沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
もっと詳しく

第18回 2017年11月4日掲載
第一部 歌謡曲の黄金時代を予告していた「ない・ソング」の登場

第十八章 アマチュアの精神とプロの仕事

縦書きで読む
「あの鐘を鳴らすのはあなた」の発表から30年後、阿久悠は著書でそこに描かれた「あなた」と「長い髪で、細いジーパンが似合って、好ましい」当時の象徴的な若者は明らかに違うと述べる。阿久悠研究を続けるなかで、その「象徴的な若者」像として浮かび上がってきたのは、ザ・フォーク・クルセダーズの北山修と加藤和彦の2人を重ね合わせたイメージだった。阿久悠にそこまで強く意識させたフォークルの存在とは果たして何だったのだろうか――?
時代にめぐり合ったことで開けたプロの道

北山修と加藤和彦について関心を持ったときのことを、阿久悠は著書『愛すべき名歌たち―私的歌謡曲史―』(岩波新書)のなかでこう記しています。

「帰って来たヨッパライ」は、深夜放送での衝撃的登場から二十日あまりのスピードで、メジャーのレコード会社から発売され、わずか一ヵ月で八十万枚を売る大ヒット曲となった。

この1カ月で80万枚という数字はたまたまでしょうが、後に阿久悠自身が経験した「白い蝶のサンバ」のトータル売り上げ枚数と同じです。そこから得られた作詞の印税について、阿久悠は17章でも記したように、「たかが一曲が稼ぎ出す金額としては、驚くべきものであった」と述べています。そして、「これを美味しいと思ってはいけない、大変な、重いことだと考えるべきだ」と気を引き締めたのです。

プロの作詞家として社会に与える影響力などにも思いを馳せて、責任の重さをしかと受けとめていたものと推測できます。したがって阿久悠のなかで、「帰って来たヨッパライ」をつくったアマチュア学生たちに支払われたと想像される印税について、当時から何か思うところがあったことは容易に想像できます。

そして年が明けてまもなくそのアマチュアの学生たちが、そのままプロとしてデビューすることになったという話が明らかになりました。それを耳にした音楽業界やマスコミで働くほとんどの人が、「芸能界はそんなに甘いところではない」という感想を持ったはずです。多くの常識ある大人たちにとって、アングラから出てきて“変な歌”で当たったフォークルは、アマチュアの学生によるコミックバンドのようにも見えたでしょう。

もともと学生時代に趣味でフォークソングを歌い始めたフォークルが、1967年の年末にプロとして活動する道を選んだのは、当時の大学をめぐる特殊な時代環境によるものでした。ほとんどバンド中心の青春を過ごしていた加藤和彦でさえも、その年の春からは先々のことを考えて就職活動を行い、卒業後の行く先にめどを立てていたことからもわかります。

フォークルを解散した後の11月に入って、「帰って来たヨッパライ」がラジオでヒットし始めたことは、彼らにしてみれば思ってもみないことでした。そのとき相方の北山修に、もう1年間だけ活動してみないかと誘われた経緯について、加藤和彦はこのように語っていました。

 ある日の朝、北山が枕元にいきなり立っていて僕はまだ寝ていて、それで起こされて「加藤、もう一年だけやろうよ」って言うんだ。よく聞いたらレコード会社の4、5社からオファーがあるという。大学も学生運動で封鎖されて、行かなくても単位は貰えるって言って、そのとき北山はもう親も説得してきたと思うんだけどね。
 まぁ、北山はみんなとまだやりたかったんだろうな、多分。
(中略)
 時代的には学生紛争の真っただなかで、僕も風潮からして北山のように1年の猶予はありかなと思った。そうは言っても就職先は決まっていたから、とにかく待ってもらえるように頼むしかなかったね。
 そのうち『ヨッパライ』がどんどん一人歩きしてしまって、迷っている時間もなかったんだよね。レコード会社も出すなら年内、僕らもそう思っていたからさ、すぐに平沼に代わる誰かを探さなくちゃいけなくてね。

