沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第38回 2018年4月27日掲載
第三部 新たな風を吹かせた作詞家たち

第九章 美空ひばりのために書かれた「舟唄」

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「石狩挽歌」のヒットから3年を経た頃、不振が続いていた状況を脱しようと浜圭介は、自ら求めて小西良太郎から何編かの詞を受け取る。そのうちの一作は、美空ひばりに歌ってもらうことを想定した阿久悠が、新聞の連載企画で発表した「舟唄」だった。それにメロディーを付けて会心の一曲に仕上げた浜圭介だったが、作品は意外な展開の末に、歌謡史上に残る名曲へと育っていく——。
デスクにしまわれていた一編の詞

スポーツニッポン土曜版で、音楽記者の小西良太郎が企画した「阿久悠の実戦的作詞講座」が始まったのは1974年のことです。この連載は後に上下巻の単行本として、それぞれ1975年と77年に発行されました。プロの歌手に歌ってもらうことを前提に、一般読者が応募した詞を、阿久悠が指導することで作品に仕上げていくという内容でした。

企画はまず、越路吹雪のための作品づくりからスタートしています。そして、都はるみ、内山田洋とクール・ファイブ、菅原洋一、にしきのあきら、藤圭子、研ナオコ、野坂昭如、三善英史、青江三奈、三橋美智也と、個性と実力を兼ね備えた人気歌手を対象に2年間にわたって続けられました。その連載の最後の歌手が、歌謡界の女王といわれた美空ひばりです。

昭和12年に生まれた美空ひばりは、自分と同じ年齢だったこともあって、阿久悠にとって子供の頃から特別の存在でした。なぜならば彼女の存在そのものが、阿久悠の作詞家としての方向性を決定づけたといえるからです。

 実は私にとって、ひばりさんはずっと敬して遠ざける存在でした。彼女とは同い年なんですが、私が淡路島の中学生の頃、彼女はすでに大スターだった。
 中学一年の遠泳大会の時、途中でこむら返りをおこしておぼれそうになったことがあるんですが、その時なぜか唐突に思ったものでした。僕がこのまま溺れ死んでも、新聞では「少年水死」の四文字で終わってしまう。でも、もし今ひばりが死んだら一面トップにきて、マッカーサー元帥がコメントし、吉田茂首相が弔辞を述べるのかもしれないなあ、って。

(阿久悠『命のうた「月刊you」とその時代』講談社)

淡路島の中学生の心に芽生えた「同い年だけれども、とてもかなわん」という思いは、コンプレックスとなってそこから生涯ずっとついてまわることになっていきます。自分で作った作詞家憲法の第1条に、阿久悠は「美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、違う道はないものであろうか」と記しています。美空ひばりが歌いそうにない歌を作るという意識は、あらゆる阿久悠の作品の底に潜んでいたのです。

彼女に対するコンプレックスを抱えたまま作詞の世界に入った私にとって、方法はそれしかなかった。でも、その「美空ひばりが歌いそうにない歌」を書いてきたことで、どうにかこうにかこれまで作詞家としてやってこられたわけですから、彼女の存在が私の書くものの方向を決した、ということも言えるのかもしれない。

(同前)

それほどまでに大きな存在だったので、最初に美空ひばりの作詞の仕事を頼まれたときには、意識しすぎて納得のいく作品になりませんでした。阿久悠のシングルA面ディスコグラフィー(監修・濱口英樹)によれば、1971年3月10日に「それでも私は生きている」(作曲 井上かつお/編曲 佐伯まこと)、10月10日には「旅人」(作曲 村井邦彦/編曲 馬飼野俊一)が発売されています。しかしながら、どちらも話題になった形跡はなく、もちろんヒットとも無縁でした。

筆者はまだほとんど無名の状態だった阿久悠が、早くも2枚のシングル盤のA面曲として起用されていた事実に、軽い衝撃を感じています。なにしろ最初に提供した「それでも私は生きている」が作られたのは、阿久悠の名を広く知らしめた「また逢う日まで」が発売される前だったのです。

その前年に発売された「白い蝶のサンバ」と「ざんげの値打ちもない」の2曲によって、すごい作詞家が現れたと噂になって注目された段階で、美空ひばりの制作者たちは阿久悠に仕事を発注していました。そして“敬して遠ざける存在”だったにもかかわらず、阿久悠もまたその仕事を引き受けています。しかし結果が芳しいものではなかったことから、コンプレックスがさらに強まったとも考えられます。

