沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第10回 2017年9月8日掲載
第一部 歌謡曲の黄金時代を予告していた「ない・ソング」の登場

第十章 船村徹と「ない・ソング」

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「別れの一本杉」の記録的な大ヒットで、船村徹と高野公男は念願のレコード会社専属作家としての前途を手に入れる。しかし、高野を蝕んでいた病魔は船村から最愛の友を奪い去っていった。失意の中で船村は、西洋音楽至上主義の世に反発し、美空ひばりとの出会いによって、日本人の心情を歌い上げる情歌=演歌を確立させていく――。
船村徹と高野公男の友情から生まれた破調の歌

結核にかかっていた高野公男は1955年の夏、地元の茨城県に戻って実家で伏せるようになります。そして「別れの一本杉」がヒットし始めた1956年に入ると病状が悪化し、水戸の病院に入院して治療を受けます。けれども当時は特効薬のストレプトマイシンやパスが貴重品で、一般には高額でとても手が届かないものでした。親友思いの船村徹は毎週々々、律儀に病院へ見舞いに通ったものの、刻一刻と死期が近づくのを見守るしかなかったのです。

 私は毎週土曜になると上野を朝の九時ごろに出る常磐線経由の青森行き特急「みちのく」に乗って見舞いに行った。病室で鉄パイプのベッドに横たわる高野とは音楽のこと、東京での出来事、知人の近況などを話した。高野がうとうとすると家族や見舞いの人と時間を過ごした。近くの宿に二晩泊まって月曜に東京へ帰る。そんな生活だった。

(船村徹『私の履歴書 歌は心でうたうもの』日本経済新聞社)

ちょうどその頃、“別れの一本杉を枯らすな”というキャンペーン記事が、週刊サンケイに掲載されます。大ヒットした「別れの一本杉」を作った作詞家と作曲家が、幾多の苦労を重ねてきた若いコンビであること、ところが結核という不治の病にかかって、作詞家が病床で苦しんでいることなど、曲の背後にある作者たちの人間ドラマが公になったのです。その記事によって「別れの一本杉」という歌に、新たな物語が書き足されていきました。

 そんなことも影響したのだろうか、三月になってキングレコードから専属の話をしたいと言ってきた。このときをどれだけ待ち望んだことだろう。私は病床の高野に胸躍らせて知らせた。

(同前)

二人はプロの専属作家としてキングレコードと契約し、一本立ちできる日を待ち望んでいました。薬を買えるだけのお金が入ってくれば、高野は生き延びることが可能になる――。ところが、長年の願いが叶えられそうになったそのとき、契約の責任者だった文芸部長のところへ先輩作曲家から、思いもよらぬ横槍が入ったのです。船村徹が会社や文芸部長の扱いに不満を持っているなどと、あることないことを吹き込んだために、契約締結がしばらく宙に浮いてしまう事態が起こりました。

そうした卑劣な仕打ちに悲しみと怒りでいっぱいになった船村徹は、先の人生が残っていない高野を喜ばせることができなければ、専属になる意味がないと腹をくくります。そんな二人の動向をじっと見つめていたのが、邦楽に関して最も力があった日本コロムビアでした。コロムビアには作詞家の西條八十、サトウハチロー、藤浦洸、野村俊夫、(おか)()()()、石本美由起、作曲家では古賀政男、(まん)(じょう)()(ただし)、服部良一、古関裕而、上原げんと、そして作詞と作曲を手がける米山正夫と、それぞれに様式をしっかり確立させてきた、そうそうたる専属作家が揃っていました。

病床の高野に早く朗報を届けたかった船村徹は、キングと並行してコロムビアの担当者との下交渉に臨みました。相手は林諄企画課長、古賀政男の担当ディレクターで、数多のヒット曲を世に送り出してきた人物です。

 私は酒を飲む人間しか信用できない心境だった。一緒に飲んでくれ。飲んで腹を開いてくれ。本当に信用していい男かどうか見せてくれ。
 二人してぐいぐい酒を飲みながら話し合った。まず私と高野の専属料。林さんは私がキングレコードに提示した額の三倍出すと言う。新人としては破格の金額である。
「入社第一作の歌手は誰を使わせてくれますか」
 新人が歌手を選ぶなどというのは異例中の異例。いわば非常識な要求だったが、林さんはポケットからコロムビア専属歌手の一覧表を取り出して、
「この中から選んでください」
 顔色ひとつ変えずに言った。
「美空ひばりと青木光一のカップリングでお願いします」
 これも無謀な要求だった。
「ひばりちゃんは映画の仕事があるので無理かもしれません。その場合は島倉千代子で良いですか?」