(加藤和彦 [聞き手・構成]松木直也『加藤和彦 ラスト・メッセージ』文藝春秋)

それから急いでメンバーを探した加藤和彦は、同志社大学の学生だった端田宣彦を加えることに決めます。その一方で北山修は高石事務所に、マネージメントを正式に任せることにしました。

高石事務所を興した秦政則は、大阪大学時代に“うたごえ運動”に関わったことから、アート・プロモーションというイベント企画会社を設立し、プロモーターのようなことを始めていた人物です。アメリカで起きた反戦フォークソングの高まりが日本にも押し寄せて、第1回フォーク・フォーク・フォークコンサートを主催したのは1966年8月のことでした。そこで高石友也と出会ったことを機に彼のマネージメントを始めて、関西におけるフォーク・ムーブメントの要という立場になっていきます。フォークルと出会ったのも、そのコンサートです。

1967年9月に高石事務所を発足させた秦は、11月に北山修からマネージメントを頼まれて引き受けると、直後の12月には著作権管理のためにアート音楽出版を設立、音楽ビジネスにも乗り出していきました。そこからマネージメント業務を拡大し、岡林信康らのアーティストを擁したことで、東京にも事務所を構えることになります。それが関西フォークと呼ばれるムーブメントを巻き起こし、1969年に設立されるURC(アングラ・レコード・クラブ)につながっていくのです。

若者たちによるフォークソングの勃興と隆盛、学生運動によって大学が封鎖されていた状況、何よりも1960年代後半という熱気をはらんでいた時代とのめぐり合いによって、彼らはアマチュアからプロの道へと進むことになったと言えるでしょう。

歴史ある土地で育まれたパロディー精神

フォークルがその年の7月1日、ザ・ズートルビーという別名義を使って発売した「水虫の唄」は、アマチュアのフォークグループがつくったものを元曲としています。オリジナルは関西のフォーク仲間が歌っていた「君をいつまでも」、商業主義に走ってヒット曲を追求するあまり、少女ファンに向けて叙情的な歌謡曲風の作品が量産されたことへのパロディー・ソングでした。

フォークソングのムーブメントに注目していたレコード会社は、若者向けの新しいマーケットの広がりによってヒット曲が生まれるとみて、カレッジ・フォークというキャッチフレーズで、アマチュアの学生が歌うさわやかな青春歌謡的な作品を次々にレコード化していきました。社会的なリアリティーに根ざしたメッセージ・ソングが多かった関西フォークとは対照的に、カレッジ・フォークには時代性がなく、毒気を抜かれた楽曲が大半でした。

フォークルは社会的なメッセージを前面には出さなかったし、ノンポリティカルの立場にいました。しかし笑いやパロディーを通して、社会的な矛盾などに対してもアプローチしています。それがラジカルな表現にまで行き着いたことで、「帰って来たヨッパライ」は時代の圧迫感を解放しています。

単に「水虫の唄」って、『ヴァイタリス・フォーク・ヴィレッジ』で、変な歌だっていうんで。他人の歌だから、その名前で出すのもしゃくだし、でも面白いなと思うんで、ビートルズのことを逆さ言葉でズートルビー、全然語感が悪くて、あまり使ってなかったんだけど、勝手に自分らではビートルズのこと言ってた。だから、じゃ、それでいいか、みたいな。そういう根拠レス、極致。

(加藤和彦/前田よしたけ著 牧村憲一監修『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』スペースシャワーブックス)

この歌のイントロではベートーヴェンの交響曲第6番「田園」の第1楽章が格調高く奏でられ、歌い出しにはいかにもカレッジ・フォークの定番という歌詞が使われています。ところがサビの盛り上がりになると、唐突に「水虫」が登場して、しかもメロディーはメンデルスゾーンのピアノ曲「春の歌」と同じだったのです。素材の面白さにフォークル流のパロディーと遊びの精神が加わって、そこには皮肉や毒気も見え隠れしていました。


