沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第41回 2018年5月25日掲載
第三部 新たな風を吹かせた作詞家たち

第十二章 我が心のうちなる美空ひばり

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「実戦的作詞講座」で美空ひばりのための詞に精力的に取り組み、7篇の歌詞を書いた阿久悠だったが、様々な事情が絡み、それらはお蔵入りとなった。しかしそのときの意欲と情熱が、のちに阿久悠の代表作へとつながって、大きな成果を生んでいく——。
ひばりとの縁が薄かった阿久悠

スポニチ連載の「阿久悠の実戦的作詞講座」をきっかけにして、1976年の春から“カンフル剤”としてではなく、阿久悠による美空ひばりのための本格的な楽曲制作が始まるはずでした。阿久悠もおそらく一気呵成に、美空ひばりのための歌づくりに入りたかったに違いありません。だからこそ毎週のように、全部で7篇もの歌詞を書き下ろしたのでしょう。

美空ひばり篇第1回で阿久悠は自分の役割について、このように宣言していました。

 さて、最終講は、“美空ひばり”篇である。
『美空ひばりの歌う詞募集』
 という一行を書いてしまえば、ぼくの原稿は終わるような気がする。その方がいいような気がする。
 美空ひばりがどんな歌を歌えばいいかというようなことも必要がない。美空ひばりをどのアングルから見るのが新鮮かということもよけいなお世話である。
『美空ひばりの歌う詞募集』
 というのが一番正しい。
 それぞれが、それぞれの成長の過程でふれ合った、自分にとって一番すばらしい美空ひばりに向かって、いわば、我が心のうちなる美空ひばりに詞を書けばいいのである。
 ぼく自身もそうするつもりである。

(阿久悠『阿久悠の実戦的作詞講座』スポーツニッポン新聞社出版局)

阿久悠が自ら一般の投稿者とともに歌詞を発表したことは、2年間の「実戦的作詞講座」の中で一度もなかったことでした。そこには並々ならぬ意欲が感じられます。ところが本来ならば「実戦的作詞講座」の入選作「あやとり」が発売されて、その後に阿久悠の作品が続くはずでしたが、そこに割り込む形で「さくらの唄」が7月2日に発売されたのです。

久世くぜ光彦てるひこによるテレビドラマの主題歌という強力なタイアップによって、「さくらの唄」には久々に大ヒットへの期待が高まっていました。そのために阿久悠が補作して仕上げた「あやとり」は、レコード化に足止めを食う状態になったのです。そしてドラマが終わる11月10日まで、発売を待たされることになりました。

運が悪いことにはその頃から、母の喜美枝さんが体調不良を訴えるようになり、秋には胆嚢摘出という大きな手術を受けることになるのです。美空ひばりのプロジェクトで常に陣頭指揮を執っていた司令塔が、十分に機能しなくなってしまったために、阿久悠作品の制作ローテーションは翌年へと延びてしまいました。これにはさすがに気勢を削がれたのではないかと思われます。

こうして「阿久悠の実戦的作詞講座」のために書いた「肩」「舟唄」「春夏秋冬」などの作品が、当初のプランどおりに公表されることはなかったのです。そして1977年に入ってシンガー・ソングライターでもある若い作曲家、杉本眞人と組んだ「なつかしい場面/恋夜曲」を5月に出しただけで、美空ひばりへの作品づくりは終わりを迎えてしまいました。

■美空ひばり「なつかしい場面」

これらの事実は、阿久悠と美空ひばりの縁が薄かったことを示しています。ただし、それとは別に、美空ひばりの歌う歌詞として書いた作品が、しばらくしてから阿久悠に、大きな実りをもたらしていたのです。それは「作詞家憲法」において自ら否定してきた流行歌の定型、七五調の二行詞に挑んだことから始まった、演歌というジャンルへの進出でした。

 二行詞を書いてみた。
 男と女の掛け合いという形にしてある。それも口に出してしゃべるものではなく、見つめ合った何刻かの間で、それぞれの心が話すものである。
 だから厳密には掛け合いというのは正しくないのかもしれない。同じ状況の同じ時間に、一人の男と一人の女がそれぞれ歌ったものが交錯しているといった方がいいのだろう。●が男で、○が女である。
 二行詞というのは、以前から書いてみたいと思っていた形式であるが、“何故二行でなければならないか”という根本が見つからず今まで書けなかったものである。
 さて、その部分は解決したとしても、果たしてうまい二行詞が出来上がったかどうかわからない。
 そこで、「美空ひばりの歌う詞」に応募してみたわけである。

