沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第14回 2017年10月6日掲載
第一部 歌謡曲の黄金時代を予告していた「ない・ソング」の登場

第十四章「フォークル」が目指した〈みんなの音楽〉

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阿久悠が「朝まで待てない」で作詞家として踏み出した頃、巷では奇妙な歌が流行り始めていた。京都の大学生によるアマチュアのフォーク・グループ、ザ・フォーク・クルセダーズの自主制作LPに収められた「帰って来たヨッパライ」。その何とも人を食った、それでいてシニカルな歌は、やがて空前のヒットとなり、阿久悠を慌てさせ、口惜しがらせる。そのヒットの背景には、阿久悠とは別の反骨精神が息づいていた――。
アマチュアがつくったアングラ・フォーク

1967年12月上旬のある日、阿久悠はラジオから流れてきた“奇妙な歌”を耳にしました。テープレコーダーの早回しを使った「帰って来たヨッパライ」です

おらは死んじまっただ
おらは死んじまっただ
おらは死んじまっただ
天国に行っただ
 

 ある夜、奇妙な歌を聴いた。奇妙としか言いようのない歌で、何だこれはと思っていると、何十分か後に、ラジオのDJが声を張り上げ、さっきの歌に対する反響があまりにも大きいので、それでは、もう一度かけてみましょう、とまた流れた。

(阿久悠『愛すべき名歌たち—私的歌謡曲史—』岩波新書)

その“奇妙としか言いようのない歌”は、「すごい評判」、「すごい反響」ということで、その夜は午前1時から5時までの放送枠の中で、4回もオンエアされました。それは只事ではありません、異例のことが起こっていたのです。

ラジオの深夜放送はその年の10月から始まったばかりでしたが、そこから流れてきた「帰って来たヨッパライ」は若者たちの口コミによって爆発的に広まります。リクエストのはがきが殺到し、問い合わせの電話がニッポン放送に寄せられました。その時の印象を、阿久悠はこう述べています。

 昭和四十二年十二月のことである。その後、深夜放送の定番となる『オールナイト・ニッポン』のスタート時のことであるから、かなり番組のゲリラ性をアピールするための戦略があったとは思うのだが、まるっきりそれだけのことでもなく、実際の反応も相当なものであったに違いない。
 ぼくも、正直、やられたと思った。まだ作詞家ではなかったが、ぼちぼちと音楽番組の中などで使用する詞を書きながら、異色の流行歌、衝撃のポップスはないものかと模索していた時であったから、この何とも人を食った、それでいて、シニカルな調子の歌の登場には、慌てた。

(同前)

放送作家だった阿久悠はさっそく、「帰って来たヨッパライ」がいかなる出自の歌であり、それを歌っているのが何者かを調べてみました。そして京都の大学生によるアマチュアのフォーク・グループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」(通称フォークル)が、卒業記念とでもいうべき意味合いでつくった、自主制作のLPレコードに入っていた曲だということが判明します。

「帰って来たヨッパライ」を関西のラジオ局が放送したところ、たちまち火がついて大変な評判になったというわけです。そのことを聞きつけたニッポン放送が『オールナイトニッポン』で、集中的にプッシュしていることもわかりました。今ならさしずめ地方発の無名グループのインディーズ盤が、地元の若者たちの間で発見されて騒ぎになり、マスメディアに取り上げられたということになるのでしょう。

しかし当時はレコードを自主制作するという発想自体がなかった時代ですから、誰もが驚かされたのは当然でした。ただし、阿久悠は単純に驚いたのではなく、「慌てた」と書いています。さらにそれがあっという間に東芝レコードから発売になり、空前のヒットを記録したことについて「やられた」と思い、心底から「口惜しくなった」とまで記しているのです。

 学生が自主的に作ったものということで、また、やられたと思う。音楽の職業歌手の手を離れるという傾向が、この年特に顕著であったが、それでも、レコードとして発売される時には、レコード会社の資本を使い、その分だけレコード会社の意図も加わっていたが、とうとうレコード盤まで学生が完成させてしまうところに来たかと、口惜しくなった。

