沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第42回 2018年6月1日掲載
第三部 新たな風を吹かせた作詞家たち

第十三章 「北の宿から」の誕生

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作詞家としての情熱を注ぎ込んだ連載企画「実戦的作詞講座」は、読者や投稿者以上に、阿久悠自身に大きな収穫をもたらした。ヒットから遠ざかっていた都はるみの新たな魅力を引き出した「北の宿から」は、1年後の『NHK紅白歌合戦』で大トリを務める作品へと成長していった——。
演歌というジャンルへの足がかり

阿久悠は「今週から都はるみ篇である」と書き始めた1974年6月の連載で、デビューから10年目を迎えていた都はるみについて、「デビュー当時の何曲かをのぞいて、ほとんど印象に残ってない」と、自分の認識を確認するところから始めています。デビューした年に独特の“うなり”に強烈なインパクトがあった「アンコ椿は恋の花」(1964年)の後、「涙の連絡船」(65年)や「さよなら列車」(66年)とヒットが続きましたが、「惚れちゃったんだョ」(69年)を最後に、70年代に入ってからはヒット曲が途絶えていました。

阿久悠はそのことを、都はるみ本人や彼女の作品を手がける制作者の責任ではなく、時代が彼女の存在を望んでいなかったのだと分析しています。そしてクレジット決済や銀行ローンが定着し始めた高度成長期の日本での彼女を、次のように位置づけていきます。

 非常に独断的いい方をすると、六〇年度の後半から七〇年度の前半にかけて、この十年ばかり、都はるみ的土着性というものは、必要でなかったのである。いや、むしろ、忘れて過ごしたかった時代なのである。

(阿久悠『阿久悠の実戦的作詞講座』スポーツニッポン新聞社出版局)

阿久悠は収入の10倍も買い物ができるといわれる時代、収入の10倍の生活形態を望めるという時代に、都はるみという歌手は似合っていないと見ていました。そして収入の8割までの現金支出によって、庶民が生活してきた時代の歌手である、とも述べています。そのうえでもう一度、大きなヒット曲が出るのではないかと、自らの予感を明示していたのです。

それは石油ショックに見舞われた日本経済の動向をみることで、時代が変わりつつあることに気付いていたからでした。

 そして、ぼくは、又、都はるみの歌が大ヒットし、都はるみの存在を大きく意識する時代が訪れようとしている予感がするのだ。
 何も、都はるみを不景気のシンボルだと不吉なことをいうつもりはない。
 繁栄の虚飾部分にそれぞれが気がつき、GNP世界第二位というランキングと市民生活の関わりの仕方に疑問を抱き、昨年の石油ショック以来、日本経済の仕組みの脆弱さに青天の霹靂へきれきのように驚き、待てよ、あの繁栄という幻想ドラマは、どこの誰の脚本演出だったのだろうと考えはじめた時、都はるみという歌手の歌が、はじめてコミックとしてでなく人々の腹にしみわたるのだと思うのである。

(同前)

都はるみに歌ってもらうための歌詞をどのように書いたらいいのか、阿久悠は読者に寄り添う立場で考えながら、週に1回の連載を進めていきます。そしてプロの歌手を相手に素人が歌詞を書くという、大胆かつ挑戦的な連載の責任者として、作詞を投稿する読者を指導していきます。そこで述べられた言葉を支えていたのは、歌手が存在するのはその声や歌唱の技術によるものではなく、その歌手がその時代の日本のどの部分を象徴しているかによるのだという、阿久悠の思想ともいうべきものです。

 歌というもの、詞というもの、それは決して歌曲の片割れといったささやかなものでないことをぼくは確信しているのだ。
 都はるみの歌をつくろうと考える時、都はるみという歌手に何を感じるかということをそれぞれ答えを出してほしいと思う。
(中略)
 都はるみは何故流し目で歌うのか、何故ハンドマイクを横っちょに構えるのか、何故うなるのか、何故インタビューでことさらに無学風なことをいうのか。
 研究してみると面白いと思う。
 形にとらわれない破天荒なものをまずは書いてほしいと思うのである。

(同前)

しかし、ここまでして伝えようとしていたメッセージは、投稿者たちにまったくと言っていいほど届きませんでした。実際に送られてきた歌詞のほとんどが、いかにも演歌らしい定型語句のものだったのです。しかも“ふるさと”と“桟橋”の題材で応募数の8割をしめるという事態に、阿久悠は1週間後にこんな感想を述べています。

