沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第21回 2017年11月24日掲載
第二部 「ざんげの値打ちもない」という夜明け

第一章 静かなる衝撃、藤圭子の登場

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阿久悠が、和田アキ子の第3弾シングルの作詞に取り掛かっている頃、日本の歌謡界に画期的な出来事が起きる。「新宿の女」でプロ歌手としての第一歩を踏み出した藤圭子が、立て続けにシングルとアルバムを大ヒットさせて、一躍時代の寵児となっていくのだった――。
「カスバの女」を歌った17歳の少女

阿久悠がホリプロダクションの堀威夫社長に頼まれて、大型新人・和田アキ子のデビュー第3弾となる「その時わたしに何が起ったの?」に取り組んでいた頃、同じレコード会社のRCAから18歳の藤圭子がデビューしています。“演歌の星を背負った宿命の少女”というキャッチフレーズで売り出されたシングル「新宿の女」は、1969年9月25日に発売になっています。

しかしタイアップや放送局などによるバックアップはなく、所属プロダクションさえも急ごしらえだったので、当時の注目度は皆無といってもいい状態でした。そんな藤圭子をマスコミで初めて取り上げたのが、9月3日にスポーツニッポンに載った「ディスク情報『新宿の女』」という記事です。それを書いた文化部記者の小西良太郎は、それから1年後に阿久悠が北原ミレイに書いた「ざんげの値打ちもない」を激賞し、世間に知らしめる役割を果たすことになります。

小西は当時、東京・三軒茶屋のお化け屋敷みたいな古い西洋館の2階を借りて住んでいました。そこには10人余りの友人たちが寝泊まりしていたのですが、1969年に浅川マキをデビューさせる音楽プロデューサーの寺本幸司をはじめ、作詞家や作曲家、歌手のタマゴ、コピーライター、パントマイマー、坊さんの見習いなどがいました。

そこへ顔を出した作詞家の石坂まさをから、新人歌手の候補として17歳の少女、阿部純子を紹介されたのは1968年のことです。

 深夜、自宅に戻るといつものように、安手の梁山泊ふう酒盛りが盛り上がっていて、その傍らに客の作詞家石坂まさをが居た。珍しく女連れで、やがて彼は舌なめずりするような口調で話しはじめる。
 面白いキャラクターの新人歌手を見つけた。この子で勝負する作品も出来た。こんな時代だから、こういう路線がいいと思う。あんたは面白がり屋だから、きっと乗るだろう。僕の頭の中には、歌謡曲が何千曲も入っている。しかし、その中で名作と思えるものは、いくつもない。僕が影響を受けた作詞家は某々で、その代表作はこれこれ…。僕は歌謡曲に賭けた夢を、今度の新人で果たそうと思う…。

(小西良太郎『女たちの流行はやりうた』産経新聞社)

石坂の話はいつも飛躍しながら展開していくので、どの辺に着地するのかと辛抱強く聞いているうちに、“演歌の星を背負った宿命の少女”というキャッチフレーズで、連れてきていた少女をデビューさせたいのだとわかってきました。そこで紹介された細い肩と薄い胸の小柄な少女について、小西は演歌の主人公みたいだと思ったそうです。そのときに彼女が、「能面みたいな無表情を、微笑で少し崩した」とも記しています。

「本名阿部純子、この純ちゃんがね、来年、藤圭子になるの!」

(同前)

RCAのディレクターになったばかりの榎本襄が、偶然に知り合った石坂の家を訪ねて、阿部純子を紹介されたのも1968年のことです。その場で彼女がギターを弾いて歌ったのは「カスバの女」、フランスとアルジェリアという外国を舞台にしたエキゾチックなムードの流行歌でした。

それを聴き終えた榎本は驚いて、興奮を隠しきれなかったそうです。

〈これだけのダイナミックレンジ(音圧)をもって迫り、尚且これだけシャウトできる子は、いま、この若さの歌い手にはいない。まだまだ粗削り。でも、凄い、この子は……〉

(大下英治『悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾』イースト・プレス)


「カスバの女」
作詞 大高ひさを/作曲 久我山明

涙じゃないのよ 浮気な雨に
ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ
ここは地の果て アルジェリア
どうせカスバの 夜に咲く
酒場の女の うす情け

