「阿久悠と歌謡曲の時代」第三部は、6月29日に掲載した第46回をもって終了となりました。
 ここに至るまでに綴られた文字量は約50万字という膨大なものになりました。佐藤剛さんの「阿久悠を通して、歌謡曲の正体に迫りたい」という気持ちをそのままに、みなさまへお届けしました。
 
 今後の連載ですが、しばらく執筆期間をいただき、11月頃に第4部の開始を予定しています。これまで掲載したバックナンバーについても、再び皆様にお読みいただけるよう準備しています。どうぞご期待ください。
 また、対談記事をはじめ、インタビューやイベントレポートも随時掲載していきます。
 
 今後もRomancer Cafeをよろしくお願いいたします。

 沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第46回 2018年6月29日掲載
第三部 新たな風を吹かせた作詞家たち

第十七章 歌作りの基本にあった「七五調からの解放」

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阿久悠が作詞の仕事に本格的に取り組み始めて以来、つねに目標にしていたのは七五調という、流行歌の根幹を支配する日本語の基本リズムからの解放だった。そしてもう一つ、見えるようで見えない時代の壁を、なんとかして「叩く歌」を書きたいと意識していた——。

 この第46回をもって、「阿久悠と歌謡曲の時代」第三部は終了となります。

 ここに至るまでに綴られた文字量は約50万字という膨大なものになりました。佐藤剛さんの「阿久悠を通して、歌謡曲の正体に迫りたい」という気持ちをそのままに、みなさまへお届けしました。

 今後の連載ですが、しばらく執筆期間をいただき、9月後半頃に第4部の開始を予定しています。これまで掲載したバックナンバーについても、再び皆様にお読みいただけるよう準備しています。楽しみにお待ちください。

 また、星屑スキャットなどで活躍中のギャランティーク和恵さんと佐藤剛さんによる歌謡曲をテーマにした対談を近日掲載するほか、インタビュー記事やイベントレポートを随時掲載していきます。

 今後もRomancer Cafeをよろしくお願いいたします。

マンボとロックンロールの体験

ラジオや映画で子供の頃から日本の流行歌に親しんできた阿久悠にとって、淡路島から上京して東京に住むようになった大学時代は、積極的に音楽を吸収していった時期に当たります。そこで最初に体験したのがマンボ・ブームであり、衝撃を受けたのがロックンロールという「叩く」音楽の体験でした。

美空ひばりの「お祭りマンボ」がヒットしたのは1952(昭和27)年のことで、まだブームに火がつくよりずっと前でした。ダンス音楽としてのマンボはその頃から日本に入っていますが、都会の新しい風俗として大流行したのは1955年から56年にかけてのことです。

 昭和三十年から三十一年へかけては、音楽が極度に風俗化した時代で、ぼくもそれにすっかり染まった。まず、マンボである。映画「海底の黄金」に使われて大ヒットしたラテンのリズムで、その生みの親ともいうべきペレス・プラドとその楽団の来日で、ブームに火がつく。
 風俗化というのは、このあたりから始まったことで、マンボスタイルというのが流行り、マンボ族と呼ばれるようになる。もも引きのような細身の黒いスラックスに、バンドマン型の大きなジャケット、組み合わせはアロハシャツ、そして、ヘアスタイルは、グリースで固めたリーゼントである。

(阿久悠『愛すべき名歌たち―私的歌謡曲史―』岩波新書)

そうした風俗が青少年に悪影響を与えることを考慮して、映画興行の世界では映倫が1955年の春から、18歳未満の観覧を禁じる「成人向」映画の指定に踏み切りました。しかし8月下旬から一般公開されたアメリカ映画『暴力教室』について、映倫は指定しなかったにもかかわらず、文部省が9月13日に各地の教育委員会を通して、青少年に見せないようにと通達を出して論議が巻き起こります。

そうした騒ぎの中で『暴力教室』を見た阿久悠は、冒頭で流れるビル・ヘイリーと彼のコメッツによる「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を聴いて、腰が溶けるような衝撃を受けたと言います。なぜならば生まれて初めて、「叩く」という種類の音楽に出会ったからでした。

 それまで、音楽とか歌とかは流れるようなものだと思っていたのが、叩くという種類のものがあることを知った。歌の中身は大したことはない。
 〽今夜はみんなで 時計のまわりで 踊って明かそうよ……
 という程度のことである。しかし、若年寄の粋人気取りをひっぱたく効果は十分にあった。ロックンロールの第一号である。
 これがあったから、エルビス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」の登場は、すんなり受け入れることが出来た。歌には、愛されたり、好まれたりする他に、物議をかもす要素があることを知る。