(同前)

コロムビアはこうして信じられないような破格の条件で、船村徹と高野公男の二人を専属作家に迎え入れます。さらに主だった所属歌手を集めて、「高野君を励ます夕べ」を水戸公会堂で開いたのです。

林がそこまで船村徹の意向を尊重したのは、音楽学校でクラシックを学びながらも、土着的な匂いを感じさせる個性的で強烈な曲調に、豊かな可能性を見出したからでしょう。まだ20代前半にも関わらず、「ご機嫌さんよ達者かね」「あの娘が泣いてる波止場」「別れの一本杉」と、二人が立て続けに出したヒット曲からは、日本人の根本に響いてくる情念を受けとめたはずです。さらには、ひとつの時代を築いた古賀政男が50歳をこえて、後継となる作家を育てなければならない、そんな責任を担当者として感じていたからに違いありません。

美空ひばりから受けた震えるほどの畏怖

コロムビア専属第1作のA面は、高野公男の歌詞による「早く帰ってコ」でした。かつて「茨城弁の詞に栃木なまりのメロディーをつけよう」と話し合ったとおり、二人のコンビならではの望郷ソングです。

東京にいる弟に向かって、兄が普段の口調で語りかけます。

「早く帰ってコ」
作詞 高野公男、作曲 船村徹
 
おふくろも親父も みんな達者だぜ
炉端かこんで いつかいつしか東京の
(めぇ)(たち)二人の話に 昨夜(ゆんべ)も更けたよ
早くコ 早くコ
田舎へ 帰ってコ
東京ばかりが なんでいゝものか
 
好きならば一緒に 連れてくるがいゝ
どんな娘か おらも兄なら見たいもの
妹も嫁こにきまって 今年は行くだに
早くコ 早くコ
二人で 帰ってコ
幼なじみも 変わりゃしないよ
 
あん時は 別れが辛くて泣いた駅
俺は馬っこの背で 手を振りさいならと
東京へ旅だつお前を 送って行ったっけ
早くコ 早くコ
明日にも 帰ってコ
親父めっきり やせて老けたよ

 私たちはかつて賛否両論を巻き起こした新しい詞とメロディーを持って乗り込んだのである。青木さんに譜面を初めて見てもらったとき、青木さんも怪訝そうな顔だ。今までの曲とはひと味もふた味も違っていたからである。しかし旧満州で長く暮らした青木さんに、高野の詞に綴られた思いが伝わらないはずはなかった。

(同前)

林とコロムビアはしっかりと約束を守り、B面の「乙女流しは寂しいね」も島倉千代子で吹き込みが行われました。そして専属作家としてのレコードは8月15日に発売され、見事にヒットしたのです。

しかし、それから3週間後の1956年9月8日、高野公男は入院していた水戸市の病院で、26歳の若さで亡くなってしまいます。生きているうちに専属作家としてヒット曲を出せたことが、せめてもの救いだったとはいえ、船村徹の喪失感はとてつもなく大きいものでした。

プロの道を歩き始めたばかりの船村徹という新進作曲家は、作詞家高野公男の死とともにあっけなく死んだ。二十四歳の晩夏のことだった。いまいる私は二代目船村徹である。

(同前)

やがて船村徹は早逝した高野への思いから、30歳まで生きれば十分だとして、酒を飲むだけ飲み、仕事をするだけしたら死のうという覚悟で働き出します。そして美空ひばりとの出会いを経て、押しも押されもせぬヒットメーカーとなり、演歌というジャンルの中心人物として、歌謡界に君臨していくことになります。

船村徹が美空ひばりのために初めて書いたのは、専属になった翌月に頼まれた、「波止場だよ、お父つぁん」と「港は別れてゆくところ」の2曲です。そのレッスンのためにひばりの自宅で初めて会った時のことを、船村は著書の中に「美空ひばりとの戦い」という章を設けて、このように記しています。

