沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第19回 2017年11月10日掲載
第一部 歌謡曲の黄金時代を予告していた「ない・ソング」の登場

第十九章 時代の中を軽やかに進んだ北山修と加藤和彦

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プロとして活動を始めたフォークルのレコードは、どれも順調に売れていった。しかし誰もが羨む大きな成功の陰で、思ってもみなかった道に足を踏み入れたがゆえに、彼らはたびたび苦渋を味わうことにもなった。だが世間はそんな現実には気が付くことはしない。そしてプロとアマの間で軽やかに我が道をいく北山修と加藤和彦は、阿久悠にとっていよいよ気になる存在となっていく――。
作品と商品をめぐって起きた問題

プロになると同時に人気者になったザ・フォーク・クルセダーズは解散までの10カ月間を、過密スケジュールをこなさなければない状況へと追い込まれていきました。じっくり音楽に取り組む時間もないまま、シングルとアルバムを作り続けていたのは、実質的にアマチュアのままプロの世界に入ってきたことにも原因がありました。

マネージャー役をこなしていた北山修は、事務所として専任の人間がきちんとマネージメントをしていなかったので、仕事のギャラもそれほど高くないし、もらったギャラもきちんと管理できていなかったと指摘しています。そして活動が忙しくなるにつれて、ホテルでの生活が増えて経費がかさんだことから、最終的には借金が残ったほどだったそうです。

 そのため、フォーク・クルセダーズの活動の後半には、キャバレーまわりなどもして、お金を稼がなければならなくなってしまいました。当時、小倉と博多に「月世界チェーン」というキャバレーが何店かあり、そこをまわったことが苦い思い出として残ります。
 キャバレーのステージでも、酔客を満足させるようなパフォーマンスができるほどの力があるわけでもありませんし、また、満足させようという情熱もない。ましてや、そこで自分たちが面白がって遊ぶような気力も残ってはいない。

(きたやまおさむ『コブのない駱駝――きたやまおさむ「心」の軌跡』岩波書店)

彼らはこうして精神的にも肉体的にも疲弊して、大きく変わりつつあった海外の新しい音楽を聴く時間も持てませんでした。だから加藤和彦はフォークルを解散後、怒濤のごとくレコードを聴いて音楽を吸収していったそうです。

医学部での学生生活に戻ることを決めていた北山修は、最後のコンサートが終わった直後にただ一人、ヨーロッパへと旅立っています。最初に目指したのはフィンランドの首都ヘルシンキでしたが、目的地というわけではありません。横浜港からハバロフスク号に乗ってソ連のナホトカへ渡り、シベリア鉄道で大陸を横断するという行程を選んだのも、ただ旅をする時間を持ちたかったからです。

端田宣彦もまた音楽活動の道を選んで、シューベルツという新しいグループを組み、東芝レコードからデビューする準備に入っていました。北山修はそのためにデビュー曲の「風」(作曲 端田宣彦)を作詞しています。それは10月に行われた「フォークル・フェアウェル・コンサート」のなかで、いち早く新しいバンドの演奏で披露されました。
当時の心境を北山修がこう述べています。

 作詞者である私が証言するなら、何かを求めて振り返っても、そこには風が吹いているだけで、振り返らずただひとり一歩ずつ歩くんだ、まさしくそんな気分の中にわれわれはいた。失ったのは目的地だけではない。出発地もかすんで風が吹いているだけになっていたのである。

(きたやまおさむ『心のカタチ、こころの歌』講談社)

フォークルが活動を停止した後になってからも、彼らの商品は11月1日の実況録音盤『当世今様民謡大温習会』を皮切りに、11月10日には「ゲ・ゲ・ゲの鬼太郎/山羊さんゆうびん」、「さすらいのヨッパライ/戦争は知らない」、「何のために/花のかおりに」の3枚のシングル盤が一挙に発売になっています。また、12月5日にも五木寛之作詞によるラスト・シングルの「青年は荒野をめざす」がリリースされました。大晦日に開かれた第10回日本レコード大賞では、「帰って来たヨッパライ」が特別賞を受賞しています。

そして年が明けた1969年1月、はしだのりひことシューベルツの「風」は、発売と同時に大ヒットしたのです。それによって彼らはその年の年末に、第11回日本レコード大賞で新人賞を獲得することにもなります。