(同前)

ここで体験した「叩く」という種類の歌や音楽について、阿久悠は流行であると同時に若者の主張であり、抵抗の姿勢でもあったと肯定的に受けとめています。そして作詞の仕事に関わり始めた頃から、そのことを強く意識するようになるのです。

 僕は「心に滲みる歌」ではなく、「叩く歌」を意図することが結構あります。そう思った背景には、ビル・ヘイリーやエルヴィス・プレスリーなどの歌を聞いてショックを感じた経験もあるんだと思う。歌のタッチではなく、存在のしかたです。
 彼らが登場するまで、世の中にうまく受け入れられる歌が一流で、よりよく受けられたものが大ヒット曲だったと思うんです。ところが、顰蹙ひんしゅくをかいながらもひかれていってしまうものも歌のなかにあるんだと思わされました。少なくともそれまでの常識とは違うという形で出てきたのは、ものすごい刺激だったですね。

(阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波現代文庫)

創作と戦略を考えるのが常だった阿久悠は、どうすればムーブメントを起こせるのか、時代を反映させて話題にすることが可能かに関心を抱いていました。そのためには「叩く歌」が有効だとみて、しばしばそれに挑戦していったのです。

当然ながらそこには音楽表現が不可欠ですから、「白い蝶のサンバ」や「どうにもとまらない」がそうであったように、打楽器を効果的に使うサウンド、すなわち「叩く」音楽とも結び付くことになります。

1930年代にキューバで流行していたルンバにジャズが結び付いたマンボはコンガ、ボンゴ、ティンバレス、クラベスといったパーカッションが多用されるだけでなく、ホーンセクションもリズム楽器的な役割を担うことで、全体がパーカッシブなアンサンブルによって、聴き手を身体ごと揺さぶる音楽です。だからラテン音楽に不可欠な女性の情熱的な踊りもまた、エキゾティックかつエロティックな音楽とともに、「白い蝶のサンバ」や「どうにもとまらない」には取り入れられています。

阿久悠はおそらく無意識のうちに日本語が持っているリズムと、ロックンロールの8ビートや、エレキ・ブーム以降のサウンドとが結合したところに、それまでにない歌が生まれると感じていたのでしょう。だから時代を「叩く歌」について気にかけながら、時代が求めているものは何かと冷静に観察していたのだと思われます。

1967年11月5日に発売された作詞家としてのデビュー作「朝まで待てない」は、「〽今すぐ会いたい」や「〽朝まで待てない」という情動をロックの8ビートに乗せることで、時代の切迫感を感じさせることができました。そのことによって一部の人たちからとはいえ、注目を集めたのです。

その中にはわずか1カ月前に作曲家としてのデビュー作、泉アキの「恋はハートで」を出したばかりの三木たかしもいたと思われます。それから1年後、二人が最初にコンビを組んで作った「ヨコハマ・ジャン」(歌 桜中真佐子)は、明らかに「叩く歌」を意識したものでした。


「ヨコハマ・ジャン」
作詞 阿久悠/作曲 三木たかし

ジャーン ジャーン

愛してるジャン
泣かせるジャン
さよならするジャン
ジャン ジャン ジャン ジャン
誰が言ったか 親不孝広場
わかっちゃいない 知りゃしない
ハマの夜風が ちょっとだけ
俺に似合って いるだけさ

愛してるジャン
泣かせるジャン
さよならするジャン
ジャン ジャン ジャン ジャン
今日も来たのさ 親不孝広場
可愛いいあの娘の 名も知らぬ
それでいいのさ ちょっとだけ
気どってみたい エトランゼ

ジャーン

愛してるジャン
泣かせるジャン
さよならするジャン
ジャン ジャン ジャン ジャン
会って別れて 親不孝広場
あしたはあした きょうはきょう
妙な未練は ちょっとだけ
ハマの仲間に 気がひける

ジャーン


演歌における「叩く歌」の系譜

世間で話題になれば売れるということを意識していた阿久悠が、最初に放ったヒット曲は「白い蝶のサンバ」です。ロカビリー・ブームの中でスターになった森山加代子のカムバック作ですから、「しみる歌」よりも「叩く歌」のほうがいいと思ったのは当然でしょう。もちろんブランクを感じさせないためには、たたみかけるような爆発力が必要だという、戦略的な判断もあったはずです。

