沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第20回 2017年11月17日掲載
第一部 歌謡曲の黄金時代を予告していた「ない・ソング」の登場

第二十章 時代の先駆者ゆえの苦悩

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1970年、加藤和彦が出演したCM「モーレツからビューティフルへ」が注目を集める。富士ゼロックスが展開したそのCMには、戦後復興を遂げ高度経済成長を果たしながらも、ひたすらに前へ前へと進むことをやめない日本社会へのメッセージが込められていた。時代の転換点に立ち会うことになった加藤和彦と北山修は、音楽で社会的成功を収めるが、商業主義に迎合しない意識、芸能界には染まらないという姿勢を変えることはなかった――。
「モーレツからビューティフルへ」

ソロ・アルバムの『ぼくのそばにおいでよ』を不本意な形で世に出さざるを得なかった加藤和彦が、富士ゼロックスの企業CM「モーレツからビューティフルへ」に出演したのは1970年の秋です。

 今でも憶えている。亡くなられたCMディレクターの杉山登志雄さんから突然電話があってさ「銀座の松屋の前で紙を持って歩いてくれるだけでいいです」って言うからさ、こっちはアメリカから帰ってきたばっかりだったから、多分どっかで目をつけられていたんだろうね。本当に銀座の松屋の前の通りを何回か歩いただけだった。

(加藤和彦 [聞き手・構成]松木直也『加藤和彦 ラスト・メッセージ』文藝春秋)

大阪万博が開催された1970年、関西のアマチュア・グループだったロック・キャンディーズ(谷村新司が在籍)やジローズ(杉田二郎が在籍)、シュリークス(イルカが在籍)などが集まって、40日間かけて北米をツアーする「ヤング・ジャパン国際親善旅行」が企画されました。日本の若者たちによる演奏旅行団を作り、北米の若者たちと音楽を通じて交流するツアーです。これを思いついた細川健という若者は、後に株式会社ヤング・ジャパンを設立し、アリスのマネージャーとなっています。そしてツアー先でのコンサートの司会を引き受けたのが大学の夏休みを利用して参加した北山修でした。そこに加藤和彦もまた、結婚したばかりの夫人のミカを同伴して、ギタリストとして同行していました。

一行はカナダからアメリカ、メキシコなどを回る途中の8月6日、ニューヨークで広島への原爆投下をテーマにしたロック・フェスティバルに出掛けています。ビートルズがライブを行ったシェア・スタジアムで行われるイベントに気が付き、すごいメンバーが揃っているから観に行こうと、みんなを誘ったのは加藤和彦でした。反戦を掲げたコンサートは朝の10時から夜10時まで続き、ポール・サイモン、CCR、ジャニス・ジョプリン、ジョニー・ウィンターなどが出演していました。

当時は若者が簡単に海外旅行できる時代ではありませんから、そんなイベントを観られたことも含めて、じかにカウンターカルチャーに触れた体験は、その後の音楽活動に自信を与えたと考えられます。

あの旅行は、僕にとっては、すごい面白かったけどね。メキシコまで行って、行く先々でステージもやってた。海外公演一回目だよ。

(加藤和彦/前田よしたけ著 牧村憲一監修『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』スペースシャワーブックス)

加藤和彦はこの北米ツアーから帰国した直後に、CMの世界で天才と呼ばれていた杉山登志(本名・登志雄)によって後世に語り継がれる印象的なコマーシャル映像を残すことになります。ファッショナブルなヒッピー風の、長髪の若者が「BEAUTIFUL」と書いた紙を胸の前にかざして、銀座の通りを軽やかに歩く映像は、予算の都合でオンエアされた回数がわずかだったにもかかわらず、大変な評判を呼びました。 

■1970年 富士ゼロックスCM

この「モーレツからビューティフルへ」という新しい広告キャンペーンを考えたのは、電通のプロデューサーとして万博にも関わった藤岡です。そこには前の年に話題となって「オー、モーレツ!」の流行語を生んだ、丸善石油のCMへのアンチテーゼが含まれていました。

1970年に大阪万国博覧会が開催されることが決まった頃から、経済的な発展を優先するあまり顧みられることがなかった公害病や深刻な環境汚染などの諸問題が明らかになってきたのです。そうした面に目を向けた人たちの間では、大量生産や大量消費のサイクルは見直すべきなのではないかという声が大きくなり始めていました。