素材の求め方としてわかる気がする。しかし、書く姿勢までが定型であってほしくなかったと思うのである。

(同前)

“形にとらわれない”ものを期待していたにもかかわらず、読者から届いた何百篇もの歌詞を読んだ阿久悠は、歌謡曲における定型語句の根強さにあらためて気付かされたのでしょう。自分で具体的に書いてみせないと真意が伝わらないだろうと考えたのか、第3回からは具体的に見本を示していく方法に切り替えます。

 さて、都はるみ、都はるみと考えながら、今の彼女の詞を、誰が書いたら一番うまく行くだろうかと考えた。
 なかにし礼でも山上路夫でも橋本淳でもz安井かずみでも山口洋子でも阿久悠でもない気がする。あるとすれば、もう十何年も前に、二十六歳の若さでなくなった作詞家高野公男さんではないかとふと思ったりするのである。それか、もしくは、フォークの誰かであろう。土着性と素朴さと正直さと感傷的な抒情性と単純さということに於てである。そして、根本に於て温かい。素朴故にエゴイスティックなのが今の素朴さであるが、それは、素朴故に温かいのだ。
 高野公男さんの作品、「別れの一本杉」とか「あの娘が泣いてる波止場」とか「早く帰ってコ」とか、一度記憶からひっぱり出してみるのもいいかもしれない。

(同前)

自分を含めて“一番うまくいくと思われる作詞家”を考えたとき、阿久悠が思い浮かべたのは1950年代半ばに「別れの一本杉」を大ヒットさせた高野公男でした。東洋音楽大学に在学中から肺結核にかかっていた高野は、作詞家として認められた直後の1956年に26歳で夭折しています。

しかし高野は学生時代からコンビを組んでいた作曲家志望の船村徹とふたりで、話し言葉や方言を流行歌の世界に持ち込んで、なかなか定型の枠を出ようとしなかった流行歌の世界に、新風を吹かせたのです。革新を起こした作詞家という意味で、阿久悠がシンパシーを感じていた先駆者ともいえます。

高野の歌が持っていた素朴さや温かさ、方言によって人なつっこさを感じさせる歌詞を、阿久悠は全国にいるアマチュアの投稿者たちに求めました。そして1974年にそのような歌詞を書いているのは誰かと考えて、その時期に一世を風靡していた「神田川」を思い浮かべます。

プロの作家ではなくアマチュア出身の若者たちが歌うフォークソングは、ジャンルとしては演歌と真逆にあるとされていました。しかし必ずしもそうではないと、阿久悠は冷静に作品を分析しています。そして私小説的な世界を描いた叙情的なフォークソングの「神田川」が、実は演歌と呼ばれるジャンルに通じていることを確信するのです。

 やっぱりこの辺で、演歌についてふれなければならないと思うのだ。
 現在、日本の歌謡界を大きく色分けすると、演歌とポップスとフォークの三つになると思う。
 但し、これは非常に大ざっぱ、あいまい、いいかげんな分類で、そのどれにも定義といったものはない。要するに、森進一が歌っているから演歌であるとか、吉田拓郎が歌っているからフォークであるとか、尾崎紀世彦が歌っているからポップスであるとかいったもので、歌によって分類するのではなく、歌手の出身によって分類することが多いのである。例えば、森進一の「冬の旅」と、かぐや姫の「神田川」をくらべて、どちらが演歌であろうかと検討してみると、明らかに、その感性に於て、「神田川」の方が演歌であることがわかる筈である。

(同前)

阿久悠は自分が避けてきた日本的な湿り気や、心に滲みる情感といったものが、実は「神田川」の本質だということを見抜いていました。高野の後継者は誰かと考えて、“土着性と素朴さと正直さと感傷的な叙情性と単純さ”という視点で、「神田川」を作詞した“フォークの誰か”であった人物に注目したのです。

『阿久悠の実戦的作詞講座』の下巻には、作詞事典というものが掲載されています。そこに「神田川」を作詞した喜多條きたじょうまことの名前があり、“私小説風フォークソングというものを確立した人である。ディテールを描く作詞家として印象に残っている”と述べられていました。フォークソングにも関心を寄せていた阿久悠は、さらにもう一歩踏み込んで演歌の本質に迫っていきます。

既存の楽曲を利用して試す歌詞

阿久悠という作詞家の出発点は、「歌謡曲らしくない」といわれた歌詞のはずです。その、「らしくない」というところが自分の個性だと思い、自分を貫くことによって、それまでにない歌謡曲に挑んできました。しかし作詞家として売れっ子になれば、演歌と呼ばれるジャンルからも仕事の依頼が来るようになります。

