたらわかんないけど、よく知っている人が聴くと、そうか成る程ってわかるかもしれない。

(同前)

この発言からわかるのは、阿久悠の手書きによる歌詞が作曲家にメロディーを誘発させるだけでなく、言葉の連なりを音にした時に伝わってくるリズムの中に、ビート感を内在させていたということです。だから歌詞のとおりにリズムを付けていっただけで、村井は8ビートや16ビートを感じさせる楽曲に仕上げることができたのではないでしょうか。

しかも歌詞は完璧な七五調だったわけですから、洋楽志向が強い村井でも自然に日本的なメロディーが浮かんだのだと考えられます。それによって「実はすごく洋楽っぽい」にもかかわらず、演歌のように聞こえる歌が誕生したのです。

世界を目指していた村井邦彦

作曲家としての村井はGSブームの渦中でザ・テンプターズやザ・タイガースの作品で次々にヒットを放った後、1969年にはトワ・エ・モワの「或る日突然」、阿久悠とのコンビによるズー・ニー・ヴーの「白いサンゴ礁」、さらには新人のピーターに書いた「夜と朝のあいだに」がレコード大賞の新人賞に選ばれるなど、24歳の若さでヒットメーカーの地位を確立していました。

1970年から音楽プロデューサーとして世界に目を向けて、一流のミュージシャンやスタッフたちとの海外レコーディングにも取り組んでいきます。そしてタイガースを脱退した加橋かつみのアルバム『パリ1969』を制作するために、パリで仕事をしていた時に縁があって、バークレイというレーベルと契約を結んだのです。音楽著作権の仕事には将来性があると思った村井は、現地で売り込まれた20曲の中から、気に入った4曲を選んで契約しました。

そのうちの1曲、クロード・フランソワの「Comme d’Habitude」の英語詞が、その年にアメリカのポール・アンカによって作られます。それがフランク・シナトラの代表曲となる「マイ・ウェイ」です。それから数年のうちに「マイ・ウェイ」は各国でカヴァーされて、世界的なスタンダード・ソングになっていくのです。

村井は帰国後にソングライティングのコンビを組んでいた作詞家の山上路夫とともに、アルファ・アンド・アソシエイツを設立しました。会社設立の目的は「作家の自由な発想で音楽制作すること」と、「国際的な音楽ビジネスに参入すること」の二つです。そのために自分たちの会社で作品の出版権を持ち、原盤制作ビジネスも手掛けていきます。

1970年4月にはまだアマチュアだった「赤い鳥」のメンバーと、ロンドン・レコーディングによるアルバム『フライ・ウィズ・ザ・レッド・バーズ』を完成させました。このレコーディングを行ったトライデントスタジオは、ザ・ビートルズの「ヘイ・ジュード」でも使われた施設です。メンバーの山本潤子が当時を、こう振り返っています。

それらは全て村井さんの仕掛けでした。今と違って、当時、海外のレコーディングは本当に珍しい事でした。…何よりあの頃の私達“赤い鳥”はまだ、アマチュアだったのです! そして「やはり村井さんは、タダ者ではないな」と確信しました。ロンドンの地で村井さんから2度目のラブ・コール。「日本の音楽界を一緒に変えよう!!」という熱い言葉に心が動いた“赤い鳥”は、とうとうプロ入りを決心するのでした。当時、村井さんは25歳、私は19歳。村井さんの言葉通り、日本の音楽界はいろんな意味で大きく変化してゆきました。

(松木直也『村井邦彦の時代』河出書房新社)

村井はプロデューサーとしてアルバムの構想を練ることから始めて、そこに至るまでの細密な計画を作った上で、アマチュアのメンバーたちを導いていきました。1970年6月10日に日本コロムビアから発売されたそのアルバムは、後にニューミュージックの第1号的な評価を得ることになります。

プロデューサーとして世界を目指していったことについて、村井はこのように述べています。

 そのころ、ものづくりにおいて日本は世界での成功者が多かった。ホンダとかソニーとかね。それは同じ日本人としてとても励みになった。だからだろうね、音楽でも世界進出をしたいと思った。僕は作曲した楽曲が売れて資金があったから60年代後半から70年代、人工衛星のようにパリ、ロンドン、ニューヨーク、LAをぐるぐる回る生活が出来たんだよ。そこで先進国の音楽業界の現実を現地で体感し、そのなかで知的所有権を守らなければ世界はまとまっていかないと考えた。僕は次に開拓すべきは知的所有権であるということを理解していたんだ。

(同前)

そして村井は世界の音楽シーンに参入することに照準を合わせつつ、「ざんげの値打ちもない」がヒットしていた1971年に高校生の荒井由実を見出します。さっそく作家としての契約を交わすと、十分な時間をかけて2年後にデビュー・アルバム『ひこうき雲』をプロデュースするのです。荒井由実はそこからシンガー・ソングライターとして才能を開花させて、驚異的な成功を手にしていくことになります。

