沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第9回 2017年9月1日掲載
第一部 歌謡曲の黄金時代を予告していた「ない・ソング」の登場

第九章 流行歌への挑戦

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本格的に作詞に取り組み始めた阿久悠は1969年、15条の「作詞家憲法」を創案し、従来の流行歌とは異なる、歌謡曲の制作に意欲を注いでいく。それは数々のヒット曲を生み出した、古賀政男や船村徹といった先人たちの築いた時代への、大いなる挑戦でもあった――。
15条の「作詞家憲法」

歌謡曲という言葉は1960年代になってから一般化したもので、戦前や戦後はずっと流行歌と言われていました。ですから頻繁に使われ始めた当時から、使う人によって言葉の意味や指している範囲が微妙に異なっていて、しばしば混乱の元になってきました。

阿久悠は作詞を始めてまもない頃に、彼なりに歌謡曲というもののイメージをはっきりつかんでいたようです。それは戦前や戦後まもない時期にヒットした流行歌を乗り越えたところから生まれる、新しい時代のヒット曲というイメージだったのでしょう。

1969年に作ったとされる15条からなる「作詞家憲法」には、かつての流行歌ではない歌謡曲を書かねばならない、そう考えるに至った理由がいくつも並んでいました。それはそのまま「ない・ソング」を書くことになった理由でもあったのです。

  1. 美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、違う道はないものであろうか。
  2. 日本人の情念、あるいは精神性は「怨」と「自虐」だけなのだろうか。
  3. そろそろ都市型の生活の中での人間関係に目を向けてもいいのではないか。
  4. それは同時に歌的世界と歌的人間像との決別を意味することにならないか。
  5. 個人と個人の実にささやかな出来事を描きながら、同時に社会へのメッセージとすることは不可能か。
  6. 「女」として描かれている流行歌を、「女性」に書きかえられないか。
  7. 電信の整備、交通の発達、自動車社会、住宅の洋風化、食生活の変化、生活様式の近代化と、情緒はどういう関わりを持つだろうか。
  8. 人間の表情、しぐさ、習癖は不変であろうか。時代によって全くしなくなったものもあるのではないか。
  9. 歌手をかたりべの役から、ドラマの主人公に役変えすることも必要ではないか。
  10. それは歌手のアップですべてが表現されるのではなく、歌手もまた大きな空間の中に入れ込む手法で、そこまでのイメージを要求していいのではないか。
  11. 「どうせ」と「しょせん」を排しても、歌は成立するのではないか。
  12. 七・五調の他にも、音的快感を感じさせる言葉数があるのではなかろうか。
  13. 歌にならないものは何もない。たとえば一篇の小説、一本の映画、一回の演説、一周の遊園地、これと同じボリュームを四分間に盛ることも可能ではないか。
  14. 時代というものは、見えるようで見えない。しかし時代に正対していると、その時代特有のものが何であるか見えるのではなかろうか。
  15. 歌は時代とのキャッチボール。時代の飢餓感に命中することがヒットではなかろうか。

この作詞家憲法の根本にあったのは、それまでレコード会社によって作られてきた流行歌の定番からいかに離れて、新しい日本の歌を作ればいいのかという身構えと心構えです。それまでの常套的な作詞術と違う道は「ない」のか、それを探し出していくことが自分の役割であり、そういう歌を書けなければ自分がやる意味が「ない」とはっきりしています。作詞という表現についての意志を、阿久悠は「ない」を繰り返しながら、きわめて明快に綴っています。

戦前・戦後に生まれて庶民から愛好されてきた流行歌では、世相を反映して世の中の大きな波に流されたり飲み込まれたりして、嘆きながらもいつしかあきらめてしまわなければならないやるせなさが、様々な形で繰り返し取り上げられています。しかし阿久悠はそういう日本人の湿った体質や、後ろ向きの思いを嘆くのではなく、逆境のなかでも敢然と風が吹き付けてくる方へ向かって進んでいく人間たちの生き方や、その瞬間の思いを込めた物語を書く道を選んだのです。そのような主人公を描いた作品が圧倒的に多いということは、創作に向かう阿久悠の姿勢の根幹と重なっていたからに違いありません。そうした人間たちには世間に迎合せず、反抗心を秘めて生きていくという意志が共通していました。

古賀政男の「酒は涙か溜息か」や「影を慕いて」、「悲しい酒」などに代表される日本的な湿り気を含んだ情緒連綿たる悲歌(エレジー)、それをさらに極めることで完成された哀歌、後に演歌というジャンルで語られることになる情歌への意識的な決別、それが「作詞家憲法」であったと言えるでしょう。

阿久悠の才能に気付いて世間に広めた音楽ジャーナリストで、当時はスポーツニッポンの文化部にいた新聞記者、後に音楽評論家とプロデューサーで活躍する小西良太郎がこう述べています。

