沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第35回 2018年4月6日掲載
第三部 新たな風を吹かせた作詞家たち

第六章 天に祈るほどの思いで書き上げた「石狩挽歌」

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なかにし礼は1973年に「グッド・バイ・マイ・ラブ」、その翌年には「心のこり」と、別れと旅立ちの歌を続けてヒットさせている。そして「いい歌が書きたい」という創作意欲を取り戻してきた時、疫病神のような存在だった兄から与えられたアイデアをもとに、自ら設けた高いハードルともいうべき課題に挑んでいく——。
自らスカウトしたアン・ルイス

スキャンダルと金銭問題に追われていたなかにし礼は1972年に小柳ルミ子が歌った「京のにわか雨」以来となるヒット曲を、74年の春になって生み出しました。それは横浜で見かけて自らスカウトした可愛らしい少女、14歳で歌手デビューしたアン・ルイスの「グッド・バイ・マイ・ラブ」です。子供の頃からモデルとしても活躍していたアン・ルイスは、アイドル・ポップスのさきがけ的な存在でしたが、当時のことをこんなふうに語っています。

“アイドル”ってものの最初だと思いますね。そのころ、そんな言葉なかったけど。
 七歳のころからモデルの仕事はしてましたけど、歌は十四歳の時に横浜の外人墓地で、なかにし礼さんにスカウトされてからです。
 オーディションでは「イエスタデイ」を歌いましたね。

(村田久夫・小島智/編『日本のポピュラー史を語る』シンコーミュージック)

なかにし礼からアン・ルイスを紹介された渡辺プロダクションは、翌年に開催される札幌オリンピックにちなんで、なかにし礼作詞、川口真作曲の「白い週末」(A面)、「白い街サッポロ」(B面)でデビューさせます。このコンビは1969年に「人形の家」(歌 弘田三枝子)、1970年には「手紙」(歌 由紀さおり)と、ポップス調の斬新な楽曲でヒットを放っていました。

しかし「白い週末」では、芳しい結果を残せませんでした。それは自身のつたない日本語が原因であり、今ひとつ歌になじまなかったからだということを、アン・ルイス本人が後年になって述べています。

半分英語。日本語の曲で私は日本語ダメでしたでしょ。礼さんに随分注意されました。「もっと日本語っぽく」って。

(同前)

続いてなかにし礼が作詞した2枚のシングル盤、「明日になったら」と「ハッピーヨコハマ」が発売になりますが、いずれもヒットには結び付きませんでした。そこで作詞を安井かずみに替えて、ハワイの楽曲をカヴァーした「わかりません」が1973年になっていくらかヒットして注目されます。しかし同じ路線の続作「おぼえてますか」(作詞 安井かずみ)は、またしても不発に終わりました。

そこで再びなかにし礼が作詞を手がけた「グッド・バイ・マイ・ラブ」が、最初の本格的なヒット曲になっていきます。“ルンルン”調と称されるそれまでのアイドル・ポップス路線から、少し大人びたラブソングに変えたのが功を奏したといえるでしょう。とはいえ、アン・ルイスは当時まだ17歳の若さでした。

男女の別れをテーマにした内容は、ペドロ&カプリシャスの「別れの朝」、「ジョニィへの伝言」、そして「五番街のマリーへ」にも連なる一編の映画のような作風の楽曲です。アメリカ国籍のハーフで英語が堪能、日本語が苦手だったアン・ルイスによる、英語の台詞が1番と2番のあいだに入ってくることで、いかにも外国映画のワンシーンを思わせる作りになっています。


「グッド・バイ・マイ・ラブ」
作詞 なかにし礼/作曲 平尾昌晃

グッバイ・マイ・ラブ この街角で
グッバイ・マイ・ラブ 歩いてゆきましょう
あなたは右に 私は左に
ふりむいたら負けよ

グッバイ・マイ・ラブ も一度抱いて
グッバイ・マイ・ラブ 私の涙を
あなたの頬で ふいているのよ
泣きまねじゃないの

忘れないわ あなたの声
やさしい仕草 手のぬくもり
忘れないわ くちづけのとき
そうよあなたの あなたの名前

Good-bye my love, I’ll never forget you
and please, oh, please say you’ll never forget me
We can meet again someday

