沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
もっと詳しく

第13回 2017年9月29日掲載
第一部 歌謡曲の黄金時代を予告していた「ない・ソング」の登場

第十三章 阿久悠と「戦争を知らない子供たち」

縦書きで読む
日音の村上司の熱心な働きかけによって、最初は不発に終わったズー・ニー・ヴーの「ひとりの悲しみ」は、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」として新たな命を吹き込まれ、みごと日本レコード大賞を受賞する。いよいよ時代は、阿久悠に向かって微笑みかけるが、大賞を受賞したにもかかわらず、阿久悠はなぜか表情に不機嫌さをにじませていたという。それは、作詩賞を受賞した「戦争を知らない子供たち」が生じさせる、ある想いに起因していた――。
「ひとりの悲しみ」から始まるドラマ

「白いサンゴ礁」がヒットして軌道に乗ったように思われたズー・ニー・ヴーは、3枚目のシングルとしてR&B調のソフトなバラード、「可愛いあなただから」(作詞 阿久悠、作曲 田辺信一)を発売しました。ところが前評判がよくて期待された割に、オリコン60位という残念な結果に終わってしまいます。

その結果からわかったのは、「白いサンゴ礁」が歌手の個性やグループの魅力で売れたのではなく、純然たる楽曲の力でヒットしたということでした。女性に人気があるグループ・サウンズのシンガーが歌ったら、「可愛いあなただから」はもっと大きなヒットになっていたかもしれません。しかしズー・ニー・ヴーの場合はそうならなかった――。

そのことから日音の村上司は、筒美京平のメロディーと阿久悠の歌詞で、若者が求める時代の歌をズー・ニー・ヴーに歌わせることを企画します。

村上には試してみたい楽曲がありました。人気漫画「アンパンマン」の生みの親であるやなせたかしが作詞し、筒美京平が作曲したCMソングです。槇みちるが歌ったその楽曲はレコーディングが済んでいながらCMの企画が流れたために日の目を見ることなくお蔵入りしていました。その楽曲に可能性を感じていた村上は、阿久悠に新しい詞をつけてくれるようにと依頼します。

1970年の2月に発売されることを念頭において、阿久悠は激動の60年代が終わりを告げて、70年に入ったという時代背景の歌に挑みました。そして若者の挫折感と虚無をテーマにした、「ひとりの悲しみ」が完成したのです。

 七〇年、ぼくは、安保更改の五月をすぎたら、行き場のなくなった若者がみんな東京からいなくなってしまうだろうと思っていた。彼らの力だけで安保を阻止できるとは思えなかったから、きっと彼らは、国会議事堂の見える東京には耐えられずに、旅に出ると思った。

(阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波現代文庫)


「ひとりの悲しみ」
作詞 阿久悠、作・編曲 筒美京平
 
明日(あした)が見える 今日の終りに
背のびをしてみても 何も見えない
なぜか さみしいだけ
なぜか むなしいだけ
こうして はじまる
ひとりの悲しみが
 
こころを寄せておいで
あたためあっておいで
その時二人は何かを見るだろう
 
一人がだまって いたい時には
一人はなぜかしら 話したくなる
なぜに 二人だけが
なぜに 話せないの
こうして はじまる
ひとりの悲しみが
 
こころを寄せておいで
あたためあっておいで
その時二人は何かを見るだろう


阿久悠がこの時、行き場のなくなった若者がみんな旅に出ると思ったのには、1年前から若者たちの間でヒットしていた、次の3曲の影響があったと考えられます。発売順に歌詞を掲載します。


「青年は荒野をめざす」
歌 ザ・フォーク・クルセダーズ
作詞 五木寛之、作曲 加藤和彦
 
ひとりで行くんだ
幸せに背を向けて
さらば恋人よ
なつかしい歌よ友よ
いま
青春の河を越え
青年は青年は 荒野をめざす
 
もうすぐ夜明けだ
出発の時がきた
さらばふるさと
想い出の山よ河よ
いま
朝焼けの丘を越え
青年は青年は 荒野をめざす
 
みんなで行くんだ
苦しみを分けあって
さらば春の日よ
ちっぽけな夢よ明日よ
いま
夕焼けの谷を越え
青年は青年は 荒野をめざす


「風」
歌 はしだのりひことシューベルツ
作詞 北山修、作曲 端田宣彦
 
人は誰もただ一人 旅に出て
人は誰もふるさとを 振り返る
ちょっぴりさみしくて 振り返っても
そこにはただ風が 吹いているだけ
人は誰も 人生につまずいて
人は誰も 夢やぶれ振り返る
 
