街も人の関係も、そして歌も、それはいつも何もないところから始まる。何もないからこそ自由に創り上げていけるのだ。作詞家・阿久悠もそうだった。「ない」から始め、昭和の歌謡界に金字塔を打ち立てた。阿久に続いたソングライターたちもそう。何もないことの不安より、創作する喜びや使命感によって彼らは駆けた。時代の創造者たちの物語や足跡は教えてくれる。前を向き明日を見据えた者にしか、新しいものは生み出せないということを。そこに目を向け、耳を傾けたとき、未来への風はきっと吹く。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第6回 2017年7月28日掲載
第一部 歌謡曲の黄金時代を予告していた「ない・ソング」の登場

第六章「ない」ところからのスタート

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グループ・サウンズの大ブームは、既存の作詞家や作曲家ではない、新たな歌の作り手を発掘して活躍の場を与えた。放送作家として多忙な日々を送る阿久悠のもとにも、1967年になって作詞の依頼が入る。異端の新人、ザ・モップスのデビュー作「朝まで待てない」には、自らが広い世界に羽ばたく“朝”を待ちきれない、阿久悠の心の叫びが綴られていた――。
ザ・モップスの登場

1959年4月に明治大学を卒業した深田公之は、中規模の広告代理店「宣弘社」に入社しています。そこでサラリーマンとして働きながら、自由闊達な気風に慣れてきた1963年頃から、アルバイトとして放送用コントや構成台本を書く仕事を始めています。いわゆる放送作家となっていくわけですが、そこで使ったペンネームが阿久悠でした。最初に評価された作品は、人気女優の吉永小百合が主演するラジオドラマ『お父さん!大好き』(ニッポン放送)です。そして『お父さん!大好き』が1964年3月一杯で終了した時、阿久悠は入社して5年、すでに27歳になっていました。

当時は、のちに司会者となった前田武彦や大橋巨泉、作詞でも次々にヒット曲を生み出した永六輔、作詞から歌手や俳優までもこなす青島幸男の活躍で、本来は裏方であった放送作家に注目が集まっていた時代です。広告代理店でのサラリーマン生活とラジオやテレビの放送台本を書く放送作家、どちらも順調で忙しくなったことで、阿久悠は眠る時間を削っての二重生活をしながら、日本テレビを通じて音楽業界との関わりを深めていくことになります。

そうした縁から『世界へ飛び出せ! ニューエレキサウンド』の企画に携わり、阿久悠は放送作家の立場で作詞に手を染めていきます。このときにスパイダースやホリプロダクションとつながりが出来たことから、グループ・サウンズ・ブームのさなかにモップスがデビューするとき、ビクターに作詞家として推薦されたのではないかという推測が成り立ちます。実際にモップスの演奏を事前に見ていた阿久悠は、時代への反逆性を示せると意欲的になったことを、このように記しています。

 ぼくは、作詞の前にこのグループの演奏現場を見に行ったが、正直なところ、その汚さに仰天した。後楽園球場に隣接する遊園地の隅っこに形ばかりのステージを作り、ザ・モップスはそこでアニマルズ風の歌を歌っていたが、数人の子供がしゃがんで見ているだけであった。
 汚さに仰天はしたが、時代はヒッピー文化に染まりつつある時で、ぼくはなぜか美少年の叙情歌謡的要素の強くなったグループサウンズよりは、この方が時代への反逆性を示せると意欲的になったことを覚えている。

(阿久悠『愛すべき名歌たち─私的歌謡曲史─』岩波新書)