グッバイ・マイ・ラブ 二人の恋が
グッバイ・マイ・ラブ 真実ならば
いつかは逢える これが本当の
さよならじゃないの

忘れないわ あなたの声
やさしい仕草 手のぬくもり
忘れないわ くちづけのとき
そうよあなたの あなたの名前
もちろんあなたの あなたの名前


「グッド・バイ・マイ・ラブ」はその後、テレサ・テンによるカヴァーの「再見、我的愛人」がアジアでヒットしたこともあり、男女を問わず21世紀になっても歌い継がれて、今ではスタンダード・ソングになっています。洋楽のカヴァーソングかと思わせるような楽曲は、渡辺音楽出版がマネージメントしていた平尾昌晃が作曲しました。

ロカビリー・ブームが巻き起こる前から歌手として活躍していた平尾昌晃は、山下敬二郎とミッキー・カーチスともども“ロカビリー3人男”と呼ばれて、オリジナル曲の「ミヨちゃん」や「星は何でも知っている」のヒット曲を持つ若手のスターでした。しかしブームが下火になった1962年に肺を患ったこともあり、療養を兼ねて湘南の茅ヶ崎に引きこもってしまいます。

やがて歌手の仕事からも離れて、知り合いのレストランでアルバイト生活を送り、そこでは皿洗いも経験していました。そんな不遇の時期に自ら作曲した「おもいで」(作詞 水島哲)が、レコード発売から3年を経ていたにもかかわらず、北海道のラジオ局の番組から火がついたのは1965年のことです。

さらにその曲を布施明がカヴァーしたレコードが翌年の3月に発売されて、それがヒットしたことから平尾昌晃は作曲家に転じます。そして布施明のために書いた「霧の摩周湖」(作詞 水島哲)が大ヒットしたこともあり、梓みちよの「渚のセニョリーナ」(作詞 尾中美千絵)との2作品で、1967年の日本レコード大賞では作曲賞を受賞しました。

授賞式では日本作曲家協会の重鎮だった古賀政男と吉田正から、「平尾君みたいな若い作家が頑張ってほしい」と声をかけられたそうです。平尾昌晃は当時のことを振り返って、このように語っています。

この時期に浜口庫之助さんぐらいだったフリーの作家が続々と出てきた。すぎやまこういちさん、いずみたくさん、なかにし礼さんという流れになった。歌手にはプロダクションはあるが作家にはない時代だったが、私は「おもいで」を預けたのがきっかけで付き合いの生まれた渡辺音楽出版と作家契約も交わした。渡辺出版に籍を置くことでナベプロの歌手へ曲を提供する機会も増える。ザ・ピーナッツに布施君、みちよちゃん。(伊東)ゆかりちゃん、園まり、中尾ミエの3人娘もそう。有名歌手が何組も所属していた。それにお笑いもクレージーキャッツやドリフターズらもいて本当にすごい事務所だった。歌手だけでなくマネジャー同士が競争して売り出していく。ナベプロ制作でテレビ番組を作るから自社タレントが出演できる。いつの間にか名前が全国区になっている。もちろん渡辺晋・美佐さん夫妻のカリスマがあってのことで、タレントを見いだす目も育てるすべも持っていた。

(スポーツ報知【平尾昌晃・生涯青春】(12)「霧の摩周湖」大ヒット!)

「心のこり」も別れと旅立ちの歌

自らスカウトして育ててきたアン・ルイスが「グッド・バイ・マイ・ラブ」で一人前の歌手として認められた頃から、なかにし礼の中では「歌書きの誇りがむらむらと湧き上がってきた」といいます。相変わらず借金の返済に苦しんでいる状況にはありましたが、「いい歌を書かないで、なんの歌書きぞ」と、創作に対して前向きな気持ちになってきたというのです。

 ああ、いい歌が書きたい。書けたら死んでもいい。
 神様、私に、いい歌を書かして下さい。
 神も仏も信じちゃいないが、私は天に祈った。

(なかにし礼『翔べ!わが想いよ』文春文庫)

そんな状態のところに作曲家の中村泰士から持ち込まれた仕事が、コロムビア・レコードが会社を挙げて売り出そうとしていた細川たかしのデビュー曲です。そのときに渡されたデモテープの歌い出しには、すでに中村泰士によって歌われた「〽 私バカよね おバカさんよね」というフレーズがありました。

札幌で実力と人気の高さが評判になっていたクラブ歌手の、細川たかしと最初に会って生の歌を聴いた時から、中村泰士は声の出し方や伸びが完璧だと感じたそうです。「パワーもあり、いい曲さえ作ればいける」と思い、初対面の印象で女心を歌うメジャーの演歌にしようと決めて曲を作りました。そして自分を女性に置き換えてみて、「私バカよね おバカさんよね」という言葉に合うメロディーを付けて曲を完成させると、その歌詞を生かした状態でなかにし礼にデモテープを渡したのです。 なかにし礼はその印象的なフレーズを受けて、別れを肯定的にとらえる女性が自らの意志で、明日に旅立つという歌に仕上げていきました。


