沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第23回 2017年12月8日掲載
第二部 「ざんげの値打ちもない」という夜明け

第三章「ざんげの値打ちもない」が誕生した背景

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前年に浅川マキの「かもめ」、その年の春に藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」と、今も歌謡ファンの間に語り継がれる異色の名曲が生まれた1970年、阿久悠に依頼されたのが高い実力を持つ新人歌手、北原ミレイのデビュー曲だった。タレント性ではなく作品力で勝負したいという要望を受けて、阿久悠は自由に大胆にタブーを破った詞を書き上げる。阿久悠の代表作ともいえる「ざんげの値打ちもない」の誕生だった――。
寺山修司が浅川マキに書き下ろした「かもめ」

1960年代に入ってテレビに観客を奪われた大手の映画5社は、しだいに斜陽になっていきました。新しい企画よりも定番化した娯楽作品とシリーズ作品が多くなり、そのために内容がマンネリ化し、観客離れが進むという悪循環に陥ったからです。そうした状況に危機感を持ったのが、松竹ヌーヴェルヴァーグの中心だった大島渚や篠田正浩、吉田喜重、そして大映の増村保造、東宝の岡本喜八など、作家性の強い作品を作る映画監督でした。彼らが独立して自分のプロダクションを立ち上げたのは、たとえ大きなリスクを抱えたとしても、ほんとうに作りたい映画を作るためです。

そうした映画づくりの拠点となったのが、「アートシアター新宿文化」という映画館でした。そこで低予算による映画づくりへの道筋をつけたのは、三島由紀夫が自ら製作した短編映画『憂国』(脚本・監督・主演)が、1966年に公開されて大ヒットしたことです。独立プロを作った上記の監督たちはATG(日本アート・シアター・ギルド)との提携で、数々の問題作や話題作を製作して公開し、映画関係者ばかりでなく各方面に影響を与えていきます。

ATGで采配を振るっていた支配人のくずきんろうは、「アートシアター新宿文化」の経営を軌道にのせた1967年6月、実験的な映画や芝居を発表するためスペースを劇場の地下にオープンさせます。そこは客席が90しかないのに、会員のためにサロンを併設していました。カウンター・カルチャーの発信源となるそのミニシアターに、「アンダーグラウンドさそり座」と命名したのは三島由紀夫です。

1階にある「アートシアター新宿文化」と地下の「蠍座」の周辺には、有名無名を問わず演劇人や映画人、文化人、知識人、アーティストなどが集まってきました。彼らはジャンルを越えてさまざまにつながり、お互いに刺激しあいながら活躍していきます。そこへ引き寄せられるように集まってきた若者たちも、怖いもの知らずの“若さ”と、“新しいもの見たさ”の冒険心で互いに化学反応を起こしていくことになります。

銀座にあったシャンソン喫茶「銀巴里」でブルースを歌っていた浅川マキが、寺山修司に見出されて「蠍座」で初のワンマン公演を開催したのは、1968年12月13、14、15の3日間のことです。それを仕掛けた音楽プロデューサーの寺本幸司が、その時の様子をCDのライナーノーツに記しています。

 新宿アンダーグラウンド・シアター「蠍座」で、寺山修司構成演出で、浅川マキ公演をやった。毎夜10時開演というライブで、かなりの冒険で心配だった。でも、蓋を開けたら、ドアが閉まらないほどの連日満員で、成功した公演となった。初日の13日の後半、いわくつきの「ロンググッドバイ」をマキが歌い終わったとき、最後列の暗がりで立っている寺山修司と眼があって、ふたりして頷いた。いま「浅川マキ」という歌手が生まれた、と思った。

(浅川マキCD「Long Good-bye to MAKI」ライナーノーツ)

この公演のために13曲を書き下ろしで作詞した寺山修司は、コンサートの演出も手がけていました。それ以来、蠍座では浅川マキのコンサートが定期的に行われるようになり、寺山修司が書いた歌ともども、アングラ的な世界が評判になっていきます。