プラタナスの枯葉舞う 冬の道で
プラタナスの散る音に 振り返る
帰っておいでよと 振り返っても
そこにはただ風が 吹いているだけ
人は誰も恋をした 切なさに
人は誰も耐えきれず 振り返る
 
何かを求めて 振り返っても
そこにはただ風が 吹いているだけ
振り返らずただ一人 一歩ずつ
振り返らず泣かないで 歩くんだ


「昭和ブルース」
歌 天知茂
作詞 山上路夫、作曲 佐藤勝
 
うまれた時が 悪いのか
それとも俺が 悪いのか
何もしないで 生きていくなら
それはたやすい ことだけど
 
この世に生んだ お母さん
あなたの愛に つつまれて
何も知らずに 生きていくなら
それはやさしい ことだけど
 
なんにもせずに 死んでいく
俺にはそれが つらいのさ
とめてくれるな 可愛い人よ
涙ながれて 来るけれど
 
見えない鎖が 重いけど
行かなきゃならぬ 俺なのさ
だれも探しに 行かないものを
俺は求めて ひとり行く


いずれも夢破れて一人で旅に出る歌ですが、どこかにロマンチックな気分、もしくはヒロイックな意識が残っています。苦しみを分け合う仲間やとめてくれる可愛い人がいたし、ふるさとを振り返る余裕もありました。しかし阿久悠の頭のなかでは、1970年の夏の風景がまったく違って見えていたと言います。

 照りつける太陽、煮えたぎるようなアスファルト。しかし、東京の街には、若者の姿がないのである。あの『渚にて』の象徴的な無人の都市と同じように、おそろしい光景として浮かびあがっていたのである。
 だから、「ひとりの悲しみ」という歌は、彼らの心に痛いほどしみるであろうし、売れる売れないは別として、何かふれ合うものが生まれるのではないかという期待は持っていたのである。

(同前)

しかし阿久悠が意気込んで書いた「ひとりの悲しみ」は、1970年2月に発売されたものの、まったく世に受け入れられませんでした。勝負曲が不発に終わったズー・ニー・ヴーは、そこからメンバーチェンジを繰り返して、1971年の暮れにはひっそりと解散することを余儀なくされます。

尾崎紀世彦へのこだわり

「ひとりの悲しみ」のメロディーの良さやアレンジに自信を持っていた村上は、ヒットしなかったことに疑問を持ち、若者たちに受け入れられなかった原因を追究したに違いありません。そして「もっとわかりやすい歌詞にして、ダイナミックな唱法で歌えば必ず聴衆の心をつかめる」と考えたようです。

そこでイメージしたのが尾崎紀世彦。グループ・サウンズのブームに湧いていた1967年に日音が契約して売り出した、ザ・ワンダースのヴォーカリストでした。そして、そこから1年半後、「ひとりの悲しみ」はよみがえることになります。

「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」のヴォーカルだった尾崎紀世彦は、1966年に知り合った「ザ・タドポールズ」のメンバーだった朝紘一、栗敏夫との3名で、翌年1月に「ザ・ワンダース」を結成しています。やがて村上にスカウトされて日音の原盤制作第1号となり、1967年8月1日にテイチクレコードからアルバム『NEW COMER』と、シングル「明日への道」でデビューしました。

最初からアルバム・デビューというのは当時としては異例のことで、それだけ期待が大きかったことがわかります。次いで10月1日には第2弾シングル、「霧と恋」が発売されました(注)

しかし、ワンダースは結局のところ不発に終わり、GSブームも終焉を迎えたことで、結果的に解散の道を選択することになります。栗はレコーディングディレクター、朝は作詞家へと転身していきました。

歌唱力の評価が高かった尾崎紀世彦は1970年8月、「別れの夜明け」でソロ・デビューしています。ところが売り上げはまったく伸びず、村上は次の手を考えねばなりませんでした。そこで前から気になっていた「ひとりの悲しみ」を、尾崎紀世彦に歌わせる案が浮上してきたのでしょう。メロディーもアレンジも良かったのですから、ズー・ニー・ヴーとは異なるタイプの尾崎紀世彦ならば、聴く人の心をたたいてヒットする可能性が残っていると判断したものと思われます。