歌ってあげましょ わたしでよけりゃ
セーヌのたそがれ 瞼の都
花はマロニエ シャンゼリゼ
赤い風車の 踊り子の
今更かえらぬ 身の上を

貴方もわたしも 買われた命
恋してみたとて 一夜の火花
明日はチュニスか モロッコか
泣いて手をふる うしろ影
外人部隊の 白い服


「カスバの女」は戦前に「木浦の涙」を作曲した韓国人の孫牧人が、戦後になった1955年に、久我山明の名前で作曲した歌です。本来は映画『深夜の女』の主題歌として制作されたものでしたが、映画が途中で製作中止となったことから、エト邦枝の歌でレコーディングしたテイチクレコードは、ほとんどプロモーションを行いませんでした。そのためにエト邦枝は芸能界から去り、売れなかった曲は自然消滅した形になったのです。

ところが1966年に「夢は夜ひらく」でデビューした緑川アコによってカヴァーされたのをきっかけに、翌年になって初めてヒットして、ここから知られるようになりました。巷の流しなどによって水面下で歌い継がれていた歌が、若い女性歌手によって新しい命を吹き込まれてよみがえったのです。

阿久悠はどこで聴いたかはっきりとした記憶がないと言いながら、こう述べています。

 暗いドスのきいた声で女性が歌う。この暗さとすごみは、終戦直後に、和製ブルースとでもいうべき頽廃の気分を、けだるく歌った何人かの女性歌手と共通したものがある。

(阿久悠『愛すべき名歌たち―私的歌謡曲史―』岩波新書)

1967年3月に歌手を目指して上京した藤圭子は、生活のために16歳から17歳までは錦糸町や浅草で弾き語りの流しをやっていました。その頃にネオン街で流行っていたのが、緑川アコの「夢は夜ひらく」や「カスバの女」だったのです。

大高ひさをが作詞した「カスバの女」の歌詞には、「涙」「雨」「夜」「酒場」「女」「うす情け」といった、1950年代の流行歌、1960年代の演歌に共通のエッセンスが、最初のワンコーラスから見事なまでにちりばめられています。それが陰々滅々とした未練がましい歌になっていないのは、「アルジェリア」「カスバ」「セーヌ」「マロニエ」「シャンゼリゼ」「チュニス」「モロッコ」と、多くの外来語が出てくることによるエキゾチズムと、物語の舞台が国際的だったためでしょう。

そもそも歌詞の発想となったおおもとには、ゲーリー・クーパーとマレーネ・ディートリッヒが主演した戦前の名画『モロッコ』と、ジャン・ギャバン主演による戦後の『望郷』がありました。地の果てに流れてきた主人公が、同情を引くというよりは開き直っている風なところからも、どこかに古きよき時代へのオマージュが感じられたのです。

そして「カスバの女」の主人公である酒場の女が置かれた境遇、そして開き直っているような心情は、石坂の手で舞台を新宿に移して、藤圭子のデビュー曲へと受け継がれていくことになります。

「叱らないで」の歌い出しと「新宿の女」

1968年の秋に発足したばかりのRCAで、新人ディレクターになって間もない榎本には担当する歌手がいませんでした。そんな時に出会った藤圭子を手がけたいと思って、榎本は石坂の家へ通うことになります。

 翌日から、榎本は会社に行かず私の家に来るようになった。とりとめもない話をしながら時間を潰し、純子がいると歌を聞かせてくれと言う。そのたびに純子はギターを抱え、榎本のために歌った。
「オイ、襄さん、会社に行かなくていいのか」
 すでに、お互いを「龍ちゃん」「襄さん」と気安く呼びあうようになっていた私は、サラリーマンの榎本を心配して言った。彼は毎日のように朝の十時にはわが家に顔をだし、夜になると酒を飲みながら純子の歌を聞き、ときには早朝までいるのだ。

(大下英治『悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾』イースト・プレス)

石坂から、純子をデノンから6月か7月にデビューする予定だと聞かされていた榎本は、あきらめることなく半年かけて石坂を説得し、デノンの話をひっくり返すことに成功します。