藤岡は当時を振り返って、このように述べています。

当時の日本は経済も右肩あがりでGNP(国民総生産)が世界(自由諸国圏)第二位になり、大阪万博を間近に控えて国を挙げて盛り上がっていた。
 それはもう凄いもので、私が街を歩いていると地の底から「エイ、エイ、オー!」とときの声が湧き上がってくるような気がしていました。日本人全員が馬車馬のように働いて経済的な繁栄を得ようとしていたんです。そんな時代を象徴していたのが“モーレツ”という言葉でした。
 でも私はそういう雰囲気がたまらなく嫌でね。これは自分の性格とか体質によるんでしょうけど、日本人全員がワァーッと邁進しながら繁栄を謳歌しているという世の中の空気が全く性に合わないし、気にくわない。そういう栄光の影には必ず犠牲になっている存在がある。自然もそうだし、生活環境も人間性もそう。
 それにこんな状態が続くわけがない。モーレツから変わらざるを得ない状況が必ず来るだろうと。だからモーレツに対してアンチテーゼとなる言葉をいつも模索していました。

(市川哲夫編『70年代と80年代 テレビが輝いていた時代』毎日新聞出版)

丸善石油の広告から引用した「モーレツ」に対抗する言葉として、藤岡が思いついたのが「ビューティフル」です。そして「これだ!」と思って話をした相手が、富士ゼロックスの宣伝を担当していた販売本部長で、後に社長と会長を歴任する小林陽太郎でした。

「世の中はモーレツ・ブームで経済的に発展しているが、ゆがみがあるんじゃないですか?
 この風潮に対してものを言いたい。それで『モーレツからビューティフルへ』というフレーズを作ったんだけれど、広告キャンペーンとして世間に訴えるのはどうでしょう」とね。
 彼の決断は驚くほど早かった。五分くらいの雑談だったのに「面白いですね。やりましょう」となった。そうしてテレビCMと新聞広告を展開することになりました。

(同前)

ブルドーザーによる解体工事の写真をフィーチャーした新聞の全面広告には、「いま、一〇〇億円かけて壊しています あの万国博会場」というコピーが添えられていました。意見広告としても異例と言えるものでしたが、富士ゼロックスは万博の開催中から紙上万博と名付けて、「人間と文明」という特集広告を29回にわたって毎日新聞に連載したのです。

そんな展開で始まった「モーレツからビューティフルへ」は、文明批判と価値基準の転換を呼びかけた、きわめて画期的なものでした。藤岡は電通の役員からも「あれは何の広告か?」と何度もきかれたそうです。しかし反響は想像以上に大きく、“これからは優雅に美しく生きましょう”というメッセージだと、かなり好意的に受け取られました。

テレビCMについても「衝撃的だった」と言ってくれる人が多く、「モーレツからビューティフルへ」はその年の流行語にも選ばれています。藤岡にはそれまでのモーレツ・ブームの流れに、ちょっとブレーキをかけたという手応えがあったそうです。

私は世の中の全員がブームに酔いしれていると感じていたんですが、人びとの心の中にもモーレツな風潮を拒否する感覚があったんだなと思いましたね。その意味では時流にあらがってみたかったのかもしれません。

(同前)

その年に藤岡はもうひとつ、とくに若い女性たちの間で話題となったJR東海のCM「ディスカヴァー・ジャパン」も手がけていました。そこでテーマソングとして使われたのが、デューク・エイセスの「遠くへ行きたい」。永六輔が作詞して中村八大が作曲したもので、オリジナルはジェリー藤尾による1962年のヒット曲です。

そしてキャンペーンと連動して、1970年10月4日から、日本テレビで新しい紀行番組が始まっています。このシリーズには永六輔がレギュラー出演していたので、タイトルも『六輔さすらいの旅 遠くへ行きたい』というものでした。

21世紀になった現在でも『遠くへ行きたい』は放送中で、まもなく50年を迎える長寿番組になっています。テーマソングはその後も数十組の歌手やグループに歌い継がれて、日本を代表するスタンダード・ソングへと成長していきました。

電通の藤岡はそれから6年後、阿久悠や横尾忠則、CBS・ソニーのプロデューサーだった酒井政利などを、タヒチやサモア、イースター島などを巡る15日間の「南太平洋の旅」へと誘って、大自然のなかで勉強会のようなサロンを開いています。そこからは間接的にですが、阿久悠によってピンク・レディーの「UFO」が誕生しています。

酒井はそのときの体験から矢沢永吉の「時間よ止まれ」、ジュディ・オングの「魅せられて」、山口百恵の「いい日旅立ち」、久保田早紀の「異邦人」という、CMとのタイアップで南太平洋シリーズとも呼ばれる4曲を大ヒットさせることにもなりました。

