沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第34回 2018年3月30日掲載
第三部 新たな風を吹かせた作詞家たち

第五章 作詞・訳詞・日本語詞

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なかにし礼は映画的な手法で注目を集めていた阿久悠の「また逢う日まで」にインスパイアされ、一編の映画をイメージして「別れの朝」を書いてヒットさせた。しかし経済的なトラブルなどに巻き込まれて、いい作品を書くことに集中する環境を失っていく。ふたたび充実した作品を書くきっかけは、グラシェラ・スサーナというアルゼンチンの歌手に書いた「サバの女王」が、シングルのB面だったにもかかわらず、音楽ファンに発見されたことだった——。
日本語詞の「別れの朝」が大ヒット

1971年の10月にペドロ&カプリシャスのデビュー・シングルとしてリリースされた「別れの朝」は、オーストリアのシンガー・ソングライター、ウド・ユルゲンスが1967年に発表した作品のカバーです。「Was ich dir sagen will」というタイトルは、「私があなたに言いたいのは」という意味でした。日本ではシャンソン歌手の大木康子によって、1969年に「夕映えのふたり」(訳詞 堀内みち子)としてカバーされています。ただし、1971年の夏になかにし礼が訳詞を依頼されたのは、英語の歌詞による「ミュージック・プレイ」というカバーを基としてのことでした。

東京の赤坂にあったクラブ「ニューラテンクォーター」になかにし礼が出かけたのは、そこに出演していたラテン・バンドを観てほしいと言われたからです。声をかけてきたのはTBSの若手プロデューサーで、長寿番組『ロッテ歌のアルバム』を改革するために、新たに担当となったばかりの渡辺正文でした。

13年目を迎える伝統ある番組を若者向けにリニューアルするにあたり、忌憚のない意見を交わすブレーンとして月に1回、制作側と入念な会議を行うためにスパイダクション(現・田辺エージェンシー)社長の田辺昭知、オリジナルコンフィデンス社長の小池聰行、TBS系列の音楽出版社である日音の常務だったプロデューサーの村上司(まもる)、そして日音との仕事が多かったなかにし礼の4人が集められました。

新人の登竜門となる「今月の歌」というコーナーが新しく設けられたのは同年4月からでした。そして第1号に選ばれた野路由紀子のデビュー曲「私が生まれて育ったところ」が、まずまずのヒットになって幸先よいスタートを切ります。それに続いて5月にも南沙織のデビュー曲「17才」が選ばれたのですが、これが大ヒットして70年代から始まるアイドル時代の幕が開いたのです。こうしてリニューアルされた番組は軌道に乗り、「今月の歌」への注目度も高まりました。

その年、ペドロ&カプリシャスには前野曜子という、実力ある新しいヴォーカリストが参加しました。そのことで前途が大きく開けて、レコード・デビューを目指していました。デビュー曲の候補だったのは映画“007”シリーズの主題歌「ロシアより愛を込めて」をヒットさせたイギリスのバラード・シンガー、マット・モンローが1968年にリリースした「The Music Played(ミュージック・プレイ)」という楽曲です。

■マット・モンロー「The music played」

ニューラテンクォーターでショーの最後に「ミュージック・プレイ」が歌われると、客とホステスたちはフロアに出て踊り始めました。演奏の後半にはバンドがコーラスで加わって、「ラ、ラ、ラ、ラーラー」とフィナーレを盛り上げていきます。なかにし礼はその場で、何よりも前野曜子の歌唱力に感心しました。そして訳詞を依頼した渡辺に向かって「詞さえ良ければ絶対にヒットする」と、自信たっぷりに述べたのです。

それから2週間後に行われるレコーディングの日まで、なかにし礼は夜通し別れ話をした後の男と女を主人公にして、さまざまに物語を展開させながらひらめきを待ったそうです。そして朝の紅茶を挟んで向き合う二人を一編の映画をイメージしながら、映画監督になった気分でカメラの位置や使用するレンズの種類などを考えて、「別れの朝」の各シーンを歌詞に落とし込んだといいます。