■はしだのりひことシューベルツ「風」

ザ・フォーク・クルセダーズを解散したメンバー3人のうち、加藤和彦はソロのアーティストとなると同時に、ソングライターとしても音楽出版社のPMPと契約し、音楽活動を続けていくことにしました。

その加藤和彦もアメリカをまわる旅に出て、音楽に関わりの深いサンフランシスコ、ロサンジェルス、ニューヨーク、それにカントリーの聖地と呼ばれるナッシュビルの4都市を訪れています。フライトの都合で最初に到着したサンフランシスコには、ヒッピーの聖地として有名になっていた「ヘイト・アシュベリー」がありました。それまで抱いていたアイビー・ルックなどのイメージとは違っていたけれども、それが心地よかったといいます。

 フォークルの後だから六九年かな。だからヒッピー真っ盛りよね。いきなり空港からみんなニコニコ笑って、ピースな奴だなみんな、なんて思っていた。今思えば違うんだけど。
 いろんなアメリカ廻っているうちに、だいたいアメリカはこういうものだなってのがわかって。
 一気にそこへ、っていうのが面白いんですよ。情報が一切無いまま、ヒッピーだからね。いきなりだから。

(加藤和彦/前田よしたけ著 牧村憲一監修『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』スペースシャワーブックス)

帰国した加藤和彦は北山修の作詞による「僕のおもちゃ箱」を、3月21日にソロ第1作として発売し、そこから活動を本格化させていきました。そして松山猛を作詞のパートナーに迎えて、自分のペースでアルバム制作に取り組み始めます。しかし試行錯誤を重ねながら勝手気ままに制作に没頭する一方で、制作の主体となっていたPMPを通じて、それを早く商品として発売したいレコード会社からの圧力も感じていたようです。

そして「らいぼうけんたん」という大作を筆頭に、ユニークで変な曲がいろいろ出来上がっていきました。

全部面白いから全部入れちゃおうよってことになって、レコード会社に「2枚組で出して下さい」って言ったら、当時は2枚組なんて感覚があまりなくて、出すのはいいけど2枚組は駄目だって反対された。

(加藤和彦 [聞き手・構成]松木直也『加藤和彦 ラスト・メッセージ』文藝春秋)

レコード会社にしてみれば、2枚組だとコストがかかるので高額商品にせざるを得ません。それではフォークルを支持していた若いファンには、いささか敷居が高くなってしまいます。そこで加藤和彦の意向を曖昧な形で受け入れながら、収録内容を変更して1枚で発売しようとしたのでしょう。そのために内容の改変などをめぐるトラブルが起こって、その場しのぎの解決が図られることになります。加藤和彦は屈辱をこらえて、大人たちの解決案に従うことにしました。しかし、ひとつだけ条件を出しました。それは制作事情の経緯を文章にした「児雷也顛末記」を、ジャケットに明記することです。そこで裁判の冒頭陳述みたいな感じの文章を書いて、それを掲載させたのです。

「児雷也顛末記」 加藤和彦

 小生の歌曲11曲を収録したLPについて御報告申し上げます。小生7月以来歌曲を作っては録音し8月現在で未発表の曲9曲、Re Takeの曲3曲、合計12曲録音完了の状態にありました。
 実を言えば12曲といってもその内1曲は10分を越し、残り数曲も5~6分の長さに至ってしまいました。レコード業界の常識から言えばこの長さは奇異と思われるのが当然ですが、内容が特殊故に小生にとっては必要な長さでした。そこで東芝レコード側には2枚組にしてくれる様に要請し曲順も決め、アルバム・タイトルを「児雷也」として提出しました。担当ディレクターに聞きました所、むずかしいけれども検討してみようという事になったのでした。
 売れにくいものは出すなというのがレコード会社の感覚からすれば当然の行為であったかもしれませんが、結局LPは1枚になってしまい、アルバム・タイトルも「ぼくのそばにおいでよ」などという下品なものに変更され、12曲中「児雷也冒険譚」と「オロチマルの逆襲」の2曲がカットされ、その代りに「ぼくのおもちゃ箱」が挿入され、曲順も著しく変更されてしまいました。
(中略)
 かような事は他のアーチストに対してもなされているはずで、これでは日本のレコードというものはいつまでたっても消耗品でしかなく、一個の芸術品となり得る日ははるか彼方であります。アーチストの芸術性に関する権利の保護という点においても貴社の発展(この場合は内容的発展を指している)という点においても反省を要請する次第です。(1969.9.12)