(同前)

1967年の12月といえば、阿久悠にとって作詞家デビューとなったモップスの「朝まで待てない」が、11月下旬にビクターから発売されたばかりでした。おそらくラジオでの反応や店頭での売れ行きが、かなり気になっていたに違いありません。そこに登場した正体不明のグループの“奇妙な歌”が、アングラという形容で呼ばれて人気を急上昇させたのです。そこで始まっていた異常な現象は、「日本で初の本格的サイケデリック・サウンド」というキャッチフレーズで売り出されていたモップスにとって、他人事ではなかったはずです。

ザ・フォーク・クルセダーズのアルバム・タイトルは『ハレンチ』という、なんとも人を食ったようなものでした。そしてデザインも全面に蛍光色を使った、完全にサイケデリック調のものです。反体制やサイケデリックのイメージは、阿久悠がモップスに託した思いとも共通しています。

 レコードのジャケットを見ると、これがいかにも昭和四十二年という感じで、「これが話題のアングラ・レコード」と書いてあり、イラストにはうねったレタリングで、なぜか、「HARENCHI」の文字がある。
 昭和四十二年、アングラが流行語であった。反商業主義、反体制の芸術運動が、映画、演劇、美術、舞踏、詩などでもてはやされ、それと同調するかのように、「破廉恥」が「ハレンチ」となり、堂々と存在するようになった時である。

(同前)


「帰って来たヨッパライ」
作詞 ザ・フォーク・パロディ・ギャング、作曲 加藤和彦

おらは死んじまっただ
おらは死んじまっただ
おらは死んじまっただ
天国に行っただ
長い階段を 雲の階段を
おらは登っただ ふらふらと
おらはよたよたと 登り続けただ
やっと天国の門についただ
 
天国よいとこ一度はおいで
酒はうまいし
ねえちゃんはきれいだ
ワーワーワッワー
 
おらが死んだのは
酔っぱらい運転で
おらは死んじまっただ
おらは死んじまっただ
おらは死んじまっただ
天国に行っただ
だけど天国にゃ
こわい神様が
酒を取り上げて
いつもどなるんだ
 
(セリフ)
「なあおまえ、天国ちゅうとこは
そんなに甘いもんやおまへんのや
もっとまじめにやれ」
 
天国よいとこ一度はおいで
酒はうまいし
ねえちゃんはきれいだ
ワーワーワッワー
 
毎日酒をおらは飲みつづけ
神様の事をおらはわすれただ
 
(セリフ)
「なあおまえ、まだそんな事ばかり
やってんのでっか
ほなら出てゆけ」
 
そんなわけで おらは追い出され
雲の階段を 降りて行っただ
長い階段を おらは降りただ
ちょっとふみはずして
 
おらの目がさめた 畑のど真中
おらは生きかえっただ
おらは生きかえっただ


ビートルズの影響下にあった「帰って来たヨッパライ」

ザ・フォーク・クルセダーズは京都に住む大学生の加藤和彦が、バンドを作ろうと雑誌の『メンズクラブ』で呼びかけて、医大生だった北山修らが応じたことから結成されたグループです。そして1965年から2年間のアマチュア活動を経て、卒業や就職活動などの事情から解散を決めました。その記念に彼らは自主制作盤のアルバムをレコーディングし、コンサートの会場で販売するために300枚だけ作ることにしました。その辺の事情について、当事者の北山修が次のように経緯を記しています。