二人が初めて会ったのは、それから4、5年後のことです。すでに「阿久悠の実戦的作詞講座」の連載が始まっていました。

 水泳大会で溺れかけてから二八年後、作詞家としてそこそこの名を得た頃、初めてひばりさんと会ったんですが、何だか意識してしまって、まともに口もきけませんでした。私にとって美空ひばりは、それだけ大きな存在だったんです。

(同前)

2年間の連載の最後、トリを美空ひばりで締めくくるという構想は、そのときに了承が得られたものでした。そこで阿久悠は美空ひばりが歌うという想定のもとに、自らも読者と一緒になって歌詞を書いて発表していくことにします。

歌手ごとに、阿久流の発想や表現のノウハウを全開陳していた彼が、ひばり編に限っては毎週、自分も応募する気でお手本の詞を書いた。ひばりへの敬意と応募者への具体的な挑発で、「舟歌」はその中の一編。講座の当選作は須藤高子という人の「あやとり」で、ひばりがレコーディングしたが「舟歌」の歌詞は連載原稿の一部として僕の手許に残っていた。

(小西良太郎『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』幻戯書房)

当選作に選ばれた「あやとり」は1976年11月に、レコードが発売されています。原案が須藤任子、作詞が阿久悠という表記で、森田公一が曲をつけた楽曲です。そのB面には阿久悠・森田公一コンビの「晩秋平野」が収められていました。しかしセールス面では苦戦し、世間からの反応がないまま終わっています。

それから1年半ほどが過ぎた頃に、小西のデスクの中にしまわれたままだった「舟唄」をめぐって、一つの動きが起こりました。

 事の発端は作曲家浜圭介からの電話である。誘われて飲んだ六本木の店で、浜が呻くように言った。
「詞が欲しいんだよ。心が揺すぶられるようなやつがさ……」
 歌づくりは制作者から作家へ、発注することから作業が始まる。受注した作家たちがそれから詞を書き、曲を作るのだ。その時期、浜への注文が減っていて、彼にはあせりがあった。
「そういう時こそチャンスだろう。自分の書きたいものをコツコツ書いて、浜圭ならではの曲を貯めておきゃいいんだよ」
 僕はにべもない返事をしながら、持参した四、五編の歌詞を渡した。電話があった時から、どうせそんなことだろうと見当はついていて、その中に阿久悠の「舟歌」の詞が入っていた。

(同前)

浜圭介の手に渡った歌詞

浜圭介は1975年に「石狩挽歌」でメロディーメーカーとして、強烈な印象を与えましたが、そこを境にしてスランプに陥っていきます。「もっと凄いメロディーを作りたい」という欲が出てきて、それができない自分の才能を疑うようになったからでした。そこで最初に「石狩挽歌」を聴いて、即座に「いい曲だ」と断言した小西を頼ったのです。

「当時はね、過去の作品をふりむくことは大嫌いだったし、新しいものを作るにはそんなもん断ち切んなきゃいけない。試行錯誤から酒の量もかなり増えて、悶々としてた……」

(NHK土曜特集番組制作班編『そして歌は誕生した 名曲のかげに秘められた物語』PHP研究所)

小西はそれ以前に取材を通じて浜圭介と知り合い、親しい間柄になっていました。浜圭介の一匹狼というイメージに好感を持っていたのです。そんな浜圭介が鋭く反応したのが、「舟唄」の歌詞でした。


「舟唄」
作詞 阿久悠/作曲 浜圭介

お酒はぬるめの かんがいい
さかなはあぶった イカでいい
女は無口な ひとがいい
灯りはぼんやり ともりゃいい
しみじみ飲めば しみじみと
想い出だけが 行き過ぎる
涙がポロリと こぼれたら
歌いだすのさ 舟唄を


小西は歌い出しから4回も続けて出てくる「いい」という語尾について、浜圭介にこんなアドバイスを与えたと述べています。

語り口では自然に尻下がりになる。そんなイントネーションにはこだわらずに、曲をつけたらどうか……

(小西良太郎『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』幻戯書房)

この発言には新聞記者のアドバイスの域を越えて、歌づくりの仲間といった趣があります。いや、プロデューサーやディレクターによるサジェッション、あるいは作品を発注するクライアントの要望に近いニュアンスが感じられるのです。そんな小西のことを阿久悠の朋友であり、同世代の証言者でもあった久世光彦が、このように描いています。ちなみにこの文章が書かれた時、小西はスポーツニッポンの常務取締役になっていました。

