街も人の関係も、そして歌も、それはいつも何もないところから始まる。何もないからこそ自由に創り上げていけるのだ。作詞家・阿久悠もそうだった。「ない」から始め、昭和の歌謡界に金字塔を打ち立てた。阿久に続いたソングライターたちもそう。何もないことの不安より、創作する喜びや使命感によって彼らは駆けた。時代の創造者たちの物語や足跡は教えてくれる。前を向き明日を見据えた者にしか、新しいものは生み出せないということを。そこに目を向け、耳を傾けたとき、未来への風はきっと吹く。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第5回 2017年7月21日掲載
第一部 歌謡曲の黄金時代を予告していた「ない・ソング」の登場

第五章 放送作家への道

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ジャッキー吉川とブルー・コメッツやザ・スパイダース、ザ・タイガースなどのグループ・サウンズが巻き起こした一大ブームが日本中を席巻するなか、阿久悠は音楽業界の構造に変革をもたらす時代の流れを、身近なものとして感じ取っていた。そして、作詞家への足掛かりとなる放送作家としての活躍が始まる――。
本気で海外進出も考えていたスパイダース

スパイダースは1966年の3月5日、オランダ・フィリップスから「フリ・フリ’66/ビター・フォー・マイ・デイト」を発売しています。ここから海外進出の可能性が、いよいよ具体化していったのです。初のアルバム『ザ・スパイダース アルバムNO.1』を発売したのは4月でした。これは全曲オリジナルという、日本のロック史における画期的な作品です。

この時に“リヴァプール・サウンド”に対して“トーキョー・サウンド”と名乗り、ビートルズへの対抗意識を見せていたのは、まだテレビ番組『世界へ飛び出せ! ニューエレキサウンド』が続くことを想定していたからでしょう。しかし番組は視聴率が思ったほど上がらず、3月いっぱいで打ち切られてしまいます。そしてスパイダースは5月にホリプロダクションから独立、バンマスの田辺昭知を社長にして、自分たちの事務所「スパイダクション」を設立しています。

そうした事情で、まず経済的な安定を得るために国内でヒット曲を出そうと、田辺の方針で歌謡曲調の「夕陽が泣いている」(作詞作曲 浜口庫之助)を9月15日に発売します。かまやつひろしはじめ、海外市場を本気で狙っていたメンバーたちには不本意な楽曲でしたが、リーダーの判断にしたがって、全員でロック・サウンドのアレンジに仕上げました。

その一方では夢に描いていた世界進出に向けて、10月24日から11月14日までの期間、初のヨーロッパ・ツアーを敢行したのです。かまやつひろしはメンバーだった堺正章との対談で、当時のことをこう回顧し語っています。

かまやつ 僕らはビートルズの出始めからのつき合いなので、追い抜けるんじゃないかって感覚を真面目に持ってたからね。外国へ行って勝負しても勝てるんじゃないかってね。ダメだったけど…。(笑)
 外国に、ちゃんとしたルートも基盤もなく、破れかぶれに無名のグループが行って、世界的に有名なビートルズと勝負しても、俺たちは奇跡を起こして、負けないんじゃないかと思う気質がスパイダースの気質だったよね。

(『グループ・サウンドのすべて』ペップ出版・編)

二人の話からはどんなに確率が低かろうとも、心の底では本気で海外を狙っていたことがわかります。

かまやつ でもやっぱりあの頃は夢が持てる状態だったね。僕らのように髪を伸ばして、エレキをかきならして成功するってのは、日本でもやっぱり百分の一の確率だったもの。
もしかしてあの時点で、今くらい外国に強いスタッフがいたら成功してたかもしれない。

 あの頃なかったのはやっぱりルートね。頼りはオランダのフィリップス社だけだったもの。
それでも嘘じゃなく、オランダ空港に降りたらファンがいっぱいいたし、ロンドンでは、ほとんどの新聞に出たものね。

(同前)

11月半ばに帰国したとき、羽田空港にはたくさんの若者が出迎えに来ました。不在の間に「夕陽が泣いている」が大ヒットし、グループ・サウンズの先駆者として、スパイダースの人気は急上昇していたのです。そこからヴォーカルの堺正章と井上順が人気者になり、国内での仕事が急増したことから、時間的な余裕がなくなって海外進出は幻となります。

ほぼ同じタイミングの11月5日に、ビートルズの来日に刺激されて誕生したワイルドワンズが、東芝の洋楽レーベルであるキャピトルから「想い出の渚」(作詞 鳥塚しげき、作曲 加瀬邦彦)でデビューしました。これがヒットしたことで、その年の秋から暮れにかけて、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、サベージ、スパイダース、ワイルドワンズと、バンドが大きなうねりを作り出していきます。