ただ解散するのでは面白くない。解散の記念にレコードを自主制作しようと考えました。大阪の梅田駅近くのスタジオを借りて、録音作業を始めます。スタジオといっても、安普請の建物で、隣は駐車場。車が出入りするたびに、その音がうるさいので、録音を中断しなければならないような状況でした。また、お金もそれほどなかったので、家で録音できるものはテープに録音してスタジオにもち込み、それを再生させてスタジオで声や演奏をかぶせて録音したケースもありました。そんな手づくりの方法でしたが、私はマネージメントを担当し、またプロデューサーとしても、レコードづくりを進めていきました。
 そのレコードのために作られた一曲が「帰って来たヨッパライ」でした。これは、私たちの遊びの精神をとことん盛り込んだ作品です。

(きたやまおさむ『コブのない駱駝』岩波書店)

彼らはスタジオでレコーディングを行う経費が足りないので、ラジオの公開録音に出演したときの録音テープを放送局から譲り受けて、ライブ音源で半分を埋めることにします。ところがレコーディングの途中で曲が足りなくなったので、加藤和彦がフォークル以外の持ち曲のなかから、新たに楽曲を仕上げることになりました。 そのときベーシックになったのがビートルズのアルバム『リボルバー』であり、ソングライティングの相方として松山猛がいたことだったと、加藤和彦は語っています。

 まず、『リボルバー』なんだよね。本当に、テープの逆転とかいろんなことをやってるでしょ。そういうものをしたいと。たまたまオープンリールのテープレコーダーが一台あって、やってみたら、倍速の再生で声が変になるってことがわかった。これを使おうということがまずひらめいて。
 曲は別にあったの。松山とは本当に死ぬほど曲作ったのよ。くだらない曲ばっかりだよ、本当に。毎夜毎夜、青き青年が松山の家で、月を見ながら、一二時頃とか二時頃とかこちょこちょ作ったのよ。そのなかの一曲で、アメリカのフォーク・バラードの完全日本版。昔のフォーク・バラードっていう感じじゃない、一三番まであるみたいな。バラッドだね。
 早回しの曲とその曲が合うイメージがあったわけ。それを自宅で完全にメトロノームを見ながら、「おーらーはー、しんじまっただー」でやって、それをスタジオに持っていった。

(加藤和彦/前田(よし)(たけ)著 牧村憲一監修『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』スペースシャワーブックス)

このときに歌のモチーフになったのはフォーク・バラード、カントリーの「ヒルビリー天国」という楽曲でした。それは天国に行った主人公が亡くなったヒルビリーのスターたちに会い、楽しいひとときを過ごしたものの、ふと目覚めると夢だったという内容です。それを下敷きにして加藤和彦が曲をつくり、松山が社会問題になっていた当時のモータリゼーション事情と交通事故からヒントを得て、ちょっとだけ社会派的要素を入れた歌詞を書きました。それからみんなでアイデアを加えるなどして、ベーシックな形が出来ていったのです。

 加藤が録音するために、私の家の応接間で演奏し歌ったのが、私が「帰って来たヨッパライ」の原曲を聴いた最初です。何より死んだ人間の歌というのがユニークで、生死の間を行き来するのが面白いと思ったことを覚えています。

(きたやまおさむ『コブのない駱駝』岩波書店)

 レコーディングでは北山修のアイデアで、神様のセリフが吹き込まれました。そして間奏にはビートルズの『リボルバー』に入っていた「グッド・デイ・サンシャイン」が、パロディ的にそのまま引用されています。また自宅から持ち出してきた木魚を叩いて、それに乗せて北山修がビートルズの「ア・ハード・デイズ・ナイト」の歌詞を、お経にして唱えることになりました。こうして面白さとナンセンスを追求した、実に“奇妙な歌”が出来上がっていったのです。

みんなでアイデアを出して、みんなで参加してつくり上げるという〈みんなの音楽〉の精神です。曲の最後に「エリーゼのために」のピアノ演奏が入っていますが、これを演奏したのは私の妹です。
(中略)
 作詞のクレジットも「フォークル・パロディ・ギャング」としています(作詞:フォークル・パロディ・ギャング、作曲:加藤和彦、編曲:フォーク・クルセダーズ)。オリジナリティや著作権という発想も希薄だった。あくまで「私の歌」ではなく、「私たちの歌」だったのです。