そこで阿久悠にもう一度、新たな歌詞を書いてくれるようにと依頼しますが、「一度出したものを変える気はない」と拒否されたのです。「もう終わったことだから」と歌詞の書き換えに同意しない阿久悠に対して、村上は引き下がらずに、粘りに粘って説得を続けました。そして断られてもあきらめることなく、尾崎紀世彦のヴォーカルによる「ひとりの悲しみ」をレコーディングします。そのデモ・テープを阿久悠に聴かせて、楽曲の良さと歌声の魅力を納得してもらうためです。そこまでしてレコード化にこぎつけたのですから、プロデューサーとしてヒットする予感を確信していたに違いありません。

と言うのも1968年から次々にヒット曲を生み出してきた筒美京平が、その時期に平山三紀の「真夏の出来事」(作詞 橋本淳)という素晴らしい作品を発表して、ますます脂が乗った状況にあったからです。作曲や編曲の才能とセンスを遺憾なく発揮した「真夏の出来事」は、大ヒットこそしませんでしたが、レコード大賞では、朝丘雪路の「雨がやんだら」(作詞 なかにし礼)とともに対象曲となって作曲賞を受賞しています。ちなみに筒美京平はこの年、レコード大賞と作曲賞のほか、南沙織の「17才」(作詞 有馬三恵子)で新人賞、堺正章の「さらば恋人」(作詞 北山修)で大衆賞、渚ゆう子の「さいはて慕情」(作詞 林(はる)())で歌唱賞と、5部門の合計6曲で受賞するという快挙を成し遂げています。それらのほとんどに、日音およびプロデューサーの村上が関わっていました。

■平山三紀「真夏の出来事」

新しい別れのパターン

「また逢う日まで」のレコーディングにはドラムの(いの)(また)(たけし)、ベースの寺川(まさ)(おき)、ピアノの(いい)(よし)(かおる)、そしてグループ・サウンズのアウトキャスト、アダムスを経てスタジオ・ミュージシャンになったギタリストの水谷(きみ)()のほか、ワンダースのメンバーだった栗敏夫と朝紘一がコーラスに参加しています。

同じ楽曲が2度目の生まれ変わりを果たすのは、なかなかあることではありません。

 普通なら、どんなにいい曲でも二回も失敗すると諦めるが、筒美京平の自信か、プロデューサーの粘りか、三度目のお色直し的な話が持ち上がり、そこで起用された尾崎紀世彦のために「また逢う日まで」という全く別の詞を書いた。

(阿久悠『「企み」の仕事術』KKロングセラーズ)

阿久悠は詞を変えるにあたって、時代性というものをもう一度とらえ直してみたと述べています。そして1970年の時代性を込めた「ひとりの悲しみ」を否定するのではなく、その時代性を背景にした男女の別れを描くことで、1971年ならではの時代性を持たせる歌詞に挑みました。

 これまでぼくが書いてきた別れは、別れたら最後、二度と会うことのないものだった。ぼくは“さよなら”ということばを冗談でいったことがない。別れとはそういうものと思っていた。
 ところが、ひょっとすると、“さよなら”というのはもう一回あるのかもしれない。もっと、何回もいいたい人がいるかもしれないという気がしてきたのである。
 そういった意味で、新しい別れのパターンを考えた。

(阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波現代文庫)


「また逢う日まで」
作詞 阿久悠、作・編曲 筒美京平
 
また逢う日まで 逢える時まで
別れのそのわけは 話したくない
なぜかさみしいだけ
なぜかむなしいだけ
たがいに傷つき すべてをなくすから
ふたりでドアをしめて
ふたりで名前消して
その時心は何かを 話すだろう
 
また逢う日まで 逢える時まで
あなたは何処にいて 何をしてるの
それは知りたくない
それはききたくない
たがいに気づかい 昨日にもどるから
ふたりでドアをしめて
ふたりで名前消して
その時心は何かを 話すだろう