「水虫の唄」
作詞・作曲 山田進一
補作詞 足柄金太、補作曲 河田藤作

どんなにどんなに
はなれていても
僕は君を忘れはしない
夏になると思い出す
君と歩いたあの渚

せつなくうずく水虫は
君と僕との愛のしるし
どんなにどんなに
はなれていても
ぼくは君を忘れはしない

君のうつした水虫は
いまでも僕を悩ませる

せつなくうずく水虫は
君と僕との愛のしるし
どんなにどんなに
はなれていても
ぼくは君を忘れはしない


音楽評論家の小倉エージ氏によると、この曲の作詞・作曲は学生時代に同氏の友人だった、山田進一という人物だということです。補作詞として名前が出ている足柄金太は北山修、補作曲として記されている河田藤作は加藤和彦のペンネームでした。そして原曲とはタイトルと一部の歌詞、メロディーや構成がかなり異なっていると述べています。

原曲のタイトルは「水虫の唄」ではなく「君をいつまでも」。あのヒット曲「君といつまでも」の“と”を“を”に置き換えたものだ。そのタイトルからしてユーモア、というよりも関西人が“おちょくる”と表現するからかいのニュアンスが汲み取れるはずだ。

大人のミュージックカレンダー 1968年の本日、「水虫の唄」がリリースされた。執筆者:小倉エージ

アマチュア時代からのレパートリーだった「イムジン河」もそうでしたが、北山修と加藤和彦は自分たちが取り上げたいと思った楽曲について、オリジナルに自分たちなりの表現を加えています。「水虫の唄」について小倉エージ氏は、こんな結論を述べています。

北山修、加藤和彦は「君をいつまでも」を解体し、新たなオリジナル・ソングを誕生させた。
“と”を“を”に置き換えた思わせぶりなタイトルを「水虫の唄」と改めた。その代わりに原曲における歌詞、語りの部分でのリアルな表現は避け、いきなり忘れられないワケを明らかにせず、カレッジ・フォーク、ポップスのありきたりで凡庸な定番的な歌詞を加筆し、誰が耳にしても拒否反応を起こさず、また親しみを覚える歌詞に書き改めていた。万人に親しまれたクラシックのメロディーを取り入れ、シニカルでブラックなユーモアを発揮した北山修のせつなげな語りによるくすぐりを加味するなど、絶妙なパロディー・ソング、コミック・ソングへと変貌させた。

(同前)

「水虫の唄」はその後、『オールナイトニッポン』のDJとして人気があったカメこと亀渕昭信と、アンコーこと斉藤安弘によるデュエットのカメ&アンコーにカヴァーされました。ここでは歌うことにおいてアマチュアのアナウンサーが、遊びの精神ではあっても、一生懸命に歌っていますという素人っぽい雰囲気を打ち出して、1971年にリヴァイバル・ヒットしています。

和田アキ子を出迎えに行った上村一夫

1965年にザ・スパイダースを売り出した時、ホリプロの社長、堀威夫はなかなか売れなかったことから一発逆転を賭けて、アメリカでデビューさせようとしたことがあります。当時のアメリカでは日本がちょっとしたブームになっていたこともあり、その流れに乗ってヒットさせようという思惑でした。たとえヒットしなくてもアメリカでレコードを発売したと言えば、日本でのプロモーションにも利用できると踏んで、スパイダースを連れて渡米したのです。