当時の経緯を榎本が、こう語っています。

色々な関係者に相談に行って、実際に彼女を「DENON」に持っていった実力者にも会ってお願いをしました。でもその間も石坂まさをを必死で説得していて、藤圭子、石坂まさをと3人でずっと一緒にいて、RCAに行ったらああしようこうしようという“戦略会議”を毎日していました。それで7月5日が彼女の誕生日だったので、3人で食事をしている時「そうだ、今日僕も誕生日なんだ」と言うと、彼女が「嘘だ」というので社員証を見せたりして、驚いた石坂はそういう偶然とか縁起を大切にする人なので、ここから一気にRCAに流れが傾きました。

(otonano 『藤圭子劇場』スペシャルインタビュー 榎本襄)

こうして石坂はRCAと契約することに同意し、榎本が会社を説得して藤圭子は9月25日のデビューが決まったのです。そこから大急ぎで発売に向けて、曲作りに取りかかりました。数日後、石坂は「新宿の女」という歌詞を作りました。『新歌謡界』という作詞家の同人誌仲間、みずの稔から見せられた未発表の詞にあった、「バカだな バカだな だまされちゃって」というフレーズが、石坂の頭のなかで何かをひらめかせたのです。


「新宿の女」
作詞 石坂まさを、みずの稔/作曲 石坂まさを

私が男に なれたなら
私は女を 捨てないわ
ネオンぐらしの 蝶々には
やさしい言葉が しみたのよ
バカだな バカだな だまされちゃって
夜が冷たい 新宿の女
何度もあなたに 泣かされた
それでもすがった すがってた
まことつくせば いつの日か
わかってくれると 信じてた
バカだな バカだな だまされちゃって
夜が冷たい 新宿の女


石坂は歌詞が出来上がると、それまで作曲をしたことがないのに自分でメロディーも付けることにします。発想の元になったのは青山ミチという歌手が歌って、1968年に少しだけヒットした「叱らないで」という楽曲でした。その伏線は数カ月前、作詞家の星野哲郎のところへ行って、阿部純子の歌を聴いてもらった時にさかのぼります。そこで青山ミチの「叱らないで」を歌ったのは、純子が流しをしていたときに持ち歌にしていたからです。


「叱らないで」
作詞 星野哲郎/作曲 小杉仁三

あの娘がこんなに なったのは
あの娘ばかりの 罪じゃない
どうぞ あの娘を 叱らないで
女ひとりで 生きてきた
ひとにゃ話せぬ 傷もある
叱らないで 叱らないで
マリヤさま


「すごく、いいよ。彼女は、すごくいい」と、石坂は星野に純子の歌を認めてもらいました。そして「あなたが彼女の歌を書くんだろ。いや、あなたが書くべきじゃないのかな」と言われたのです。音楽業界の実力者だった星野に認められて作詞をしてもらえれば、早くレコード・デビューにこぎつけられるかもしれない、そう考えたマネージャー的な狡さを見透かしたような星野の言葉に、石坂は自分を恥じるしかなかったと言います。

石坂は「叱らないで」の5音階メロディーを子供用のトイ・ピアノで弾いてみて、歌い出しで「ソ・ミ・レ・ド」が2回繰り返されているのを確認しました。そしてそれを逆から弾いてみると、「私が男になれたなら 私は女を捨てないわ」の歌詞にメロディーがうまくはまったのです。こうして歌い出しで「ド・レ・ミ・ソ」を2回繰り返して始まる、5音階で素朴なメロディーの「新宿の女」が完成しました。

「考え始めたら歌えるような歌詞じゃない」

筆者は当時、藤圭子のレコードが出てすぐに買い求めて聴いたのですが、酒場の女をテーマにした嘆き節であるにもかかわらず、その歌声からは歌詞を超えて訴えてくる何かを感じました。「バカだな バカだな」と自嘲的に歌っているのに、どこか凜とした意志が伝わってきたのです。かすれ気味でいながらも力強い歌声には、男にはよりかからないで生きるという意志や、人のせいにしないという潔さが潜んでいました。

デビューから数えて8年の歳月が過ぎて、すでに引退を決意していた藤圭子は、作家の沢木耕太郎によるインタビューで、みずの稔による最初の歌詞が違うものだったことを明らかにしています。もとの歌い出しでは、こうなっていました。