阿久悠はここで演歌というものを対象化することによって、自分が演歌を書く必然性があるのか、なぜ書かねばならないのか、どうすれば成功するのか、という疑問に答えを出そうとしたのでしょう。第1回の越路吹雪の次に都はるみを取り上げたのは、自分なりの演歌を書くために必要なステップだったと思われます。

 これだけ数多くの歌手のために詞を書いていながら、ぼく自身、都はるみ的様式美演歌のジャンルは未踏地なのである。いまだかつて一作も書いていない。
 だから、講座を受け持ちながら、実は一番勉強し、悩んでいるのはぼくではないかと思うのだ。
 一つの型をつくり、その型自体で快感を感じさせる様式美を、踏襲すべきなのか打破すべきなのか、まずその分かれ道でハタと思い悩むわけである。

(同前)

都はるみや水前寺清子、北島三郎、美空ひばりといった演歌歌手の歌う作品には、あらかじめ決まった型に収まることによる様式美ともいうべきものがありました。

 それは、定型と省略とを技術的に使った一種の様式美である。何が何してとくれば、何とやらと受けつぐのが快感である日本人的生理である。見得を切る場所、蹈鞴たたらをふむ場所、声がかかる場所、すべて、きちんときまりの型を受けついだ様式美なのである。
 だから、この種の歌は詞を語らない、詞を歌うのである。映画の台詞がリアルな日常語であるのにくらべて、歌舞伎の台詞が反日常の抑揚で唱えるのと同じである。

(同前)

心情的には演歌の定型を打破したい、都はるみに新しい衣を着せてみたいと思いながらも、様式美演歌のジャンルから逸脱しても、都はるみが都はるみであり得るのかどうか、そう簡単に答えは出ません。そこで阿久悠は具体的な作品を素材にして、そこに手を加えることで読者にお手本を示しながら、作詞というものの可能性を確かめる方法を選びます。

流行歌の様式に則している歌詞をもとにして、それを映画的情景を重視したスタイルと、フォーク的なタッチで心情を歌うスタイルに書き分けることにしたのです。そこで取り上げたのは「若狭の宿」、1973年に牧村三枝子に提供した作品でした。そのタイトルにある「宿」という文字を見て、筆者は「北の宿から」がどうつながっているのかに興味が湧きました。

〽風の音にも やせて行きます
お酒並べて 泣いてます
ただひとり あのひとの通夜をする
おもいで残る おもいで残る
若狭の宿よ

(同前)

「若狭の宿」は七五調の演歌的な歌詞ではあっても、七・七・七・五、五・五・五・七・七・七という文字数で、様式美演歌とまではいえないものです。阿久悠はまず映画的情景描写によって、「若狭の宿」の歌詞を書き直していきました。つまり複数のカメラで、シーンごとにそれぞれの場面を映すという方法です。ここで驚かされたのは、効果をわかりやすくするためにと、自分が森進一に書いた「さらば友よ」のメロディーを借りて、これと同じ字数で書いていたことでした。基本は五・五・七が繰り返される七五調ですが、後半はまったくの破調になっています。

お客さんはあなただけ
(このつぎの汽車に乗り)
お一人ですと
(遠くへ行くと)
そういわれ うなずいて
(あの人の肩を抱き)
窓辺によって
(あいつはいった)
季節風吹き荒れる
(お前にはこの恋を)
蘇洞門そともの海を
(わかってほしいと)
ながめつつ酒をくむ
(くり返しそういって)
女ひとり
(あいつは泣いた)
あなたあなた
(さらば友よ)
あなたはかえらない
(もう何もいわない)
ここで ここで 通夜をする
(ここで ここで 見送ろう)
若狭の宿
(うしろ姿を)

続いてはフォーク的なタッチの歌詞にするために、井上陽水の「心もよう」からメロディーを借りてきます。そして字数も「心もよう」にきっちりと合わせて、書いていきます。阿久悠はこのように既存の楽曲をベースにして、さまざまな歌詞の展開を考えたり、可能性を探ったりするという作業を、日常的に行っていたと考えられます。自分が実際に歌詞を書いた楽曲のメロディーを口ずさみながら、別ヴァージョンの歌詞を書くことは想像できます。しかしその歌詞をまったく関係ない楽曲のメロディーのために書きかえるとなれば、細かい譜割りも含めて歌をきちんとうたえないと難しいはずです。人前では絶対にうたう姿を見せなかったという阿久悠ですが、これは非凡な能力であると筆者は思います。