  男と女・昭和篇

作詞 阿久悠

● 暗い酒場の片隅で
ひとりしみじみ酒をのむ

○ 何をそんなに悲しげに
影をすすっているのやら

● 酒は心を軽くして
口を重たくさせるもの

○ それじゃ見かけのつらさほど
にがいお酒じゃなかったの

● 男三十越えたなら
深く刻んだしわもある

○ 邪魔をしないと誓うから
横へ行ってもいいかしら

● 縁というやつ 変なやつ
興味持ったが身の不幸

○ そうねそうかも知れないわ
なぜかあんたが気にかかる

● ひとり飲むのもお酒なら
ふたり飲むのもまたお酒

○ これがかためというじゃなし
寒い夜ふけがいやなだけ

● お前女で おれ男
中に運命さだめが横たわる

○ 歌をうたっていいかしら
私勝手に歌うから

● 浮いた歌ならしらけるし
暗い歌ならつらくなる

○ それじゃこうして夜ふけまで
口もきかずに飲んでるの

● 飲めば心が話すもの
しゃべりゃ心がだまるもの

○ 暗い酒場の片隅で
ふたりしみじみ酒を飲む

● 暗い酒場の片隅で
ふたりしみじみ酒を飲む

(同前)

この二行詞を読んで思い浮かんだのは、照明の暗いバーカウンターの片隅で男と女が、お互いを意識し合いながらそれぞれに、ウィスキーやカクテルを飲んでいるシーンでした。しかし、舞台を暗いバーではなく明るめの洋風居酒屋に移し、女の酒をバーボン・ウィスキーに切り替えて、この話の続きを展開させていくと、それは大ヒットした「居酒屋」になるのです(注)

肩の力を抜いて書いた「居酒屋」

「居酒屋」はそもそも五木ひろしのアルバムのために書かれた楽曲ですが、作曲家の大野克夫と大急ぎで作ったものでした。演歌といわれるジャンルで活躍していた五木ひろしと、ポップス系の歌謡曲を中心に作詞してきた阿久悠の出会いは、1981年になってからのことです。その時に阿久悠が五木ひろしから、「ずっと邪魔されつづけていた」と言われたことを、著書の中でこのように述べています。

 ある時、五木ひろしと新曲の打ち合わせを兼ねて食事をした時、「ずっと阿久悠に邪魔されつづけていた」と彼は言った。邪魔をするといっても、ぼくが妨害行為をしたということではなく、その年のナンバーワンの座を、いつもぼくが作詞した歌を歌う人に奪われたという意味である。
 言われてみると、五木ひろしのデビュー曲が「よこはま・たそがれ」で、その年にぼくは尾崎紀世彦の「また逢う日まで」に懸命になっていた。その後も、都はるみ、沢田研二、ピンク・レディー、八代亜紀でレコード大賞等を貰っているから、邪魔になっていたかもしれない。しかし、ぼくは、圧倒的迫力で賞を総ナメにした尾崎紀世彦が、「俺より五木が残るよ」とポツンと予言したことの方を覚えていた。

(阿久悠『愛すべき名歌たち—私的歌謡曲史—』岩波新書)

そんなレコード大賞にまつわる話をマクラにして、とにかくいい歌を作りたいと意見が一致し、二人で組んで天下を狙おうという話になったのです。第1弾の「愛しつづけるボレロ」(作曲 筒美京平)は1982年3月14日に、第2弾の「契り」(作曲 五木ひろし)は東映の大作映画『大日本帝国』の主題歌で7月1日に発売になりました。そして、年末のレコード大賞に「契り」がノミネートされましたが、なかにし礼が作詞した細川たかしの「北酒場」に阻まれ、大賞には届きませんでした。

阿久悠が当時を振り返って、“気負いがあったのかもしれない”と語ったように、両作品とも最初からレコード大賞を狙っていました。だから当然のように意欲作であり、スケールの大きい作品になっています。その2作を含む全曲を作詞したアルバム『激涙ロードショー』の制作中に、少し肩に力が入りすぎているのではないかと感じたディレクターから、阿久悠に「1曲遊んでもらえませんか。ちょっと窮屈で」と注文がきました。

力を抜くのならばデュエット・ソングがいいと思い、作ったのが「居酒屋」でした。


「居酒屋」
作詞 阿久悠/作曲 大野克夫

● もしもきらいでなかったら
何か一杯のんでくれ

○ そうねダブルのバーボンを
遠慮しないでいただくわ

● 名前きくほど野暮じゃない
まして身の上話など

○ そうよたまたま居酒屋で
横にすわっただけだもの

●○絵もない 花もない 歌もない
飾る言葉も 洒落もない
そんな居酒屋で

● 外へ出たなら雨だろう
さっき 小雨がパラついた

○ いいわやむまで此処にいて
一人グイグイのんでるわ

● それじゃ朝までつき合うか
悪い女と知り合った

○ 別に気にすることはない
あなたさっさと帰ってよ

●○絵もない 花もない 歌もない
飾る言葉も 洒落もない
そんな居酒屋で


デュエットの相手に選ばれた木の実ナナは、レコーディングを依頼されて「居酒屋」を吹き込む際に、軽く鼻歌のように歌うことを意識したと、筆者に話してくれたことがあります。その時に美空ひばりの世界へも思いを馳せていたのだと、何気ない調子で述べていたのです。そうした直感が歌手のセンスと実力なのでしょうか、その時の言葉に驚かされました。