後に代表曲となる「かもめ」は1969年7月、東芝レコードのEXPRESSレーベルから発売されました。浅川マキが自分で作詞した「夜が明けたら」のB面でしたが、港町の娼婦が刺される事件をモチーフにした歌詞は演劇的で、物語性が強い寺山ワールドそのものです。


「かもめ」
作詞 寺山修司/作曲 山木幸三郎

おいらが恋した女は
港町のあばずれ いつも
ドアを開けたままで着替えして
男達の気を引く浮気女
かもめ かもめ 笑っておくれ

おいらは文無しマドロス
バラ買うゼニも無い だから
ドアの前を行ったり来たりしても
恋した女にゃ手も出ない
かもめ かもめ 笑っておくれ

ところがある夜突然
成り上がりの男が 一人
バラを両手いっぱいに抱きかかえて
ほろ酔いで女のドアを叩いた
かもめ かもめ 笑っておくれ

女の枕許にゃバラの
花が匂って 二人
抱きあってベットにいるのかと思うと
おいらの心はまっくらくら
かもめ かもめ 笑っておくれ

おいらは恋した女の
安宿に跳び込んで 不意に
ジャックナイフをふりかざして
女の胸に赤いバラの贈りもの
かもめ かもめ かもめ かもめ

おいらが贈ったバラは
港町にお似合いだよ たった
一輪ざしで色もあせる
悲しい恋の血のバラだもの
かもめ かもめ 笑っておくれ
かもめ かもめ さよなら あばよ


シングル・レコードの売り上げは今ひとつでしたが、歌は時間をかけて都会の夜に浸透していきました。特に盛り場のジュークボックスからは、A面の「夜が明けたら」以上に、B面の「かもめ」が頻繁に流れていたそうです。また映画や演劇の関係者が出入りする新宿の花園街(現・ゴールデン街)、バーやスナックが集まっている旧赤線の3丁目、同性愛者の店が増え始めていた2丁目の界隈でも、小さな店のプレーヤーでよくかかっていました。

そしてシングルから1年と少し経った1970年の9月には、「蠍座」でのコンサートの模様を収録したアルバム『浅川マキの世界』が発売になっています。これは10年以上にもおよぶロングセラーとなり、浅川マキには「アンダー・グラウンドの女王」という称号が与えられることになります。

時代が求めていた暗い歌

メジャーな芸能界では藤圭子がブームの頂点に祭り上げられ、アングラでは浅川マキが注目を集めていた1970年の時代性について、阿久悠はこのように述べています。

 昭和四十五年というより、この年に限っては、一九七〇年といった方が記憶の役に立つかもしれない。実際、この年ほど、暗く騒然としていた年を他に知らない。
 アンポの年であった。ベトナム戦争反対の動きも高まった。公害問題も深刻化する。それらを内蔵して行動は激化し、ついには、日本初のハイジャック事件も起こり、ゲリラ、ハイジャック、リンチなどという言葉が日常語になってしまう。人々は、日本人のすべてが革命家になったのではないかとおびえたのである。
 その一方では、〽こんにちは こんにちは 世界の国から……と大阪万博が開催されて、経済大国のデモンストレーションは成功する。
 それはそれでまた反省もあって、「モーレツからビューティフルへ」とか、「ディスカバー・ジャパン」とかが唱えられるようになり、時代は三つの顔を持ってしまう。
 それを知ってか知らないでか、藤圭子はポロンポロンとギターをつま弾きながら、怨みを発し、
〽十五、十六、十七と
 私の人生暗かった
 過去はどんなに 暗くとも
 夢は夜ひらく
と歌いつづけたのである。

(阿久悠『愛すべき名歌たち―私的歌謡曲史―』岩波新書)