「別れの朝」
作詞 Joachim Fuchsberger/作曲 Udo Jürgens/日本語詞 なかにし礼

別れの朝 ふたりは
さめた紅茶のみほし
さようならのくちづけ
わらいながら交わした

別れの朝 ふたりは
白いドアを開いて
駅につづく小径を
何も言わず歩いた

言わないで なぐさめは
涙をさそうから
触れないで この指に
心が乱れるから

やがて汽車は出てゆき
一人残る私は
ちぎれるほど手をふる
あなたの目を見ていた

言わないで なぐさめは
涙をさそうから
触れないで この指に
心が乱れるから

やがて汽車は出てゆき
一人残る私は
ちぎれるほど手をふる
あなたの目を見ていた

あなたの目を見ていた


六本木にあった日活スタジオにバンドとスタッフが揃い、アレンジャーの前田憲男が指揮するストリングスとのリハーサルも終わり、関係者全員が「まだか、まだか」と待っているところに、なかにし礼が書き上がった歌詞を持って現れました。急いでそれを読んだ渡辺の目は、途中からうるんでいきました。初めて日本語の歌詞を渡されたヴォーカルの前野曜子は、練習する間もなくその場でミュージシャン全員と音合わせして本番に入りましたが、最初のテイクでスタッフ全員とバンドの両方からオーケーが出たといいます。

そこから3カ月後の発売日までの間には、渡辺からテスト盤の音源を聴かされた野路由紀子の事務所の社長が、自ら無償で各放送局へのプロモーションを買って出るなど、予想外の好反応もあって事前のプロモーションは行き届いていました。もちろん『ロッテ歌のアルバム』でも、10月の「今月の歌」に選ばれています。そして10月25日にレコードが発売されると順調にヒットして、翌年の2月14日からは4週連続でオリコンチャートの1位になり、なかにし礼の発言は現実のものとなったのです。

原曲を訳した「サバの女王」

「別れの朝」が大ヒットへの動きを見せ始めていた1971年の年末、TBSが関わっている第14回日本レコード大賞が発表されました。そこで満場一致といった雰囲気の中で大賞に選出されたのが、尾崎紀世彦の歌った「また逢う日まで」(作詞 阿久悠/作・編曲 筒美京平)です。すでに第1部の第13章でも述べましたが、「また逢う日まで」は男女の別れという歌謡曲の普遍的なテーマに、新しいパターンを描き出そうとしたことで、1970年代初頭ならではの時代性をとらえているという評価を得ました。

当時の音楽シーンをリアルに体験してきた小西良太郎が、端的にまとめています。

 〽ふたりでドアを閉めて、ふたりで名前消して、そのとき心は何かを話すだろう…

“別れ”は流行歌永遠のテーマだが、従来のヒット曲に比べればこの作品は、情緒的湿度が珍しいくらい低く、尾崎のポップスふう陽性な力唱に似合った。部屋の入り口が引き戸ではなく、ドアでマンション風なことも、洋画の一シーンみたいに新鮮だった。

(小西良太郎『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』幻戯書房)

明らかに映画的なイメージを持つこの2曲を続けて聴いてみると、男性の側に立った「また逢う日まで」に対して、「別れの朝」は女性の側からの返歌なのではないかという思いを強くします。それと同時に阿久悠という新しい才能が登場したことを認めて、なかにし礼から届けられた挨拶状、もしくは挑戦状のような作品にも思えるのです。