「私の中には鼻歌で歌えるいい曲、美空ひばりさんやフランク永井さん、松尾和子さんたちの世界ですね、そういう曲がたくさん記憶に残っていましたから、そこを目指しました。
 このときのレコーディングは、五木さんとは別々に行ったんです。五木さんの歌を音で覚えて、その相手との掛け合いで、男と女が出会って時間が進んでいく。普通の女の人が変身できる曲っていうのかな、そんなところと、一緒に歌えるところ、両方がよかったんだと思います」

(JASRAC創立75周年記念事業実行委員会『うたのチカラ』集英社)

1982年7月1日に発売されたアルバム『激涙ロードショー』から、「居酒屋」がシングル・カットされたのは10月25日のことです。それは木の実ナナの希望によるものでしたので、シングル盤のレコードは木の実ナナ&五木ひろしの名義でした。なお、発売に際しては新たに「帰郷」という作品が木の実ナナのソロで吹き込まれて、B面に収められています。

当初はあまり注目されていなかった「居酒屋」でしたが、カラオケ・ファンの支持を得たことによって、予想外のロングセラーを記録していくことになります。

それから30年の歳月を経た2012年11月5日、創設30回の節目を迎えたJASRAC賞を記念する特別表彰で「居酒屋」は銀賞に選ばれました。この時の特別表彰とは1982年から2011年までの30年間を対象にして、著作権使用料の分配額が多かった上位100作品(国内作品に限定)の中から、1位から3位までを選び出し、作詞者、作曲者、音楽出版社の功績を称えたものです。

レコードやCDの売り上げだけでなく、コンサートでの演奏やカラオケによる歌唱、パソコンや携帯電話向けの楽曲配信などからの分配収入の合計で、第1位の金賞に輝いたのは槇原敬之作詞・作曲の「世界に一つだけの花」(SMAP)でした。そして数多い阿久悠の作品の中から第2位の銀賞に選ばれたのが「居酒屋」で、カラオケでの使用料が圧倒的に多かったのです。3位の銅賞もやはりカラオケ・ファンに人気があったデュエット・ソング、吉岡治作詞、市川昭介作曲の「ふたりの大阪」(都はるみ、宮崎雅)でした。

木の実ナナと阿久悠のつながり

1962年15歳で歌手デビューを飾った木の実ナナは、得意なダンスを活かしてポップス中心のシンガーとして活躍していました。イタリア映画の挿入歌「太陽の下の18才」がヒットした62年から65年にかけては、「サミーのマーチ」や「太陽の海」などのカヴァー・ポップスを続けていきます。

■木の実ナナ「太陽の下の18才」

オリジナルを主とするレパートリーに移行したのは、66年の「ギッチラ舟唄」からです。これといったヒットには恵まれなかったものの、大手の渡辺プロダクションに所属していたことや、司会と演技ができる器用さもあったことから、テレビ・タレントとしてはそれなりのポジションを築いていました。しかしショー・ビジネスを学ぶためにと、彼女は70年に思い切って本場のアメリカに旅立ったのです。

73年に帰国してからは劇団四季のオーディションで選ばれて、舞台女優としての道を歩み始めました。そして翌年から歌と踊りと洒落た会話でつづる、都会的な二人芝居の『ショーガール』に出演、共演の細川俊之とのコンビで高い評価を得て地位を確立していったのです。

紀伊國屋演劇賞を受賞した76年には「おまえさん」で、歌手としても再デビューを果たしています。その時に作詞を手がけたのが阿久悠であり、歌詞の内容が相手に語りかける口調だったところに、「居酒屋」との接点を見ることができます。

木の実ナナの作詞を依頼された時、阿久悠はミュージカルにつながるようなもの、洋風な世界は避けようと考えたと述べています。彼女はすでに『ショーガール』の舞台で才能を開花させていたのですから、あえてその方向へは行かないようにしたのです。

バタ臭さが持ち味のタレントであるからこそ、まるで大正時代から昭和の初期の気分の歌をやってみたかった。これが一九七〇年代のダルさと共通すると思っていたのである。木の実ナナだとベトつかない。つらいの、淋しいのと口では言いながら、ポンと突き放して洒落にしてしまうことが出来ると考えたのである。