その試みはうまくいきませんでしたが、持ち帰ったお土産の一つがアメリカで通用する女性歌手を、いつかデビューさせるというプランでした。

 アメリカでは見事に大失敗しましたが、でもそこで懲りなかったのが若気の至り(笑)。じゃあ、今度はグループじゃなくてソロで行こうと。ソロだと経費もかからず、安く済む。当時アメリカ人男性の願望として、日本人の妻を持って、手作りの中華料理を毎日食うとかいうのがあった。なぜ和食じゃなくて、中華なんだって感じですが(笑)。だから、そのアメリカ独身男性の夢を意識して、今度は日本女性をソロでデビューさせようと。それで日本に帰って来た。
 日本に帰ってしばらくすると、大阪支社長から電話が入ったんです。「面白い新人がいる。見に来てほしい」と。それで大阪の曽根崎のゴーゴー喫茶に行くと、大勢の客がダンスに酔いしれていた。でもその背の高い短髪の少女が歌い出すと、客は踊りをやめて聴き入った。馬力ある歌声に、僕の背筋もゾクゾクしましたね。これが和田アキ子との出会いです。
 この子を育てて、アメリカでソロデビューさせよう。そう思いました。アッコは柔道の経験もあったので、アメリカの男性にミステリアスに映るんじゃないか。そんな期待もあって、「君なら世界に通じる」と言ってスカウトした。でも周囲には反対意見も多かった。「大柄な女性はスターになれない」、そんなジンクスが当時あったんです。とはいえ、そんなことは気にせず、東京に連れて来て英会話学校に通わせて渡米の準備をした。

ニッポンの社長――株式会社ホリプロ 取締役ファウンダー 堀威夫

「水虫の唄」がラジオからよく流れていた頃、阿久悠はホリプロダクションが大きな期待をかける新人、和田アキ子のデビュー曲を書き上げています。最初にその新人に関する連絡が入ったときは、イラストレーターだった旧知の上村一夫と組んで始めた劇画のために、原作を書いていたところでした。

「和田アキ子という大型有望新人が今日大阪から上京します。これから出迎えに行くのですが、一緒に行ってくれませんか」と、ホリプロの人からいわれたのだが、ちょうどぼくは劇画の原作の締切りが迫っていて、断った。しかし、面白いもので、その原作の上がるのを待っていた劇画家の上村一夫が、「じゃあ、ぼく、代わりに行ってきますよ。その間にストーリーが出来上がるでしょう」と気軽に引き受けて出て行き、帰ってきて、「美人女優有馬稲子とそっくりでした」と、ぼくに報告した。
 和田アキ子のデビュー前の、彼女と無関係のエピソードである。今から考えると妙なことだらけで、新人歌手の出迎えに作詞家に行ってくれというのもないことだし、その代理で劇画家が行くのも意味がない。そのホリプロの人が、よほど和田アキ子の大物ぶりを聞かされていて、怖がっていたということであろう。

(阿久悠『なぜか売れなかったが愛しい歌』河出書房新社)

これはおそらく堀威夫のはからいによるものだったと考えられます。和田アキ子にかける期待の大きさから、東京に来たら真っ先に阿久悠に会わせたいと思っていたに違いありません。そこで阿久悠がどんな印象を持ち、どんな未来をイメージするのか、そのことに堀威夫は期待していたのでしょう。阿久悠が企画書を書いて番組が始まった日本テレビの『世界へ飛び出せ!ニューエレキサウンド』以来、堀威夫は自分たちが話した内容を企画書という形にしてまとめる能力を高く評価していました。

したがって堀威夫は女性歌手をアメリカでデビューさせる場合は、もう一度阿久悠の力を借りて夢を共有し、成功を分かち合いたいと思っていたのではないかと考えられます。ところが和田アキ子が上京した時、堀はヘルニアの手術をして入院していたのです。自分で出迎えに行くことが叶わないことから、社員を通して阿久悠にも出迎えてほしいと声をかけたのでしょう。その後、堀威夫はビクターが新しく社内に発足させる事業部RCAから、和田アキ子を第1号歌手としてデビューさせることにします。そこには世界進出という、ひそかな野心があったのです。

RCA邦楽専属歌手陣の発表が行われたのは1968年9月16日、東京・虎の門のホテルオークラでパーティーが開かれて、和田アキ子を始めとする新人歌手やバンドが、歌と演奏を披露しています。RCAレーベルの第1回発売日が10月25日と決まったことも含めて、当時の新聞ではこのように報道されました。