悲しさは段々に
(さみしさのつれづれに)
薄れて行くものと誰も いうけど
(手紙をしたためています あなたに)
それはつらさを知らぬ人の
(黒いインクがきれいでしょう)
知ったふりしたなぐさめなの
(青いびんせんが悲しいでしょう)
あなたはなぜに一人
(あなたの笑い顔を)
私を残したまま 死んだりしたのよ
(不思議なことに 今日は覚えていました)
うらみの数を酒にして
(19才になったお祝いに)
私は一人飲みあかすの
(作った歌も忘れたのに)
あなたにいつか抱かれた宿で
(さみしさだけを手紙につめて)
今では黒い喪服をつけて
(ふるさとに住むあなたに送る)
めそめそ泣いてつぶやいている
(あなたにとって見飽きた文字が)
波風荒い若狭の宿よ ああ
(季節の中で埋もれてしまう)

2カ月にわたった「阿久悠の実戦的作詞講座」の連載で、最終的に当選作となったのは「酔いどれ」と、「おねがいします」の2篇でした。それらは数回にわたって改稿を重ね、1975年3月にレコード発売されました。阿久悠は「アッという組み合わせの作曲家を組み合わせたい」と、フォークグループ「六文銭」の出身でシンガーソングライターの及川恒平に、「酔いどれ」を依頼しています。

「実戦的作詞講座」の企画者であったスポーツニッポンの小西良太郎は、「おねがいします」(作曲 市川昭介)について、音楽業界誌『ミュージック・ラボ』で連載していた4人の新聞記者による新譜批評のコラム「4人の目」で、こんな文章を書いていました。

 阿久悠の作詞講座の中の一作デス。講座は格調高く、作品は下世話に…の見本みたいな歌デス。はるみのガラッ八的魅力は、大いに出ていると自負してイマス。

(週刊『ミュージック・ラボ』1975年2月17日 通巻226号)

しかしなんとか発売にこぎつけたものの、2曲ともヒットにつながることはありませんでした。そこで都はるみの新生面を切り開くために、阿久悠が新たに「みれん節」と「橋づくし」を書き下ろします。こちらは5月25日に発売になっていますが、ミュージック・ラボの「4人の目」で東京中日スポーツの森田潤が「みれん節」を取り上げ、好意的に評価しつつも歌唱法については疑義を呈していました。

 さて、都はるみ(コロムビア)の「みれん節」が、これまでより一歩踏み込んだ作法で、意欲をのぞかせている。初めて阿久悠(作詞)、浜圭介のコンビが、はるみを手掛けており、“抱いたらいいと いって抱かれた”などと、思い切った突っ込みをみせている。安定した歌唱で、ドラ声を聞かせるが、デビュー当時の歌い方に戻った感じ。力を抜いた叙情味ある歌唱に変えたなら、光った作品になったのではないかな?

(週刊『ミュージック・ラボ』1975年5月19日 通巻239号)

「昭和放浪記」のような歌がほしい

都はるみが「こういう歌がほしい」と思う楽曲を耳にしたのは、ちょうど「みれん節」が発売になった頃のことです。それはデビューした時期が一緒だったこともあって、常にライバル視していた水前寺清子の男歌でした。大下英治のドキュメンタリー小説『都はるみ―炎の伝説』に、こんな場面が描かれています。

 昭和五十年初夏、ラジオから水前寺清子の「昭和放浪記」が流れてきた。
 流れ者の男と幸せ薄い娘の一夜の出会いが、おぼえやすいメロディーを背景に、視覚的に展開されていた。
 耳を傾けていたはるみは、水前寺がうらやましかった。
〈わたしも、こういう歌がほしい〉
 さっそく、詞と曲を調べてみた。阿久悠の作詞に、小林亜星が曲をつけたものであった。

(大下英治『都はるみ―炎の伝説』河出文庫)