若くして栄光をつかんだ杉山登志

加藤和彦に電話でCM出演を依頼してきた杉山登志は、広告業界にたずさわる人間ならば知らない者はいないという、CMディレクターの第一人者です。テレビ創生期に日本天然色映画株式会社に入社した杉山は、20代の半ばから数多くのテレビCMを制作し、資生堂のCM映像で国際的な評価を得たこともあって、いつからか天才と呼ばれるようになっていました。

1960年代から70年代にかけて作られた資生堂のテレビCMは、映像の美しさと鮮やかともいえる演出による傑作が揃っていると、今もなお高く評価されています。そうした資生堂のCMのほとんどを、ほぼ一人で手がけていたのが杉山でした。発展途上にあったテレビCMという世界のなかで、彼は映像と音による表現の幅を飛躍的に広げて、CMでも映像の美だけではなく、人間の機微までも描き込めることを証明したと言われています。

それらの作品で大半の音楽を担当していたのが桜井順です。70年代に入ってすぐに作家の野坂昭如が歌う「マリリン・モンロー・ノー・リターン」や、スタンダード・ソングになる「黒の舟唄」を作詞作曲した桜井は、杉山との作品づくりについてこう述べています。

「彼の閃きのような一言から企画が始まることが多かったですね。当時のCM監督はニュースや教育映画、撮影所の助監督出身が多くて、オーソドックスな長尺ものは撮れても30秒、60秒の経験はなかったんですよ。特に音楽に関しては全くと言っていいほど対応出来なかった。杉山登志はCMから映像を始めていたんで音楽の知識もありましたし。彼の前にCMの監督と呼ばれる人はいませんね」

秀樹『みんなCM音楽を歌っていた――大森昭男ともうひとつのJ-POP』スタジオ・ジブリ)

杉山は1963年に「資生堂ファッションベイル サイコロ」で、第10回カンヌ国際広告映画祭テレビCM部門の銀賞を受賞しました。日本のテレビCMとして、海外における受賞は初の快挙です。

1965年の口紅「チェリーピンク」では、若い女性の躍動感ある表情のアップを、大胆なアングルで捉えた斬新な映像で評判になりました。これはACC(全日本シーエム放送連盟)グランプリを受賞し、フランスのカンヌで開かれた国際広告映画祭劇場部門第1位にも選出されています。

■1965年 資生堂口紅「チェリーピンク」CM

1966年の「資生堂サマーキャンペーン」では文化学院の生徒だった前田美波里を起用し、日本のコマーシャル界にとって初めての海外ロケ作品となる「ビューティケイク」を制作し、大いに話題となりました。「太陽に愛されよう」というキャッチフレーズで、夏は日焼けした「小麦色の肌」が美しいという意識が、日本で初めて提唱されたのです。これでモデルの前田美波里は一躍人気者となり、店頭に貼られた彼女のポスターが次々に盗まれる騒ぎにもなりました。

女性の顔立ちやスタイルについての日本人の美意識が、ここから大きく変わったとされています。“おしとやか”“清楚”“可憐”といったイメージにとらわれず、力強いR&Bを歌える和田アキ子をスカウトしたホリプロダクションの堀威夫や、彼女を大きなイメージの歌でスターにしようと考えた阿久悠の考え方も、ここに端を発しているのかもしれません。

ちなみにこのCMは、全米テレビCMフェスティバル国際部門優秀賞や、アジア広告会議TV部門優勝の栄誉に輝いています。

■1967年 資生堂「ビューティケイク」CM

それらの作品で音楽をつくっていたCM音楽のパイオニアが、三木鶏郎門下で作曲家として仕事を始めた桜井順と、ディレクターだった大森昭男によるコンビです。「杉山部隊」と呼ばれていたCM制作のスタッフたちは、みんな若くて20代から30代で、昼間から夜まで酒を飲みながらも仕事は猛烈に進めていくという、いわば生活集団だったと言います。

 杉山部隊の最盛期は昭和四十年あたりから五、六年の間といったところだろうか。セキちゃんこと永井プロデューサーをはじめとする七、八名のワカモノ或はワカモノモドキの一団。よく働き、よく飲み、よくギロンし、よくギャンブルを楽しみ、のべつジョークを飛ばし合い、公私の区別がつかないほどに行動を共にする生活集団だった。

(馬場啓一+石岡瑛子編『CMにチャンネルをあわせた日 杉山登志の時代』PARCO出版)

資生堂の広告における杉山の作品が輝いていたのは、アイデアや技術にとどまらず、杉山に率いられた表現者たちの生き生きとしたバイタリティーが作用していたからだと、桜井が喝破しています。