グループ・サウンズのバンドのほとんどは、ビートルズやローリング・ストーンズ、アニマルズなどをお手本にして、彼らのレパートリーをコピーして演奏していました。しかしレコード・デビューするからには、わかりやすい日本語で歌った方がヒットの可能性が高くなります。スパイダースの場合でも意欲的な日本語のロックを目指した「フリフリ」や「バンバンバン」などがセールスに結びつかず、歌謡曲そのものでメンバーが気乗りしなかった「夕陽が泣いている」が、リーダーである田辺昭知の思惑どおりに大ヒットしました。そしてローリング・ストーンズをお手本にしていたタイガースもまた、大正童謡をほうふつさせる叙情的な歌詞とメロディーの「僕のマリー」で人気を爆発させたのです。それによって熱狂的なブームが巻き起こり、1967年の春から次々に新しいバンドが登場して来ました。そこで必要になったのがグループ・サウンズ向きに作られた、日本語による叙情的な楽曲だったのです。そのためにはタイガースを手がけていた橋本淳とすぎやまこういちのように、新しい時代の歌を作れるソングライターがいないと話になりません。しかし、エレキ・バンドというスタイルを前提にした楽曲を求められたとき、レコード会社の専属作家たちは音楽面から、まったく対応できない状態でした。そこで需要と供給の事情から、専属作家制度に関係ないところで、若いソングライターたちが一気に登場してくることになったのです。彼らが、時代が求めている新しい楽曲を作り出していったのは、歴史的に見て必然の流れだったといえるでしょう。

そしてタイガースが女子中高生と若い女性を中心に、爆発的な人気を得たことでグループ・サウンズの方向性が決定づけられていきます。先行していたブルー・コメッツは揃いのスーツ、ワイルドワンズは学生らしい清潔でカジュアルなファッションでした。しかしスパイダースは派手なミリタリー・ルックを身にまとうようになり、タイガースも同じようにファッショナブルなコスチュームで成功します。そのために中高生の女子が憧れる少女漫画のような世界、メルヘンを感じさせるコスチューム、ロマンチックで叙情的な歌詞が主流になっていきます。

そうした風潮に逆らうように登場したのが、日本で最初のサイケデリック・サウンドを標榜したザ・モップスでした。レコード・デビューするバンドの多くが、若い女性ファンをターゲットにしてアイドル的な面を強調する傾向があったこの時期に、彼らは高度な演奏力を支えにしたR&Bやブルース・ロックを志向していきます。ファッションでも各人がヒッピー風の個性を主張していました。メンバーは鈴木ヒロミツ(ヴォーカル)、星勝(ギター、ヴォーカル)、三幸太郎(ギター)、村上薫(ベース)、スズキ幹治(ドラムス)の5人です。

モップスというバンド名はホリプロダクションの堀威夫が、スパイダースをアメリカでデビューさせた時、ハワイ公演の前座に出たモップトップスから思いついたものだと語っています。

 スパイダースのプロモーション・ツアーで、最初にホノルルに行ったときに、地元バンドのサポーティング・アクトが出るんですね。それがモップトップスって名前だったんです。モップの先って意味でしょうね。そこからもってきた(笑)。
 やがてロスへ行って、ビートルズを日本に呼んできた永島達司さんに「サンフランシスコのフィルモア・オーディトリアムで今妙な音楽が流行っているから見て来いよ」と言われてスパイダース全員を連れて見に行ったんです。ビル・グラハムっていうのがプロデューサーだった。
 ジェファーソン・エアプレインなんかがでていた。なんか真っ暗な中で、フロアが蛍光塗料か何かで光っていて、異様な雰囲気だった。

(大学史紀要 第21号 「特集 阿久悠・布施辰治」明治大学資料センター)

スパイダースのアメリカ進出は失敗に終わりましたが、転んでもできるだけ何か拾ってこないと気が済まないという堀威夫は、このときサイケデリックを日本に持ち帰ったのです。