 根っからの歌好きである。歌馬鹿である。25年ほど前にはじめて会って以来、この人ちょっと変わったなと思ったことが、ただの一度もない。いつ会っても、歌好きであり、歌馬鹿であった。いまは何だか大層な肩書きがあるらしいが、そのころは単に無冠の新聞記者だった。「スポーツニッポン」の文化部の記者だった。前をはだけたコートのポケットに手をつっこみ、風もないのにいつも風に吹かれるように揺れながら歩き、どこがどうという特徴もなく、温和な人柄で、親しげな語り口で、いつも眼鏡の奥で優しい目が笑っていて、けれど話が歌のことになると、途端に飢えた狼のように目がひかった。

(久世光彦『ひと恋しくて 余白の多い住所録』中央公論社)

阿久悠が書いた歌詞を渡してから何日もしないうちに、興奮気味の浜圭介から小西に電話がかかってきました。すると浜圭介がいきなり受話器の向こうで、「出来たから聴いてくれ」と歌い出したのです。しかし夕方のスポーツ新聞社編集局は、次々に電話が鳴り響いて、沢山の話し声と人の出入りで慌ただしく、ちっとも歌声が聴き取れません。声は聞こえてくるのに、歌は聴こえて来なかったのです。

そう怒鳴ったら浜は、ギターを抱えて飛んで来た。僕はスポニチの応接室で、「舟歌」のメロディーを初めて、彼の生歌で聴く。昭和五十三年の春過ぎのことだ。

(小西良太郎『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』幻戯書房)

美空ひばりが歌うことをイメージして、浜圭介は会心の作品を書き上げたのです。しかしながら、美空ひばりに歌ってもらうことを前提にして、阿久悠が書いた歌詞だったということは知りませんでした。

「この詞を、じゃあ誰をイメージして曲を書こうかって考えた時に、これ美空ひばりさんだったら、もしかして非常にピッタリくるかなって感じて、誰にも相談なしにそう想定して書いた。
 今まで僕が出会った歌詞の中で、とても目新しかったし、これは面白いなぁと、これだったら新しい浜圭介が植えつけられるんじゃないかって、すごい自信を持ったんですよね」

(NHK土曜特集番組制作班編『そして歌は誕生した 名曲のかげに秘められた物語』PHP研究所)

浜圭介はその時、小西に「舟唄」をどうしたいかと訊ねられたので、率直に美空ひばりに歌ってほしいと頼みました。当時の小西は音楽業界の中で、最も美空ひばりに近い新聞記者として有名でしたから、当然のことです。本人はもちろんですが、マネージャーとプロデューサーを兼ねていた母親の加藤喜美枝さんからも、全幅の信頼を得ていました。

浜圭介は小西と顔を合わせるたびに、「なんとかチャンスを作ってよ」と美空ひばりへのアプローチを促したそうです。おそらくは小西もタイミングを見て、よきところで企画を進めるという腹づもりがあったのでしょう。しかし、当時は弟が暴力団とつながっているとの理由から、公共施設における公演ができなくなったり、『NHK紅白歌合戦』から出場辞退に追い込まれたりと、美空ひばりを取り巻く環境には厳しいものがありました。

そんな中で社会復帰した弟の加藤哲也がスタッフとして働くようになりますが、陣頭指揮をとっていた喜美枝さんの体調がすぐれず、1977年10月には胆のうを摘出する手術を受けるなど、何かと落ち着かない状況が続いていたのです。

浜圭介が作曲した「舟唄」の楽譜とカセットテープは、それから半年ほどの期間、ふたたび小西の机の引き出しの中で眠ることになります。

名作誕生に至るまで

小西が美空ひばりにこだわらなくてもいいのではないか、と思うようになったのは浜圭介が目の前で歌ってくれた時からだったと言います。

 ちょっと寒気がするくらいのメロディーがね、ギターを構えた彼の指から出てきて……美空ひばりにと思い込んでるけど、そうじゃない。むしろ違う歌手とのミスマッチの組み合わせの方が、作品がぐわっと生きる可能性もあるかなと感じた。

(同前)

もちろん、美空ひばりに大きなこだわりを持っていた阿久悠の気持ちを、何よりおもんばからなければなりません。それでも“歌好き、歌馬鹿”の直感として、別の可能性もあると考えたのです。