ここで取り上げられた音楽や時代を象徴する顔を思い浮かべてみると、大阪万博のテーマ・ソング「世界の国からこんにちは」を満面の笑顔で歌っていた三波春夫、それを作曲した中村八大の姿がまず見えてきます。そして「モーレツからビューティフルへ」という広告のキャンペーンではテレビCMに出演した加藤和彦、「ディスカバー・ジャパン」ではテレビ・ドキュメンタリー「遠くへ行きたい」にレギュラー出演した永六輔が見えます。さらにはスポットライトの中でただひとり、虚無感を身にまとって歌い続けていた藤圭子ということになるでしょう。

阿久悠は自分が三つの顔を持ってしまったと感じた時代に対して、どの視点からどこへ焦点を合わせていけばいいのか、それをどのように歌にするべきなのかと考えたに違いありません。そこから出した答えの一つが、怒りを込めて〈怨み〉の歌を書く、ということだったのではないかと思われます。

「ざんげの値打ちもない」という歌が誕生してから30年以上の歳月を経た2003年、自作の歌謡曲について語ったエッセイで、阿久悠は「ざんげの値打ちもない 今の時代に書くべきだった」というタイトルの文章を書き残しています。

 怒るということと、腹を立てるということは同じことのように思えて、実は微妙に違う。怒るは社会性を帯びているが、腹を立てるにはそれがない。どちらかというと自分のご機嫌次第というところがあって、同じことでも我慢ならない日と、ほどほどに許してしまう日がある。こんなことは怒るにはなくて、ものごとを正邪ではかるから、こちらのご機嫌や体調とは無縁なことなのである。
(中略)
 なぜこんな書き出しになったかというと、最近の社会のありようによる。血管が切れるくらいに怒るか、悶死するくらいに腹を立てるか、いずれにしても健やかに機嫌よく生きていられないことばかりだからである。この国に、正しいも、美しいも、清いも、潔いも、厳しいも、貴いも、およそ人間を律する言葉のすべてが失われたかと思うほどである。
 ぼくの作品に「ざんげの値打ちもない」という歌がある。昭和四十五(一九七〇)年に書いたものであるが、ざんげする値打ちすらないというのは、今の時代に書くべきであったと考える。あの時も怒っていたが、今はもっともっと怒っている。そして、自分の中で腹を立てるな、それなら怒れと言いつづけているのである。

(阿久悠『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』新潮社)

「ざんげの値打ちもない」が怒りについての歌だったということが、この文章からは明快に伝わってきます。ではその怒りとはどこから生じたもので、いったい何に対してだったのでしょうか。

アメリカの占領下で焼け野原から出発した日本という国は、人々がひたむきに働くことによって、曲がりなりにも戦後復興を成し遂げてきました。しかし生活が豊かになっていくなかで、明るく輝かしい未来を無条件に受け入れることには躊躇してしまう、それが阿久悠たちの世代の特徴だといいます。子供から少年になりかかっていた7~8歳から思春期にかけて、世の中の価値判断が敗戦によって180度変わってしまった現実を体験した彼らは、早熟な不良少年にならざるを得なかったのです。

とはいえ、幼い虚無主義者になってみたものの、戦争に翻弄されて心に深い傷を負った人や、身内を失くした人たちの気持ちに寄り添うやさしさは、心のどこかにいつも持ち続けていました。終戦の直前に19歳の兄を失くした阿久悠自身を含めて、老人から子供に至るまで、生き残った人たちはそれぞれに哀しみと怒りを抱えていたのです。

したがって戦後の傷跡が街から消えつつあった1960年になっても、そうした過去の痛みから逃れられない女性の哀歌(エレジー)、たとえば「星の流れに」や「カスバの女」などには、否が応でも関心を持たざるを得なかったのでしょう。その系譜にある「東京ブルース」について、阿久悠はこう述べています。