(阿久悠『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』新潮社)

「おまえさん」はアコースティック・ギターとビートの効いたロック・サウンドに、フォルクローレを思わせるケーナが印象的に鳴り渡るポップスです。しかし歌にはフォーク・ソング、あるいは和風のブルースといった味わいがあります。阿久悠がけだるい気分の歌を狙ったという歌詞に曲をつけたのは、丹羽にわ応樹まさきという若い女性作曲家でした。


「おまえさん」
作詞 阿久悠/作曲 丹羽応樹

おまえさん 雨だよ淋しいよ
日の暮にポツンとたまらないよ
おまえさんが持っていったきり傘もないし
おまえさん 雨だよ淋しいよ
今夜は休もうかと思うんだよ
あの頃は笑い上戸で
この頃は泣き酒だって
おまえさん 帰っておくれよ
あたしが あたしが
悪かったよ

おまえさん 夜だよせつないよ
真白な枕が憎らしいよ
おまえさんが忘れていったセーター着て
おまえさん 夜だよせつないよ
今夜は眠ろうかと思うんだよ
お酒まで空になって
ごろごろところがっているよ
おまえさん 帰っておくれよ
あたしが あたしが
悪かったよ

おまえさん 帰っておくれよ
あたしが あたしが
悪かったよ


「居酒屋」でデュエットの相手に木の実ナナを選んだのは、五木ひろしの担当ディレクターだったそうです。五木ひろしは徳間音楽工業の看板スターで、木の実ナナは同じレコード会社のロック・レーベルだった「バーボン」と契約していました。したがって木の実ナナが「おまえさん」でカムバックした当時に、件の担当ディレクターがレコードを聴いていた可能性は高いと思われます。

阿久悠は「これはお手柄だったと思う。乾いた感じがしてよかった」と、ディレクターのセンスを褒めています。二枚目俳優の細川俊之との二人芝居『ショーガール』で、木の実ナナは洒落た会話を披露していたのですから、「居酒屋」はまるで書き下ろしたかのようにフィットしていたのです。

そして木の実ナナもまた楽曲の誕生と成長に関して、重要な役割を果たしていました。アルバムの中の一曲だった「おまえさん」を気に入った彼女が、シングルで出すようにとレコード会社を動かし、実現させたことが五木ひろしとのデュエットにつながり、有線放送などで時間をかけて「居酒屋」がカラオケ・ファンにも浸透していったからです。

こうして「舟唄」や「居酒屋」の誕生にまつわるエピソードや、思いもよらない事実を知れば知るほど、阿久悠が「実戦的作詞講座」の美空ひばり篇に全力で取り組んだ情熱が、かなり時間が経ってからではあったにせよ、しっかりと実を結んでいたことがわかりました。

それもまた阿久悠ならではの生真面目な仕事ぶりに対する、世間からの反応だったといえるのではないでしょうか。2年に及んだ連載が終わった翌日、阿久悠はこんな文章を発表しています。

 新聞連載が終わって一日が過ぎた。
 小説家が大長篇小説を書きあげたのとは又違う感慨のようなものを抱いている。積み重ね積み重ね一つの大きなものを完成させたというのではなく、数限りない戦いが今、終わったような気がしている。
 目の前に積み上げた産物はない。やや疲労し、やや興奮したぼくが立っているだけで、その傷や成果は裸になってみなければわからない。
 しかし、この二年間、よくもまあ、くたばらずに戦いつづけたという満足感はある。
 きっと、ぼくが一番得をしたのだろう。

(阿久悠『阿久悠の実戦的作詞講座』スポーツニッポン新聞社出版局)

「きっと、ぼくが一番得をしたのだろう」という言葉は、まず3年後に「舟唄」で、さらにその3年後に「居酒屋」で現実のものとなったのです。そして我が心のうちなる美空ひばりに詞を書けばいいという、それ以上はない大きな命題を立てたことで、自らどことなく避けていた演歌というジャンルへの壁がなくなっていきました。都はるみや八代亜紀、五木ひろしといった演歌歌手の大物たちに、次々に作品を提供していく流れもまた、美空ひばりを命題にしたことで、具体的に結実していったといえるでしょう。

と、ここまで書いてきて、阿久悠という作詞家は正直かつ実直な表現者で、才能やアイデアを出し惜しみしない人物であるという思いを、いっそう強くしました。そこで筆者はもう一度最初から、『阿久悠の実戦的作詞講座』を読み直してみることにしたのです。

(注)なお、この「男と女・昭和篇」は、1978年に井手せつ子とみなみらんぼうのデュエットによる「男と女・昭和」としてシングルリリースされています。(戻る)

次回につづく

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