決定打となったのは年が明けた1967年2月5日、ポリドールの邦楽レーベルからザ・タイガースがデビューしたことでした。デビュー曲「僕のマリー」に続いてセカンドシングル「シーサイド・バウンド」もヒットし、メンバーが自ら演奏して歌うというスタイルが完全に定着します。その2曲はタイガースの名付け親だったフジテレビのディレクター、すぎやまこういち(椙山浩一)が作曲し、弟子の橋本淳が作詞した楽曲でした。ここからグループ・サウンズは若者たちの最新の音楽として、一世を風靡する熱狂的なブームを迎えます。

阿久悠は放送作家の立場でスパイダースに歌詞を書いていたこともあり、エレキ・ブームやビートルズの来日公演前夜の動きに注目し、ほとんど当事者のような意識で、音楽業界の構造的な変革と時代の流れを感じとっていました。

 流行歌と全く質の違う音楽が主流になったため、レコード業界の強固な専属制度は崩壊したのである。いや、現実には崩壊以前に、旧体制下の作家や制作者が、エレキ・ブームやグループ・サウンズというものを、一種の熱病と解したところがあって、手を出さなかったのであろう。
 だから、それらで求められる作詞も作曲も、半素人にやらせておけばいい、どうせ半年、一年で消えてなくなるからという計算である。ブームが去れば、また流行歌が復活する。その時を待てばいい、である。
 しかし、時代の風は少々強く、波は思ったよりも大きかった。

(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社)

放送作家のさきがけ永六輔

1959年4月に明治大学を卒業した深田公之は、中規模の広告代理店「宣弘社」に入社しています。そこでサラリーマンとして働きながら、自由闊達な気風の会社に慣れてきた1963年頃から、アルバイトとして放送用コントや構成台本を書き始めました。いわゆる放送作家となったことで、作詞家への道が開けていくわけです。

放送作家とは文字通り、ラジオやテレビといった放送番組を制作する際に、「企画」や「構成」と呼ばれる業務に携わる作家のことです。これは1950年代の前半に始まったラジオの民間放送開局と、テレビ放送が始まったことによって、必要に迫られて生まれた仕事でした。それまでにはなかった新しい職業は、1950年代後半にテレビが急速に普及するにしたがって、需要が急増していきます。そこから放送作家出身のタレントや司会者、小説家、演出家、作詞家が輩出されてきたのです。

放送作家出身の作詞家として真っ先に名があげられるのは、中村八大に声をかけられて1959年に作詞を始めた永六輔です。初めて映画のために書いた挿入歌と主題歌「黒い花びら/青春を賭けろ」がレコードになり、「黒い花びら」が第1回日本レコード大賞を受賞したことは、この連載の第2回にも書きました。

■水原弘「黒い花びら」

戦争末期に長野県に疎開していた永六輔は、中学生になった1947(昭和22)年に生まれ育った台東区浅草に帰ってきました。そして父や兄が建てたバラック暮らしを始めて、自宅があった土地周辺の焼け跡を掘っては、水道の鉛管や鉄くずなどを集めます。それを売ってお金に換えて、自分で「鉱石ラジオ」を作るためでした。ちなみに拾い集めた金属を仕分けして現金に換えてくれるアンチャンが田所康雄、後の渥美清です。そうやって材料を秋葉原で買って作った鉱石ラジオで、初めて聞いたのが進駐軍放送から流れてきた音楽、ミュージカル『南太平洋』のテーマソング「魅惑の宵」でした。イヤホンから聞こえたメロディに酔いしれて、夢うつつの想いだったと記しています。

永六輔は次にスピーカーの付いたラジオを買う目標を立てると、引き続き焼け跡や工場の跡地などを掘って歩き、金属類を集めて「三球スーパーラジオ」を手に入れました。そしてNHKラジオで圧倒的な人気を集めていた音楽と社会風刺コントによる、『日曜娯楽版』(1947年10月~1952年6月)を愛聴して、そこから自分で自分の未来を手に入れるのです。

その番組を企画して音楽を作っていたのが、師匠となる三木鶏郎でした。出演していたのは楠トシエ、中村メイ子、三木のり平、丹下キヨ子、有島一郎、太宰久雄、小野田勇、千葉信男、河井坊茶などの三木トリローグループ。番組からは従来の流行歌とはタッチが異なる、クラシックやジャズを基調にした洋風の歌、「僕はアマチュアカメラマン」や「僕は特急の機関士で」といった、明るく軽快な楽曲が流れてきました。それらの楽曲を作詞作曲した三木鶏郎は戦時中に東大の法学部に入学しながらも、クラシックの勉強をしていたほどの音楽好きで、コミカルな風刺ソングからリリカルな叙情歌まで、それまでになかった新しい日本の歌を作っていきます。