抗議文が掲載されたレコードというものは、日本におけるレコードの歴史でも最初のことでした。そしてそこには表現者として作品をつくる音楽家と、何よりもまず商品として扱うレコード会社との間に存在した、当時の溝が示されています。

「東芝、馬鹿ヤロー、このヤロー」って書いたのが。それがまず第一回かな、抵抗の歴史の。笑っちゃうけどね。でも、載せさせたっていうのは頭いいよね。結構受けたの、それが。そういう反体制の時代だから、オフィシャルなレコードにそんなことが載ってるっていうのが。それが最初かな、揉めたのは。

(加藤和彦/前田祥丈著 牧村憲一監修『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』スペースシャワーブックス)

前例主義を持ち出して新しい試みに消極的な態度をとるレコード会社との間で、加藤和彦はこの後も改革を求めて抵抗の歴史を重ねることになるのです。

阿久悠が作詞したフォークソング

加藤和彦は9月10日にシングルの「ネズミ・チュウ・チュウ・ネコ・ニャン・ニャン/日本の幸福」、11月には翁玖美子とのデュオ「チッチとサリー」名義で「チッチとサリー/カフェ・ル・モンドのメニュー」を出しています。そして内容を変えられた不本意なアルバム『ぼくのそばにおいでよ』は、12月1日になってようやく発売されました。

ちょうどその頃、深夜放送へのリクエストから火がついたベッツィ&クリスの「白い色は恋人の色」がヒットしていました。もちろん北山修と加藤和彦の作品です。それに続くヒットになったのが、同じレーベルのデノンから1月25日に発売になる「白い蝶のサンバ」でした。阿久悠はそこで初めて、大ヒットをものにすることになります。

ところでこの1969年の9月に、「白い色は恋人の色」に先立って「イムジン河のほとりで」というフォークソングが、同じくデノンから発売になっていました。そのタイトルから想像がつくように、それは1年半前に発売中止になったフォークルの「イムジン河」と、歌詞もメロディーもよく似た楽曲です。歌っていたのはグリーン・フィールズというフォークグループで、歌詞カードには阿久悠が作(原文ママ)と表示されていました。


「イムジン河のほとりで」
作詞 阿久悠、作曲 水野たかし

イムジン河風吹いて
さざ波よとどけ
はるかかなた
岸辺にたたずむ人に
いつか水鳥に托して
想いがとどくだろう
風よ川面を駈けて行け
さざ波よとどけよ

イムジン河知らぬげに
心をわかつよ
清き 流れ
お前に罪はないのに
なぜに憎しみで見つめる
たゆとう水重く
風よ川面を駈けて行け
さざ波よとどけよ

イムジン河のほとりを
さすらう若者
旅に つかれ
瞳に天がける虹
誰もふるさとを愛して
いるのになぜなのか
風よ川面を駈けて行け
さざ波よとどけよ


フォークルの「イムジン河」と比較すると、政治的な色合いがほぼ消えています。それがレコード会社の希望だったのか、グループ側の考え方だったのかは判然としません。しかし、阿久悠のもとにこの曲の依頼があって、それをプロの作詞家として引き受けたことは間違いないでしょう。そこには発売禁止になった1年半前の事件が、何らかの影響を与えていたことは十分に考えられます。

カレッジ・ポップスを歌っていたザ・カッペーズが前身のグリーン・フィールズは、グループ名を変えて「イムジン河のほとりで」によって再出発したようです。レコードの歌詞カードには“この美しきハーモニーを誇るグループ”という見出しで、「決して声が良い4人の集まりとはいえないけど、チームワークの良さと、又個々人の素直な性格、これが他に例を見ないところといえましょう」と、いまひとつ音楽面での特徴が伝わってこない紹介文が載っていました。