それがまんまと功を奏して、早口言葉のように歌われる歌詞が、阿久悠に初めての大ヒットをもたらしました。音楽面で見れば「白い蝶のサンバ」は本格的なサンバではなく、リズム歌謡といった程度のものですが、川口真がアレンジした2小節に及ぶドラムのフィルから始まるイントロは、まさに「叩く歌」にふさわしかったのです。

しかもサイケデリックなポップアートをイメージして書いた歌詞は、流行歌や歌謡曲の本流だった七五調とはまったく異なっていました。阿久悠はこの時に曲が先にあったことから、音楽のリズムに言葉をのせることで、それを言葉自体のリズムに転化させようと試みています。ここで重要だったのは、メロディーに言葉をのせるのではないというところです。

ことわっておくが、今いったことは、音楽の持っているリズム体にことばをのせることであって、メロディにことばをのせる“ハメコミ”とはまったく違うことをいっているのである。
 ちなみに、ぼくの書いた『白い蝶のサンバ』を見てもらえれば、七・五のリズムとまったく異なるリズムを感じてもらえると思う。

 あなたに 抱かれて 私は 蝶になる……四四四五
 あなたの胸 あやしい くもの糸……六四五

 四四四五、六四五である。もう少しまとめてみても、八九六九である。七・五の影も見えなくなってきている。
 それと同時に、生活のリズム感も、七・五のリズム感から解放されてきているのだ。いつまでも、七・五の因襲にしばられていることはないと思う。

(同前)

「白い蝶のサンバ」は歌詞そのものも話題になり、マスコミでは「セックスの歌ではないか」「失神ソング」などと、面白おかしく取り上げられて眉をひそめる人もいました。「叩く歌」としては大成功です。

阿久悠は続いて殺人というタブーを扱った問題作「ざんげの値打ちもない」を発表、特異な作詞家として世間的に知られていくようになります。これはあえて七五調の定型のなかで、誰も書いたことがない内容に挑戦した作品でした。

また60行を超える長い歌詞が、びっくり箱のように展開していく常識破りの「ピンポンパン体操」は、テレビの幼児向け番組の挿入歌だったにもかかわらず、大人たちの間にまで広がってヒットしました。それらは社会や時代を「叩く歌」だったからこそ、波及効果を呼び起こして社会現象になったのです。

こうして阿久悠は自らのテーマを踏まえながら、演歌の世界にも慎重に足を踏み入れていきます。その時に拠り所としていたのは、演歌の分野であっても、自分には「叩く歌」が書けるという冷静な分析だったのではないでしょうか。

圧倒的な主流だった七五調という壁を破る目的があったからこそ、演歌という限られた世界において、阿久悠はもう一度七五調の価値を高める努力をしようと考えたのです。

 ぼくは、何年か前、演歌全盛の頃、ポップスの作詞で、大奮闘していた。そして、今度ポップス大全盛の中で、なぜか、演歌に取り組んでいるのである。もちろん、本来のポップス系のものは数多く書いているが、今ほど、演歌が集中しているのも、作詞家になって初めてのことである。

(同前)

ジャズ喫茶に集まってきた若者たちの間で、自然発生的に盛り上がっていたロカビリーでは当初、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」や「監獄ロック」などのロックンロールが、英語のままで歌われていました。

しかし10代のファンたちはしだいに日本語の歌詞を求めるようになり、1958年の春にポール・アンカの「ダイアナ」が、山下敬二郎や平尾昌晃にカヴァーされて、異なる日本語詞で歌われてヒットしたのです。ちなみに山下敬二郎の「ダイアナ」は中村八大の編曲で、演奏したのもジャズの一流プレーヤーたちでした。

■山下敬二郎「ダイアナ」

阿久悠にとって都会に出てきて最初に出会った流行が、マンボやロックンロールだったという音楽体験は、ことのほか意味が大きかったと言います。

 僕よりも二、三歳上の人たちと話すと、ロックンロールの登場をそれほど大きな転換期だとは解釈していない人が多いようだ。僕自身、ロックンロールが流行ったからといって、決して演奏する側に行こうとは思わなかったが、それでも出会いの衝撃がその後の道に少なからぬ影響を与えたことは確かだった。毎年毎年何かが起こる。その何かを、吹き抜ける風と受けとめるか、突き刺さるナイフと感じるか、それは世代の感性なのだ。