「阿久悠の時代」の静かな幕開け

ホリプロダクションと契約したモップスは、グループ・サウンズのブームに出遅れていたビクター・レコードから、1967年の11月にデビューすることになりました。レコード業界の老舗で最大手だったビクターは、グループ・サウンズのブームを一過性のものとみなし、バンドを手がけることには消極的でしたが、各社からヒット曲が続出するのを見て、遅ればせながらと重い腰を上げざるを得なくなったのです。そのために契約したザ・サニー・ファイブには岩谷時子といずみたく、ザ・ダイナマイツには橋本淳と鈴木邦彦と、どちらも実績のあるヒットメーカーの楽曲を用意し、デビューに向けた準備を進めていました。そこへどうせならば三つのグループを同時にデビューさせて、グループ・サウンズの分野にビクターが本気で参入したことをアピールしようと、言ってみれば話題づくりで、急遽モップスのレコーディングが早められることになったようです。そのときに作詞の依頼を受けたのが阿久悠でした。

テレビ番組をやりながら、必要なら詞はぼくが書きますよという姿勢は、広告代理店時代から一貫している。小器用にCMソングのサンプル版くらいは書いていたが、詞に興味があったわけではない。書けることを示してみたかっただけである。
しかし、「朝まで待てない」の場合には、初めて作詞家として招かれ、それだけに責任も負わされ、小器用をこえたものを書かなければといささか緊張した。

(阿久悠『愛すべき名歌たち─私的歌謡曲史─』岩波新書)

ビクター・レコードからやってきた斎藤豊と武田京子という二人のディレクターから、阿久悠は翌日の朝までに楽曲を仕上げてほしいと、やや唐突な感じで依頼されたそうです。そして作曲を頼まれていた村井邦彦と一緒に、まるで拉致されたような状態でホテルの一室へ閉じ込められたのでした。

村井邦彦は学生の名門バンド・サークル「慶應義塾大学ライトミュージックソサエティ」でピアノを弾いて活躍する一方で、自分で小さなレコード店を経営する才覚を持ち合わせていた22歳の若者です。少し年長の先輩にはピアニストで作曲家の三保敬太郎、グループ・サウンズのブームで頭角を現していた鈴木邦彦、「ルパン三世」などのテレビや映画の音楽で活躍する大野雄二がいたといいます。しかし作詞家として抜擢された阿久悠ともども、この段階ではまだまったく無名の新人でした。

「この曲は、書き終わるまで帰さないと、赤坂の小さいホテルに缶詰にされたので、さっさと書いて、作詞の阿久悠さんに渡して帰ったことを覚えている。そしたら、出来上がったのが<朝まで待てない>だった(笑)」

(村井邦彦インタヴュー『レコード・コレクターズ』2007年7月号)

まだお互いにどこの誰かもよくわからないまま、相手の能力や人柄を探り合いつつ、二人は曲を完成させたようです。そして村井邦彦は素早く作曲を終わらせて、さっさと部屋を出ていきました。しかし責任感の強かった阿久悠は、緊張もあってなのか、完成させるまでに時間がかかったそうです。

この中では無名はぼくらだけで、他の二組はヒットメーカーが書いている。負けないように頼みますよという圧力の中で、二人は赤坂の小さなホテル――東急観光だと思う――に閉じ込められ、さあ時間がない、何とか明日までと急き立てられた。そこで「朝まで待てない」というタイトルを思いついたのは、少し出来過ぎの感じがするが事実である。

(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社)

後になって振り返ってみれば日本の芸能界、あるいは音楽シーンに革命を起こしたともいえる、偉大な二人のミュージックマンによる出会い頭の仕事、それが「朝まで待てない」だったわけです。しかしながらこの段階ではまだ、「ない・ソング」によって阿久悠の時代が静かに幕を開けていたということに、誰ひとりとして気がついてはいません。