RCA専属歌手陣を発表 ビクター
闘志満々の和田アキ子
八大、平岡らの“エース・セブン”も

 まず邦楽第一作として“エース・セブン”と名づけたバンドが登場するが、このメンバーはピアノ・中村八大、バイブ・平岡精二、ベース・鈴木勲など、日本のトップクラスのジャズメン七人で編成されており、第一回発売は「ゆうべの秘密」「星を見ないで」「恋のシャロック」などヒット曲十二曲を収めた“女ごころ”をレコーディングしている。
 また新人歌手群は、専属第一号の和田アキ子のほか、新藤恵美、四人編成の米人グループ・サウンズ“ザ・リード”、五人編成の日本人グループ・サウンズ“ザ・ブルーインパルス”で、この日それぞれのデビュー曲を披露した。
 この新人たちの中では、日本テレビ“11PM”に出演して黒人歌手のようなボリュームある歌いっぷりで話題を呼んでいるリズム・アンド・ブルース歌手の和田アキ子が当面の本命で「日本のリズム・アンド・ブルースはわたしがきり開いてゆきたいと思いますので、よろしく」と、大変な闘志を見せており、デビュー曲は「星空の孤独」(阿久悠 作詞、ロビー和田 作曲、村井邦彦 編曲)である。
(中略)
 日本ビクターと米・RCAは六月二十七日に新契約を結び、ビクター内にRCAレコード事業本部を設立、今まで洋楽部で製作していた洋楽レコードをRCAレーベルで発売することになったもので、同レーベルで吹き込まれる日本人歌手、作曲家の作品は、RCA契約会社により世界市場に進出することになっている。

(サンケイスポーツ(東京)昭和43.9.17)

堀威夫が描いたひそかな夢の実現に向けて、RCAの発足時から新人の和田アキ子には大きな期待がかけられていたことがわかります。そういう流れがつかめてくると、デビュー曲「星空の孤独」がヒットせずに終わったにもかかわらず、別のソングライターの作品だった「どしゃぶりの雨の中で」が成功した直後に、ふたたび阿久悠が作詞を担当したことにも合点がいきます。

また“同レーベルで吹き込まれる日本人歌手、作曲家の作品は、RCA契約会社により世界市場に進出する”という文章からは、当時の音楽業界人たちが、日本の音楽で世界を目指していた意欲もうかがい知れます。RCAからは“エース・セブン”と名づけられたスーパーグループのアルバムが邦楽第1作として発売になり、そこでは「上を向いて歩こう」の世界的なヒットで知られる作曲家、中村八大が現役のミュージシャンとして制作に参加していたのです。しかも全曲のアレンジを行っていたのですから、本気の度合いが伝わってきます。

芸能界には全く興味がなかった加藤和彦

フォークルがレパートリーにしていたフォークソングは、広い意味での“民衆の歌”でした。彼らは愛の歌はもちろんですが、労働の歌も、死を悼む歌も、反戦の歌も歌っています。世界中の“民衆の歌”を集めて、それを広めていこうという発想のもとに、音楽を聴衆と一緒になって楽しもうとしていたのです。したがって戦争によって分断された朝鮮半島の哀しみを綴った「イムジン河」、富山県の古い民謡を編曲した「コキリコの唄」、メキシコの結婚式の歌「ラ・バンバ」、キューバの米軍基地のあるグァンタナモを題材にした「グァンタナメラ」などを、〈みんなの音楽〉として歌っていました。NHKテレビの人形劇からは「ひょっこりひょうたん島」、TVアニメの「ゲゲゲの鬼太郎」なども取り入れていきます。

アマチュアだった彼らにタブーは存在していなかったようです。北山修は〈みんなの音楽〉というキーワードを提示し、アマチュア的な考え方の根拠とそこに至った背景を、以下のように説明しています。