(同前)

時代の飢餓感に命中したアマチュアの歌

彼らのアルバムは売ってヒットさせることを目標にしたわけではなく、解散記念に徹底的に遊ぼうと思って作ったものでした。そのため売れ行きは芳しくなく、北山修の部屋には大量に残ったレコードが運び込まれます。父親から20万円を借りて作ったのに、在庫をかかえて途方にくれたので、北山修はラジオ局に行って知り合いのディレクターたちに、番組で取り上げてもらえないかと頼みました。

ちょうどそのタイミングで最初の火元となったラジオ関西から「帰って来たヨッパライ」がオンエアされます。それは高梨美津子さんというディレクターが、フォーク・グループとしてザ・フォーク・クルセダーズのことを評価し、会社の経費で独自にレコードを購入したものでした。彼女は気に入った「帰って来たヨッパライ」を、自らの判断でオンエアしてくれたのです。

 少なくない数の現場の専門家が、私たちの曲を聴いて、とても気に入ったそうです。風刺やパロディが効いていて、オリジナルな面白さに満ちていると思ったそうです。
 当時は、こうした感性を持ったディレクターやプロデューサーなどが、世界中にたくさんいたのです。自分の感性を信じて、面白い、すばらしいと思ったら、それを取り上げて、世の中に紹介していく。たとえ無名の新人だろうが、アマチュアだろうが、良いものは良いと判断し、それを世に広めていくことに熱意をもっている現場の専門家です。

(同前)

ザ・フォーク・クルセダーズがお手本にしたビートルズの場合も、そうした人たちの存在があったからこそ、21世紀の今日まで語り継がれていると言えます。リヴァプールでローカル・バンドとして活動していたビートルズに惹きつけられ、自らマネージャーになることを申し出たブライアン・エプスタイン。そして、エプスタインの持ってきたデモ・テープを聴いて、その場で才能に魅力を感じてデビューさせることを決めた、パーロフォン・レーベルのプロデューサー、ジョージ・マーティン。彼らはそれぞれが自らの感性や閃きを信じて、無名だったビートルズを世に送り出していきました。

北山修は「帰って来たヨッパライ」が大反響を呼び、全国的に大ヒットしていく過程において、高梨さんを始めとするいろいろなプロが介在していたこと、そうした人たちが根っからの音楽ファンだったということを、著書のなかで強調しています。

ところで、阿久悠が「帰って来たヨッパライ」を聴いたとき、「慌てた」と述べた理由のひとつには、どことなく反商業主義の気配を感じたことがあげられると思います。それまでは巷に面白い音楽や歌が見つかった場合でも、発売される際には必ずといっていいくらい、レコード会社やプロダクションの意図が加わって、いかにも“商品”らしくなったレコードとして流通していきました。

ところがそうした過程を経ないまま、ザ・フォーク・クルセダーズは自分たちの思うような作品を、音楽に関してはローカルだった京都と大阪で制作したのです。そして兵庫県西宮市にあったレコード制作請負会社、「マーキュリー」にプレスを依頼して製造しています。さらにアルバムのタイトル『HARENCHI』という文字を蛍光塗料を使って印刷し、サイケデリックなジャケットまで用意しました。そうやってすべてを自らの手で完成させた彼らの意志が、図らずも時代の飢餓感に命中したと言えます。それによって、信じられないような爆発的なヒット曲が誕生したのです。

東京への一極集中が典型的だった音楽業界で、地方に住むアマチュアにもかかわらず、自分たちが思ったことを存分にやり遂げたことに対して、阿久悠は戦後の復興期に生きてきた自分の環境との落差、さらには時代の移り変わりを感じて、思わず「口惜しくなった」という言葉を述べたのではないかと考えられます。