ただし阿久悠自身はそれまでの流行歌や歌謡曲にはない、聴き手の胸に強く訴えるための“タタク歌”にしようと心がけていたのです。

「朝まで待てない」
作詞 阿久悠、作曲 村井邦彦
 
あきらめ 捨てた筈なのに
恋は眠りを 忘れさせる
闇に向って お前の名を呼ぶ
今すぐ逢いたい 朝まで待てない
 
あきらめ 捨てた筈なのに
胸がつぶれて ひとりの辛さ
かみしめながら お前の名を呼ぶ
今すぐ逢いたい 朝まで待てない
 
Can’t wait! ドアを閉ざして
Can’t wait! お前は俺を
Can’t wait! つめたく こばむだろう
 
あきらめ 捨てた筈なのに
夢がとぎれた このむなしさ
こらえきれなく お前の名を呼ぶ
今すぐ逢いたい 朝まで待てない

この歌詞からは“怪物”となる作詞家の誕生前夜ならではの、心の叫びがストレートに表出しているようにも思えます。具体的な言葉は出てきませんが、闇の中で閉ざされたままの扉を、懸命に叩こうとする思いが伝わってきます。阿久悠の言い方を借りれば、まさに“タタク歌”の系譜に属する作品です。そう考えていくと、闇に向かって呼ぶ“お前”というのは、「阿久悠の時代」ということになるでしょうか。

しかし“あきらめ捨てた筈”のものに向かって、いくら叫んでみても闇は闇でしかない。そうだとすれば、1967年という時代が阿久悠を、本当には求めていなかったのかもしれません。それでも中ヒットにはなったのですから、兆しをつかめたと感じた可能性はあります。

最初の「ない・ソング」の誕生について、サイケデリックを求められていた阿久悠自身は、このように述べています。

湖とも清らかな乙女とも無縁のこの歌は、王子様的な風貌からはほど遠いモップスの面々とも相まって、GSに熱狂する女性たちの心を完全につかみきることができなかった。しかしこの曲の中には、若者を突き動かす抵抗、拒絶、混迷、飢餓が散りばめられており、今、同じテーマで歌詞を書くことも可能なほど現代性をもっていたと自負している。
プロダクションの要望はサイケデリックなものであった。しかし、まさか幻聴や幻覚を書くわけにはいかず、「ドアを閉ざしてお前は俺を つめたくこばむだろう」と書いた。

(阿久悠『「企み」の仕事術』KKロングセラーズ)

“待てない”“消えない”“熱くなれない”

作詞家デビューとなった「朝まで待てない」は、オリコン・チャートで最高38位 、推定売上げ枚数5万枚前後という結果になりました。新人バンドのレコードを3枚一斉に発売したビクターにしてみると、実績のあるヒットメーカーが手がけたザ・サニーファイブとザ・ダイナマイツを差し置いて、無名の二人が手がけた「朝まで待てない」だけが、まずまずの結果を出したわけです。こうしてモップスは次もサイケデリック路線でいくことになり、阿久悠の作詞提供が続きます。

「朝まで待てない」が中ヒットし、レコード会社からヒット賞なるものをもらったのだが、それですんなり軌道に乗ったわけではなかった。ぼく自身も作詞家を目ざしていたわけでもなく、チャンスがあればやるし、なければそれまでという感じでいた。
ぼくはまだ放送作家を本職として考え、作詞をもの珍しい副業程度に捉え、忙しさだけは超一流で過ごしていたが、なるべく早くここから脱出して、シナリオを書くなり、小説を書くなりしたいものだと思っていた。

(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社)

ここから阿久悠は、引き続きモップスのために合計6曲の歌詞を書くことになります。

  • 1967年11月10日「朝まで待てない/ブラインド・バード」
  • 1968年3月5日「ベラよ急げ/消えない想い」
  • 1968年8月5日「お前のすべてを/熱くなれない」

その結果としてモップスの3枚のレコードには、「ない」という文字が刻印されたかのごとく、タイトルのなかで使われることになりました。そして「ない」という文字が使われた3曲が、いずれも村井邦彦の作曲だったところにもまた、運命の糸のようなものを感じずにはいられません。二人はその2年後、「ざんげの値打ちもない」という衝撃的な「ない」ソングを誕生させて、音楽業界のクリエーターたちを震撼させるのです。