声が良いとか、顔が良いとか、又抜群のプロポーションだとか、いうグループではなく、あえて言うなら、着ているシャツの色が良いとか、髪の毛のウェーブの具合が見る角度によると一寸良いとか、舌っ足らずでしゃべる人がいるので面白いとか、いう点が長所らしいという位です。でもハーモニーは前記のごとくすばらしいし、人柄も大変親しみやすく、真面目でそしていやらしさのないグループ。これがグリーン・フィールズだと言えましょう。

この曲はフォークルで問題になった北朝鮮の「イムジン河」と、韓国の「漢江は今日も流れる」の2曲をもとにして作ったものだそうです。グリーン・フィールズは北山修が司会を担当していたTBSテレビ『ヤングセブンツーオー』に出演して歌を披露しています。筆者もその番組を見た記憶があり、フォークルの「イムジン河」のカヴァーかと思って聴いたのに、途中から違うメロディーになったのでがっかりしたことを思い出しました。

ところで阿久悠がフォークソングを聴いて、それを好意的に思ったのは「花はどこへ行った」が最初だったようです。反戦歌として知られるこの楽曲は、アメリカのフォークソングの父ともいわれるピート・シーガーの作詞・作曲によるものです。それをカヴァーしたザ・キングストン・トリオのヴァージョンが1962年にヒットしたことから、世界中の若者たちに歌い継がれていきました。日本では園まりが最初に日本語の歌詞でレコード化しています。

フォークルもまたグループを結成した当初から、「花はどこへ行った」を重要なレパートリーにしていました。さらに付け加えるならば、北山修と加藤和彦は2002年に再結成したフォークルのアルバム『戦争と平和』でも、この曲をレコーディングしています。そして、加藤和彦は晩年までこの曲を愛唱していました。

阿久悠は「花はどこへ行った」について、こんな思い出を綴っています。

 昭和四十年になった。この歌を聞いた。キングストン・トリオでまず聞き、レノン・シスターズや園まりが歌うのも耳にした。時代は底流で地鳴りがし、何か起ころうとしていた。二月七日に、アメリカが北ベトナムのドンホイを攻撃した。北爆開始である。二月七日はぼくの誕生日であるので、妙な形で記憶に残ることになった。
 若者の髪が少しずつ長くなってきた。ぼくのも長くなった。
(略)
会社員と放送作家の二重生活で、調髪の時間がとれないということもあったが、何も短くする必要もない、という思いも生まれていた。
「花はどこへ行った」を、暗い世相と危険をはらんだ時流の中で聞き、美しく語りかける抵抗を感じたのと、根は同じかもしれない。
 それをきっかけに、ぼくの髪の毛は、ロングヘアと呼ばれるくらいにまでのびるのだが、反戦と平和と抵抗の象徴というより、風貌のせいであろうか、なおたけだけしいライオンのたてがみに思えた。
 その頃、まだ詞は書いていない。ギャグを考え考え、コントを量産していた。

(阿久悠『愛すべき名歌たち―私的歌謡曲史―』岩波新書)

真剣にラジオの深夜放送に取り組んだ北山修

1960年代の後半、ラジオの深夜放送で番組に寄せられた読者投稿によって、ラジオ番組の中でコミュニケーションが可能な広場とも言うべきものが、自然発生的に出来ていた時期があります。当時の若者たちは大人たちにはうかがい知れない、もう一つのコミュニケーション・メディアを作り上げていったのです。その先頭に立って活躍したのが、フォークル解散後の北山修でした。

活躍の舞台となったのはTBSラジオの深夜番組『パック・イン・ミュージック』、前任者だった声優の田中信夫から引き継いでDJを始めたのは、1969年3月22日のことです。後に吉田拓郎、小室等、谷村新司、さだまさし、松山千春、荒井由実、中島みゆきと、実に多くのシンガー・ソングライターたちがラジオの人気パーソナリティーとなっていきます。北山修はそれを最初に始めて後進への足場を築いたばかりか、他局の『セイヤング』(文化放送)や『オールナイトニッポン』にまで影響を与えました。