「昭和放浪記」
作詞 阿久悠/作曲 小林亜星

女の名前は 花という
日陰の花だと 泣いていう
外は九月の 雨しぶき
抱いたこの俺 流れ者

女は数えて 二十一
しあわせ一年 あと不幸
枕かかえて はやり唄
歌う横顔 あどけない

女は眠いと 目をとじる
夢でもみるなら それもいい
雨戸細目に そっとあけ
あおぐ夜空は 雨あがり

女がにぎった てのひらに
お守り一枚 そっとのせ
出ればまぶしい 朝の日が
今日を教える 流れ者

旅を重ねる 折々に
ふれる心の 放浪記


都はるみはその歌が阿久悠の作詞だったことを知って、希望を抱いたのではないかと思われます。「阿久悠の実戦的作詞講座」に取り上げられた時から、いい作品に恵まれることを期待していた割に、アマチュアの当選作はさておき、阿久悠に書き下ろしてもらった「みれん節」が、いまひとつだと感じていたからです。

しかし当時の都はるみは与えられた作品に対して、不満を表明したり注文を出したりすることなど、考えたこともなかったと思います。デビューしてからの7年間で約90曲をシングル盤で歌ってきましたが、そのうちの80曲が恩師にあたる市川昭介の作品で、すべてのヒット曲が含まれています。16歳の時から市川昭介によって大切に育てられてきた都はるみは、いい意味で自分の意見を言う必要がありませんでした。

ところが1971年の秋に市川昭介がコロムビアを離れて、クラウンレコードの専属になったことによって、支えを失うことになったのです。危機感を抱いた都はるみはプロダクションに所属したいと願い出て、慰留するコロムビアとの交渉を続けます。そして1年半後にようやく認められて、自らの意思でサンミュージックに移籍したのです。それが1973年4月1日のことで、翌74年10月にはNHKホールで10周年記念リサイタルを成功させました。

こうして都はるみは新しいスタッフたちとの信頼関係を築いて、自分の意見を積極的に言うようになったのです。そんな時期にたまたま「昭和放浪記」を耳にして、自分が求めている楽曲への思いをスタッフに伝えました。すぐに新たな歌詞がフリーランスの阿久悠に発注されて、新しい作品が直ちに届いたのは、当時の看板スターだった森田健作と、人気アイドルだった桜田淳子の作品を手がけていたことで、サンミュージックときわめて良好な関係にあったからでしょう。

しかし新しい歌詞は「野郎」というタイトルの威勢がいい男歌で、都はるみが期待していたものとは違っていました。都はるみはそれに対して「女の気持ちを歌いたい」と、自分の考えをもういちど阿久悠に伝えてもらいます。そうした意思表示に応じて、阿久悠はイメージを変えることにしたのです。

元気のいい個性をかそうと思って「野郎」というのを書いたのだが、これはボツになった。それでイメージを急転回させての「北の宿」なのである。未練、セーター、北の宿、汽車の音、涙唄、寝化粧などと、ちょっと気恥ずかしくなるほどの演歌の道具立てで、さてと考えた末、主人公だけはいささかの性根を持たせたいと思った。
 それが「か」抜きであり、タイトルの「から」付きである。べショベショと泣き明かしてもこの女性は、きっと翌日、自分の考えでどこかへ行くに違いない。

(阿久悠『愛すべき名歌たち—私的歌謡曲史—』岩波新書)

阿久悠は「北の宿から」の歌詞を、七五調に徹して書いています。「若狭の宿」との違いはそこにあり、さらに歌の主人公の女性に新しいキャラクターを持たせたのです。それによって都はるみに演歌を求めるファンの期待に応えたうえで、新生面を切り拓いたといえるでしょう。

歌の主人公は「あなた」に対して未練は持っていますが、決して後悔しているわけではありません。そもそも「あなた」はすでに亡くなっていて、頼ったりすがったりは出来ないのです。阿久悠は作詞家の星野哲郎との対談で、こんな打ち明け話を語っています。

「北の宿から」も以前書いた、酒を飲みながら愛した男の通夜をしている女をテーマにした「若狭の宿」っていうのがベースですしね。

(星野哲郎『歌、いとしきものよ』岩波書店)

1年前の作詞講座のなかで、「心もよう」のメロディーを下敷きにして書いた歌詞、「あなたはなぜに一人 私を残したまま 死んだりしたのよ」という断ち切れない思いが、「北の宿から」の原点だったのです。主人公は毅然とした姿勢を保ちながら、情動に流されることなく、「あなた」に対して正直な気持ちを淡々と語りかけています。そのことによって自分にけじめをつけて、新しい旅立ちへの儀式としていくのです。