しかし小西良太郎の著書には、1972年から73年にかけてのなかにし礼が「いい歌」が生まれるような状態にはなかったことが、このように記されています。

時代の寵児にのし上がった後の彼は、この時期スキャンダルまみれなのだ。
 黛ジュンの「天使の誘惑」(四十三年)、菅原洋一の「今日でお別れ」(四十四年)で、レコード大賞を連続受賞するが、学生時代からの結婚生活は破局、四十五年に実兄の会社が倒産、一億円の負債を抱える。彼の艶聞を軸に、週刊誌が大騒ぎした「芸能界相愛図事件」は裁判沙汰に発展、そんな中で四十六年、歌手石田ゆりとの結婚を強行する。作詞家が手がけた有望新人をさらった形だから、業界の反発が強かった。四十七年には実兄のゴルフ場投資がたたって、また三億円の負債……。資金ぐりに奔走していると聞いていた。心臓発作で倒れた噂もあった。結婚の後見人に右翼の大物児玉誉士夫氏をかつぎ出すあたりもキナ臭く、何やってんだ!と疎遠になっていたのが当時の彼である。

(同前)

なかにし礼はそうした状況にあっても、作詞の仕事をしないわけにはいきませんでした。兄に背負わされた巨額の負債を返済するには、ヒット曲を書き続けなければならなかったのです。

会うのは債権者、言うのは言い訳。借金を返すために、ひたすら歌を書いてる自分が哀れであった。

(なかにし礼『翔べ!わが想いよ』文春文庫)

しだいに殺伐とした毎日になっていったそうですが、そんな中から生まれてきたのが「サバの女王」という歌です。1971年に菅原洋一がアルゼンチンへ旅行したとき、首都ブエノスアイレスのタンゴ喫茶で歌っていたところを見出したグラシェラ・スサーナは、1972年7月11日に発売のシングル「サバの女王」が支持されたことで、定期的に来日してレコーディングやコンサート活動を行うようになりました。

彼女のためになかにし礼が書いた「サバの女王」は当初、シングル「愛の音」のB面に入っていた曲です。それが発売から1年が過ぎた頃になって、じわじわと人気が出て有線放送で火がつき始めたのです。スサーナをマネージメントしていたのは小澤音楽事務所、原盤制作会社はプロデューサーの藤原慶子(おけいさん)が社長のJ&Kでした。

「サバの女王」はその後、菅原洋一の「知りたくないの」や「今日でお別れ」と同じように、作品の良さによって長い時間をかけて世に発見されて、音楽ファンの間に深く浸透していくことになります。決して派手なヒットにはならなかったのですが、この曲が収められたアルバム『アドロ・サバの女王』が記録的なロングセラーとなっていきました。そうした動きと連動するようになかにし礼は1974年から、徐々に充実した作品を発表するようになり、ふたたび大きなヒット曲を生み出していくのです。

「サバの女王」はレコードでは訳詞という表記になっていますが、原曲がインストゥルメンタルでしたから、実際には作詞といえる作業でした。

なかにし礼は「知りたくないの」については、明快に訳詞であると断定しています。それは原詞をくりかえしくりかえし読んで、どうやったらそこに込められた思いを日本人の心にうつしかえることができるだろうかと、悩んだ末に書いたものだからです。しかし「別れの朝」と「サバの女王」については、訳詞ではなく作詞であると自説を述べています。

『別れの朝』という歌がある。これは絶対に作詞です。
 何故なら、ドイツ語の原詞も、英語になった訳詞も、私はなんの刺激もうけなかったし、事実、なんてつまらない詞がついているんだろうと思い、こんな素晴らしいメロディにはひどすぎると自惚れて書いた詞だからです。
 原詞のどこにも、ほんのちょっぴりも触れているところがないのです。だから、この歌を訳詞と言われると不愉快になります。
『サバの女王』という歌がある。
 これは、いったいなんでしょう。訳詞でしょうか、作詞でしょうか。とにかく、原詞というものがないのです。ただ、あまりにもメロディが美しくて、口ずさんでいるうちに、あの詞が出来上がってしまった。これは、原詞がないのだから、原曲を訳したというべきでしょうか。
 でも、これも、作詞のうちでしょうね。

(なかにし礼『遊びをせんとや生まれけむ なかにし礼の作詞作法』毎日新聞社)