(阿久悠『「企み」の仕事術』KKロングセラーズ)

こうした流れの中から日本人が作ったオリジナルによる最初の大ヒット曲、中村八大の作・編曲・プロデュースによる「黒い花びら」が登場するのは1959年の夏のことです。その時に阿久悠は社会人になっていましたが、「黒い花びら」を聴くと歌の感性が身近に感じられたので、漠然とではあっても歌詞を書くことをイメージしたと述べています。その意味で「黒い花びら」は阿久悠にとって、作詞家という仕事の原点にある楽曲だと言えるでしょう。

阿久 僕は「黒い花びら」が印象深かった。大きな感銘を受けたというのとはちょっと違って、あの歌の感性がひどく身近に感じられて、ああこれなら俺も歌が書けるかもしれない、と思ったから。

(久世光彦『歌が街を照らした時代』幻戯書房)

日本の歌謡界に新時代を切り拓く役割を果たした「黒い花びら」は、三連符のロッカバラードであることが、中村八大のアレンジによって前面に打ち出された作品です。しかも少人数のコンボスタイルであるがゆえに、器楽演奏には勢いとパワーがみなぎっていました。さらには黒人霊歌にも通じるコーラスを取り入れることで、それまでに聴いたことがない衝撃的な印象を与えたのです。そのことが当時の新聞に載っていた音楽記者の、こんなコメントからうかがい知れます。

「この曲は永六輔の詞に中村八大が作曲したもので、これまでの歌謡曲のカラを完全に破ったものだ。いままでディック・ミネ、灰田勝彦、フランク永井といった人たちが出て、それなりにヒットを飛ばし、歌謡史に足跡を残しているが、水原弘の歌は流行歌の型を破ったという点では群を抜いた内容を持っている。」

三連符による洋風のリズムに乗せた歌唱法は、戦前からのジャズでも1939年の「上海ブルース」(ディック・ミネ)などに見られました。戦後になってすぐの時期には服部良一が作曲してハワイ出身の灰田勝彦が歌った「東京の屋根の下」、ディック・ミネの「夜霧のブルース」などがヒットしています。

また吉田正が作曲して門下のジャズ歌手が歌った都会派歌謡の「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)や、「誰よりも君を愛す」(和田弘とマヒナスターズ、松尾和子)、俳優の鶴田浩二による「赤と黒のブルース」も、三連符を使った8分の12拍子の曲です。

■鶴田浩二「赤と黒のブルース」

そこに登場したのが「黒い花びら」だったわけですが、こちらはロックンロールと結び付いた分だけ、器楽演奏において「叩く」というニュアンスが強く出ることになりました。三連符を叩く中村八大のピアノを基調にした高い演奏力の音楽は、当時のリスナーに鮮烈な印象を与えたのです。

圧倒的な存在感を放つテナーサックスのソロを間奏でプレイしたのは、かつて伝説のスーパーグループといわれたビッグフォーの松本英彦です。その間奏におけるドラムの音量もまた、当時としてはケタ外れの大きさでした。これもビッグフォーのメンバーだったドラマー、ジョージ川口だったのではないかといわれています。

音楽教育の専門家でもあった園部三郎が、「黒い花びら」の衝撃をこのように記しています。

曲はイ調短音階で伴奏部の感覚をもふくめて、従来の日本の流行歌調とは全くちがう。むしろフランス・シャンソンの影響を感じるもので、一般大衆の歌唱水準をはるかにこえている。「黒い花びら」という題名が、かつて流行したシャンソン「暗い日曜日」の「暗い」につうじて、時代の暗さとそこにみなぎる虚無感を象徴しているとも思えるが、楽曲のあたえる感覚も、いわゆる流行歌謡とちがった頽廃さがある。それが、うたう歌としてよりも、聞く歌として流行の原因になったのだろうが、その愛好者層も実際には都会のインテリ層であり、また、マンボ、ロカビリーに熱狂していた青年層でもあったことも、この歌が、かなり時代を反映したことを証明するといえるだろう。

(園部三郎『日本民衆歌謡史考』朝日新聞社)