それがどれほど斬新な番組だったのかについて、作詞家としてもラジオのDJとしても大先輩にあたる永六輔が、北山修を“芸人”と評価してこう語っています。

 北山修が「僕は芸人かな」と首をひねるのは、彼が医者志望の学生であり、作詩家としてもヒット曲を持ち、芸人というなら素人っぽい司会かディスク・ジョッキーという点で思い当たるだけだからだろう。
 そして、僕は彼のラジオにおける話芸の大ファンなのである。
 特に深夜放送(TBS・パック・イン・ミュージック・木曜日)での彼の献身的な、八方破れの発声と間のとり方は他の追随を許さない。
 桝井論平や、小島一慶もそうした一人なのだが、北山修の場合には京都の人間のタイプでもあるが、弱みをさらけだしながら、その優しさの中で、どさくさまぎれに筋を通すような性格が面白く、絶対にむきにならない点が芸になっているのだ。

(『永六輔の特集』話の特集ライブラリー 自由国民社)

1967年に始まった深夜放送の『パック・イン・ミュージック』は、もともとは大人向きの内容で、流れる音楽も洋楽が中心でした。したがってジャズや映画音楽などにも比重が置かれていました。そこに最後発だったニッポン放送が『オールナイトニッポン』で参入し、「帰って来たヨッパライ」をプッシュしたことで、従来よりも若いリスナーの間で人気が急上昇したのです。

TBSは中高生にまで聴取者が広がったことを知って、ニッポン放送に対抗して若者たちの層を取り込む方針を打ち出します。そこで白羽の矢を立てられたのが、北山修だったのです。日本のフォークに注目してディレクターの加藤節男は、1969年の番組改編時に声をかけたことについて、このように述べています。

「TBSでは、誰もフォークソングをやっていませんでした。フォークを扱う番組もなかった。だけど、あの頃は関西系のアングラというか、メッセージ性の強いフォークが流行り出していました。僕はそういうメッセージ性のある音楽、フォークソングの方がいいと思っていたんです」

「北山君は最初から他の二人とはスタンスが違う、と僕は思っていました。パーソナリティーというのはリスナーに直接呼びかけなければなりません。それが上手にできるかどうかが一番大切なんです。僕は『パック』の中で真面目な話やナンセンスな話を若者達とキャッチボールしてみたいと考え、彼にはそれが出来ると直感したんです。僕はフォークルの『さよならコンサート』(渋谷公会堂、68年10月17日)を観に行きました。その結果、喋りのセンスが一番いいと確信しました」

(伊藤友治+TBSラジオ『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』DU BOOKS)

加藤節男から声がかかった時の北山修は23歳、ヨーロッパ旅行から帰国後に休学していた大学へ復学し、医学の道を歩むところでした。しかし芸能界から完全に撤退したわけではなく、学業に支障が出ない範囲で“週に一度の芸能人”、あるいは“日曜音楽家”などと自称しつつ、1969年1月からはTBSテレビでの若者向け帯番組『ヤング720』で、週に1回の司会を務めていきます。そこで『パック・イン・ミュージック』のパーソナリティーを頼まれた北山修は、それに応じて3月からレギュラーのDJになりました。番組の基本は3分喋って3分音楽をかける、その繰り返しのなかでリスナーからの葉書を読んでいくスタイルです。

北山修がパーソナリティーを始めた1969年は、東大全共闘と新左翼の学生たちが占拠していた安田講堂が、警視庁機動隊の突入で封鎖を解除されて幕を開けています。 前の年に東京・京都・函館・名古屋で4人を拳銃で殺した永山則夫が逮捕され、犯行当時は19歳で未成年だったことから、マスコミに“連続ピストル射殺魔”とセンセーショナルに報道されたのは、放送を始めて間もない4月のことでした。口コミで盛り上がっていた新宿駅の地下広場の反戦フォーク集会の参加者が、7000人もの数になったことで警視庁機動隊が出動し、西口地下は通路であるとの理由で全員が排除されたのは6月です。

団塊の世代を中心とした若者たちによる学生運動や、それに続いた高校生たちによる学園紛争は、その頃から徐々に落ち着いていきますが、日本のレコード産業における新興勢力と保守勢力との交代は、まさに始まったところでした。そして、それを告げたのは、アメリカの3大メジャーの最大手、CBSが電機メーカーのソニーと合弁で設立したCBS・ソニーから、初めてのヒット曲となるカルメン・マキの「時には母のない子のように」でした。