灯りをともして吹き消した
あなたは気まぐれ夜の風


それを石坂が「私が男になれたなら 私は女を捨てないわ」と書き換えたのです。そのことについて「もともとの詞でも、悪くはないね。でも、比べてみると、沢ノ井(石坂まさをの本名は沢ノ井龍二)さんの詞の方が力が感じられる。荒っぽいけれど」と沢木が言うのに、藤圭子がこう答えています。

「それにしても、あたしが男になれたなら、あたしは女を捨てないわ、なんて、普通の人の発想じゃないよね。直接的すぎるし、言葉の言いまわしも変だしね」

(沢木耕太郎『流星ひとつ』新潮社)

藤圭子はデビューのために石坂が用意した「新宿の女」を、「いいとも悪いとも思わなかった」とも述べています。だから彼女はその歌を、「ただの歌」だと思って歌ったといいます。

しかし、やや不自然で日本語として意味がよくわからない歌い出しだったからこそ、藤圭子という不世出の歌手が持っている本質が、言葉ではなく音楽から伝わってきたのかもしれません。

「あの歌はね、本人が余計なことを何も考えず、ただの歌と思って歌っていたところに、いいとこがあったと思うの。あたしが男になれたなら、あたしは女を捨てないわ、なんて、考えはじめたら歌えるような歌詞じゃないよ、実際」

(同前)

ところが、日本ビクターの青山スタジオで、レコーディングが始まった途端に問題が発生します。テイク・ワンを歌い終えてしきりに首をかしげていた藤圭子は、石坂に「先生、私、歌えません」と訴えたのです。

「どうしたの、いつものように歌えばいいんだ」
「でも、ギターのコードがしっくりこないんです」
 流しの歌手だった純子は、三つのコードしか使っていなかった。フルバンドの編曲は純子の肌に合わなかったのである。すると、それを聞いていた榎本は、急遽、レコーディングを中止すると、その場でアレンジャーに電話をかけ飛び出していった。

(大下英治『悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾』イースト・プレス)

自分でも譜面を書けるほど音楽に詳しかった榎本は、これにすばやく対応してフルバンドではなく、少人数のバンド・スタイルに変更することにしました。そしてアレンジャーと相談の上で、トレモロの効いたエレキギターとピックで弾くエレキベース、それにトランペットが鳴り響くというシンプルでメリハリが効いたサウンドをつくっていったのです。

新たにレコーディングされたヴァージョンでは、ダイナミックレンジの広い藤圭子の、ハスキーな声の力強さと繊細さが活かされることになりました。

 二日後にアレンジを変えて録り直した『新宿の女』は、トランペットを加えた編曲で、純子の雰囲気にもピッタリだった。それにしても、新人歌手がアレンジに注文をつけるのは、これまでに聞いたことがない。純子には、私などには計り知れない強さがあることを知らされた。

(同前)

「新宿の女」にはアレンジと歌唱法において、革命的ともいえる面がありました。それは歌の伴奏がエレキバンドのスタイルで、ドラムとベースが8ビートのリズムをはっきり打ち出して演奏していたことです。オーケストラやジャズ・コンボによる歌の伴奏ではなく、8ビートを刻むロック調の歌謡曲が登場したのは、ビートルズ以降の海外の音楽とも呼応するものでした。

藤圭子はドラムとエレキベースによる8ビートのリズムに合わせて、自分の声でロック的なグルーヴを作り出しています。そしてビブラートを8ビートに合わせることで、絶妙ともいえる余韻を生じさせていたのです。そうしたサウンドとヴォーカルの両方に新しさがあったからこそ、演歌など聴こうともしなかった若者たちの間で、広く共感を得ていくことになったと考えられます。

アレンジの方向性を指示したディレクターの榎本は「新宿の女」に限らず、初期の代表作となった「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」を含めて、「ド演歌ではなく、グループ・サウンズもそうですが、3連リズムが特徴のイタリアンロックなんです」と述べています。