三連符のロッカバラードをベースにした楽曲は、その後も1963年の「見上げてごらん夜の星を」(坂本九)、64年の「東京ブルース」(西田佐知子)、「ウナ・セラ・ディ東京」(ザ・ピーナッツ)、「十七歳のこの胸に」(西郷輝彦)、「夜明けのうた」(岸洋子)、65年の「女の意地」(西田佐知子)、66年の「君といつまでも」(加山雄三)、「骨まで愛して」(城卓矢)、67年「君こそわが命」(水原弘)、「夜霧よ今夜も有難う」(石原裕次郎)と、主にポップス系の歌手たちに歌い継がれていきました。

ところがその一方で1965年から66年にかけて、夜の巷で歌い継がれてきた詠み人知らずの「東京流れ者」や「夢は夜ひらく」が、各社競作としてレコード化されたことで、新しいタイプの演歌としてヒットし始めたのです。それらを広めていったのが、実は東京のロカビリー・シーンにいた若者たちであり、そのなかから曽根幸明や中村泰士が作者として発見されていきます。

それらの歌の出自を調べてみると、三連符のロッカバラードが若者たちの鼻歌になり、口伝で替え歌が広まっていたことが明らかになってきました。その後もこの系譜からは「柳ヶ瀬ブルース」(美川憲一)、「恍惚のブルース」「長崎ブルース」(青江三奈)、「女のためいき」「港町ブルース」(森進一)、「新宿ブルース」(扇ひろ子)と、日本語の七五調とも結び付きながら広まっていったのです。

そして1969年に入ると「長崎は今日も雨だった」で内山田洋とクール・ファイブ、「新宿の女」で藤圭子が登場し、70年に入ると「女のブルース」に続いて「夢は夜ひらく」をカヴァーし、暗い“怨歌”のブームを巻き起こします。クール・ファイブは同じ年に「噂の女」のヒットで、前川清を柱にした独自のヴォーカル・スタイルを確立し、その後も安定した人気を保って活躍しました。

■内山田洋とクール・ファイブ「噂の女」

阿久悠が演歌を書き始めたのもその頃からで、藤圭子の「京都から博多まで」「別れの旅」、内山田洋とクール・ファイブの「この愛に生きて」「恋唄」、水前寺清子の「昭和放浪記」、森進一の「冬の旅」「さらば友よ」、都はるみの「北の宿から」といったヒット曲がすべて、三連符のロッカバラードであったことは偶然ではないでしょう。

演歌とロッカバラードを結び付ける日本語

新しい演歌として三連符のロッカバラードが定着していったのは、ミディアム・テンポの楽曲を日本語で歌う時に、四分音符を三連符にとらえることで、リズム感をキープできるからでした。それによって歌手がアクセントの強弱やビブラートをつけやすくなるために、声質や個性に合った歌唱法が可能になるのです。

そのなかで「津軽海峡・冬景色」は日本語の歌詞を細かく、均等な譜割りで三連符に乗せたことで、新しい演歌の表現にまで到達した楽曲といえます。そう考えるとこの歌は根本のところで、「黒い花びら」と深く結び付いていることになってきます。

阿久悠は「黒い花びら」を聴いて、演奏や歌唱を含むサウンド全体から、それまでにない「日本の新しい歌」だという印象を受けました。それは阿久悠のみならず、思春期から青年期にあった当時の若者の多くに、共通する感覚だったのではないかと思われます。というのは当初はロカビリー歌手だった曽根幸明や中村泰士、同郷のスターだった森山加代子の付き人になった浜圭介、キャバレーでベースを弾いていた猪俣公章など、阿久悠とコンビを組んだ作曲家たちが、後にいずれも三連符のロッカバラードで代表曲を書いているからです。

それは「黒い花びら」の感性に驚きながらも、身近なものとして聴いていた若者が自然に、強く影響を受けていたことの表れだと考えていいでしょう。特に15歳から16歳だった三木たかしは、中村八大、松本英彦、ジョージ川口とビッグフォーを組んでいたベーシスト小野満のもとで、書生のような立場で働きながら作曲と編曲を学んでいたのです。「黒い花びら」のように斬新な演奏とアレンジの歌が大ヒットし、第1回レコード大賞に選ばれたという事実は深く記憶されたのではないかと思われます。

三木たかしはそれからしばらく経って、ミッキー・カーチスのバンドを前身とするアイビー・ファイブに入り、ギターを弾いていた時期があったそうです。そのヴォーカルが中学生の五条ミエ、7年後にデビューするちあきなおみであったことが、同じバンドにいて作曲家になった曽根幸明の著書に記されていました。曽根は三木たかしについても、このように述べています。