小西は浜圭介によってメロディーが付いた「舟唄」を、小西は前川清や大川栄策のスタッフに軽く売り込んでみました。しかし、「いい歌だがすぐヒットする曲じゃないね」と敬遠されてしまいます。八代亜紀の新曲として世に出ることになるのは、それから1年後のことです。

そこに至るまでの過程には、「八代亜紀をさらに大きな存在に育てたい」とテイチクの社長が阿久悠に作詞を依頼したことに端を発し、やがて多くの人を巻き込むことになる、歌づくりをめぐっての行き違いがありました。その頃の入り組んだ事情について、図らずも当事者になってしまった小西がこう記しています。

僕は、テイチクの南口重治社長に乞われ、阿久を紹介する機会を持った。『しのび恋』『愛の終着駅』『おんな港町』などでスターになった八代だが、売り上げが頭打ちになっていた。南口社長の狙いは、阿久作品による方向転換だった。

(小西良太郎『女たちの流行歌はやりうた』産経新聞社)

売り上げが減少していた看板歌手を盛り上げるためには、新境地を開拓しなければならないし、そのためにはレパートリーの方向転換が必要だ——。そう考えて作品を依頼してきた社長の熱意に応えて、阿久悠はさっそく5、6編の歌詞を書いて順に届けました。ところが社長からのトップダウン企画だったことへの反発もあって、制作の現場はそれらを一つも採用せず、次々に返品してしまったのです。

1973年のヒット曲「なみだ恋」からずっと八代亜紀を手がけてきた制作部が、社長の意向を明らかに無視した態度に出たのですから、話はこじれていきます。両者の間に入ったプロダクションには、局面を打開する手がありませんでした。

「このまま行くと、阿久先生と八代のおつき合いまでダメになる。助けてよ」
 八代の所属プロ社長が、駆け込んで来る。
「せっかくのご紹介だけど、これ以上の作業は不可能」
 阿久の秘書からは苦情が届く。
 看板歌手の新曲が暗礁に乗り上げたままで、テイチクは困惑の極にあった。このままでは、南口社長の面目は丸つぶれになるし、阿久のプライドも保てない。事態は切迫せっぱくしていた。
「切り札はこれしかないか。これを渡すから、全員OKの段取りだけはちゃんとつけてよ」
 僕の机の引き出しから、『舟歌』の歌詞と楽譜が出て行き、陽の目を見る。これで最悪の事態は回避されるのだが、それもこれもみな水面下の出来事。八代は何も知らぬまま、レコーディングに入った。

(同前)

こうして本来は美空ひばりのために作られた「舟歌」は、八代亜紀によって歌われることになったのです。しかし、それからも制作の現場では混乱が続き、名曲が誕生するまでにはさらに、もうひと山もふた山も乗りこえる必要がありました。そのために仲介者の立場だったはずの小西が、自ら現場を仕切らざるを得なくなっていきます。

南口社長の号令一下、作品はレコーディングの運びになるが、制作現場はソッポを向いたままで、作業は僕の仕切りになる。あわてて浜を探したが折悪しく外国旅行中で不在、やむを得ず編曲を竜崎孝路に依頼するが、その打合せも僕の行きつけの小料理屋、赤坂の「井上」で、
「フランス映画の劇伴みたいにして。あとは一切合財あんたに任せるよ」
 の一言だけだったから、竜崎が目を白黒させた。歌詞は新聞掲載用のままで二コーラス分しかない。繰り返しのハーフ用と、間にはさむダンチョネ節の詞を、改めて阿久に発注する。

(小西良太郎『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』幻戯書房)

その段階での「舟唄」には1番と2番の間に、民謡の「ダンチョネ節」が挿入されていました。このような挿入の手法を“アンコ”と呼びますが、歌詞は阿久悠が新たに書いたものでした。小西は阿久悠に対して、アンコの歌詞を変更してほしいと頼んでいます。