番組では聴取者からのコントを募集していたので、1933(昭和8)年生まれの永六輔は中学生にもかかわらず、熱心にハガキを書いて投稿をするようになりました。しかも採用率が抜群に高かったので、いつのまにか常連となっていきます。大人の日雇い労働者がニコヨンと呼ばれて日当が240円の時代に、コントひとつで300円になりました。学生のアルバイトとしては、宝くじを売ったりアイスクリームを売ったりするよりも、『日曜娯楽版』のコントのほうがずっとギャラが良かったそうです。

映画雑誌『キネマ旬報』と『映画の友』を愛読していた永六輔は、もらった賞金で映画館や劇場に通いました。当時の『映画の友』の投稿欄には、和田誠、横尾忠則、篠山紀信という常連たちがいました。みんな中学生ぐらいだったといいますから、当時は才能をもった若者たちが映画を通して、お互いをそれとなく知るようになったことが窺い知れます。永六輔は早稲田中学では映画研究会を作って活動し、高校生になると歌舞伎研究会も作ります。人前で初めて小咄をやったのは、「映画の友・友の会」の集まりの席で、編集長だった淀川長治はその時のことを覚えていてくれたそうです。次第に芸能の世界に惹きつけられていった永六輔は、笠置シズ子のバックコーラスだった服部リズム・シスターズのファンクラブをつくります。またSKDの川路龍子、小月冴子にのぼせて、寄席では可楽、志ん生にしびれて、歌舞伎では羽左衛門、新派では花柳と……、「なんでも見なさい」と言ってくれた淀川長治の教えを守って、夢中になって劇場に通う若者になっていきました。

三木鶏郎と『日曜娯楽版』

『日曜娯楽版』の中心人物だった三木鶏郎から声がかかって、永六輔が市ヶ谷にあるトリロー文芸部に招ばれたのは、早稲田大学に入学した18歳のときです。アマチュアの投稿少年はそこからアシスタントを務めるだけでなく、映画や舞台の仕事も手伝うようになりました。早くから将来性を見込まれていたのは間違いありません。

当時のトリロー文芸部には劇作家や演出家として活躍するキノトール、直木賞作家になる神吉拓郎、「血液型人間学」や「血液型占い」を考案する能見正比古、作詞家となる吉岡治がいました。少し遅れてですが五木寛之も在籍したことがあります。音楽の部門には作曲家として成功する神津善行、いずみたく、桜井順がいました。また直木賞作家になった野坂昭如は、三木鶏郎のマネージャーでした。

三木鶏郎の弟で作家や司会者として活躍した三木鮎郎が、GHQ(連合国軍総司令部)に出入りしていたために、文芸部の事務所にはそこから持ってきたパンやバター、缶詰などが常備されていました。そして近所のそば屋からは「トリロー払い」で、自由に出前をとって食べることができたので、慣れてくると早稲田の級友たちを引き連れて、ごちそうしていたこともあったそうです。お金がない場合でも文芸部にギャラの前借りをして、映画や寄席、コンサートや歌舞伎、ボクシングまで、興味のあるものには何でも積極的にでかけていきました。それも淀川長治からのアドバイスがあったからですが、そのことが本当に財産になったと、永六輔は後に何度も述懐しています。

そうそうたる面々が揃っていたトリロー文芸部に出入りし、10代の若さで放送作家として活躍し始めた才気あふれる永六輔に、このとき時代の流れが大きく味方しました。民放の開局ラッシュとぶつかったのは、阿久悠流にいえば「時代が来た」ということだったのでしょう。当時のトリロー文芸部には放送というメディアを使って、とにかく新しい時代を作るのだという意気込みと活気があふれていたそうです。

 僕らはね、昔の文芸部時代と同じでメディアのふきだまりなんです。トリローさんはどこにも属さず、「日曜娯楽版」で痛烈な風刺コントを書いた。僕も野坂さんも、小沢さんも、組織に属してない。僕は彼らの背中をみて歩き、前に出なければ間違うことはないと思って生きてきた。

(朝日新聞2010年6月22日「放送タレント・永六輔 追憶の風景 三木鶏郎文芸部(東京・市ヶ谷)」)

全国各地に民間放送が開局し始めたのは、1951(昭和26)年からのことでした。それは敗戦の混乱が少し収まって、世の中が落ちついてきたことを象徴する出来事だったとも言えます。それから数年のうちに、東京と横浜で四つの民間放送局が相次いで開局しました。ラジオ番組の構成を手がける人材が不足するのは当然です。引っ張り凧の忙しさとなった永六輔は、放送局に寝泊まりして、毎日2本の台本を書きとばすという状態になります。