しかし、そうしたことが可能だったのは外的な社会の変化ばかりではなく、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーたちの意志によるものも大きかったのです。作曲とアレンジに能力を発揮する加藤和彦と、プロデューサー的な立ち位置で作詞に関わりながら、常にグループ全体をまとめていた北山修は、「帰って来たヨッパライ」がヒットする1年前に、レコード会社からデビューする話をもらっていたと言います。

 関西のアマチュアシーンでは、それなりに有名になったころ、レコード会社からデビューの誘いを受けたこともありました。貴重なオファーの一つは、浜口庫之助さんがつくった曲でデビューしないか、というものでした。浜口さんは、「黄色いさくらんぼ」「僕は泣いちっち」(いずれも一九五九年)などの作曲家として知られ、当時はマイク眞木さんの「バラが咲いた」(一九六六年)など、フォーク調の歌の作詞・作曲を手がけてヒットさせるなどしていました。

(同前)

彼らと同年代で京都のアマチュアシーンの歌姫といわれた高田恭子は、スカウトされて東京に出ていきました。それからしばらくして1969年になってから、浜口庫之助が作詞・作曲した「みんな夢の中」でデビューし、第11回レコード大賞新人賞を受賞しています。そしてその年は、NHK『紅白歌合戦』にも出場したのです。

同じく京都出身のファニーズも、同じ頃にスカウトされて東京に出ていきました。それから半年後の1967年2月、彼らはザ・タイガースとなってデビューします。そこから人気が沸騰して華々しい活躍をしたタイガースは、グループ・サウンズのブームの中心的存在となります。ザ・フォーク・クルセダーズは彼らが上京する直前、1966年の10月に大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」で対バンとして出演しました。北山修はドラムの瞳みのるを、その楽屋で見送ったのを覚えているそうです。

そんな仲間たちを見ながらザ・フォーク・クルセダーズは、遊びの精神を忘れずに自分たちのやり方で、自分たちの好きなように音楽と相対しながら、アマチュアで活動していく道を選びました。

私たちは、結局、大先生たちの作品でデビューするという申し出を断りました。自分たちでつくった歌を自分たちで歌う。そこは、私たちにはどうしても譲れないところでした。大先生たちの歌を歌うわけにはいかなかった。それが、私たちが〈みんなの音楽〉から受け取った精神だったからです。

(同前)

彼らに〈みんなの音楽〉を教えてくれたのは、イギリスのビートルズと、アメリカのフォークソングでした。北山修が初めてビートルズを聴いたのは高校生の頃ですが、雑音の多いラジオから高音中心の歌声と演奏が流れると、独特の“ヤァヤァ・サウンド”が浮かび上がって聴こえたといいます。そしてどこか変則的な感じのドラムの音が耳に残り、一気に惹かれていったのです。

ビートルズの4人はそれぞれに個性的で、各々のキャラクターが際立っていますが、ビートルズの音楽と出会った若者たちは楽器さえ手に入れれば、真似できそうだとみんなが感じました。北山修は、彼らから受けとめたのは音楽だけでなく、「自分でやってみれば?」というメッセージだったとも述べています。