自立する女性が旅立つ歌

1972年から73年にかけて、シンガー・ソングライターたちが台頭してきたのと時を同じくして、作詞家としての阿久悠が躍進を果たしています。しかし当時のなかにし礼は借金の返済に追われて作詞家であろうとする気持ちが薄れていたことや、作風が異なることもあってなのか、阿久悠を特にライバル視していません。実際にはライバルが登場して著しい活躍をしていたことを、いやというほど承知していたはずですが、それどころではなかったのでしょう。

けれども阿久悠が書いたある曲に刺激を受けて、そこから創作意欲を掻き立てられた形跡が見られます。そのある曲とは、1973年にペドロ&カプリシャスが歌った「ジョニィへの伝言」です。なかにし礼は「歌謡曲=流行歌」と日本人との結び付きを思索した「不滅の歌謡曲」の中で、「ジョニィへの伝言」がなぜ音楽史において重要な曲なのかについて言及しています。

なかにし礼は大正期に誕生した歌謡曲とともに、歌の中に登場する女性が自己の存在に目覚め、そこから存在感を増して自らの意志で歩き始めたはずだったという認識を前提としています。にもかかわらず昭和に入ると、軍国化の流れに乗って良妻賢母や軍国の母というキャッチフレーズで、国家が求める女性像に収斂してしまったという見解を示したうえで、次のように続けています。

 そして戦後になっても、女性が旅立つ歌が登場するまでは、かなりの年月を要することになります。「東京ブギウギ」のように一見お祭り騒ぎの歌が一世を風(ふう)靡(び)はしましたが、あの歌は戦後に登場した、スカートをはきおしゃれをして街を闊歩するという女性の歌です。アクティブな女性像ではありますが、決して自らの意志で旅立つ女性ではありません。相変わらず旅立つのは男性であり、男女の別れも男からという時代がしばらく続いたのです。
 そこに風穴を開けたのが、昭和三十五年(一九六〇)の「アカシアの雨がやむとき」です。これは女性が自ら命を絶つことをテーマとしたもので、自分の意志で人生を否定する歌でもありました。彼女は、最後の「さがして遥かに 飛び立つ影よ」という言葉にあるように、人生そのものを捨てて旅立ってしまいます。その背景には六〇年安保があった。当時の若者たちに目指した革命とは、現在を否定することでした。現在を否定する革命の論理と、現世を否定する「アカシアの雨がやむとき」の主人公の女性の姿が一致したわけです。
(中略)
したがって、この歌を抜きに昭和の歌謡史を語ることはできません。「アカシアの雨がやむとき」によって、女の旅立つ心情が初めて吐露されたということを決して忘れてはいけないと思います。
 その流れを受けて昭和四十八年、ついに女性の旅立ちを本格的に扱った歌が現れます。それが、ペドロ&カプリシャスの歌った「ジョニィへの伝言」です。「ジョニィが来たなら 伝えてよ/二時間待ってたと」と語る主人公は、「サイは投げられた もう出かけるわ/わたしはわたしの道を行く」と告げます。西部劇映画の一シーンのような情景を歌った歌。高度経済成長期を経て、ようやく女性が男性の前から旅立つ時代が来たのです。この歌は、もちろんその時代精神をすくい上げてもいた。そうした意味で、阿久悠の作詩が果たした役割は非常に大きかったと思います。

(『NHK知る楽 不滅の歌謡曲』2009年8・9月号 NHK出版)

阿久悠は、ペドロ&カプリシャスの新曲を頼まれた時、当然ながら大ヒットしたデビュー曲「別れの朝」を強く意識したことでしょう。普通の依頼であったならば、もしかすると断っていた可能性もなくはないと思います。しかしヴォーカリストが前任者の前野曜子から高橋真梨子に交代した時だったので、新しい持ち味を出すのであれば挑戦してみようという、奮い立つような思いがあったのでしょう。

その時の気持ちを、このように記しています。

 ペドロ&カプリシャスの前メンバーの時、「別れの朝」というヒット曲があった。なかにし礼が作詞したいい作品で、これには負けられないと思い、新しさを感じさせたいものだと工夫もした。