 ぼくの記憶によると、昭和三十九年の暮れから四十年にかけては、いわゆる祭りのあとで、日本中が虚脱し、暗かった。その祭りもただのスケールではなく、オリンピックという巨大なものであっただけに、呆然とする度合いが強かったともいえる。
 東京オリンピックをきっかけに、大活況を呈すると幻想を抱いていたのに、過ぎてみると不況の風が吹き、暗さと寒さは倍にも感じられた。そんな時に、この「東京ブルース」が流行った。

(阿久悠『愛すべき名歌たち―私的歌謡曲史―』岩波新書)

1964年にヒットした西田佐知子の「東京ブルース」は、藤圭子がレパートリーにしていた持ち歌の一つで、人気歌手になった後のリサイタルでも歌っています。この歌は石坂まさをが彼女をデビューさせる時に、モチーフにしたと推測できる作品です。おそらくは藤圭子が歌った「東京ブルース」を聴いて、そのヴォーカルとのマッチングや表現力が、強く心に刻まれたものと思われます。

「新宿の女」の決めゼリフとも言える「〽バカだな バカだな だまされちゃって」の1行、そして「女のブルース」における「〽ここは東京」を繰り返す歌詞、さらにはタイトルの「女のブルース」などは、いずれもこの歌から触発されたものと考えていいでしょう。


「東京ブルース」
作詞 水木かおる/作曲 藤原秀行

泣いた女が バカなのか
だました男が 悪いのか
褪せたルージュの くちびる噛んで
夜霧の街で むせびなく
恋のみれんの 東京ブルース


阿久悠は「東京ブルース」について、「星の流れに」とも通じていることに触れて、時代性と歌詞について卓見を述べています。

 まさに、祭りのあとの歌に思えた。いくらか終戦直後の「星の流れに」などに通じる匂いもあり、巨大な国家プロジェクト――戦争もその中に入る――のあとには、このように倦怠感に満ち、どこか投げやりな気分のものが似合うのかと思った。
 そういえば、同じ作詞家、作曲家、歌手による「アカシアの雨がやむとき」が、六〇年安保のばんのように、切なく、自嘲気味に歌われたことがある。
(中略)
 歌の持っている時代性とは、直接時代の出来事を歌うだけではなく、たとえば、男と女といった個人的なことに変装させながら、気分として訴えることも出来るのだと、感心する。

(同前)

若い女性の犯罪をテーマにした破格の歌

1970年のはじめに「白い蝶のサンバ」が大ヒットしたことによって、阿久悠のもとには次々に作詞の仕事が入ってきました。その年に阿久悠が引き受けていた仕事を子細に見ていくと、ブームが終わって一気に波が引いてしまって、行き場を見失った迷い子のようなグループ・サウンズと、コーラス・グループへの作品提供が目立ちます。

4月25日発売のジャガーズ「いつか誰か」(作曲 すぎやまこういち)に始まって、5月5日発売のオックス「僕をあげます」(作曲 佐々木勉)、6月はクック・ニック&チャッキー「ライダー・ブルース」(作曲 井上堯之)、7月はリッキー&960ポンド「我と遊べや」(作曲 宮沢信直)と、ザ・リガニーズの「明日では遅すぎる」(作曲 筒美京平)、9月の清水道夫、ヴィレッジ・シンガーズ「ノーチェ・デ・渋谷」(作曲 中村泰士)と続きます。

もう一つ目立つのが、かつてのスターたちに関するカムバック、あるいはイメージ・チェンジというべき仕事でした。4月が浜田光夫の「70年の子守唄」(作曲 田辺信一)、6月が和泉雅子「恋のめまい」(作曲 鈴木邦彦)、7月が三田明「ふれあい」(作曲 すぎやまこういち)と、西郷輝彦「真夏のあらし」(作曲 川口真)と、依頼者の求めに応じて作詞をしていたのです。

阿久悠はそうした仕事に追われる忙しさのなかで、なぜか怒りを感じながら、どこかで苛立ちを抱いていたと回顧しています。そこに「ざんげの値打ちもない」を書いた動機が綴られていました。