 資生堂のキャンペーンのピークがそこにあったせいか、〈夏〉のイメージがその頃の想い出すべてにダブってくる。
 それぞれにマキシのコートなど着込んだ冬の杉山部隊もワルクなかったが、真夏、洗いざらしのジーパン、Tシャツ、ハダシに皮ゾーリやゴムゾーリ、後進国ゲリラ一族風のイデタチがこの一団には一番ピッタリしていた。
 夜の仕事の前に柳通りの銭湯へ、湯上がりのオデコでノレンを分けてヤキトリで軽くチュウを一杯。この時期の日天周辺の気楽さ、ヤル気、クリエイチビチーは、今想い出してもハツラツとして。
 この時期、CM作りは〈目的〉や〈仕事〉ではなく、生きることの〈キッカケ〉だったので。CMを手がかりに彼等が生活を実にイキイキと生きていたのでそのバイタリティーの何パーセントかがCMの中へハネ返って、作品も輝いたというワケだ。

(同前)

それまでの仕事のスタイルとはかなりかけ離れた、自由気ままにも見えるクリエイティブ集団は、どことなくザ・フォーク・クルセダーズを彷彿させるものがあります。あるいは阿久悠が「制服を否定し、一人一人が思い思いのコスチュームで現れた」というヒッピー・ファッションのザ・モップスにも通じています。スーツにネクタイというサラリーマンの制服にとらわれず、時間にも縛られず、自由な表現の意思を漂わせていたのが「杉山部隊」だったのでしょう。

そうした「杉山部隊」の仕事の最盛期は1965年からでしたが、時を同じくしてアメリカがベトナム戦争で北爆を始めています。そして日本でもベ平連による反対運動が繰り広げられる一方、学生運動が激しさを増して急速に社会状況が緊迫化していきました。そんなときにCMという狭い世界でスタイリッシュな映像美や、新しい表現を追求する仕事に打ち込んでいた杉山は、どこかに居心地の悪さを感じるようになっていたようです。

桜井は杉山と組んで作った反戦歌を、コマーシャルで流したことがあると言います。

「キレイ綺麗な仕事をしていることに、杉山登志も僕もちょっと寒かった。気持ち悪いところがあった。キレイ綺麗ばっかりで社会性がなくてどっかでイヤだなと思っていたんだろうね。」

(同前)

なお、クリエイティブ・ディレクターとして杉山の才能を大きく伸ばし、同社の全盛時代を築いた資生堂の金子秀之は、表現者としての杉山の特徴を、「きれいなモデルを使って、きれいに仕上げるのではなく、そのモデルの内面、ハートを捉えてフィルムに定着させるということ」と述べています。そして意外な人物との共通点を、このように語っていました。

「感覚的には永六輔さんと似たところがあったように思うんです。少女的な面と、ドタバタを好む面とが同居していたように見ていましたが、商品との結びつきから、私は彼の少女的嗜好をもっぱら開花させることに意を注いでおりました」

(同前)

一つの時代の終わりを予知していた悲劇の人

杉山のもとで一本立ちしたゆうしげは、大学を卒業して社会人になる時は「ドキュメンタリー映画を作りたいとも思っていた」そうです。しかし、「そこには杉山登志という素晴らしい演出家がいるから」という先輩からのアドバイスで、1968年に日本天然色映画に入社してきました。そこで新入社員として配属されたのが杉山部隊です。

「みんなですごいアンテナを張っていて、新しい音楽を見つけてきては、杉さんに聞かせるんですよ。彼から『面白い』と言われるのが嬉しくて。コンサートにはよく行ってましたね」

(田家秀樹『みんなCM音楽を歌っていた――大森昭男ともうひとつのJ-POP』スタジオ・ジブリ)

結城は1970年に杉山から引き継いだ資生堂MG5のCMで、反体制の旗手のように思われていたシンガー・ソングライター、岡林信康を音楽に起用しています。そこで書き下ろしてもらったのが「自由への長い旅」、アレンジと演奏はまだ無名だった頃のはっぴいえんどが担当していました。

その際に接点になる役割を果たしたのも、杉山だったそうです。杉山は1967年から始まったMG5のCMで、音楽にモップスを使っていたこともありました。当時の杉山について桜井は「トシの生活には〈酒〉と同じ位置に〈音楽〉が在った」と語っています。

「デモなんかにも行っていたんじゃないかな。僕もしょうがないから一緒に野音のコンサートに行ったことがあるの。誰々が良いとか言われても、僕は分からないし彼らに対してシンパシーはあっても一緒にやるのはちょっと無理だなという感じでしたけど」

(同前)