藤圭子がデビューした1969年はドゥー・ワップやロックンロール、R&Bのテイストを取り入れた歌謡曲がヒットし始めた年でした。内山田洋とクール・ファイブの「長崎は今日も雨だった」や、和田アキ子の「どしゃぶりの雨の中で」、ザ・キングトーンズの「グッド・ナイト・ベイビー」がそれに該当します。そこには阿久悠によるズー・ニー・ヴーの「白いサンゴ礁」や、「可愛いあなただから」も当てはまってきます。

それまでの数年間にエレキブームとグループ・サウンズがあったことから、団塊世代を中心にした聴き手となる若者たちの感性は、先行する大人たちとはかなり異なっていました。藤圭子は子供の頃に耳にしたロカビリーや、同時代のグループ・サウンズが好きだったそうです。それらのメッカだったジャズ喫茶の新宿ACBには、時間を見つけてよく通っていたのです。

歌唱力と集中力で勝ち取ったスターの座

「新宿の女」を歌ってデビューした時、藤圭子は世間的に17歳と思われていました。したがってこの歌詞は年齢的に不釣り合いな内容で、聴き手は明らかにそれをフィクションだと受けとめました。そして藤圭子もまた情感を込めず、酒場の女の嘆きを他人事のようにぶっきらぼうに歌っています。

余計なことを何も考えずに歌ったという藤圭子ですが、このとき「私が男になれたなら 私は女を捨てないわ」の歌詞で、「私」という文字を少女らしく「あたし」と発音しています。しかし、3番の「私を見捨てた 人なのに」では、「わたし」とはっきり歌い分けていました。


あなたの夢みて 目が濡れた
夜更けのさみしい カウンター
ポイとビールの 栓のよに
私を見捨てた 人なのに
バカだな バカだな だまされちゃって
夜が冷たい 新宿の女


「私を見捨てた人なのに」と歌い終わった瞬間に、フィクションだったはずの歌の奥から、不意にリアルな女が顔をのぞかせたようでした。その「わたし」とは「カスバの女」の主人公、「歌ってあげましょ わたしでよけりゃ」の「わたし」とつながっていたのです。それは習い覚えたテクニックによるものではなく、藤圭子という表現者の持つ本質だとしか言いようがありません。

彼女の歌唱力が新人歌手のレベルを超越していたのは、小学生の頃からプロの歌手と同じように、客を前にして歌ってきたからです。彼女が10歳の時に踏んだ初舞台は、浪曲や漫才をやっていた両親の代役でした。夫・松平国二郎の腹が急に痛み出して演芸大会に出演できなくなった時、妻の澄子は客が騒ぎ出したので、仕方なく楽屋でお手玉をして遊んでいた娘の純子を舞台に上げました。

「純ちゃん、いつも歌っている歌を歌ってちょうだい」
 純子は、臆することなく畠山みどりの『出世街道』や美空ひばりのヒット曲を歌った。
「それはもう、すごい拍手でしたよ。私はそのとき純子は天才だって思いましたね。小学校五年生の、まだ十歳の子が客を喜ばせたんですからね。あの子は将来きっと大物歌手になるって」

(同前)

大人の歌を見事に歌いこなす少女歌手に、10円や100円硬貨を包んだおひねりが客から投げ入れられました。それを拾ってから楽屋に戻って父親に差し出すのが、少女の仕事になっていきます。伴奏もマイクもない状態で、普段着のままで歌う娘が、自分たちと同じくらいの額を稼ぎ出すことがわかった父親は、それを機に興行に連れていくようになりました。

やがて北海道の岩見沢市郊外にヘルスセンターが出来ると、家族3人で住み込みの職を得ます。そこでは5人とか10人のグループや団体さんが来ると、その座敷に呼ばれて浪曲や漫才、歌を披露するのが仕事です。そこで手渡されるご祝儀は家族にとって、給料以外の貴重な収入になりました。常に観客を前にして歌っていたからこそ、藤圭子は必然的に表現力を身につけていかなければならなかったのです。

歌手としてデビューするために上京したのは中学を卒業した日ですが、それは本人の希望ではなく両親が決めたことでした。それからも彼女は現金収入を得るために、錦糸町を中心に夜の盛り場で流しをして働いています。