「心のこり」
作詞 なかにし礼/作曲 中村泰士

私バカよね おバカさんよね
うしろ指 うしろ指 さされても
あなた一人に命をかけて
耐えてきたのよ 今日まで
秋風が吹く 港の町を
船が出てゆくように
私も旅に出るわ 明日の朝早く

私バカよね おバカさんよね
大切な 大切な 純情を
わるい人だと知っていながら
あげてしまった あなたに
秋風の中 枯葉がひとつ
枝をはなれるように
私も旅に出るわ あてもないままに

私バカよね おバカさんよね
あきらめが あきらめが 悪いのね
一度はなれた 心は二度と
もどらないのよ もとには
秋風が吹く つめたい空に
鳥が飛び立つように
私も旅に出るわ 一人泣きながら


この歌の主人公は、朝早く、あてもないまま、一人泣きながら、それでも決然と旅に出ていこうとしています。「心のこり」もまた「グッド・バイ・マイ・ラブ」と同じく、阿久悠の「ジョニィへの伝言」からインスパイアされた別れの歌でした。そして旅立つ強い意志を後押しするかのような、細川たかしの陽性で晴れ晴れとした歌声と、3連のリズムに乗った力強いメロディーとも相まって、「心のこり」は大ヒットを記録したのです。

こうして阿久悠の「また逢う日まで」(歌 尾崎紀世彦)から始まった別れと旅立ちの歌は、なかにし礼の「別れの朝」(歌 ペドロ&カプリシャス)、阿久悠の「ジョニィへの伝言」(歌 ペドロ&カプリシャス)、なかにし礼の「グッド・バイ・マイ・ラブ」(歌 アン・ルイス)と続いて、「心のこり」にまでつながるかたちになりました。

なかにし礼の中にはその頃から、これまでにない意欲的な作品に挑戦したいという気持ちが、強く湧き上がってくるようになっていたのです。

 こういうヒット曲でなく、もっと別な、なかにし礼ここにありというような、歌が書きたかった。

(同前)

そんな時にアイデアをくれたのは意外なことに、宝探しのような夢を見ては実行に移して、ことごとく失敗して弟を困らせ続けてきた兄でした。

「ニシンのことを書けばいいじゃないか」
 と兄が言った。
「ニシン漁のことかい?」
「ああ、あの、ニシンが大量にとれた頃の石狩湾のことを歌にしてみたら」
「そうね、そういえば、ニシンで中西の小樽の家一軒失くしたんだっけね」
「それを言うなよ。恥ずかしいじゃないか」
「しかし、歌になるかな」
「家一軒分の想いを込めて書いてみろよ」

(同前)

厄介事ばかりを持ち込んできて、あげくに巨額の負債まで肩代わりさせられていた兄から、思いがけない作詞のアイデアを提供してもらって、なかにし礼は本気になって燃えました。そうして生まれたのが、阿久悠の代表作となった「ざんげの値打ちもない」でデビュー・ヒットを飛ばしながらも、そこから伸び悩んでいた北原ミレイの新たな代表作を誕生させることになったのです。

ハードルの高い課題から生まれた名曲

なかにし礼はフランスの小説家、マルセル・プルーストの大作「失われた時を求めて」からヒントを得て、自らの体験や記憶をもとにして過去と現在を描く、小樽湾にまつわる叙事詩を構想しました。

家族とともに6歳で満州から引き揚げてきた小樽で、子供の頃に見て以来ずっと目に焼き付いていたのは全盛期だったニシン漁の光景です。そこに一攫千金を夢見た兄が、多額の借金をしてニシン漁に挑んで、いったんは大群をものにしながらも、さらに欲を出して失敗したという実話も織り込まれていきます。

大漁に恵まれた兄は欲張って本州まで船をチャーターし、直接ニシンを運ぼうとしたところが時化にあって、捕獲したニシンをすべて海に捨てざるを得なくなったのです。そのために儲けはすべてなくなり、借金だけが残ってしまう結果になりました。そして借金を返すために小樽の実家を手放したことから、一家は困窮生活を味わうことになったのです。

そうした思いをもとに歌詞を書き上げた朝、なかにし礼は「大傑作が出来たぞお!」と妻に向かって声をかけたそうです。そんなことは結婚して以来、一度もなかったといいます。それほどまでに達成感があり、喜びもあったのでしょう。