杉山の生活にはいつも音楽があり、酒と同じように必需品だったということは、多くの人が証言しています。ときには自分でCMソングの作詞をすることもありました。1973年の資生堂CM「サマーローション」では杉山が作詞、歌および作曲とプロデュースを、はっぴいえんどを解散した直後の大瀧詠一が手がけたものもあります。

それを制作したオン・アソシエイツの大森昭男は、「登志さんは大瀧さんの音楽を好きでしたね」と述べています。ただし「声が暗い」という理由でボツになり、代わりに作られた作品にはまだソロ・デビューする前で、シュリークスにいたイルカが起用されました。

それが大森が杉山と組んだ最後の仕事となったそうです。

「イルカさんもコマーシャルの経験があんまりなくて、表情も声も硬いんですよ。登志さんがイルカさんをくすぐってくれと言うんで、歌っている彼女の後ろから脇をくすぐりましたね。それでとってもほほえましい歌が録れたのを覚えてます」

(同前)

資生堂の社員でアートディレクターとしてともに仕事をしていた石岡瑛子は、杉山が音楽をいかに必要としていたかについて、以下のように記しています。

 カギッ子ではなくて、レコードッ子とでもいう呼び名がピッタリあてはまるような、レコード狂いの友達がいた。もちろん彼は、れっきとした成人であるが、気が向くと御自慢の4チャンネルステレオ装置と、レコードの山に囲まれて、二日でも三日でも部屋に閉じこもってしまう。そういうときの彼は、まるで音楽を食べて生きているという感じなのである。仕事の都合上、東京を留守にすることが多く、特に数ヵ月にわたるような、長旅から帰ってきた時には、音楽に飢えた状態を、一気に取りもどそうとでもするかのように、必ず、そういう時間の過ごしかたをしている。

(馬場啓一+石岡瑛子編『CMにチャンネルをあわせた日 杉山登志の時代』PARCO出版)

杉山はクリエイターとしての絶頂だった60年代後半から70年代に入ってからも、依然として名声とともに数多くの仕事を続けていました。ところが1973年12月13日、赤坂のアパートの自室にて縊死した状態で発見されます。

杉山の死後に自ら編纂した『CMにチャンネルをあわせた日 杉山登志の時代』のなかで、石岡は追悼の思いをこのように記しています。

 あの時、私は仕事で、厳寒のニューヨークに出かけるため、見送りの人々の混雑の中で、杉山登志に電話をかけていた。それは、日曜日の夕暮れがせまる時刻でもあり、案の定、電話の向こうで声は酔いを含んでいる。それも、もう長い時間にわたってのことらしく、言葉のきれがかなり乱れている。いつものように、酒を片手に次から次へとレコードをまわしてる様子がクローズアップで見えてくる。聴こえてくるレコードの音量が高い。気のせいか、話している声がひどく弱々しくなっている。
「……自信がなくなっちゃったんだよう……自信が…すっかり……」。そんな言葉を、今まで一度だって耳にしたことがなかったのだから、考えてみれば、なぜ、その時、大事に受けとめなかったのかと、今まで数えきれないくらいの後悔をしたものだが、とにかくその時、私には彼の心境がこれっぽっちもつかめていなかった。

(同前)

杉山が残した遺書には、次のような言葉が残されていたそうです。

『リッチでないのにリッチな世界など分かりません。
ハッピーでないのにハッピーな世界など描けません。
夢がないのに 夢を売ることなどは……
とても……嘘をついてもばれるものです』

阿久悠とコンビを組んで「ピンポンパン体操」や「北の宿から」のヒット曲を生み出した作曲家、小林亜星はCM音楽の世界とTVアニメーションで実績をあげてから、活動の場を広げてテレビの人気ドラマ『寺内貫太郎一家』では主演まで務めましたが、今もなお現役の作曲家として活躍しています。

小林は資生堂のMG5で初めて仕事をして以来、杉山との付き合いがありました。偶然にも自分のオフィスが杉山の住むマンションと同じだったので、よく姿を見かけたりしていたそうです。しかし自殺したことに対しては、こんな意見を述べています。

私は彼とは立場が違うけれど、やはり彼の死については批判的ですね。CMというのはジョークでやっていないと、やっていけない部分というのがあるわけです。それを真面目にやりすぎてしまった。世界が小さいと思います。もったいないと思う。優れた人だったから、もう少し生きていれば、いろいろやれたのだろうに……。

 やはり一つの時代の終わりを予知していたんでしょう。彼のような人間は生きていけないという意味で……。
(中略)
若くて、歌がうまいだけで芸能界に入って、知らないうちにスターになって、気がついてみたら歌うたうことと芸能界しか知らない歌い手がいるけれど、あれと同じですよ。杉山登志はそういう悲劇の人ですよ。