遠い目をして青葉を見つめながら、あの詞を書いた頃のことを思う。一体ぼくは何に怒っていたのであろうか。
 社会に対してであろうか。それとも、一向に先の見えない自身に対する苛立ちであったのであろうか。重い、暗い、しかし、それだけではない一点冷たい光を放つ詞を書きたいと思っていた。だが、それと、売れて人気者になるということはかなり矛盾しているもので、そのことに怒りではなく、腹を立てていたのである。
 とにかく、あれから三十年以上が過ぎた。まだぼくは怒っている。老いたと言われたくないから怒っているところもあるが、そればかりではなく、真実怒りを抱いている。
 日航機よど号が赤軍派によってハイジャックされた年、三島由紀夫が割腹自殺をした年に書いた「ざんげの値打ちもない」を、今、キリキリとした神経で書くことが出来るだろうか。

(阿久悠『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』新潮社)

藤圭子ブームが頂点に達した1970年の4月から6月にかけて、阿久悠は日本テレビの人気番組だった『紅白歌のベストテン』の構成作家として、「圭子の夢は夜ひらく」の歌詞を何度か台本に書き写していたはずです。その歌が五木寛之のエッセイをきっかけにして、時代性と結び付けられてさまざまに語られていくのを見ながら、「自分だったら履歴書のような歌で、どのような物語を描けるだろうか?」と考えたこともあったでしょう。

なぜならば、五木寛之が藤圭子のアルバムに関して毎日新聞に書いた「正真正銘の〈怨歌〉である」という言葉が、あちらこちらで話題になっていた6月ないしは7月あたりに、そのような歌をうたえそうな新人歌手のデビュー曲を頼まれていたからです。その注文は当時としては珍しく、作品で勝負したいというものでした。実際、他には何の制約もなく、阿久悠には歌い手の写真はおろか、歌手の水原弘に見出されてレコード・デビューが決まったということ以外、何の情報も与えられていませんでした。

 銀座のクラブで歌っている南玲子(北原ミレイ)という女の子がいて、歌はうまいが、“この子がすてきだから買おう”といわれるタイプではない。作品で勝負したいから詞を書いてくれという話があった。
 作家として、自由にやってくれといわれるほどありがたいことはないが、それはまた、いちばんむずかしいことでもあるのだ。
 一般のアイドルにしようというタレントでないとなると、制約がない。かわいい女の子にしあげる必要もないし、反感を持たれたら困るということもない。
 それなら、いっそのこと、これまでタブーとされていたことをみんなぶちこんで、新しいものを書いてみようかと考えた。

(阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波書店)

歌唱力に定評のある水原弘に見出されたということは、実力については折り紙付きで、何の不安もないということを意味しています。だとするならば制約のない自由な発想で、自分にしか書けない作品に思い切ってチャレンジできる、そんなチャンスが訪れたのです。そうした正念場で書いたのが、歌謡曲の常識とタブーを破った「ざんげの値打ちもない」でした。

愛に飢えていた14歳、男に抱かれた15歳、憎い男を刺そうと待っていた19歳、そして鉄格子の中で空を見上げていた20代……、そうした暗い履歴とともに独白が展開する歌は、未成年の若い女性が犯した傷害事件、もしくは殺人を題材にしていたという点も含めて、新人のデビュー曲としては破格のものです。