「石狩挽歌」
作詞 なかにし礼/作曲 浜圭介

海猫ごめが鳴くからニシンが来ると
赤い筒袖つっぽのヤン衆がさわぐ
雪に埋もれた番屋の隅で
わたしゃ夜通し飯を炊く
あれからニシンはどこへ行ったやら
破れた網は問い刺し網か
今じゃ浜辺でオンボロロ
オンボロボロロー
沖を通るは笠戸丸
わたしゃ涙でニシン曇りの空を見る

燃えろ篝火 朝里の浜に
海は銀色ニシンの色よ
ソーラン節で頬そめながら
わたしゃ大漁の網を曳く
あれからニシンはどこへ行ったやら
オタモイ岬のニシン御殿も
今じゃさびれてオンボロロ
オンボロボロロー
かわらぬものは古代文字
わたしゃ涙で娘ざかりの夢を見る


この「石狩挽歌」ではニシン漁に出た船が大漁で戻ってくるのを祈りながら、漁師たちのために夜通し飯を炊いて待っていたことのある女が、遠い過去の夢を思っている姿が描かれています。

それにしても歌い出しの「海猫ごめが鳴くから ニシンが来ると 赤い筒袖つっぽの ヤン衆がさわぐ」という歌詞は、歌謡曲としては大胆で挑戦的な表現でした。筆者もそうでしたが、ほとんどの人は北原ミレイの歌を聴いたとき、「〽 ごめがなくから」が何を歌っているのかが、最初はわからなかったのです。そして「つっぽ」も何のことか、地元の人以外には想像することが困難でした。

「雪に埋もれた 番屋の隅で」という情景は、なんとなくならイメージすることができました。とはいえ「わたしゃよどおし めしをたく」という描写に、リアリティを持てる人は少なかったでしょう。

その中ではかろうじて「ヤン衆」には、どこかで耳にした印象がありました。でも正確な意味までは、やはりわかりません。ニシンが大漁の時はカモメが群れをなして飛ぶので、赤い半纏を着た漁師たちがカモメの姿から、ニシンを追ったのだということが理解できたのは、この曲がヒットした後のことでした。

なかにし礼は言葉を標準語に置き換えて、わかりやすくはしませんでした。石狩地方の生きた言葉を使う必然性があると考えて、当時の方言のまま押し通したのです。それどころか言葉の語呂や響き、つまり日本語に内在している音楽性を、どのようにしたら実際の楽曲に活かせるのかという、ハードルの高い課題にも挑んでいました。

そのことに関連して後年になってからですが、ヒット曲を目指すために、ワンポイント・ルーズという、歌謡曲ならではの手法を用いたことを明らかにしています。

なかにし礼が日本の歌謡曲第1号と位置づける「カチューシャの唄」(作詞 島村抱月、相馬そうま御風ぎょふう/作曲 中山晋平)には、とくに意味のない「ララ」という歌詞が出てきます。


カチューシャかわいや
わかれのつらさ
せめて淡雪とけぬ間と
神に願いを ララ
かけましょか


なかにし礼はこの「ララ」がワンポイント・ルーズに当たる部分で、そこにこそヒット曲の秘密があるのだと、以下のように分析していました。

 これは、あえて“ヒット・メーカーにしかわからない感覚”と表現させていただきますが、実はこの「ララ」に、この歌が大ヒットした秘密が隠されているのです。逆に言えば、「ララ」がもしなかったらヒットしなかった。「カチューシャの唄」の作詩は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平となっていますが、この「ララ」の部分は、曲をつけていった際、字が足りなかったので「神に願いを……」ときて、どうしたものかと思った中山晋平が、迷った挙句に「ララ」とつけた。この歌の詩を見ると、ララがカッコに入っている。つまり、作詩者側の発想ではなかったということです。
 ところが、この「ララ」をつけた瞬間、歌が明るくなって、ある意味ルーズなものになったのです。言い換えれば、人の心が入り込む余地がそこにできた。こうした歌の特徴はヒット曲のコツで、ヒット曲には必ずと言っていいほどそうした「ワンポイント・ルーズ」と呼べる方法論があるのです。きっちり仕上げずに、どこかゆるいところをつくる。

(『NHK知る楽 探究この世界 なかにし礼』2009年8・9月号 NHK出版)

デビュー曲「涙と雨にぬれて」で自らギターを弾きながら詞と曲を書いたなかにし礼は、その後も何作かでメロディーを作っていたので、作曲家の気持ちがわかる作詞家でした。「恋のハレルヤ」で成功した後も、歌詞とメロディーばかりか、音楽のジャンルやリズムをも意識して、ヒットするための要素を考えて工夫を重ねていたのです。そうしたことが著書を読んだり、のちの発言にふれたりすることでわかってきます。

次回につづく

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