 誰もが音楽に参加できるというやり方が、〈みんなの音楽〉という感覚をつくり出していったのだと思います。プレイヤーだけが演奏して歌うのではなく、誰もが演奏に参加して歌える。ビートルズの歌は確かにビートルズがつくったものですが、でも、当時、世界中の若者が歌っていた。後に、私がヨーロッパを旅行した際なども、街のあちこちで若者がビートルズやフォークソングを歌っていたし、日本人である私もそこに参加することができた。
(中略)
 若者が集まって集団ができれば、そこに、価値観の共有された〈みんな〉という感覚が生まれる。しかも、その〈みんな〉が歌うのは、平和や愛がほとんどでした。愛こそはすべて、戦争なんかするぐらいなら歌を歌っていたほうがましだ――。歌を通して、〈みんな〉の間に、こうしたリベラルの思想も広がっていったのだと思います。

(きたやまおさむ『コブのない駱駝――きたやまおさむ「心」の軌跡』岩波書店)

既成の価値観にとらわれることなく、自分が思っていることや試したいことを、自分のやり方で音楽にすることによって、自分のものでありながら〈みんな〉のものになっていく。そういういう感覚の中で、北山修も加藤和彦も、音楽活動にのめり込んでいったのです。

彼らは行き先を見失っている迷い子のような、自分たちと同じ世代の若者に向けて、〈みんなの歌〉を蔓延はびこらせたいという思いで、活発に運動を展開していきました。そのときにお手本にしたのが、アメリカのフォークソングです。

アメリカでは自分たちの時代の新しい民衆の歌を作ろうという発想から、コンテンポラリー・フォークという考え方が生まれました。それが小さいながらも確かなうねりとなったのは1950年代のことです。そして「我が祖国」などで知られるウディ・ガスリーや、「花はどこへ行った」で知られるピート・シーガーが活躍しました。それが1960年代に入るとボブ・ディランやピーター・ポール&マリーへと引き継がれて、彼らを経由して全世界にまで広まっていったのです。

そうした音楽や精神が京都にまで伝わってきたことで、若者が伸び伸びと活躍できる土壌が準備されていきました。大学生を大切にする伝統がある古都から、新しい時代のページをめくったフォークルが登場したのも、ある意味では必然だったと言えるのかもしれません。

ところで彼らは、アマチュア時代から地元の関西では、“笑いのフォークル”と異名を持つようにもなっていました。チューニングなどで時間が必要になったとき、間を持たせるためにトークで観客とコミュニケーションをとるのは、当時から北山修の役割だったそうです。当時のフォークルを加藤和彦が端的に、「コミカルでシリアス」と表現しています。

 ステージではアメリカン・フォークを一通りやって、『ひょっこりひょうたん島』の主題歌を唄ったり、チューニングのあいだの北山のMCも、かなりユニークだったから、コミカルでシリアス、こんなところがフォークルの特徴だったんじゃないかな。
 東京のフォーク・フェスティバルに関西から唯一アマチュアで呼ばれたことがあって、このときは高石友也、森山良子、マイク真木との共演で、乗り込んで行ったら、観客は大学でいうと成城とかお坊ちゃんお嬢ちゃん系が多くて、これが意外と受けたんだよね。
 その頃は、グループ・サウンズ系に走る奴も多かったのに、『イムジン河』になるとみんな静かに聴いていてくれて、これは僕らにとってはうれしいことだったね。

(加藤和彦 [聞き手・構成]松木直也『加藤和彦 ラスト・メッセージ』文藝春秋)

グループ・サウンズについて加藤和彦は、まったく関心がなかったと述べています。そもそも彼らは芸能界に対して、なんの興味も持っていなかったのです。

レコードは買わないし、テレビなんかもあまり見なかったからほとんど興味なかったな。歌謡曲だと思っていたからね。スパイダースはブリティッシュ・ロックをベースにしていて、コミカルな部分があって個人的には許せたかな。あとは、タイガースが京都の連中だったから、まわりでいろいろと騒ぐ奴はいたけど、特に何かというのはなかった。