「北の宿から」
作詞 阿久悠/作曲 小林亜星

あなた変わりはないですか
日ごと寒さがつのります
着てはもらえぬセーターを
寒さこらえて編んでます
女ごころの 未練でしょう
あなた恋しい 北の宿

吹雪まじりに汽車の音
すすり泣くよに聞こえます
お酒ならべてただひとり
涙唄など歌います
女ごころの 未練でしょう
あなた恋しい 北の宿

あなた死んでもいいですか
胸がしんしん泣いてます
窓にうつして寝化粧を
しても心は晴れません
女ごころの 未練でしょう
あなた恋しい 北の宿


現実のものとなった予感

阿久悠は「北の宿から」とB面用に「風の噂」を書いて「昭和放浪記」を作った小林亜星に作曲を依頼しました。そのときのことを振り返って、小林亜星がこのように述べています。

 都はるみさんの曲をつくってくれと阿久悠さんから頼まれたとき、はるみさんは三十歳くらいになっていて、いわゆるうなり節でずっとやってきたのがだいぶ飽きられて、鳴かず飛ばずでヒットがずっと出ていなかったころでした。はるみさんのスタッフや、はるみさん自身も相当悩んでいた。
 なんとかもう一度大ヒットを出したいという時期だったのです。阿久さんが歌詞をA面、B面の二つつくってきてくれて、僕は両方を二時間くらいで作曲しました。
「北の宿から」の歌詞は、阿久さんにしてはそれほど複雑じゃない詞でした。これを見たとき、「あなた死んでもいいですか」なんて、こういう感じの歌がヒットするのかなあ、と最初は疑問だったのですが、「女心の未練でしょう」というところを見て考えが変わりました。普通の作詞家だったら、「女心の未練でしょうか」とやるだろうと思う。それを、男に捨てられてまだ未練が断ち切れない状態を客観的に見て、「未練でしょう」と断定し、きっぱりつきはなしている。
「未練でしょうか」とうたったら従来の流行歌ですが、そうではないところに新しい女性像を感じ、一見何でもないように見えて、これはもしかしてすごい歌になるかもしれないという予感はありました。

(小林亜星『亜星流! ちんどん商売ハンセイ記』朝日ソノラマ)

「北の宿から」は未練を捨てきれない自分を認めながらも、誰かにすがることはしない女性を描いたことで、阿久悠でなければ書けない詞になったのです。どこかで自分を客観的に見ている女性が、「あなた恋しい」と素朴な心で訴える歌ですから、都はるみという歌手の象徴でもあったうなり声は必要なくなりました。

阿久悠は和田誠との対談のなかで、自ら書いた楽曲解説に作者の意図をこう明記しています。

「野郎」という男歌を作ったら気に入らないと言うので、それと正反対のこの歌を作った。というのが狙いであった。

(阿久悠、和田誠『A面B面 作詞・レコード・日本人』ちくま文庫)

小林亜星もまたこれを裏づける発言をしていましたが、いつのまにか迫力ある歌い方に変化したとも述べています。

 迫力といえば、はるみちゃんはうなり節というのか、うなるわけです。お母さんが浪花節が好きで、小さいころから叩き込まれているのでうなるんですが、そういううなること、声を張り上げることを、この曲のときは一切やめてもらった。むしろうなり声を抑えてうたってもらったのです。でも、僕がレッスンをつけたときは、そういうことをやるなといって抑えていたけど、ヒットしてから興行しているのを聞いたら、また、〽おんなぁーごころのぉー ってうなってるから、なんだ、結局うなってるなと思いましたが、とにかくこの曲は彼女の代表曲の一つになりました。

(小林亜星『亜星流! ちんどん商売ハンセイ記』朝日ソノラマ)

威勢のいい男歌だった「野郎」から一転して書いた女歌は、都はるみのうなり声を抑えた小林亜星の曲によって、新生面を示す「北の宿から」として完成しました。こうして定型を守りながらも新しい女性像を描いたことで、阿久悠が演歌というジャンルに挑戦する意味も明確になったといえます。