「ひとりの悲しみ」では、「♪背のびをしてみても何も見えない」と、「♪なぜに 二人だけが なぜに 話せないの」が「ない・ソング」的なフレーズです。それは受動的であり、ネガティブなものでした。しかし「また逢う日まで」の歌詞では、「♪別れのそのわけは 話したくない」「♪それは知りたくない それはききたくない」と、主人公が否定する意志をはっきりさせることによって、ポジティブな態度と潔さが打ち出されています。

新しい歌詞になった「また逢う日まで」は1971年2月にリリースされると、オリコンのシングルチャートで9週連続1位を獲得し、およそ100万枚のセールスを記録する大ヒット曲になりました。バンドからソロになって再起をかけた尾崎紀世彦もまた、実力派の人気歌手というポジションを手に入れます。こうしてワンダースをスカウトした村上の念願は、4年越しでかなったのです。

そして年末には第13回日本レコード大賞に選ばれて、阿久悠と筒美京平という二人のヒットメーカーに、最初の栄冠を与えることになります。嫌がる自分を説得した村上の仕事に、阿久悠はロマンチシズムという言葉を与えています。

 大体、このような思い込みは空回りするもので、あまりいい結果につながらないが、この歌はレコード大賞まで獲得してしまった。
 いずれにしても、いい作品を記憶していて、何度でもトライするロマンチシズムが、この頃の音楽界には普通のこととして存在していた。

(阿久悠『「企み」の仕事術』KKロングセラーズ)

このとき、阿久悠は自信作だった「ざんげの値打ちもない」が作詩賞に選ばれなかったことで、「また逢う日まで」がレコード大賞に選ばれてもまだ、どこかに不機嫌さをにじませていたそうです。

憮然とした表情だった理由

レコード大賞の作曲賞と作詩賞は各レコード会社が事前に提出したノミネート作品を、審査会での選考で絞り込み、合議の上で受賞作を決めていくというシステムで選ばれます。しかし阿久悠が期待していた「ざんげの値打ちもない」は、発売元の東芝EMIからレコード大賞の事務局に提出されたノミネート作品には入っていませんでした。つまり初めから受賞の資格さえ与えられていなかったのです。

ところが、そうした事情を知らなかった阿久悠は、ヒットして話題になった作品のなかから選ばれると思っていたそうです。レコード大賞を前にして行われる部門賞の発表の前に、推薦から漏れていたという事情を知ることになりました。

候補に上がっていないのだから、取れるわけがない。腹を立ててみたがどうにもならないことで、次の年を期待するより仕方がなかった。
 それらの部門賞の発表は、赤坂プリンスホテルで行われた。作詩賞はともかくとして、「また逢う日まで」の関連もあるので、ぼくは会場近くまで行ったが、そこで、今年の作詩賞は北山修の「戦争を知らない子供たち」に決まったと知らされて、踵を返した。
 そして通りを渡り、赤坂東急ホテルの最上階のレストラン・バーへ行って、少々気を静めようとした。その程度の落胆はあったのである。

(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社)

その夜、スポーツニッポンの小西良太郎は偶然に同じバーで阿久悠と会って、同席して飲むことになりました。

「ざんげの値打ちもない」が作詩賞に選ばれなくて落胆していたので、「レコード会社もわかっちゃいない」と推薦されなかったことを怒ったうえで、「レコード大賞はまず間違いないだろうから、いいじゃないか。一つ格上の賞なんだから」と慰めたところ、「いや、欲しいのは作詩賞なんだ」と言い返されたといいます。

阿久さんは、さすがにがっかりした様子でした。二人でしばらく飲んでいて窓から下を見下ろすと、機動隊とデモ隊の学生たちがぶつかり合っている。火炎瓶が爆発して、白い煙が立ち上ってくる。
 そんな時代でした。

(『NHK知るを楽しむ 私のこだわり人物伝11月阿久悠』2008年10—11月号 NHK出版)

選考委員だった小西から詳しい事情を知らされ阿久悠は、ますます不機嫌になったそうです。なぜならば「ざんげの値打ちもない」を推薦しなかった東芝EMIが、作詩賞のノミネート作品として事務局に提出したなかに、作詩賞に選ばれた「戦争を知らない子供たち」があったからです。

ジローズが歌ったこのメッセージ性の高いフォークソングを作詞したのは、ザ・フォーク・クルセダーズを解散したばかりの北山修でした。このとき彼は京都医科大学の現役学生、作詞家との二足のわらじを履いていました。