この頃からギターはもちろん上手でしたが、いつもスコア用紙を持っていて、記符法の違ういろいろな楽器の書き方や楽典(音楽理論)の基礎から勉強していた天才少年でした。

(曽根幸明『曽根幸明の昭和芸能放浪記 昭和の夢は夜ひらく』廣済堂出版)

「津軽海峡・冬景色」は「ジャジャジャ・ジャーン」という、三木たかしの作ったイントロが始まった瞬間、荒い波しぶきのイメージとともに厳しい自然を背景にしたドラマが、スケール感のある音楽によって展開していきます。開始早々から吹き鳴らされる印象的な「バララ・バララー」というサックスは、「黒い花びら」の冒頭とフレーズがそっくりです。続いてオーボエによる凪のようなゆったりした導入部へ入ると、静かに物語の幕が開くというドラマティックな展開は、歌の伴奏という域を越えるスケール感を持つ編曲のなせる技でした。

この曲は阿久悠によってタイトルが最初に「津軽海峡・冬景色」と決められて、アルバムの最後を飾る曲として三木たかしが作曲しました。そこでは歌詞の最後を必ず、「津軽海峡・冬景色」という言葉で締めるようにという指定だけがあったと言います。そして曲先で仕事を始めた三木たかしは、歌のメロディーよりも先に、イントロのメロディーとリズムが出来たと述べています。

ということは「ジャジャジャ・ジャーン」というフレーズを誘発したのは、おそらくタイトル「津軽海峡・冬景色」の中にある、記号の「・」でしょう。その記号がなければ「津軽海峡冬景色」は文字数が7と5ですから、定型の七五調に収まっていきます。しかし間に「・」が置かれていたことで、「つがる/かいきょう/(・)ふゆ/げしき」となり、3323という細かな音韻のリズムになったのです。それと「津軽海峡」という地名から浮かんだ風景、北の海の波しぶきや海鳴りといったイメージが、「ジャジャジャ・ジャーン」というイントロに結び付いたところで、三木たかしの中から三連符のメロディーが誕生したのではないでしょうか。

三木たかしが歌った弾き語りのデモテープを最初に聴いた時、石川さゆりはなんと暗い歌だろうと感じたらしく、ダミアの「暗い日曜日」を思い浮かべたそうです。

メロディー先行で、最初は三木先生のララララ・ラ・ラだけの暗い声だけで、最後のサビ♪ああ 津軽海峡冬景色~とだけ歌われていたんです。なんと暗い歌なのかしら。シャンソン歌手・ダミアの「暗い日曜日」みたいと思いました。でもあのジャジャジャ~ンというイントロの編曲と歌詞が完成された時、私は全身総毛立つような感動を覚えました。

(『月刊カラオケファン』「うたびと 石川さゆり」2006年4月号)

一方の阿久悠は三木たかしが歌ったそのデモテープを聴きながら、「ラララ・ラララ」と歌われる三連符のリズムに合うようにと、3文字を基本にして言葉を選んでいきました。「白い蝶のサンバ」の時と同じように、メロディーに言葉をはめるのではなく、音楽のリズムに言葉をのせることで、言葉自体のリズムに転化させていくという方法をとったのです。そしてメロディーと歌詞がきれいに収まるように仕上げて、歴史に残る傑作を完成させました。

「津軽海峡・冬景色」は、曲が先に出来た。そのメロディにぼくが詞を付けた。曲を先にしたことで、ずいぶんいろんな効果が生れた。字数を数えてみるとわかるのだが、333334 435となっている。やや変則である。詞を先に書くと、なかなかこの字数は思いつかない。この詞に出て来る汽車が、夜汽車ではなく夜行列車であるのも、33という字数のせいである。時代性を考えても夜行列車であるべきで、これは救われた。
 そして、また、何よりも、この字数を与えられたために、二行で上野から青森まで移動することが出来た。定型の七五調で書いていたら、もしかしたら、最初の四行を使っても、まだ上野駅にいたかもしれない。

(阿久悠『歌謡曲春夏秋冬——音楽と文楽ぶんがく』河出文庫)

上野から青森までの距離をわずか2行という、これまでにないスピードで移動する歌詞が出来たのは、細かくたたみかける三連のリズムに誘発されてのことでした。阿久悠は3・3・3・3/3・4/4・3・5という文字数のおかげで、自らが気に入っている以下の映像的表現が出来たとも述べています。