(阿久悠『愛すべき名歌たち―私的歌謡曲史―』岩波新書)

パートナーだった作曲家の都倉俊一も、新しいヴォーカリストの高橋真梨子の歌声に触発されたことを、このように述べています。

 初めて高橋真梨子の声を聞いた時の事はよく覚えている。一言でいうと日本人離れした太くて重い声なのである。これはもって生まれたものであるが、息が全部声になって効率よく出て行くので、楽に歌っているのだが声量がある。言葉もはっきりするので詞の説得力にもつながるのである。アメリカで言えばカレン・カーペンターやジャズのペギー・リーがそういう声であるが、歌手としては大きな武器である。

(都倉俊一『あの時、マイソングユアソング』新潮社)

この時は都倉俊一によるメロディーが先に出来て、それに合わせて阿久悠が歌詞を書きました。そして「ざんげの値打ちもない」と同じように外国を舞台にして、映像のイメージをふくらませながら物語を展開させていったのです。だからその詞は景色も行動も、まるで日本人離れしたものになったのでした。歌い出しのメロディーが4音だったので、「ジョニー」ではなく「ジョニィ」と書いたということを、自ら解説しています。


「ジョニィへの伝言」
作詞 阿久悠/作・編曲 都倉俊一

ジョニィが来たなら伝えてよ
二時間待ってたと
割りと元気よく出て行ったよと
お酒のついでに話してよ
友だちなら そこのところ
うまく伝えて

ジョニィが来たなら伝えてよ
わたしは大丈夫
もとの踊り子でまた稼げるわ
根っから陽気に出来てるの
友だちなら そこのところ
うまく伝えて

今度のバスで行く
西でも東でも
気がつけばさびしげな町ね
この町は

友だちなら そこのところ
うまく伝えて

ジョニィが来たなら伝えてよ
二時間待ってたと
サイは投げられた もう出かけるわ
わたしはわたしの 道を行く
友だちなら そこのところ
うまく伝えて
うまく伝えて


こうして完成した「ジョニィへの伝言」はヒットし、阿久悠作品を代表する一曲になります。

 ぼくも都倉俊一も、自分たちが思っている歌のいちばん好きな形を自由に書いたもので、今もって好きな作品の上位に挙げている。
 〽もとの踊り子でまた稼げるわ 根っから陽気に出来てるの……も、〽今度のバスで行く 西でも東でも 気がつけば さびしげな町ね この町は……も、〽サイは投げられた もう出かけるわ わたしはわたしの道を行く……も、昭和四十八年当時、ぼくが三十六歳の時、カッコいいと思った女性の台詞である。ぼくはこの歌を、一編の映画のように考えた。

(阿久悠『愛すべき名歌たち―私的歌謡曲史―』岩波新書)

なかにし礼が時代の寵児となっていた1969年に、地味ながらも小ヒットした阿久悠の「白いサンゴ礁」と「港町シャンソン」は、いずれも映画的な手法に新しさを感じさせる作品でした。そして新しい男女の別れをテーマにした「また逢う日まで」の大ヒットで、作詞家としての地位が確立したといえます。

そこに登場したのがなかにし礼の「別れの朝」で、一編の映画をイメージし、カメラワークを意識して歌詞に落とし込んだ作品は、阿久悠の手法と主題の両方にインスパイアされていたと考えられます。それを受けて阿久悠もまた、同じく映画的な手法にいっそうの工夫をこらして、「ジョニィへの伝言」を書いたことになります。それが発想の仕方やイメージのふくらませ方にとどまらず、女性の自立を促すというメッセージにおいても共通していたところに、時代と歌の作り手、そして作品の根源的な結び付きを感じずにはいられません。また、それまでの作詞家にはなかった「そこのところ うまく伝えて」という言葉に含まれる感覚、「ジョニィへの伝言」からにじみ出てくる日本語の微妙なニュアンスには、改めて阿久悠の才能と感性に触れた思いがするのです。

次回につづく

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