一九六四年に日本で最初のLP『ビートルズ!』が発売され、そのA面の一曲目「抱きしめたい」に衝撃を覚え、こちらから抱きしめることになった。
 フォークシンガーやビートルズたちは、私に「おまえも、おまえのやり方でやってみたらどうだ」と語りかけているように感じられました。それ以前のスターであるエルヴィス・プレスリーには、それが感じられませんでした。映画出演を繰り返したエルヴィスでは、才能とチャンスがなければスターになれない、俺とおまえたちは違うんだと、そんな印象が残っていました。これは、それ以前のクラシックなどにも共通していたのでしょう。きちんと音楽の教育を受けて、たとえば、ピアノが相当にうまく弾けなければ、人前で演奏することなどできない。そして、楽器を演奏したり、コーラスをしたりする無名のミュージシャンたちの前でスポットライトを浴びて歌う、この主人公とはいつも一人だったのです。
 ところがビートルズはギターをもち、四人全員が歌う。そのうえ、場所は地方の港町リバプールでも、ハンブルクでも、どこでもよく、あとは運次第。荒削りでも四人「みんな」がそろって演奏して歌を歌うと、とてつもなく魅力的な〈みんなの音楽〉が生まれる。ジョン・レノンだけが曲をつくるのでもなければ、ポール・マッカトニーだけがつくるわけでもない。レノン=マッカートニーという協同によって歌ができる。ジョンとポールだけが歌うのではなく、ジョージ・ハリスンも、リンゴ・スターも歌う。
 彼らは音楽の教育などを受けたことなどなく、自らのやり方で自分たちの音楽を作り上げていきました。正当な音楽教育を受けた人間からすれば、考えられないようなコード進行を平気で取り入れ、それがビートルズとしての独特のサウンドとなる。

(同前)

■ザ・ビートルズ「抱きしめたい」

自分たちでつくりだした譜面を必要としない音楽で、ビートルズは世界中の若者たちに衝撃を与えました。初期のアルバムにはカヴァー曲もたくさん収めていますが、そのカヴァー作品さえ彼らは譜面を必要としない音楽の強みを活かして、レコードで覚えた楽曲を自在にアレンジして自分たちの作品にしています。女性のヴォーカル・グループの歌を、男性4人の歌に変えてしまうなどは朝めし前といった感じでした。

ビートルズはチャック・ベリーの「ロール・オーバー・ベートーヴェン」もカヴァーしていますが、「ベートーヴェンをぶっとばせ」という歌詞はそのまま、伝統に縛られた既成の音楽を乗り越えて、自由に音楽を楽しもうという彼ら自身のやり方に重なります。北山修はそこから、「壊して、つくれ」というメッセージを受け取ったとも述べています。

首を振って体を揺らしながら一緒に歌うファン、手拍子や絶叫で意思表示する観客、それらを含めて誰もが自分なりに音楽に参加できる――、それが、〈みんなの音楽〉という感覚を作り出し、世界中の若者にまで共有されていったのです。

ビートルズとザ・フォーク・クルセダーズを比較すると、その共通項から見えてくるものがあります。当初は発展に取り残されたローカル都市だったリヴァプールにおける、局地的な人気者でしかなかったビートルズですが、レコード・デビュー後はロンドンでも人気が爆発し、またたくまにイギリスで最高の人気を誇るバンドとなりました。その人気はヨーロッパにまで広がり、1963年のクリスマスの翌日に全米で発売された「抱きしめたい」が、年明け早々にビルボード誌のヒットチャートでトップになったことによって、アメリカの若者たちにも熱狂的に受け入れられたのです。それは第二次世界大戦後に生まれたベビーブーマー世代が持っていた、時代の飢餓感とでもいうべきものを直撃したからだと言えるでしょう。

ビートルズはわずか数年間で世界中に音楽革命を巻き起こし、ファッションデザイナーでもなかったのに、そのユニークな服装はそのまま若者のファッションに影響を与えていきました。彼らがボロを着れば、街にはボロをまとった若者が溢れ、長髪や髭もまた、すぐに真似られていきます。インドから買ってきた服を着た写真が発表されると、街のウィンドウにはインド風のデザインのものが並ぶようになっていったのです。

そんなビートルズの影響を受けた京都の大学生たちは、4年後に地元の関西で発見されて注目を集めると、東京のメディアからの発信によってブレイクしました。1967年のクリスマスの日に発売された「帰って来たヨッパライ」は、戦後生まれの団塊の世代に支持されて大ヒットしたのです。

そして彼らはプロ・デビューしたわけですが、数多くのテレビ出演をこなし、映画に主演するなどの仕事をしながら、何処かでは既存の芸能界と一線を画して、アマチュアの精神を保ちつつ活動を続けていくことになります。

次号掲載:10月13日(金)

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