(馬場啓一+石岡瑛子編『CMにチャンネルをあわせた日 杉山登志の時代』PARCO出版)

羨望と嫉妬の目から逃れて

加藤和彦が日本を離れてたびたびロンドンに行くようになったのは、「モーレツからビューティフルへ」のテレビCM後のことです。それはフォークル時代から折にふれて、周囲からの視線に耐え難いものを感じていたからだったようです。そこから2年ほどの期間、彼は年に4、5回はロンドンに行ってフラットを借り、長ければ3カ月ほどの滞在をするようになっていきました。そしてロンドンで知り合った人たちとのネットワークから、1973年のサディスティック・ミカ・バンド結成にもつながり、そこから自分たちの音楽をたずさえて海外の音楽シーンへと船を出していったのです。

北山修と加藤和彦はフォークル時代から、若くして成功を収めたことで、いつも周囲から強い羨望と嫉妬の目で見られていました。また「苦労知らずのくせに好き勝手なことをやっている」と、身に覚えのない反感を買ってもいました。それが人気を得た者の役割なのだと割り切ろうとしても、彼らはそもそも芸能人になりたかったわけではなく、承服しがたい思いがどこかに残っていたようです。理不尽で過酷なことが多かったと、北山修は自伝の中に記しています。

いささか長くなりますが、そのまま引用します。

 マスメディアというものは、どうしても楽しそうにしている部分、明るい日の当たる部分のみを抽出し、その周辺にある暗がりを隠してしまう機能があります。だから、ことさら明るく楽しげな私たちの部分ばかりが切り取られて編集され提示されていることもまた否めません。舞台の大きな熱狂が終わった後に訪れる空しさや退屈にスポットライトが当たることはないのです。
 そのうえ、私たちは下積みを何年も積んで、その努力が報われて人から評価を受けた、というわけではありません。そういう過程を経ていたのなら、人から多大な評価を受けることは何より嬉しく感じられたかもしれません。ところが、私たちは何の準備状態があったわけでも、大衆文化に対して戦略や計画があったわけでもなく、突然、歌がヒットして脚光を浴びてしまった。あまりにも分不相応と感じずにはいられませんでした。
 この感覚は、アマチュア時代とは決定的に違うものでした。アマチュア時代も、私たちは人気があり、関西を中心に注目されていました。しかし、そのときに、ライブハウスのようなサイズの観衆から受ける期待と手応えは、私たちが受け止めきれるものだったように思います。だから、観衆と私たち演者との間で心のキャッチボールができたし、観衆とともに遊ぶことができた。みんなでつくる〈みんなの音楽〉の精神です。ところが、プロになったとたん、観衆の規模も違ってきます。ライブでもそうですし、ましてやレコードやラジオ、テレビで私たちの音楽を聴いた人たちなどは無数です。私たちが投げたボールが、そうした受け手から何千、何万倍もの大きさになって戻ってきては、もはや受け止めきれません。
 しかも、プロとしてのパフォーマンスを期待されるのです。実際にプロになる準備期間をもっていたわけでもなく、自分たちの才能に確信を持っているわけでもないのに。さらにつらいのは、レコードと同じようにヒット曲を演奏することが期待される。どこへ行っても「帰って来たヨッパライ」をやれ、と要求される。何度も、何度も同じことをやらなければならない――。実際、デビュー直後からの私たちのスケジュールを見ると、来る日も来る日も、テレビやラジオ出演、ライブ活動とすさまじいものです。
 自分たちの置かれた状態に矛盾を感じ、本当に心が引き裂かれるような日々を過ごしていました。皆に合わせる表と、引きこもる裏。そしてその間にあるズレが慢性的に積み重なっていく。しかも、その二重性について恥ずかしいという思い、プロとしてこんなことでよいのかという罪意識などにもさいなまれることになりました。

(きたやまおさむ『コブのない駱駝――きたやまおさむ「心」の軌跡』岩波書店)

ここに綴られている苦しみや悩みは、杉山登志が抱えていたものと通じているように思えます。それは新たな音楽文化や映像文化が生まれる時代の変革期に、その先頭を切って走っている表現者が求めずして負わされる、宿命というものだったのかもしれません。

フォークル時代から50年の歳月を経た2017年8月19日、北山修がTBSラジオの番組『久米宏 ラジオなんですけど』に出演したときのことです。若くして成功したものへの嫉妬や反感について、二人の間で実に興味深い話が展開していきました。そのときの模様が番組のホームページで、文字に起こされて公開になっています。