古賀政男さん自身、自著の中で、「どうしても私の歌は悲しい歌なのだ。こういう歌が歌われなくなる世の中こそ私が望む世の中なので」と書いています。そういう古賀さんの真意はともかく、僕らの世代は、あの人のメロディにどっぷりと浸かって大きくなった。言ってみれば、庶民の恨みつらみ、妬みを代弁した路線ですよね。その流れは連綿と受け継がれていって、船村徹さんたちが、それを完成させていくわけです。
 ところが、阿久さんは、そんな世界を「仮想敵」と考えて、歌づくりを開始した。

(NHK 知るを楽しむ『私のこだわり人物伝』2008年10・11月 日本放送出版協会)

古賀政男と仮想敵という言葉ですぐに浮かんでくるのは、阿久悠が子供の頃から常に意識していた天才歌手、同じ年に生まれた美空ひばりの存在です。その圧倒的な歌のうまさで歌謡界の女王の座を得ることになった古賀メロディの「悲しい酒」(作詞 石本美由起)などが、おそらく仮想敵とみなしていた楽曲であったと考えられます。

「悲しい酒」
作詞 石本美由起、作曲 古賀政男
 
ひとり酒場で 飲む酒は
別れ涙の 味がする
飲んで棄てたい 面影が
飲めばグラスに また浮かぶ
 
(語り)
ああ別れたあとの心残りよ
未練なのね あの人の面影
淋しさを忘れるために飲んでいるのに
酒は今夜も私を悲しくさせるの
酒よどうしてどうして あの人を
あきらめたらいいの
あきらめたらいいの
 
酒よこころが あるならば
胸の悩みを 消してくれ
酔えば悲しく なる酒を
飲んで泣くのも 恋のため
 
一人ぼっちが 好きだよと
言った心の 裏で泣く
好きで添えない 人の世を
泣いて怨んで 夜が更ける

専属作家を目ざした高野公男と船村徹

船村徹は音楽の道をめざして高校を2年で中退し、1949年の春に敗戦の混乱が収まらぬ東京へと、ふるさとの栃木県から上京してきました。そして東洋音楽学校のピアノ科に入学したところ、茨城出身の高野公男と出会ったことで、新しい時代の日本の歌づくりを模索していきます。先輩だった高野公男から言われたのは、東京人から笑われていた方言のなまりのことでした。

「東京、東京と言ってるが、東京に出てきた人間はいつかきっとふるさとを思い出す。おれは茨城弁で作曲する。おまえは栃木弁でそれを曲にしろ。そうすれば古賀政男も西條八十もきっと抜ける」

(船村徹『私の履歴書 歌は心でうたうもの』日本経済新聞社)

昭和20年代から30年代にかけて、地方に住んでいた若者は、復旧復興のために労働力を求める都会へと動員されました。当然、地方に残された家族や友人はその身を案じることになります。経済活動のために家族や故郷と分断された若者たちの、青春をテーマにした望郷の念と孤独からにじむ哀愁は、戦後に誕生したヒット曲には欠かせない要素になっていきます。

プロの作家を目指す二人は高野がアルバイトをしていたキャバレーに勤める女性を通して、キングレコードの文芸部長との知己を得て、のちに三橋・春日時代を築く掛川尚雄ディレクターを紹介され、楽曲を売り込むためにキングに日参し始めました。その甲斐があって曲が出来たらいつでも持ってきてかまわないと、正式に出入りを許されたのです。そして1955年、三橋美智也のために書いた「ご機嫌さんよ達者かね」がヒットします。

「ご機嫌さんよ達者かね」
作詞 高野公男、作曲 船村徹
 
ご機嫌さんよ 達者かね
俺らも父さも 変りなく
朝も早よから 畑仕事
月のデッキで
故里しのび 読み返す
母の 母の便りの
ああ なつかしさ
 
ご機嫌さんよ 達者かね
今年ゃ実りも 豊作で
村は祭りの 笛太鼓
書いた手紙に
あの娘の写真も 添えてある
母の 母のやさしい
ああ 故里便り

それに続いて専属作家の作った楽曲のB面に入れてもらった「あの娘が泣いてる波止場」もヒットしたのです。

「あの娘が泣いてる波止場」
作詞 高野公男、作曲 船村徹
 
思い出したんだとさ
逢いたくなったんだとさ
いくらすれても 女はおんな
男心にゃ 分かるもんかと
沖の煙を 見ながら
あゝ あの娘が泣いてる 波止場
 
呼んでみたんだとさ
淋しくなったんだとさ
どうせカーゴの マドロスさんは
一夜泊りの 旅の鴎と
遠い汽笛を しょんぼり
あゝ あの娘は聞いてる 波止場
 
涙捨てたんだとさ
待つ気になったんだとさ
海の鳥でも 月夜にゃきっと
飛んで来るだろ 夢ではろばろ
それをたよりに いつまで
あゝ あの娘がたたずむ 波止場

続けてヒットした2曲はどちらも歌い出しが会話調で、誰かに語りかける言葉で始まっています。定型詩ばかりだった歌詞の世界に初めて破調を持ち込んだと、東京音楽記者会が注目したと言われています。