「ざんげの値打ちもない」
作詞 阿久悠/作曲 村井邦彦

あれは二月の 寒い夜
やっと十四になった頃
窓にちらちら雪が降り
部屋はひえびえ暗かった
愛と云うのじゃないけれど
私は抱かれてみたかった

あれは五月の 雨の夜
今日で十五と云う時に
安い指輪を贈られて
花を一輪かざられて
愛と云うのじゃないけれど
私は捧げてみたかった

あれは八月 暑い夜
すねて十九を越えた頃
細いナイフを光らせて
にくい男を待っていた
愛と云うのじゃないけれど
私は捨てられつらかった

あれは何月 風の夜
とうに二十歳も過ぎた頃
鉄の格子の空を見て
月の姿がさみしくて
愛と云うのじゃないけれど
私は誰かがほしかった

そしてこうして 暗い夜
年も忘れた今日のこと
街にゆらゆら灯りつき
みんな祈りをするときに
ざんげの値打ちもないけれど
私は話してみたかった


小西良太郎という新聞記者の仕事

北原ミレイに名前をあらためた南玲子のデビュー曲「ざんげの値打ちもない」は、1970年の10月に発売されました。出来上がった試聴用のレコードを聴いたスポーツニッポンの小西良太郎は、歌い出しから最後までを聴き終わって小躍りするほどに心がたかぶったと記しています。

 なにしろ『ざんげの値打ちもない』を聴いた時は、やたら興奮して、「新時代の劇画歌謡」「文学性も十分」「歌づくりのタブーは破られた」「阿久悠が時代を席巻する」とかなんとか、最大級の賛辞を雑誌のコラムに書きまくったり、吹聴しまくったりして、勝手に大騒ぎしていました。

(『NHK知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 阿久悠』2008年10—11月号 NHK出版)

しかしそのレコードは1年前の藤圭子のときと同様に、新人女性歌手のデビューとしては地味な扱われ方で、まったく目立ちませんでした。「阿久悠によって歌謡曲には新時代が訪れる――」、小西がそう確信して騒いだにも関わらず、新しすぎたのか、それとも暗すぎたのか、その両方だったのか、いずれにしても発売後の反響はほとんどありません。

それでも小西は新しい才能の出現を世に知らしめようと、スポーツニッポン紙上で原稿を書いただけでなく、音楽業界のネットワークを活用して口コミでも広めていきます。雑誌のコラムなどでも機会があれば紹介し、「劇画歌謡」という造語を用いて作品論も展開しました。

ひどく退廃的な詞です。しかし、恨み節ではない。乾いた抒情というか、聴き終ってみると、スリリングで甘美な感触が残る。「劇画歌謡」という言い方には、阿久さんも抵抗があったようですが、これまでの歌謡曲には少ない文学性と、一編の映画のような視覚的な魅力がありました。歌書きの思いの熱さと、演出家のクールなまなざしが微妙なバランスを保っている作品でした。

(同前)

小西が書いた作品論などから阿久悠の才能に気付いたのが、歌づくりに関わる仕事をしているスタッフたちでした。CM音楽とテレビ・アニメの主題歌などを手がけていた作曲家の小林亜星が、当時の印象をこう語っています。

「ざんげの値打ちもない」で大変な人が出てきたと、我々はみんなもう参っちゃった。夢中になってやっている業界の人達は、ああこれはすごい人が出てきたって、すぐに分かるものなんですよ。そのくらい強烈に分かる。「阿久悠って何かとんでもない名前だな」「この人はすごいな、すごいよ」ってみんな言っていましたからね。

(大学史紀要 第21号「特集 阿久悠・布施辰治」明治大学史資料センター)

一般の音楽ファンたちの間で異色作が現れたと注目され始めたのは、晩秋を過ぎて冬を迎える頃のことでした。このあたりでプロモーションに関わるスタッフたちが知恵を絞って、音ではなく絵で訴える作戦を実行に移していきます。主人公の女性が14歳の頃を振り返って、「私は抱かれてみたかった」と歌った歌詞は、かなり生々しく刺激的なフレーズです。それを際立たせつつも、いかにして美しく感じさせるかと考えたのが、若者に人気があった劇画とのジョイントでした。