じわじわと「新宿の女」が売れ始めたことにより、歌う場が増えて、テレビ番組にも出演する機会が訪れました。人気歌手たちとテレビ番組で共演する時、彼女はいつだって相手を負かしてやろうと思っていたそうです。それは子供の頃から積み重ねてきた体験の延長で、ごく自然な行動だったのでしょう。

石坂によれば、藤圭子はリハーサルの時は手を抜くが、本番になると集中力が高まってライバル歌手たちには絶対負けなかったと言います。このようにして真価を認められたことで、テレビの歌番組に出演するたびに、確実に支持者を増やしていきました。そうしたことの相乗効果によって、レコードの動きにも加速度がついて、「新宿の女」はいよいよヒットに結び付いたのです。

そして阿久悠が構成を担当している日本テレビの人気番組、『紅白歌のベストテン』にも出演が叶いました。1969年から70年にかけての阿久悠は、まだ歌番組の台本を書く仕事がメインでした。彼はバラエティーや歌番組を書く時には省略するのが普通だった歌詞を、手を抜かずに一言一句、必ず自分で原稿用紙に書き写していました。だとするならば藤圭子が初めて『紅白歌のベストテン』に出演した時、“演歌の星を背負った宿命の少女”という時代に逆行するかのようなキャッチフレーズや、古色蒼然たる気配を漂わす「新宿の女」の歌詞を書き写しながら、阿久悠が何をどう感じていたのかには興味が湧いてきます。

というのも1969年の年末といえば、15条の「作詞家憲法」を創案した時期とも重なっていたからです。「バカだな バカだな だまされちゃって」と嘆く「新宿の女」や、「どうせカスバの夜に咲く」とうそぶく「カスバの女」は、阿久悠が否定して乗り越えようとしていた、「怨」と「自虐」を歌う「女」の流行歌の典型といえるものでした。

〈2 日本人の情念、あるいは精神性は、「怨」と「自虐」だけなのだろうか〉
〈6 「女」として描かれている流行歌を、「女性」に書きかえられないか〉
〈11 「どうせ」と「しょせん」を排しても、歌は成立するのではないか〉

演歌的な世界とは距離を置いていた阿久悠が、初めて演歌的な楽曲を手がけるのは、それから3年後1972年のことになります。藤圭子のために書いた「京都から博多まで」は、情緒的な想い出や未練を捨てた主人公が、生活する場所を移すことによって前を向いて生きていくという、阿久悠らしい歌詞の新しい演歌でした。さらに翌年、「別れの旅」という自信作を藤圭子に提供しています。

そうした流れの中から阿久悠ならではの演歌と呼べる最高傑作、「津軽海峡・冬景色」を石川さゆりのために書き上げることにもなるのです。

類まれなる表現力を活かせた「女のブルース」

藤圭子のセカンド・シングル「女のブルース」は、前年の末から「新宿の女」が売れ続けていた1969年の2月5日に発売されると、たちまちのうちに大ヒットしました。すると、そこから堰を切ったように人気が爆発し、藤圭子の名前と歌声が全国に広がっていくのです。

当時の藤圭子のヴォーカルにはそれまでの歌手が持っている輝きや、スターが発するオーラとは微妙に違う、異物感ないしは違和感を伴う暗い響きがありました。筆者にはハスキーな歌声と高音に含まれる倍音の心地よさ、ドスの利いた歌いまわしが、当時のロックやリズム・アンド・ブルースと通底する魂の叫びだと感じられたのです。

きわめて特徴がある彼女の声と歌い方について、ディレクターの榎本が「ロック歌手としてならすごい子だった」と語っています。

榎本 (前略)当時はレコード会社6社時代で、彼女は6社のオーディションを全部落ちていました。当時求められていたのが、個性よりも歌の技術でした。それで彼女は“荒っぽい”と指摘され、「細やかさがない」「こぶしが回らない」と言われ、老舗レコード会社の“伝統的な尺度”にはひっかからなかったんです。

 ――でもそのマイナスと言われた部分が、結果的には藤さんの武器でもありますよね。

榎本 そうです。演歌歌手ではなくロック歌手としてならすごい子でした(笑)。

(otonano 『藤圭子劇場』スペシャルインタビュー 榎本襄)