 私はピアノを弾きながら「波止場だよ、お父つぁん」を歌った。ひばりさんは手にした譜面に目を落としながら左手に立っている。次にひばりさんが歌った。それは驚くべき歌唱だった。私が注文をつけたのは「ねー お父つぁん」の「つぁ」にアクセントを置くということだけだった。そこを直して歌った三回目の歌唱は完璧だった。「港は別れてゆくところ」もまた三回で終わった。

(同前)

音楽の道を目ざして高野公男と二人でさまよっていた時、街角からはいつも美空ひばりの歌が流れていました。ギターを抱えて流しをしていた頃には、客が歌う美空ひばりの歌を伴奏して生活費を稼いできました。そこから苦労を重ねて、高野を喪った痛手と失意のなかで、日本一の歌手に作品を書き下ろすまでになったのです。本来ならば晴れがましさで、胸が一杯になっていいはずです。ところがいざレッスンで歌ってもらった24歳の船村徹は、自分よりも5歳年下の美空ひばりから、年齢の差を超えて震えるほどの()()を受けたと記しています。

不世出の歌手によって確立された歌謡曲

船村徹は実際に美空ひばりのレコードが完成した後も、それを聴くのが怖いと感じて躊躇し、実際に聴いた後も喜びではなく、敗北感を味わったとまで述べていました。

 率直に言えば、彼女の表現力は私の感性の先を行っていた。こんな歌手にどんな曲を書けばいいのか。少しでも手を抜けば歌唱で完膚なきまでにやりこめられるに違いない。ひばりというブラックホールに巻き込まれ、自滅するのではないかという恐怖心に似た思いが胸をかすめた。ほかの作曲家がどう感じていたかは知らない。しかし私にとって彼女との出会いは不世出の歌手『美空ひばり』との戦いの始まりだった。

(同前)

美空ひばりの曲を書くことは船村徹にとって、一曲一曲が真剣勝負になっていきます。一度として気を抜けることがなかったという、30年に及んだ真剣勝負のなかで、とりわけ印象深かったのが1960年の7月に発売された「哀愁波止場」だといいます。

「哀愁波止場」
作詞 石本美由起、作曲 船村徹
 
夜の波止場にゃ 誰あれもいない
霧にブイの灯 泣くばかり
おどま盆ぎり盆ぎり
盆からさきゃ おらんと
あの人の 好きな歌
波がつぶやく 淋しさよ
 
<語り>
「ああ 今夜もブイの灯が
冷たい私の心のようにうるんでいる
あの人のいない港は
暗い海の波のように淋しいわ
あの人がいつも唄った歌が
今夜も私を泣かすのね」
 
三月待っても 逢うのは一夜
恋も悲しい 波止場町
五ッ木くずしは
しんから 泣けるよ
思い出の 滲む歌
耳に残って 離れない

このとき船村徹は美空ひばりの歌の特徴が、裏声を自在に出せることだと見抜いていました。そこで「夜の波止場にゃ 誰あれもいない」という歌い出しのパートを、あえて裏声から始めて14文字のフレーズを8小節もの長さにし、1オクターブ下がる音でまとめる譜面を書いたのです。そのために並の歌手にはとても歌いこなせない、高度な技術と表現力が求められる難しい曲になりました。しかし、美空ひばりはその難しい歌い出しを気に入って、聴く者の心を一度でつかむ完璧な出来栄えで歌い、自らの代表曲にしてみせたのです。

ところが母の喜美枝からは、「なんでこんな高い声ださせるの。お嬢(ひばり)がダメになっちゃうじゃないの」と、強い反対にあいました。船村徹も美空ひばり自身も、「いい曲ができた」と確信していたのですが、マネージャーでプロデューサーでもあった喜美枝の意見に、レコード会社は逆らうことができません。発売をためらっているレコード会社の幹部に対して、「これを発売できなかったら、会社はだめになるぞ」という言葉を、船村徹は正直にぶつけました。その結果、美空ひばり自身がとても気に入っていたこともあり、「哀愁波止場」は1960年7月に発売されることになります。

ところが正規のローテーションの隙間に入れて、臨時発売という形でおそるおそる出してみると、それが大ヒットしたのです。しかも喜美枝が反対した裏声による唱法が評価されて、第2回日本レコード大賞で優秀歌唱賞にも選ばれました。それ以来、この歌は美空ひばりにとっては欠かせない楽曲として、亡くなったあとにまで歌い継がれることになります。美空ひばりと船村徹によって確立された究極の情歌、まさに古賀政男から続く情緒連綿たる歌謡曲の完成品と言えるものでした。