ここからは「北の宿から」と、「神田川」との関連について触れていきます。


「神田川」
作詞 喜多條忠/作曲 南こうせつ

貴方はもう忘れたかしら
赤い手拭マフラーにして
二人で行った横町の風呂屋
一緒に出ようねって言ったのに

いつも私が待たされた
洗い髪が芯まで冷えて
小さな石鹸カタカタ鳴った
貴方は私の身体を抱いて
冷たいねって言ったのよ

若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ貴方のやさしさが 怖かった

貴方はもう捨てたのかしら
二十四色のクレパス買って
貴方が描いた私の似顔絵
巧くかいてねって言ったのに

いつもちっとも似てないの
窓の下には神田川
三畳一間の小さな下宿
貴方は私の指先見つめ
悲しいかいってきいたのよ

若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ貴方のやさしさが 怖かった


この歌の主人公は別れた男性を思い出しながら、語りかけるかのように「貴方」との過去を振り返っていきます。一番の歌い出しは「貴方はもう忘れたかしら」で、最後の締めが「ただ貴方のやさしさが怖かった」です。二番の歌い出しも「貴方はもう捨てたのかしら」で、最後の締めは「ただ貴方のやさしさが怖かった」となっています。したがって聴き終わったあとに残るのは、「貴方」への思いです。

「あなた変わりはないですか」と始まる「北の宿から」も、別れた男性の「あなた」に向かって、語りかけるような口調で始まります。季節も「神田川」と同じ冬、マフラーではなくセーターが季語です。ただし、日常の話し言葉ではあっても、七五調の歌詞で演歌の様式美を守っています。

「阿久悠の実戦的作詞講座」で都はるみと時代について考えた阿久悠は、演歌の定型や様式について分析しながら、フォークソングといわれる「神田川」こそが、実は演歌であるとつきとめています。そして自分のイメージで書いた男歌の「野郎」が、都はるみによってボツにされたという経緯があったからこそ、阿久悠は「若狭の宿」の発展形として、「北の宿から」を誕生させたのです。

都はるみがデビューからの数年間がそうだったように、ヒットメーカーの先生に頂いた作品だという理由で、「みれん節」に続いて「野郎」を素直に受け入れていたならば、「北の宿から」が書かれることはなかったでしょう。阿久悠は都はるみから「女の気持ちを歌いたい」と、はっきり意思表示されたから、男歌ではなく女心の歌を書かねばならなくなったのです。それゆえに「女心の未練でしょう」という、肝になる歌詞が浮かんだ可能性も考えられます。

1年越しの大ヒット曲

都はるみは当初、「北の宿から」に付けられたメロディーについて、今ひとつしっくりくるところがなく、得意技ともいえるうなりも封印されたことで、どう歌ったらいいか悩んだといいます。そのときに「神田川」を参考にして、語りかけるように歌う方法を選んだとサンミュージックの専務だった福田時雄が述べています。

「はるみさんは最初、あなた、と呼びかけるような冒頭をどう歌うか、どう“間”をはかるか、歌い方に苦心したようです。同じように、あなた、で始まる南こうせつさんの『神田川』を参考にしたと伺いました」

AERA dot.『南こうせつ「神田川」のあなた~を参考にした都はるみの「北の宿から」』

サンミュージック音楽出版の取締役でもあった編曲家の竹村次郎は、都はるみから相談を受けて、フォーク調のアレンジに取り組んだと、大下英治の『都はるみ—炎の伝説』には書いてあります。

 竹村は、はるみの望む歌い方を壊さないように、ソフトタッチのアレンジでいくことに決めた。
 竹村は、前奏は映画のタイトルバックと同じであると考えていた。さあ、これからどんなドラマが始まるのだろうか。聴き手に、そういう興奮を引き起こさなければいけない。しかも聴き手の頭の中に、ドラマが絵となって浮かんでこなければいけない。
 ヴァイオリンの幻想的な音を背景に、雪が天からキラキラと舞い落ちてくるようにエレキピアノとグロッケンの音をかみ合わせた。サックスが、そこへせつなそうに入ってくる。ドラマチックなイントロであった。
 歌に入ると、あくまでもはるみの声を引き立てるように、弦楽器の控えめな音色がつづく。

(大下英治『都はるみ—炎の伝説』河出文庫)

この時のレコーディングでサウンドに彩りを加えたのは、フィリピン人のジェイク・H・コンセプションによる絶妙なサックスです。イントロに流れてくるサックスはアメリカ人的な乾いた力強さとも、日本人的な湿った哀愁とも違う、人のあたたかさが感じられる素朴な音色でした。それが都はるみの抑えた唱法の歌声にもマッチし、大いに引き立てる結果になったのです。

その後、吉田拓郎のツアーなどで引っ張りだこになっていくジェイクをいち早く指名した竹村の編曲もまた、小林亜星のメロディーにあるクラシック的な品の良さを引き出していました。こうして完成した「北の宿から」は1976年12月1日に発売されますが、持ち前のうなりを抑えた歌い方が好評で、業界内では発売前から注目を集めました。