モップスの3作で阿久悠がプロの作詞家としてキャリアをスタートさせていたことに気付けば、作詞家としてのゆるぎない姿勢がこの時点で、早くも確立されていたこともわかります。当時の阿久悠がその事実をどこまで意識していたのか、それはいまひとつ明快ではありませんし、曖昧だったという可能性もあります。しかし楽曲のタイトルから、阿久悠という表現者の本質が、「ない」という文字となって、タイトルに痕跡を残したとみてもよいのではないでしょうか。

僕の書く詞は「歌謡曲らしくない」「歌らしくない」といわれたが、その、らしくないことが自分の個性だと思っていた。当時はそのことで自分を貫いて争うほどの情熱を持ち合わせていた。
おそらく、僕は売れないタイプの作詞家なんだと評論家的に自己評価していた。

(阿久悠『「企み」の仕事術』KKロングセラーズ)

阿久悠が自分の作品を「歌謡曲らしくない」、「歌らしくない」と分析しながら、あえて「僕は売れない」というところから歌作りを始めていたことがわかります。

「ベラよ急げ」のB面に収められた「消えない想い」もまたタイトルの途中に、「ない」が使われている「準ない・ソング」とも呼べる楽曲です。しかも歌詞の最後は「朝まで待てない」と同様の否定形、「ない」と置き換えが可能な「ぬ」で終わっています。

「消えない想い」
作詞 阿久悠、作曲 村井邦彦
 
蒼いひとみが 胸の奥から
消えて行かない つらい想い出
愛して 愛しあっていた
信じあっていた 想い出
想い出 いまも忘られぬ
 
つらい言葉が 胸の奥から
消えて行かない にがい想い出
求めて 求めあっていた
誓いあっていた 想い出
想い出 いまも忘られぬ

大野克夫と組んだセカンド・シングルのA面は「ベラよ急げ」でしたが、期待された割にヒットしなかったこともあり、3作目ではAB面ともに村井邦彦とのコンビ作品に戻ります。そして「お前のすべてを」がA面に選ばれました。しかしこれはもう何がヒットするのかわからないので、開き直ったかのようにエレキ・ギターが鳴り響くサイケデリック・サウンドに乗せて、ヴォーカルの鈴木ヒロミツがめそめそと泣き叫んで、一度も歌わずに終わるという実験的で短い楽曲でした。

「お前のすべてを」
作詞 阿久悠、作曲 村井邦彦
 
いやだ いやだ いやだよ…
もうもどれない ああ
もうお前をはなせない
お前なしでは…もう
もう もう いやだ
この手を俺のために
この香りを俺のために
このぬくもりを俺のために
もしお前がいなくなったら
俺は 俺は 暗い闇に沈んでしまう
だから しっかり しっかり
俺の手を お願い
ああ I LOVE YOU…
 
バカだと言うのかい
クレージィだと言うのかい
いいのさ 何と思われても
だから しっかり しっかり
俺の手を お願い
ああ I LOVE YOU…

しかし阿久悠の「ない・ソング」は、B面の「熱くなれない」まで三部作のように続いています。しかしタイトルどおりに情熱もまた、少しずつ冷めていったのは明らかでした。

「熱くなれない」
作詞 阿久悠、作曲 村井邦彦
 
熱くなれない もうお前とは
愛は一度で 燃えつきた
重ねたはずの このくちびるも
今はかわいてしまったのさ
ドアの向こうがお前の世界
夜にまぎれて消えてくれ

“逢いたい”のに今はまだ“逢えない”状況にいることへの苛立ち、それを訴えても変わることのない現実、消えてほしいのに“消えて行かない”ことの苦しさ、それらは一向に解消されません。阿久悠が“熱くなれない”ことから、もう“消えてくれ”と願っても、来るべき「阿久悠の時代」は依然としてドアの向こう側にありました。

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