船村と親交の深かったジャーナリストの小西良太郎は、日本の歌謡曲の開拓者は古賀政男であり、それを引き継いだ船村徹が戦後の歌謡曲の代表だと述べています。そして2017年2月17日に船村徹が大往生した時に、こんな追悼文を残しています。

 作曲生活64年、船村は異端から出発、やがて日本の歌の王道を極め、後進への影響も大きい。よく酒を飲み、タバコは切らさず、幅広い交友の中での談論風発を常とした、旺盛な読書家。(ごう)()と繊細さが滋味となり、北島三郎、鳥羽一郎ら弟子たちをはじめ、多くの人々から「おやじ」と慕われた。
 今月13日には、最後の内弟子の村木弾の新曲「都会のカラス」のレッスンを自宅でしている。いつになく厳しかったと家族が語るくらい音楽への情熱はいささかも衰えていなかった。急な旅立ちだったが、船村は昭和ひとけたの男の喜怒哀楽を、(いち)()に激しく全うした人だった。

(次の写真は船村徹、生前最後の歌唱披露となった、2016年9月3日、茨城県立県民文化センターで開催の「高野公男没後60年祭演奏会 高野公男・船村徹 友情無限」の一コマです。高野公男の肖像を背に、左より鳥羽一郎、船村徹、北島三郎です)

撮影 堀弥生、写真提供 月刊カラオケファン

船村徹という人は生涯を通して、いつも何かに嘆き、何かに怒っていたようです。日本人がもともと持っていた潔さ、清さ、美しさ、厳しさ、貴さが徐々に失われていくことが、耐え難かったのかもしれません。自伝として書いた著書『私の履歴書 歌は心でうたうもの』(日本経済新聞社 2002年)の冒頭で、このように人生を振り返っています。

 歌は心でうたうものである。テクニックがどんなに優れていても、心のつぶやきや叫びから出たものでなければ、けっして聴く者を感動させることはできない。日本の音楽教育は明治以来、西洋音楽至上主義の歴史を歩んできた。(中略)中でも町の片隅で黙々と生きる人々の哀感をうたう歌謡曲や演歌を(さげす)む傾向さえある。私の作曲家人生は、こうした風潮に対する反逆でもあった。

高野公男の考え方と破調の歌詞を得て、異端から出発した船村徹は1950年代の半ばに、古賀政男、西條八十らが作り上げた流行歌の世界に挑戦して多くのヒット曲を生み、演歌というジャンルを確立して王道を極めました。

そんな船村徹の世界を仮想敵国と想定し、新しい歌謡曲を作るために1960年代後半に作詞家になったのが阿久悠です。その後、文句なしの実績を積み重ねた阿久悠は、歌謡曲の黄金時代を牽引していきました。異端から出発した二人が初めて組んで歌を作ったのは、1991年です。美空ひばりが逝ってしまったことによって、昭和の歌謡曲が終わりを告げた後のことでした。

ところで古賀政男、西條八十らによって築かれていた歌の世界を乗り越えた傑作、「哀愁波止場」もまた実は隠れた「ない・ソング」だったことにも触れておきたいと思います。1番の途中から出てくる「五木の子守唄」からの引用「♪おどま盆ぎり盆ぎり 盆からさきゃ おらんと」と、「♪五ッ木くずしはしんから 泣けるよ」の部分、そして間奏に出てくる台詞を除くと、本来の歌詞は4行詞による1番と2番という構成になっていました。

夜の波止場にゃ 誰あれもいない
霧にブイの灯 泣くばかり
あの人の 好きな歌
波がつぶやく 淋しさよ
 
三月待っても 逢うのは一夜
恋も悲しい 波止場町
思い出の 滲む歌
耳に残って 離れない

有名な歌い出しの1行が「夜の波止場にゃ 誰もいない」であり、最後の1行も「耳に残って 離れない」です。当時の流行歌にあって革新的だった「哀愁波止場」もまた、「ない」で始まって「ない」で終わっていたのです。

次号掲載:9月15日(金)

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