ともに今は亡き永六輔の“門下生”だったにもかかわらず、二人がまともに話をするのは初めてだったことが、冒頭で明かされていました。そして北山修を紹介する文章のなかで、久米宏の「嫉妬の気持ち」が理由だったと語られていたのです。

 長身でスマート、知的でざっくばらん、今は白髪にメガネ。きたやまさんと久米さんはどこか似ています。年も2歳違いと近い上にともに今年で活動50周年(きたやまさんは京都府立医科大学在学中にフォーク・クルセダーズを結成し「帰って来たヨッパライ」でレコードデビューしたのが1967年。同じ年、久米さんはTBSにアナウンサーとして入社)。そして二人とも、今は亡き永六輔さんの“門下生”。接点があっても不思議ではないのですが、ちゃんと話をするのは今回が初めて。

 これまで共演の話がなかったわけではなく、実は久米さんがきたやまさんを避けていたのでした。というのも、きたやまさんに対してかなり嫉妬の気持ちがあったからなんです。

TBSラジオ 久米宏 ラジオなんですけど ココロはいつもコトバになりたがっている/きたやまおさむ

北山修はフォークルで1年活動して解散した後も、1969年からテレビの『ヤング720』の司会をしながら、深夜放送の『パック・イン・ミュージック』のパーソナリティーとして、若者たちの間でカリスマ的な人気を博していました。

同じ頃、TBSの社員アナウンサーとして入社した久米宏は、研修期間を終えて仕事が始まった時、極度の緊張やプレッシャーから消化器系に異常をきたして、しばらく休養を余儀なくされてしまいます。そのために同僚たちから差をつけられた状況に置かれていたそうです。

しかし1970年4月の改編によって、初めてチャンスが訪れました。『パック・イン・ミュージック』の金曜2部、午前3時から5時までを担当することになったのです。チャンスをものにするためには思いっきり弾けるしかない、そう考えた久米宏は長患いによって溜まっていた鬱憤を晴らすべく、生放送が始まった途端に一気呵成にしゃべりまくりました。

「途中で寝かせてなるものか」と全編シモネタの超エンターテインメント。家族にも親戚にも聞かせられない。いつ上司が止めに入ってもおかしくなかった。
 2時間の中でかける音楽を10曲ほど用意していたが、山積みの投稿はがきを読むうちに話に夢中になって、結局しゃべりっぱなしだった。番組が終わると声は枯れ、帰宅してからも興奮して眠れなかった。

(久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』世界文化社)

リスナーの反応は良く、山のように葉書が来ました。そこで2週目からはできるだけそれを読むように心がけて、張り切って番組を続けていたところで、思わぬ病気が判明して番組の降板を余儀なくされます。健康診断によって肺に影が見つかり、精密検査で結核の診断が下ったのです。パックの人気が出始めていただけに、放送を続けられなくなったショックは大きかったと言います。

そこへすぐに手を差し伸べてくれたのが永六輔でした。

売れればねたまれるし、足を引っ張られる世界

午後の人気番組だった『永六輔の土曜ワイドラジオTOKYO』(以下、『土曜ワイド』)は、1972年5月16日から放送枠が拡大し、午前9時から午後4時半までになりました。それを引き受けたときの永六輔は、1972年を振り返って「僕は父として、夫として悩み始めていた」と著書に記しています。

 三十代で、世間でいうところの有名人になりつつあった。
 家族に一人でも有名人がいると、普通の家族ではいられなくなる。
 これは有名にならないと理解できないと思う。
 思い上がりということを自覚して言うが、有名になろうという努力はしたことがなかった。
 有名になりつつあったのは、幸運と、仲間に恵まれたことに尽きた。
 ところが、はっきりいって有名人になることは、有名税という過酷な重税に耐えることになる。
「四十にして惑わず」というのは噓で、僕は四十を目前にして惑うだけ惑ってしまった。
 中学生にして惑わず、放送の世界に入り、テレビ開局ともつきあい、「マスコミの寄生虫」とも評価され、街を歩けばサインを求められ、並んで写真を撮られ……これはまずいぞと思うようになった。
 そして、取材に行って取材されるようになったとき、「有名人」になりつつあることが不安になった。
 有名になることを望んではいなかったが、結果的に有名になってしまうんだったら、その前にどうしたらいいかを真剣に考えた。

(永六輔『昭和 僕の芸能私史』知恵の森文庫 光文社)

黎明期だったテレビの世界に永六輔が足を踏み入れたのは、大学生だった20歳のときでした。それ以来、周囲には常に有名人になることを望み、テレビに出ることで人気者になろうとする人たちがいました。そして実際にそうなった人たちが、歌手から芸人に至るまで“山積みになる”ほどいたのです。