そんな時代の空気が反映されていたのがラジオの深夜放送で、フォークソングや海外のロックが流れてくるなかで、若者たちの新たなコミュニケーションの場はつくられていったのです。

北山修は学業との両立が困難になる71年の9月まで、『パック・イン・ミュージック』のDJを継続していきます。その間に作詞家として手掛けた作品は、数が少ないにもかかわらず、次々にヒット曲になりました。特に時代性を示す象徴的な歌となった「戦争を知らない子供たち」は、1971年の日本レコード大賞作詞賞にも選ばれています。北山修はそのことについて、「社会的なメッセージが含まれた、こうした歌がヒットする時代の雰囲気が、まだ残っていたのです」と述べていました。

このように傍から見ている限りにおいて、1967年の年末から71年の年末までの4年間、北山修や加藤和彦の周囲には幸運の女神がついているかのようでした。あるいは時代の風が吹いていた、と言っていいかもしれません。実際には何もかもが順風満帆だったわけではなく、たびたびトラブルなどにも見舞われていました。しかし、それらを乗り越えてヒット曲が生まれていったのは事実です。

しかも、彼らはそうした状況を楽しんでいるかのように、良い意味でのアマチュアリズムを残したまま、自由に伸び伸びと活動していると見えていました。周囲から羨ましがられるのも、無理のないことだったと思われます。ところが北山修はDJを引き受けたことによって、実は非常にタイトなスケジュールを毎週々々、休みなく続けながら真剣に番組と取り組んでいたのです。

人気を博した誠実さとセンスの良さ

北山修は毎週木曜日、大学の講義が終わった夕方に京都からタクシーで伊丹空港に向かいます。そして羽田行きの便に乗って東京に着くと、そのままTBSに入って打ち合わせをしながら、投書の葉書を読んで本番を迎えます。それから深夜1時から3時までの生放送をたった一人でこなし、終わった後は直ちにタクシーで羽田へ行きます。そこで当時は運行されていた深夜便の飛行機に乗り込みます。それが6時半に伊丹空港へ到着すると、そこからまたタクシーで京都に向かうのです。

始業時間の朝8時半までになんとか間に合うように、大学の講義にすべり込むという生活でした。講義を受けていても睡魔に襲われて、よく校庭の片隅で仮眠していたといいます。それでも2年半にわたって休むことなく、その強行スケジュールを継続させたのは、若者の一人として発言することについて強い使命感と、同世代の代表として責任感を持っていたからでしょう。

 私とほぼ同時代の団塊世代の若者たちが私たちの活動を支持してくれたし、彼らも私たちもまだ文化に対する期待と夢を失わずにいたのだろうと思います。
 そんな時代状況の中で、私は医学部に通いつつ、“週に一度の芸能人”を継続させていったのです。私自身も、まだマスコミュニケーションに完全に絶望をしていたわけではありませんでした。訳のわからないまま、自分を失ってマスコミュニケーションに巻き込まれてしまうのではなく、自分の生活の一部分として作詞や芸能活動を行う。あくまで自分の生活、個としての自分にこだわって音楽活動をするということは、私がピート・シーガーをはじめ、フォークソングから学んだ思想でもありました。「歌のための人生」となって社会のニーズに応えるのではなく、自分の生活、感情などを大切にして、それを核として「人生のための歌」を発信していくという発想です。

(きたやまおさむ『コブのない駱駝――きたやまおさむ「心」の軌跡』岩波書店)

 

■ピート・シーガー「花はどこへ行った」

番組の中でリスナーたちによるフォーク論争が巻き起こったのは、「北山パック」がスタートして間もない頃のことです。プロテスト・ソングをめぐってさまざまな意見が寄せられて、熱気をはらんだ論争が繰り広げられました。当時の投書をひとつ紹介します。

《26日の放送で“プロテスト・シンガーは売名行為だ”という批判を聞いて悲しくなりました。それで岡林信康さんについて私の考えてる事を書いてみたい。彼のコンサートを二回聞きました。そして芸能人じゃなく、身近な人間、どこにでもいる人間だと思いました。飛行場で、彼とほんの少しですが話をしましたが、純真で内気な青年でした。その彼が、部落解放運動や、万国博の反対運動をやっているなんて信じられないくらいでした。今では部落問題に目を開かせてくれた岡林さんに感謝しています。これから少しでも差別について勉強し、微力ながら社会に還元できたらと思います。北海道S・E》