1958年にラジオ関東(現ラジオ日本)が開局した時は、『昨日の続き』という番組の構成を引き受けたものの、台本が間にあわないために前田武彦と二人で、急にマイクの前でしゃべり始めました。これこそがフリー・トークと呼ばれる、新しい形のラジオ番組の始まりです。その年末には忙しさを逆手にとって、同時刻に「NHK、TBS、LF、QRと、どこの放送局をまわしても僕の脚本を放送しているというイタズラをやった」と言います。

■永六輔(左)と前田武彦

 当然のことながら、先輩作家からは軽蔑され、軽蔑されれば反抗した。
 久保田万太郎、菊田一夫、徳川夢声といったベテランがまともに不快という視線を向けた。
 夢声の日記には「永六輔不快なり」と活字になってまで残っている。
 菊田一夫は「あいつは蠅みたいな奴だ。刺しはしないがうるさい」といった。

(永六輔『坂本九ものがたり─六・八・九の九』ちくま文庫)

その一方では世田谷区砧にあった東宝撮影所に通って、映画音楽の仕事の助手をやっています。東宝では三木鶏郎が音楽を引き受けていた「落語長屋」という映画のシリーズがヒットし、そこにもギャグマン として参加していました。そんな時「スクリーン・ステージ」という新聞に、三木トリローグループの女優、丹下キヨ子の「学生だけど永六輔っていう若い子が面白いホンを書いているよ」という発言が掲載されたのです。これが初めて活字になった「永六輔」という名前だったといいます。永六輔はその自分の名前のところを何度も声を出して読み、自分の知らない人が同じように、その名前を読んでいると思うだけで胸がドキドキしたと、喜びを素直に表現しています。

 アマチュアとしてコントを投書していた僕は、大学生になってトリローさんに呼ばれて通うようになり、いきなりプロのスタッフになった。20歳の時にはテレビ放送が始まって一気に新しい時代になだれこんでいく。NHKと日本テレビの開局番組を手伝って、トリローさんから番組を任せられて台本を書きまくった。
 いま僕が20歳の若者に番組を預けるなんてとんでもないけど、当時の僕がしっかりしていたわけじゃなくて、だれもいなかったからです。
 テレビの前はラジオ。ラジオの前は映画。ある時代が始まる時は先輩や師匠がいない。だから好きなようにできた。いかに恵まれていたか。

(朝日新聞2010年6月22日「放送タレント・永六輔 追憶の風景 三木鶏郎文芸部(東京・市ヶ谷)」)

テレビの本放送がNHKと日本テレビで始まるのは1953(昭和28)年からですが、永六輔は実験放送の段階で、すでにテレビという新しいメディアに夢中になっていました。暇があると実験放送のスタジオを見学に行き、胸を躍らせてテレビというものを勉強していたのです。そしてラジオの脚本だけでなく、テレビでも台本を書きはじめます。例えば江戸家猫八、一竜斎貞鳳、三遊亭小金馬の三人を主役にした『青春カレンダー』という番組を、日本テレビで書いたことがあります。このトリオはそのままNHKに移って、長寿人気番組となる『お笑い三人組』が始まりました。

そこでさらに新しいトリオを見つけて彼らの番組『お昼の演芸』(日本テレビ)を作りましたが、これが由利徹、八波むと志、南利明の脱線トリオです。ここでも三人はたちまちのうちに人気コメディアンになっていきます。

 かつて明治の末に、映画が京都に入って、京都の不良少年達が、その新しいメディアに吸収され、そこで活躍したように、テレビそして民間放送には、当時の20歳前後の才能が流れこんでいた。

 まずはテレビに、そして、その世界からさらに花火のように散って、別のジャンルへ。
 つまり、放送作家出身の小説家、脚本家、政治家、司会者などなど……。
 同世代の井上ひさし、藤本義一、青島幸男などなど……。
 毎日が刺激的で、充実していた……と六輔は思っていた。
 特にテレビの世界には、先輩がいない。師匠もいない。

(同前)

先輩や師匠がいない、番組作りにも定まったフォーマットがない、いわばないないづくしから始まったテレビの時代に、永六輔は一期生として活躍の場を得たのです。徹夜につぐ徹夜で台本を書きながら、仕事仲間たちと朝から草野球をやっていたといいます。若さのなせるわざだったとは言え、いかに気力がみなぎっていたのかが伝わるエピソードです。

それから5年が過ぎて、気がつけば放送作家という肩書がついていました。そこで不安定な社会的立場を改善し、権益を擁護しつつ、相互の親睦をはかることを目的として、1959年9月に「放送作家協会」を創立することになります。創立時の会員は364名でした。

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