しかし永六輔はそういう人たちのことを、「売れればねたまれるし、ちやほやされた分だけ、足を引っ張られるのは当たり前のことなのに、それが理解できない呑気な人たち」だと思っていたそうです。東京生まれの江戸っ子だった永六輔には、有名になることは恥ずかしいことだという思いがありました。

地元の浅草で駄菓子屋の女将さんから投げかけられた、次の言葉が忘れられなかったと言います。

「ちゃんとしたお寺さんの坊ちゃんなのに、テレビなんかに出るようになっちゃって、お気の毒にねェ」

(同前)

そうした下町の感覚を大切にしていた永六輔は、マスコミの世界から足を洗わないまま、自分を限りなく無名に近い状態に持っていくにはどうしたらいいのかを、真面目に考えていたのです。そして、まず芸能界と距離をおくこと、テレビのレギュラー番組を持たないこと、読書と旅を最優先すること、なによりもラジオに徹することを決めました。

1969年に商業主義が優先される作詞の仕事を辞めたのは、その前段階だったのでしょう。「ディスカヴァー・ジャパン」に関連して始まった『六輔さすらいの旅 遠くへ行きたい』も、テレビ的な面白さを求めるスタッフと意見が合わずに半年で降板しています。

永六輔はそこから43年にわたって『土曜ワイド』を続けて、2016年に亡くなるまで、決めたことは守り通して生涯を終えるのです。ラジオ・タレントとして生きることを決めた永六輔の『土曜ワイド』は、朝から夕方まで8時間に及ぶ大型番組でした。しかし久米宏は当初、短いワンコーナーだけの出演だったので、当初は身体への負担が少なくて済みました。なんとか永六輔に認めてもらおうと努力を重ねた久米宏は、素っ頓狂な高い声で話す体当たりのリポーターとして人気を得て、出演時間も増えていきます。

永さんがパーソナリティーだった5年間、午前9時5分から午後5時まで最長8時間に及んだ番組を毎週、僕は必死で聴いた。難しい話題からくだらないネタまで一言一句聴き漏らすまいという気持ちだった。永さんの影響を受けるなというほうが無理だろう。ものの考え方や仕事の仕方をこの5年間で学んだ。

(久米宏『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』世界文化社)

『土曜ワイド』出演をきっかけに徐々に道がひらけていった久米宏は、テレビの歌番組『ザ・ベストテン』や『ニュースステーション』で一時代を築くまでになったのです。

北山修は1972年9月に『パック・イン・ミュージック』を降板し、すべての芸能活動を休止してロンドンへ留学、本格的に医学の道へと進みました。それからはメディアへの登場を避けるようになり、やがて東京で精神科のクリニックを開業します。やがて九州大学の教授にも就任したのですが、1990年以降になってから講演やラジオ出演だけでなく、コンサート活動も再開します。

そして21世紀に入ってからは永六輔の『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』に、定期的にゲスト出演し始めました。

『久米宏 ラジオなんですけど』が始まったのは2006年10月、『土曜ワイド』が終わった直後の午後1時からという時間帯です。したがって北山修は隣り合ったスタジオで、番組の準備をしている久米宏と窓ガラス越しながらも、何度となく顔を合わせることになりました。

 そんなきたやまさんを久米さんは「なんだアイツは…」と思いながら見ていたそうです。自分は地べたを這いつくばるようにしてラジオとテレビで格闘してきたのに、アイツは大した苦労もなく、ずいぶん好きなことをやってくれるじゃないか。そんな複雑な感情が、いつしか苦手意識に変わっていったのでした。

 久米さんからの告白に、「そうやってよくうらやましがられるんだけど、私自身は売れたくて売れたわけじゃないんですよ」ときたやまさん。すると久米さんは一気にヒートアップして「そういう話は反感を買いますから、あんまりしないほうがいいですよ!」。きたやまさんは思わず大笑いしながらも、「でも実は、そういう気持ちは大事」と言います。

TBSラジオ 久米宏 ラジオなんですけど ココロはいつもコトバになりたがっている/きたやまおさむ

北山修はこのなかで久米宏に向かって、視界の範囲内に「うらやましい」と言われる存在がいるからこそ、次のフォーク・クルセダーズが生まれるかもしれないし、次のビートルズが生まれるかもしれないと語っていました。自分自身がビートルズのことをうらやましく思い、ビートルズになりたいと思って音楽を始めたのです。したがって「あんなふうになりたい」「あの人がうらやましい」と思う気持ちが、その人のエネルギーになって人を変える力になる、そう考えられるようになったと言うのです。

次号掲載:11月24日(金)

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