その後も村井は日本の音楽業界におけるイノベーターとして挑戦を続け、1979年にはYMOを世界のマーケットに送り込むなど、日本を代表する国際的なミュージックマンになって活躍しました。

そんな村井が世界中を回り始めたばかりで忙しかった時期に、「ざんげの値打ちもない」の作曲を快く引き受けたのは、阿久悠の存在感や特異性に何か感じるところがあったからに違いありません。だからこそ異端ながらも、いや、異端であるがゆえに、後世に残るスタンダード・ソングが誕生したと考えられます。

小西良太郎によるA面への復活劇

「ざんげの値打ちもない」を最終的に完成させたのは、その頃の若手の中では川口真と並んで、斬新な編曲で注目を集めていた24歳のかい俊一です。イントロから最後までに使われる16ビートを強調するシェーカー、サビで効果的に出てくるタンバリンとドラムのからみなど、ロック世代の音楽を意識した斬新なアレンジを得て、楽曲がさらに強い訴求力を持つことになりました。そこに新人とは思えない歌唱力を持つ北原ミレイが、生まれて初めてのレコーディングによる緊張感に包まれながらも、何の疑念も邪心もなく歌って生命力を吹き込んだのです。

しかし「作品で勝負したい」との依頼から作られた「ざんげの値打ちもない」は、自信を持って勝負できる作品として完成したことによって、逆に商品としての問題点が浮き彫りになります。歌詞の内容から民放連の自主規制に抵触し、放送禁止に指定されるのではないかという不安が出てきたのです。レコーディングが終わった直後のスタジオでは、スタッフの話し合いによって4番がまるごとカットされることが決まりました。その結果、ワンコーラス削られたヴァージョンが、10月5日にレコードとして世に出ることになったのです。

 

阿久悠はこのとき、1番から5番までをトータルで聴かなければわからない長い物語の歌を書いたにもかかわらず、4番をまるごとカットする案に同意しています。それは必ずしも妥協したわけではなく、舞台を刑務所とはっきり決めてしまわないほうがいいのではないかと、前向きに考えることができたからだったと説明しています(注)

しかしながらそこでもう一つ、乗り越えなければならない新たなハードルが立ちはだかりました。それはB面用に作っていた曲をA面にしたほうが、ヒットの可能性があるのではないかという意見が、プロデューサーのおけいさんから出されたことです。そしてスタッフたちの考えも一時的に、そちらへと傾きかけました。阿久悠は和田誠との対談の中で、A面のつもりだったのにB面になりそうになったと述べています。

 B面になりそうになってあわてたことが二度ありましてね。一度は「ざんげの値打ちもない」、一度は「ペッパー警部」。 そりゃ大変だ。 そうですよ。「ざんげの値打ちもない」の片面はほかの人の作品ですからね。

(阿久悠、和田誠『A面B面 作詞・レコード・日本人』文藝春秋)

J&Kの寺本や田村たちが阿久悠と村井邦彦による作品づくりを進めていた一方で、おけいさんも「暗い歌」というテーマに合わせて、「その時花はアカシアだった」という、カンツォーネ的な楽曲を制作していました。作詞したのはヒットメーカーだった橋本淳、作曲は北原ミレイに歌唱指導のレッスンを行っていた大本恭敬、後に日本で最初のヴォイストレーナーと呼ばれる人物です。

おけいさんが以前からこだわってきた名曲、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」を彷彿させるタイトルですが、内容は阿久悠が決別しようとしていた、湿っぽくて類型的な女の哀歌と言えるものです。


「その時花はアカシアだった」
作詞 橋本淳/作曲 大本恭敬

もういちど抱いて お別れに
あなたの命 ひきよせて
くちづけするわ 思いきり
すがればいいの 泣いたらいいの
その時花は アカシアだった

捧げるものは なにもかも
あなたのために 投げだした
私はぬけがら 灰みたい
死んでもいいの 散ってもいいの
私の好きな アカシア抱いて

あそばれたのね すてられたのね
その時花は アカシアだった


そうした流れの中で窮地にあった「ざんげの値打ちもない」を発見したのが、完成した音源を聴いたスポーツニッポンの小西良太郎でした。菅原洋一の「知りたくないの」や佐川満男の「今は幸せかい」で、小澤音楽事務所とJ&Kのブレーンになっていた小西は、「変革の70年代、歌謡曲の流れが変わる」「新時代の旗手の登場」と、楽曲と同時に阿久悠の歌詞を絶賛します。それがA面復活への決め手になりました。

阿久悠はそうした経緯について、和田誠にこんな感想を述べています。

 (前略)あんまりあれこれ言えないんですけど、とにかくあそこでひっくり返ってたら、作詞家としての阿久悠はその後大きく違ってたでしょうね。 あの歌は、A面にしては…… 暗いということだったんでしょうね。これがA面に復活したのは、テープを聴いた音楽ジャーナリストが強く支持してくれたかららしいんです。

(同前)