藤圭子が持っていた音楽面におけるロック的な力強さと新しい感覚は、それまでの歌謡曲を作ってきた人たちから、「細やかさがない」「こぶしが回らない」と否定されていたことがわかります。しかしその「老舗レコード会社の“伝統的な尺度”」からはみ出していたところに、ロックやジャズを聴いていた若者たちの間では強く支持された理由があったのです。その結果として、彼女は1970年という時代を象徴するスターに押し上げられて、表現者の自由を失うことにもなります。

沢木耕太郎の著書『流星ひとつ』の中で、2枚目のシングルとなる「女のブルース」の歌詞を目にした瞬間に、心が震えたという話が本人の口から明らかにされています。

「初めてこの歌詞を見たときは……震えたね。すごい、と思った。衝撃的だったよ」
「どこで見せられたの?」
「見せられたんじゃないんだ。沢ノ井さんの家の、茶の間みたいなところに、テーブルがあるんだよ。いつも、ゴチャゴチャ、いろんなものがのっかっていたりして、汚ないテーブル。その上を何気なく見ていたの。週刊誌とか、漫画とか乱雑にのっかっているから。そのとき、走り書きのしてあるザラ紙が、ポンとそこにのってたんだ。それを見て、ワァーすばらしい歌詞だな、誰が歌うんだろう、って思ったわけ」

(沢木耕太郎『流星ひとつ』新潮社)


「女のブルース」
作詞 石坂まさを/作曲 猪俣公章

女ですもの 恋をする
女ですもの 夢に酔う
女ですもの ただ一人
女ですもの 生きて行く

あなたひとりに すがりたい
あなたひとりに 甘えたい
あなたひとりに この命
あなたひとりに ささげたい

ここは東京 ネオン町
ここは東京 なみだ町
ここは東京 なにもかも
ここは東京 嘘の町

何処で生きても 風が吹く
何処で生きても 雨が降る
何処で生きても ひとり花
何処で生きても いつか散る


「ここは東京、なんて当たり前の歌詞が、みんな味が違うんだよね、歌にすると。四つが四つ違うんだ。あたし、これを歌うとき、聞いている人に、四つの東京を見せることができる、と思ったもん。思わない? なんで、ここは東京、という言葉が四回出てくるだけで、こんなドラマになるんだろう、って。沢木さん、思わない?」

(同前)

たまたま走り書きの歌詞を目にしただけで、藤圭子はそこからイメージを広げてドラマを思い描くことができたのです。単純な歌詞なのに「四つの東京を見せることができる」と瞬間的に思ったのは、子供の頃からステージで歌うことで身につけてきた体験によるものでしょう。そして彼女は感じた気持ちそのものをぶつけるように歌うことができる喉と声帯、それを使える表現力を持っていました。

3月5日に発売されたファースト・アルバム『新宿の女』が、発売してすぐにベストセラーになったのは異例のことです。まだシングル盤が主流だったレコード業界で、デビューして半年の新人歌手のアルバムが売れるのは前代未聞のことでした。それは、ベンチャーズやビートルズ、あるいは加山雄三やザ・フォーク・クルセダーズなどのアルバムを買うことに慣れていた、若者たちが購入していたことを意味しています。

そしてアルバムを聴いた若者たちの間で、B面の1曲目に入っていた「圭子の夢は夜ひらく」が、圧倒的な評判を呼んでいきます。それが口コミで広まって有線放送やラジオにリクエストが殺到したことから、急遽4月25日にシングル・カットされることになりました。すると「圭子の夢は夜ひらく」はオリコン・チャートの1位に躍り出て、「女のブルース」が2位となりました。それが新聞や週刊誌に報じられて、そこから藤圭子のブームが巻き起こっていったのです。

『新宿の女』は3月末から8月初めまで、20週間にわたってアルバム・チャートで1位を記録しました。なお、21週目にこのアルバムを抜いて1位になったのは、藤圭子のセカンド・アルバム『女のブルース』です。『女のブルース』もまたそこから17週連続で1位を達成し、藤圭子のアルバムは発売から37週連続で、チャートの1位を独占する快挙を成し遂げることになります。そうした藤圭子ブームを牽引したのが、詠み人知らずの歌として巷で長く歌いつがれてきた「夢は夜ひらく」でした。

次号掲載:12月1日(金)

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