(同前)

彼らには芸能界でよくいわれるプロとしての意識はなかったし、そのほうがいいと自分たちで判断していたのです。「プロとしてザ・フォーク・クルセダーズをやっていた時もアマチュア意識しかなかったんですか?」という質問に、加藤和彦は明快にこう答えていました。

 全然ない、レコード売れた時も、ない。一切、プロになろうとは思ってなかった。
 プロになろうと、完全に自覚を持ってこの道でやると思ったのはだいぶ後。フォークル解散して、一人でこちょこちょ歌ってて、アメリカに行ったりして、こんなに髪が長い頃も、本気でやろうとは決めてなくて、単に面白いからとか、ライブも適当に出りゃお金も入るし、みたいないい加減な動機でやってた。

(同前)

「帰って来たヨッパライ」の運命

阿久悠はテレビの世界の片隅で裏方として働きながら、人間関係のつながりから自然に芸能界と接点を持ち、仕事の流れで作詞を始めています。そして放送作家として売れっ子になっていくなかで、仕事として注文が来たことによって道が開けていきました。これは放送作家の先輩だった永六輔が、作曲家の中村八大に頼まれて「黒い花びら」を書いたことによって、はからずも作詞の才能を見出されたのと似ています。

彼らが作詞家として活動を始めたのは、クライアントに依頼されたからです。だから依頼を引き受けた時点で、否が応でも最初からプロとしての仕事になりました。この点が北山修と加藤和彦に代表されるシンガー・ソングライター系の作詞家や作曲家と、大きく違っているところだと言えます。ただし、同じプロの仕事でも阿久悠と永六輔の間には、決定的な隔たりがありました。

阿久悠のクライアントはレコード会社や芸能プロダクションで、それはヒットを目的にした商品が前提です。しかし永六輔の依頼主は中村八大といずみたくという個人で、価値観や考え方を共有できる音楽家たちでした。そして依頼された仕事の内容も、彼らの音楽を表現するために必要な作詞だったのです。それらはリサイタルやミュージカルといったステージ、あるいは映画やテレビで発表されていきました。そのなかで評判のよかった作品が、結果的にレコードという商品になっていったのです。

そう考えると永六輔の立ち位置というものが、実は北山修や加藤和彦に通じていることがわかってきます。1966年前後から作詞の仕事を少なくしようと考え始めた永六輔が、1969年になって作詞を辞めたのにはいくつかの理由が重なっていました。そのなかでも決定打となったのは、フォークルが登場したことであり、高石友也や岡林信康のように社会に向けたメッセージを込めて、自作自演する歌手が活躍し始めたことだったのです。

日本のレコード会社の考え方にそぐわず、ほかにもいろいろな理由があって、僕は作詞を辞めました。服部良一さんが「辞めるなよ」って言ってくれて、小室等やきたやまおさむ、高石ともやのようなフォークの連中も引きとめてくれた。小室には「自分たちの言葉で歌うときに、永さんがやったようにやろうと思って後ろを追いかけてきた。だから辞められちゃ困る。ずっと前を歩いていてほしい」って言われました。

(永六輔『大晩年 老いも病いも笑い飛ばす!』中央公論新社)

若者の自由な自己表現としての歌や音楽が、大衆の歌の正しいあり方なのではないか……。そう考えた永六輔は作詞家という仕事を辞めて、彼らを見守る立場に身を置くことにしました。

 僕自身が作詞家としてプロになりきれなかったということかもしれません。作詞家になりきり歌い手に詞を提供していく、という道もあったでしょう。けれども、僕にはできませんでした。
 プロとアマチュアの狭間にあるような怪しい場所から、いつも新しいものが生まれてきます。僕にとっての作詞は、そうした場所に立つことだったのです。

(永六輔『永六輔の芸人と遊ぶ』サライBOOKS 小学館)