『ミュージック・ラボ』の「4人の目」では日刊スポーツの藤中治が、このように高く評価しています。ここに出てくる“こんな人なつっこい作品”という言葉は、作詞講座のなかで高野公男のような素朴さや人なつっこさを意識していた阿久悠にとって、最大限の褒め言葉になったのではないでしょうか。

都——阿久——亜星——竹村次郎の組み合わせがだいたいにして興味あるカルテット。都は力唱を内にこめて新しい自分作りに励んでいる。メロディーもおいしいし、詞も耳を引く。「ここらで一発」の意欲がスタッフの意気として伝わってくるが、それがギンギンになっていないところがまた大人。たまさか酒を飲みながら聴いたが、こんな人なつっこい作品も久しぶりだと思った。

(週刊『ミュージック・ラボ』1975年11月17日 通巻264号)

それまでの小西良太郎に代わって担当し始めたスポーツニッポンの今井隆之も、やはり感情移入を抑えた歌唱について高評価を与えています。

 都はるみが「北の宿から」と「泣き笑い」の二曲を出している。前者は阿久悠作詞、小林亜星の作曲。後者は、中村雅俊の作曲によるフォーク・タッチのもので、日本テレビ「山盛食堂」の主題歌にもなっている。それぞれすてがたい味わいだが、ここでは「北の宿から」をとる。北の宿でひとり手紙をしたためる女、というシチュエーションのおき方。北の宿の寒さと、おんなの心のぬくもりが対照的で、はるみもしんみりときかせている。「北の宿から」にしても、「泣き笑い」にしても、例のうなり節をはずして、感情移入を極力おさえている点が功を奏している。どうもあのうなり節というヤツ、時に耳にうるさく感じる時もあり、こうして趣きかえてみるのもテであろう。

(同前)

ところで前作の「みれん節」に注目して、“力を抜いた叙情実ある歌唱に変えたなら、光った作品になったのではないかな?”と述べていた森田潤ですが、意外にもこんな感想を書いていました。

歌はたしかに水準を行くものだが、うまいと思わせるだけ、曲に力感がない。

(同前)

この指摘もまたなかなか示唆に富んでいて、やがて都はるみは“曲に力感がない”という印象を、自力で覆していくことになります。その年も年末の『NHK紅白歌合戦』に選ばれた都はるみは、その年に出した「おねがいします」も「みれん節」もヒットしていなかったことで、12月1日に発売したばかりの「北の宿から」を歌いたいと、ここでもはっきり意思表示しています。

その布石となったのは10月21日、NHKの歌謡番組『歌のゴールデンステージ』に出演した際に、「北の宿から」を歌って好評だったことでした。この時にNHKのプロデューサーだった井上奨から、放送用に曲を2コーラス半に短縮するにあたって、もっとテレビ映えするように歌い方に工夫を凝らすべきだとアドバイスをもらったのです。それは2コーラスが終わるまでうなりを抑えておき、そのあとに転調をすることで勢いを生じさせて、最後に「〽女心の未練でしょう あなた恋しい北の宿」と繰り返すサビの部分を、ここぞとばかりに思い切りうなるというものでした。

■都はるみ「北の宿から」

実際にそのように歌ってみると効果は絶大で、都はるみらしくない抑えた歌い方によって、意外性と新鮮さを感じながらも、どこかで物足りないという聴き手の思いを、一気に満足させてカタルシスを与えることができたからです。

それは自分にとっても快感だったでしょう。「北の宿から」はテレビでの歌唱によって、視聴者の支持を集めてロングセラーとなり、発売から半年を過ぎた初夏のころから、本格的なヒットになって爆発したのです。

そして年の瀬に行われた有線放送大賞と、大晦日の日本レコード大賞で、見事グランプリに輝いたのでした。それを会場で見ていた阿久悠は、こんな感想を記しています。

都はるみが、レコード大賞の重いブロンズ像を片手で持って、二コーラス歌いきった姿を覚えている。哀しく聴こえ、強く思えた。

(阿久悠『愛すべき名歌たち—私的歌謡曲史—』岩波新書)

その直後に行われた『NHK紅白歌合戦』でも、都はるみは大トリとして「北の宿から」を熱唱しました。全国の視聴者から祝福と喝采を浴びたその夜、阿久悠が「実戦的作詞講座」の初回に書いた「都はるみの歌が大ヒットし、都はるみの存在を大きく意識する時代が訪れようとしている予感がする」という言葉は、現実のものとなったのです。

次回につづく

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