(伊藤友治+TBSラジオ『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』DU BOOKS)

「北山パック」のディレクターだったTBSの加藤節男は、その時のフォークソング論争が本当に熱いものだったと、こう語っていました。

「ひと口にフォークと言っても、考え方はみな千差万別です。300人いれば、300人とも見方や考え方が違う。どれが正しくて、どれが正しくないなんて言えるはずがない。また、北山くんの言わんとしたところを、どれだけ正確に理解した上で書いたものなのか、と疑問に感じたものがたくさんあったことも事実です」

(同前)

「北山パック」は深夜放送がブームになっていく中で生まれ育ったというよりは、ブームに火をつけた先駆的な番組の一つでした。その頃の番組のリスナーが、このような感想を寄せています。

「北山さん自身が、自分というものをちゃんと持っていて、世の中の出来事に対する自分なりの見方や意見を率直に語っているように思えた」
「とにかく話の中身が面白かったし、番組でかかる音楽もセンスがあって良かった」
「あの時代らしく、やや尖がった内容の投書も目立ったが、北山さんは、そういう葉書に対しても逃げることなく堂々と正面から向き合っていた」

(同前)

当時は首都圏のラジオ局が同じ時間帯に深夜放送を始めていたので、ライバル意識も強くお互いに他局の動向には関心をはらっていました。その一方で同じ時代に同じようなフォーク系の番組でやっていたという意味では、競争意識だけでなく連帯意識のようなものを持っていたそうです。加藤節男たちはニッポン放送や文化放送のスタッフと一緒に、日比谷の野外音楽堂で「深夜放送祭り」というイベントを共同で開催したこともありました。とにかく若者たちの発するエネルギーが強い時代だったのです。

しかし、北山が学業に戻ることにした1972年になると、そのブームも変質し始めていました。加藤節男がこのように総括していますが、人気番組になったことで商業主義に染まっていったことがわかります。

「北山君を皮切りに、名立たるフォーク歌手やタレント達が深夜放送のDJやパーソナリティーとして続々と登場したのですが、彼らの多くは次第に自分の番組を、自分の新曲やイベントをプロモーションする宣伝の場にしてしまいました。僕は、それが深夜放送の衰退をもたらした大きな理由の一つだと考えています」

(同前)

北山修は1971年の10月で学業に専念するために、ラジオからも作詞家からも撤退していきました。そのとき、「北山パック」を引き継いだのは、翌年1月シングル「結婚しようよ」を発表する吉田拓郎です。

それまで一部の若者たちの反体制的な音楽と見られがちだったフォークソングは、「結婚しようよ」のヒットによって若者たちの間で、ポピュラーな音楽として市民権を得ていきます。その「結婚しようよ」のレコーディングで、プロデューサーの役を引き受けてヒット曲に仕上げたのが加藤和彦でした。

その頃まで行われていたレコーディングは、事前に譜面を仕上げてきたアレンジャーが、スタジオ・ミュージシャンにパートごとの譜面を渡し、そのとおりに演奏されたものを録音すれば終わりでした。ところが加藤は必要となるであろうと想定したメンバーたち、まだ名もないキーボーディストだった松任谷正隆などの若いミュージシャンと一緒にスタジオに入り、そのなかでバンドとともにアレンジを進めていったのです。

加藤和彦が弾くボトルネックギターをフィーチャーしたアコースティックなサウンドに、松任谷が弾くバンジョーとハーモニウムが加えられ、軽やかで深みのあるサウンドが少しずつ形になっていきました。そのレコーディングを実際に体験した吉田拓郎は、「目からウロコでした。パッ、と目の前の音楽観が広がった」と語っています。

そして加藤和彦はこの頃からプロの音楽家という自覚を持ち始めて、プロデューサーという立場を明確にして仕事を本格化させます。さらにはサディスティック・ミカ・バンドを結成し、世界とリアルタイムで共鳴するサウンドに挑戦していくのです。

次号掲載:11月17日(金)

 

 

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