フォークルは「帰って来たヨッパライ」がヒットした後も、気持ちのなかにはアマチュアの精神を持ち続けていました。彼らを突き動かしていたのは、パロディーという方法もを含めて、それまでにないオリジナルな表現をやってみたいという、純粋な音楽への思いです。そしてそんな思いに共感してくれる人たちとともに、〈みんなの音楽〉として共有していくことを目的にしていたのです。

そうした〈みんなの音楽〉がレコードに残されたのが、7月に開催された『当世今様民謡大温習会(はれんちりさいたる)』と題されたコンサートの実況録音盤です。それを聴くと拍子木の音に合わせて幕があき、金屏風の前に座ったカミシモ姿のフォークルの3人による歌舞伎を思わせる「フォークル・ハレンチ口上」で始まり、次に「フォークル節」が歌われて本編に入っていきます。

■ザ・フォーク・クルセダーズ『当世今様民謡大温習会(はれんちりさいたる)』


何が何して 何とやら
浪曲のようで 浪曲でない
お経のようで お経でない
あちらで云うなら モリタート
名づけて云えば フォークル節
アアアアン
まずは本日おなじみの男
バンバの忠太郎


そこから長谷川伸の大衆演劇を模したコントや、漫画トリオを元ネタにした素人漫才など、随所に笑いを挟んで観客を楽しませながら、フランスの反戦歌「大統領様」やジャックスの「からっぽの世界」、寺山修司が書いた「戦争は知らない」など、シリアスで重い作品が歌われていきます。

さらにはスライドなどのビジュアル表現、効果音やナレーションも組み合わせて、歌や音楽を通して観客に届けたい思いを自分たちも楽しみながら、縦横無尽に表現している様子が伝わってきます。まさに加藤和彦が端的に言った「コミカルでシリアス」なコンサート、これぞフォークルともいえる独自の音楽ワールドです。

そして第1部が終わると、休憩をはさんだ第2部はゲストに迎えたザ・ズートルビーによるライブという趣向で、手品コーナーなども加えて笑いに包まれる中、最後は「悲しくてやりきれない」で終演となっています。エンターテインメントとしてのツボをきちんと抑えたステージは、無駄なくきっちり構成されていて、明らかにプロの手が加わった画期的な内容でした。

そこでは一流の構成作家で舞台監督でもあった永六輔が、裏方として台本と「フォークル節」の作詞を手がけていたのです。レコードに付属していた構成と進行が書かれた台本からは、おそらくは舞台制作に至るまで関与していたであろうと想像できます。

フォークルはビートルズに代表される同時代の海外アーティストのように、遊びごころや実験精神を失わず、自由きままにクリエイティビティーを追求していたのです。したがって古い体質をもつ芸能界にはなじめず、自分たちの思うようにならないことに突き当たることも多々ありました。わずか1年足らずでプロとしての活動を終えたフォークルを総括して、北山修は「帰って来たヨッパライ」の運命と同じだったと記しています。

 徹底的に遊んでいたら、事故で天国に呼ばれ、そこに迷い込んでいった。そこでも、楽しく、はしゃごうと思っていたら、どうも天国はそんなところではなかった。「静かにしろ!」と叱られるし、「もっと別の曲をもって来い」と要求される。
 下界からは、「おまえらだけ、いい思いしやがって」「裏切り者」などの声も聞こえてくる。
 そして、最終的には、天国から追放されて、現実に追い出されていく。
 出る杭は打たれるし、ヨッパライは神様の怒りを買う。まさに、そんな歌詞の内容を、身をもって体験したようなものでした。

(きたやまおさむ『コブのない駱駝――きたやまおさむ「心」の軌跡』岩波書店)

“イヤになったらいつでも辞めてやる”、それが2人の合言葉だったそうです。筆者は2017年9月29日、きたやまおさむ氏に直接お目にかかって、この合言葉を教えていただきました。

次号掲載:11月10日(金)

ご意見・ご感想を
お待ちしております。
お名前

メールアドレス

本文