1968年から69年にかけて阿久悠原作による劇画を描いて人気が出た上村一夫に、「ざんげの値打ちもない」の歌をイラストレーションにしてもらったのは、新たなジャンルとのメディア・ミックスといえるでしょう。こうしてつながるべき才能が結び付いて、大きな相乗効果を上げたことで異色の歌に気付く人が増えていきました。そのあたりから状況に変化が起こって、聴き進むうちに心までもが冷え冷えしてくるような歌は、冷たい冬を迎えた頃から少しずつ口コミでも知られるようになったのです。

主に有線放送を通じて巷へと流れ出した「ざんげの値打ちもない」は、年末から年始にかけて劇画の読者にも浸透していきます。それが有線放送へのリクエストにつながり、1971年に入ってからは上村一夫のイラストをジャケットにしたレコードが作られました。それが出荷されると店頭でも目をひいて、ようやく売り上げが伸び始めていったのです。

「ざんげの値打ちもない」をめぐって作品論が熱く語られた1970年から71年にかけて、筆者自身も阿久悠と同じ明治大学の文学部に入学し、1年生ながらも映画研究会の先輩や友人たちと、しばしば歌謡曲を話題にして意見を述べていました。きっかけになったのは上村一夫がレギュラーで表紙を描いていた劇画雑誌『ヤングコミック』のコラムで、誰かが藤圭子と並べて論じていたことだったと記憶しています。

阿久悠が作品論として語られるような歌詞を意識するようになったのは、1966年から67年にかけて日の目を見た「夢は夜ひらく」や、暗い場所が似合う「カスバの女」がカヴァーされて、初めてヒットしたことなどが契機となったと考えられます。それまで過去のものだと思われていた歌に、新しい命が宿ることがあることが証明されたのです。

当時は歌の中で歌詞の占めるウェイトが、現在に比べるとはるかに大きかったという時代背景もありました。その頃の阿久悠は作詞家として売れるということと、作品論が語られるような作詞家であるということは、それぞれ別の評価なのだと分けていました。そして作詞家として商品のために行った仕事で、作品論としても評価されることが理想だと考えていたようです。

 人気歌手に詞を提供すれば、どんな詞でもといったら語弊があるが、一曲くらいならそれなりに売れる。そのあとでもう一曲書いたときにファンが付き合ってくれるかどうかが問題になる。そこで、作詞家としての評価が決まると考えている。
 だから、僕は作品論として評価されることに特にこだわっていた。
 アイドルの歌で一〇曲ヒット曲を出しても、なかなか作品論にはならない。また、「大ヒット曲を作りましたね」といわれるよりも、「あの歌詞の内容に心打たれました」といわれる方が作詞家としては数段うれしい。

(阿久悠『「企み」の仕事術』KKロングセラーズ)

そうは言いながらも音楽業界的な発想でいえば、作品論にこだわるような作家はいささか迷惑な存在なのかもしれないと、そこは冷静に自覚していたようです。作詞家が個人の範囲で作品論にこだわったところで、ビジネス的には何の得にもなりません。レコード会社にしてもプロダクションにしても、結果的にレコードが売れて歌手の人気が高くなればいいわけです。

それでも当時は意欲的な取り組みの作詞家たちが、競うようにして作品論の対象になるような歌詞を書いていました。

 作品論が展開されるような作品は何年経っても評価される。そして、スタンダード曲として、時代の波に飲み込まれることなくずっと生き続けることもできる。長い目で見れば、その歌手の代表作として長く歌い続け、ロングセラーとして愛され続ける可能性もある。

(同前)

若い女性の犯罪をテーマにした物語になっている「ざんげの値打ちもない」は、ある時代を象徴する作品として多くの人に語られただけでなく、北原ミレイの歌声と表現力によってヒットし、彼女の代表作となって愛され続けていきました。そして21世紀になってからも、たくさんの歌手に歌い継がれて、歌謡曲におけるスタンダード曲として認められています。

この1曲を書いたことが決定打となり、阿久悠は1979年の休筆宣言まで、10年間を全力で疾走して行くことになるのです。

次号掲載:12月15日(金)

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