このとき、小西と阿久悠はまだ面識がありませんでした。やがて二人は生涯の友として、公私を共にする関係になっていきます。そして止まることを知らぬ好奇心の持ち主だった阿久悠に、小西はスポーツ新聞の紙面を提供する編集者として、小説家やエッセイストとしての道を歩むきっかけを作っていくのです。阿久悠は自伝とも言える著書の中で、「ぼくは人に恵まれた。それもお願いしたり、助けを求めたりして出会った人ではなく、相手の人がじっと日常のぼくを見ていて向こうから声をかけてくれて始まった関係である」と記しています。

 さて、小西良太郎もそういう人の一人である。そして、彼とは、一瞬の出会いではなく、くり返しつづいている。当初こそ作詞家と文化部記者の関係で、歌謡曲論などをたたかわせていたが、そのうち、詞以外の文章もすすめられる。最初のエッセーも、スポーツニッポン新聞に「無口な奴ほどよくしゃべる」と題して連載する。スポーツ専門紙が真の大衆紙に移行しようとした時代で、それに合致したことにもよるのだろう。小西良太郎が社内でどんどん偉くなったこともあって、ぼくが紙面で書くものも、果てしない感じで増えていった。

(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社)

1960年代までのスポーツ新聞は、圧倒的な人気だったプロ野球の記事がメインで、それと東京六大学野球や大相撲中心の紙面を作っていました。しかし1960年代後半から70年代にかけて、スポーツに限らず芸能やギャンブル、釣りなどのレジャーから、政治、経済、社会にまで幅広い話題や情報を楽しめるような方向に進んでいきます。その先頭を切って部数を伸ばしていたスポーツニッポンでは、芸能面にニュースや紹介記事のほか、読み物の連載が始まりました。当時の勢いを回顧して、小西がこう述べています。

 僕はスポーツニッポンの紙面を、流行歌ネタで山盛りにする。レコードを「物」として扱ったら寸評のコラムにしかならない。しかし「歌」を中心にすれば「歌手」や「制作者」「作家」が登場するドキュメントが書けるうえに、その向こう側に多少の「時代の匂い」までを書き込めるではないか! 僕は歌社会の人間像を根掘り葉掘りするインサイドものを書いて、読者の興味を集めることに熱中した。校閲部、整理部と内勤部門で七年、集まる先輩たちのステレオタイプな原稿には飽き飽きしていた。

(文藝別冊『総特集 阿久悠 没後十年』河出書房新社)

1971年9月13日、テレビとラジオの番組表を掲載していた最終面を、鉄道駅売店などの即売版で「スポニチ環状線」という専用紙面にリニューアルします。そしてエンターテインメントの要素を強く打ち出した紙面を開発するために、小西は作詞以外の執筆を阿久悠に依頼するのです。

 それは、おおむね、夜に食事をし、水割りの何杯かを飲んでいる時に出る。思いつきのようであるし、用意していたようでもあるが、実にいいタイミングで持ち出されて、ぼくの新しいことをやってみたい気持ちを、心地よく刺激するのであった。そして、すべてが初めてのジャンルで、不安もあるが、それを超えて驚かせてやろうという気持ちがぼくに働き、期待以上を目ざすのであった。
 二年間にわたって連載した「実践的作詞講座」も、今読むとテンションの高いものであるし、「甲子園の詩」に至っては、今年で連載二十五年を迎える。十四日間四十八試合を全部見て、毎日一篇感動詩を書くのである。ライフワークになるかもしれない。
 そして、小説である。これも彼との話で始めた。生まれて初めて書く小説が新聞の十ヵ月の連載とは、頼む方も頼む方だが、引き受ける方も引き受ける方だと、ある作家に言われたほどである。

(同前)

小説家としての阿久悠の処女作は『ゴリラの首の懸賞金』というタイトルで、1977年3月から12月31日まで連載された、長編のエンターテインメント作品でした。そして、血と性と暴力を描いたスケールの大きな活劇を書き上げたことは、新しい表現への第一歩にもなっていくのです。


 
(注)
「ざんげの値打ちもない」
作詞 阿久悠/作曲 村井邦彦

あれは二月の 寒い夜
やっと十四になった頃
窓にちらちら雪が降り
部屋はひえびえ暗かった
愛と云うのじゃないけれど
私は抱かれてみたかった

あれは五月の 雨の夜
今日で十五と云う時に
安い指輪を贈られて
花を一輪かざられて
愛と云うのじゃないけれど
私は捧げてみたかった

あれは八月 暑い夜
すねて十九を越えた頃
細いナイフを光らせて
にくい男を待っていた
愛と云うのじゃないけれど
私は捨てられつらかった

あれは何月 風の夜
とうに二十歳も過ぎた頃
鉄の格子の空を見て
月の姿がさみしくて
愛と云うのじゃないけれど
私は誰かがほしかった

そしてこうして 暗い夜
年も忘れた今日のこと
街にゆらゆら灯りつき
みんな祈りをするときに
ざんげの値打ちもないけれど
私は話してみたかった
(戻る)


次号掲載:2月2日(金)

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