「戦争を知らない子供たち」
作詞 北山修、作曲 杉田二郎
 
戦争が終わって 僕等は生れた
戦争を知らずに 僕等は育った
おとなになって 歩き始める
平和の歌を くちずさみながら
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ
 
若すぎるからと 許されないなら
髪の毛が長いと 許されないなら
今の私に 残っているのは
涙をこらえて 歌うことだけさ
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ
 
青空が好きで 花びらが好きで
いつでも笑顔の すてきな人なら
誰でも一緒に 歩いてゆこうよ
きれいな夕日の 輝く小道を
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ
戦争を知らない 子供たちさ


「戦争を知らない子供たち」は準「ない・ソング」の代表作とも言える、1970年前後の時代性が出ている楽曲です。ことあるごとに「お前たちは戦争も知らないくせに……」と、頭ごなしに若者を抑えつけようとする大人たちに対して、反抗する子供の側から開き直ったメッセージ・ソングという面があります。北山修はそのことについて、後にこう語っていました。

レコードがヒットすると、「戦争を知らないなんて想像力の欠如だ」などという批判も起こり、沖縄では「戦争を知っている子供たち」という替え歌までつくられました。
 でも、私の意図は、「戦争も知らないくせに」と言って、若者の声を抑え付けようとしていた上の世代に対する発信であり、「僕らの名前を覚えてほしい」という切実な自己紹介でもありました。生身の人間の私たちが何を感じ、何を考えているのか、その声に耳を傾けてほしいという祈りでもありました。

(きたやまおさむ『コブのない駱駝 きたやまおさむ「心」の軌跡』岩波書店)

日中戦争開始の年に生まれた阿久悠にとって、戦争をどのように体験したのか、どこまで知っているかは、生涯を通して表現者として立脚してきた土台となるものです。それは日本経済新聞の『私の履歴書』に連載された自伝『生きっぱなしの記』の第一章を、「戦争しか知らない」と名付けて書き始めていることからもわかります。

阿久悠は日本が戦争に突入していった時代に生まれた子供であり、典型的な「少国民」となった世代にとっての終戦記念日、8月15日こそが第2の誕生日であると明言しています。当時8歳だった少年にとって、終戦の日は「繭の中から抜け出した日」だったとも表現しています。その日の猛暑と玉音放送、抜けるような青空は、「戦争しか知らない」少国民として育った子供がようやく手にした自由の象徴でした。

その日を境にして、それまでの価値観が180度転換するという体験をしたことで、阿久悠は何も信じられるものがないという精神状態のなかから、自力で再生し成長していったのです。それまで学んできた教科書に自分で墨を塗って消して、教えられてきたことを「なかったこと」にさせられた少年時代の忌わしい記憶、大きなトラウマを持っているからこそ、「声高なものも、美味しい言葉も、スローガンの匂いを発すると信じない」のです。

だから、どこかにスローガンの匂いを発する「戦争を知らない子供たち」に対して、複雑な思いを抱いたのは当然といえば当然だったのでしょう。

そして、阿久悠と北山修の関係には、フォークソングと歌謡曲の本質に関わってくる問題が潜んでいました。


(注)ザ・ワンダースは同じ日に放映を開始した特撮ドラマ『ウルトラセブン』の主題歌も歌っています。これは親会社のTBSが『ウルトラセブン』を製作していた関係で、子会社の日音が音楽制作を全面的に行っていたからです。
『ウルトラセブン』の主題歌と挿入歌を担当した日音の木山貢吉プロデューサーは、「ウルトラセブンの歌」と挿入歌「ULTRA SEVEN」にザ・ワンダースを起用してレコーディングしています。しかし『ウルトラセブン』の主題歌は、日音が原盤を制作した音源を、各レコード会社に貸し出す予定になっていました。そのためにテイチクからデビューしたザ・ワンダースの名前は使用できず、村上と相談して「ジ・エコーズ」というグループ名にしました。冒頭の「セブン」の掛け声は1回目の「セブン」が朝紘一、2回目の「セブン」が栗敏夫、3回目の「セブン」が尾崎紀世彦であったと伝えられています。(戻る)


次号掲載:10月6日(金)

ご意見・ご感想を
お待ちしております。
お名前

メールアドレス

本文