「津軽海峡・冬景色」の二番の歌詞のアタマの部分である。人の息で乳白色にくもった船の窓を、おそらくは毛糸の手袋をめたままの手で、丸く丸くぬぐって視界をつくり、波しぶきの彼方かなたを見やると、その岬もまたかすんで見える。竜飛岬である。
 この情景は、この歌の中でも好きな部分である。もちろん、〽北へ帰る人の群れは 誰も無口で……という待合室の場面も一行でよく表せたと自賛するものがあるが、くもったガラス、手で拭いた丸い視界、彼方の風景、これに心情を重ね合わせた動きのある一景として気に入っている。

(阿久悠『愛すべき名歌たち―私的歌謡曲史―』岩波新書)

こう考えてくると、当初から最後のフレーズが「津軽海峡・冬景色」と指定されていたことによって、先に詞があるのと同じような効果が生じたのではないかと思われます。阿久悠が期せずしてタイトルに書き込んだ「・」という記号が、三連符によるロッカバラードへと三木たかしを導いたとみていいでしょう。

だからこそ、作詞家と作曲家が互いにインスパイアされたこの歌は、単なる曲先とは違って珠玉の傑作になっていったのです。普段からお互いに多くの時間を共有する関係にあり、頻繁に意思疎通を行ってきた表現者同士だったからこそ、画期的な作品を生み出せたことがわかります。

もちろん、そうした作品に命を注ぎ込むのは、歌詞の中でヒロインを演じる歌手の役割です。楽曲が完成してアレンジも出来上がった音楽に向き合った時のことを、石川さゆりはこう振り返っています。

歌詞を読み返すたびに、北の雪景色が鮮やかに目の前に広がり、その景色の中にひとりリンと立つ女性の姿が浮かび上がってくるのです。
 阿久先生の詞の鮮やかさに加え、三連音符を駆使したメロディもすごく新鮮でした。作編曲ともに三木先生でしたが、まるで海鳴りのようなイントロからすでに最高の音――こちらがドキドキするほどの鮮烈なメロディでした。

(『週刊読売』「こころの詩を…石川さゆり」1998年2月22日号)

「ジャジャジャ・ジャーン」と始まるイントロに、それまでに体験したことがない衝撃を受けたと言う石川さゆりは、「津軽海峡・冬景色」に全身全霊で永遠の命を注ぎ込みました。

そこで起こった楽曲と歌手との音楽的な邂逅について、中村八大が「黒い花びら」の水原弘や「遠くへ行きたい」のジェリー藤尾、「上を向いて歩こう」の坂本九などの仕事で得たプロデュース体験から、このように語った言葉を筆者は思い出しました。

 やっぱり、長い間の蓄積を、何の迷いもなく、自然に素直に歌っていくときに初めていいものが出てくるみたいね。

(中村八大著 黒柳徹子・永六輔編『ぼく達はこの星で出会った』講談社)

レコーディングされてから40年以上の歳月が過ぎた今でも、「初めていいものが出て」きた最初のレコードには、人の心を打つ歌声が記録されているのです。阿久悠が目標にしていた「七五調からの解放」を実現した「津軽海峡・冬景色」は、歌に命を吹き込んだ石川さゆりが生涯をかけて歌い続けることで、時代をこえる傑作になったと言えます。

観客や営業マンに支持されてシングル・カット

アルバム『365日 恋もよう』の先行シングルだった「花供養」という曲は、意外にも期待を裏切る結果で、オリコンのチャートでは62位までしか上昇していません。30位だった前作「あいあい傘」どころか、43位だった前々作の「十九の純情」に比べても、満足のいかない数字で終わってしまったのです。

もしもシングルだけの企画であったならば、シングルを3枚試して数字が残せなかったことから、ひとまずここで終了となったかもしれません。しかし、なんとしても石川さゆりを一流歌手に成長させたいと、堀威夫社長以下ホリプロのスタッフたちは、10月1日のシングルと11月25日のアルバム発売の間に、2日間のワンマンショーを計画していました。

しかも10月30、31日に大阪の新歌舞伎座で開催するそのコンサートを収録し、2枚組のライブ・アルバムを出す予定まで事前に組んでいたのです。そうした熱意が多くの人に「津軽海峡・冬景色」を発見してもらう、最初のきっかけにつながっていきました。