自分たちの作った曲が街に流れているのを聴くというのは不思議な衝撃だったが、確かに嬉しかった。
自分たちの曲がかかっているレコード店に入り、わざと、
「この曲の作曲家と作詞家は誰なんでしょう。なんでも有望な新人らしいですね」
などとやったりしたが、心の底には、これからもずっとやっていけるのだろうか、これはほんのまぐれではないのだろうかという不安が横たわっていた。

(船村徹『私の履歴書 歌は心でうたうもの』日本経済新聞社)

■若き日の船村徹(右)と高野公男
写真提供 喜怒哀楽社

高野公男と船村徹の二人は「あの娘が泣いてる波止場」「ご機嫌さんよ達者かね」の2曲で、定型詩が常識だった歌謡界に一石を投じます。新鮮さを感じさせる楽曲でヒットを放ったことによって、キングレコードから作詞家および作曲家として認められ、続いて二人は「別れの一本杉」という大ヒット曲をものにするのです。

阿久悠の耳に残った「別れの一本杉」

1955年、「おんな船頭唄」のヒットで人気が出た三橋美智也を、さらなる高みに押し上げようという企画が、キングレコード内に持ち上がります。2年前に「お富さん」の爆発的なヒットでスター歌手になっていた春日八郎をA面にし、B面が三橋美智也というレコードを発売しようというものです。

三橋美智也の楽曲はこのとき、「君は海鳥渡り鳥」に決まっていました。しかし春日八郎のA面に関しては、専属作家の候補作がどれもいまひとつだったことから、お蔵入りになっていた楽曲が再検討されたのです。そして高野と船村コンビが掛川ディレクターに預けていた楽曲「泣けたっけ」が選ばれ、「別れの一本杉」というタイトルでレコーディングされました。

「別れの一本杉」
作詞 高野公男、作曲 船村徹
 
泣けた 泣けた
こらえきれずに 泣けたっけ
あの娘と別れた哀しさに
山のかけすも鳴いていた
一本杉の 石の地蔵さんのよ
村はずれ
 
遠い 遠い
想い出しても 遠い空
必ず東京へ ついたなら
便りおくれと 云った娘(ひと)
りんごのような 赤いほっぺたのよ
あの泪
 
呼んで 呼んで
そっと月夜にゃ 呼んでみた
嫁にもゆかずに この俺の
帰りひたすら 待っている
あの娘はいくつ とうに二十はよ
過ぎたろに

高野の書いた歌詞には、戦後復興の波に乗ることができず、都会の片隅や地方の町や村で寂しさを抱えて生きる人々の気持ちをとらえるものがありました。

年の暮れに発売されたレコードは大ヒットし、これを契機にして後に演歌と呼ばれるジャンルが確立されていきました。

「別れの一本杉」について、阿久悠はこう述べています。

 船村徹という作曲家の名前を知ったのは、昭和三十(一九五五)年の「別れの一本杉」である。「泣けた泣けたこらえきれずに泣けたっけ」というあれである。ぼくが大学生になった年である。昭和三十年頃は、ペレス・プラド楽団のマンボが流行ったり、ロックンロール第一号ともいわれるピル・ヘイリーと彼のコメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が暴力的に上陸して来たりで、ぼくもラジオから流れるヒットパレードに夢中になっていた。
 その中で、「泣けた泣けた」は、気持に反して妙に耳に残ったのである。
 それから約十五年後、ぼくは本格的に作詞家の活動を始めたのだが、その時テーマに置いたことは、美空ひばり、船村徹で確立している歌謡曲は書かないということであった。

(阿久悠『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』新潮社)

「泣けた泣けた」というフレーズが妙に耳に残ったというのは、心情的に嫌っているにも関わらず、どこかで惹かれるものがあったということです。そこには歌謡曲の特質である土着性、歌詞の持っている望郷の思いが深く関わっていたからでしょう。人の心に残った歌の記憶は、好きとか嫌いとかの感情をこえて、このようにして後世にまで受け継がれて、時にはその人の人生をゆっくりと変えていくことがあります。

記録的な大ヒットが生まれたことで、高野と船村のコンビに対する評価は上がりました。しかし当時の新人作家にとって、レコード会社専属への扉はそう簡単に開かれるものではありませんでした。「別れの一本杉」がどれだけ大ヒットしたとしても、印税が発生することはなかったのです。

革靴が2500円ぐらいだった時代に、作詞料も作曲料も各々1500円、編曲したら500円、レコーディングのときに楽団を指揮すると500円、それが全部だったそうです。

専属作家になれば月ごとに専属料を受け取れるばかりか、実績に応じて印税を払ってもらえるようにもなります。けれども狭き門をこじ開けて契約してもらうには、ヒットという実績だけではなく、会社に対する忠誠や従順さが求められていたのです。個性的で斬新な才能を発揮したにも関わらず、異端児と見なされていた船村徹と高野公男は、先輩の専属作家による中傷や誹謗などもあって、なかなかキングと専属契約を結べないままの状態に置かれ続けます。

次号掲載:9月8日(金)

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