石川さゆりがワンマンショーの打ち合わせを振り返って、このように回想しています。

 早速、スタッフの方たちがステージの構成を練り始めたのですが、まだ大きなヒット曲がなく、コンサートを締めくくるエンディングにふさわしい曲がありませんでした。頭を悩ませながら考えこんでいたスタッフの一人が、
「あれはどうだろ、今度のアルバムの最後のあれ……」

(『週刊読売』「こころの詩を…石川さゆり」1998年2月22日号)

ちょうどその頃、スタッフたちが完成したアルバム『365日 恋もよう』を聴いたところだったので、「最後のあれ……」というのがB面の最後に収録されていた12月の歌、「津軽海峡・冬景色」だと誰もがわかりました。プロの耳には楽曲の完成度とともに、無心で素直に歌ったことでにじみ出てくる石川さゆりの本質が、この段階でしっかり届いていたということです。

『津軽海峡・冬景色』というタイトルのその歌をレコーディングした時、いつもと違う感触があったのです。
 ――これは聴いてほしい歌だなァ……。
 すでに十数枚のレコードを出していましたが、そんな思いがしたのは初めてでした。ヒットしてほしいという願いとは別に、とにかく聴いてほしい……。
 そんな思いを起こさせる何かがその歌にはありました。

(同前)

初めて観客の前で歌われた新曲の「津軽海峡・冬景色」は好評で、「あの最後の歌、もう一度聴きたい」「あれはいつレコードになるんですか?」と、コンサートの翌日から事務所やレコード会社に、問い合わせの電話が入り始めました。

その一方では日本コロムビアの営業部で特約店のセールスを担当していた大槻孝造が、アルバム『365日 恋もよう』の注文を取るために配布されたテスト盤を聴いて、「津軽海峡・冬景色」をシングル・カットしてはどうかと本社に進言しています。大槻は東北地区を担当していたこともあって、強く感じるものがあって行動したようです。

公演での好反響に加えて、社内からも声が上がったことで、「津軽海峡・冬景色」の発売が決まりました。なんとしてでも石川さゆりの良さを引き出そうと創意工夫をこらした制作者たちの情熱が、作品に結実して楽曲への評価が高まったことで、青森放送を先頭に東北地方から状況が急に好転し始めます。

 石川さゆりのアルバム試聴盤を聴いて、「津軽海峡冬景色」のシングル盤制作を、強力に本社へプッシュしたのも大槻だった。大槻は東北一円のレコード店を回り、「津軽海峡冬景色」を売りまくり、有線放送にもかけさせて、ヒットに結びつけていった。

(西川昭幸『美空ひばり 最後の真実』さくら舎)

1977年の元日に発売された「津軽海峡・冬景色」は、発売の2週目から売れ行きが加速したことによって、ラジオや有線放送からも流れるチャンスが増えて、レコード・セールスはそれまでのさゆり作品にない動きを示していきました。3月から4月にかけて、オリコンチャートでもベストテンに入るヒットになり、さらにアルバムも予想外の好セールスを記録していったのです。

勢いづいてきた流れの中で、5月には新曲「能登半島」が発売されることになりました。阿久悠は自らが始めていたミニコミの『月刊you』に、こんな文章を書いています。

 前作、『津軽海峡・冬景色』は、石川さゆりという歌手の、開ききらなかった部分に衝撃を与え、見事に全開させることが出来たと自負を持っている。
 例えば、期待されながら、一軍半的な存在で停滞していた野球選手が、劇的な場面での一本のヒットによって、別人のごとく成長して行くのとよく似ている。心の迷いも、技術への不安も、嘘のように晴れてしまうものだ。人生にはよくそういうことがある。その時に一本ヒットが出るか出ないかで全てがきまる。石川さゆりは打ったのである。

(阿久悠『命のうた「月刊you」とその時代』講談社)

5月に発売になった「能登半島」がヒットしたのに続いて、9月には「暖流」が新たに書き下ろされます。こうして「津軽海峡・冬景色」から始まったご当地ソングの三部作は、いずれも実績を上げることができました。しかも、新曲が出た後になっても「津軽海峡・冬景色」の売れ行きは止まらず、アルバムもまたロングセラーになったのです。

そして年末に石川さゆりは日本レコード大賞で歌唱賞に選ばれて、10代だったにもかかわらず、この1年の活躍で一流歌手の座を確かなものにします。初めて出場した『NHK紅白歌合戦』で好評だったこともあり、「津軽海峡・冬景色」は翌年までの累計で100万枚を超える大ヒットになりました。

(第三部おわり)

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