最初に新聞に発表されたのは、こんな歌詞でした。


鷗 なぜ来る お前だけ
港はなれて 何百里
もしや 鷗よ お前の名前
ハマのアケミといやせぬか


これが改変されてサイズが半分になり、歌詞もこのように変わりました。


沖の鷗に深酒させてヨ
いとしあのとヨ 朝寝する ダンチョネ


このアンコについては明治大学で阿久悠の歌詞を研究している、文学部教授の吉田悦志が、著書『阿久悠 詞と人生』に次のような見解を述べています。

まず主人公である男が港町で出会い別れた娘を、かなりの時を経て別の港町で思い出しながら、どっかりと腰を落ち着けるのではなく、さすらい人のように中腰で酒を飲んでいる。
(中略)
 原形では、その目の前を追いかけるようにやってきて飛ぶ鷗に、もしかしたら俺を何百里も追いかけてきたお前は、あの時の娘、「ハマのアケミ」ではないか、と心の中で問いかける。娘の像が極めて具体的なのである。未練な娘の心が鷗になって飛ぶ。アケミという名前の娘である。
 これに対して流布版「舟唄」のアンコの部分では、鷗は男の目の前にいるのではない。沖にいる。鷗は一羽ではなく群れていて、うるさいくらい鳴いている。彼らに深酒をさせ静かにさせて、愛しいあの娘と一夜を過ごす。
 ダンチョネは、「ダンチョネ節」という、一般的には神奈川県民謡だとされていて、漁民が歌う歌から来ている。ダンチョネという言葉そのものにもいろいろと解釈がある。断腸の思いの「断腸」がダンチョになり、さらにネという終助詞が加わって一語となったともいう。そうだとすれば、痛みや苦しみや悲しみを表現する言葉であろうか。ここではかなり前に別れた娘を思い浮かべる男の未練を、ダンチョネと言ってその哀感を歌った。

(吉田悦志『阿久悠 詞と人生』明治大学出版会)

2番の歌詞も当初はどちらかというと、あっさり終わっていました。そこに小西の要望を受けて、阿久悠が繰り返しのハーフとして書き加えて、以下の歌詞で完成に至ったのです。


店には飾りが ないがいい
窓から港が 見えりゃいい
はやりの歌など なくていい
ときどき霧笛が 鳴ればいい
ほろほろ飲めば ほろほろと
心がすすり 泣いている
あの頃あの娘を 思ったら
歌いだすのさ 舟唄を

ぽつぽつ飲めば ぽつぽつと
未練が胸に 舞い戻る
夜更けてさびしく なったなら
歌いだすのさ 舟唄を

ルルル ルルル……


阿久悠が追加部分に書いたダメ押しの歌詞、「ぽつぽつ飲めばぽつぽつと 未練が胸に舞い戻る」というパートがあったからこそ、最後の「ルルル……」が余韻となって実に効果的に響いてきます。小西の指示で詞が味わい深くなっただけでなく、曲にもぐっと深味が増しました。そして竜崎孝路のダイナミックな編曲によるサウンドも相まって、「舟唄」はスケールの大きな男歌として完成したのです。

■八代亜紀「舟唄」

こうして経緯を詳しく追っていくと、名作誕生に関わったプロデューサーの仕事が、どのようなものだったのかが明確にわかってきます。そもそも小西がいなければ、阿久悠が美空ひばりに作詞する企画そのものが生まれていませんでした。

そして小西は現場で揉めることや嫌がられることは承知の上で、作曲家にも作詞家にも、簡潔ですがきわめて具体的な注文を出していました。できるだけ作品を良くしようと努めて、直しには応じないという姿勢を貫いていた阿久悠とも、しっかり闘っていたのです。久世光彦が“歌のことになると、途端に飢えた狼のように目がひかった”と書いていましたが、まさに小西の本質を言い当てている言葉だと思います。

レコード大賞を受賞した「雨の慕情」

八代亜紀に渡った「舟歌」がようやくレコーディングされたのは、1979年に入ってからです。しかし八代亜紀にとって「舟歌」は初めての男歌で、レコーディング時には気乗り薄だったと言います。それまでネオン街に生きる女心を歌った作品、いわゆる女歌ばかりを専門にしていたことのほかに、自分を育ててくれたいつものスタッフたちが関わっていないことにも、違和感があったのは当然でしょう。

しかし作詞した阿久悠に会ってみて、彼女なりに納得して歌ったと言います。

「とにかく、わたしが初めてそのテープを頂いた時に“今までの八代亜紀の歌には色がない”と、阿久先生がおっしゃったんですが、その『舟唄』でですね、なんか一つの色というか、自分自身のテーマが生まれた……そういう気がします」

(NHK土曜特集番組制作班編『そして歌は誕生した 名曲のかげに秘められた物語』PHP研究所)

ところが外国旅行から帰って来た浜圭介が、美空ひばりではなく八代亜紀が歌ったことを知って、小西に対して不信と怒りをあらわにする事態になります。

「僕のメロディーでは、不足だったということか!」
 と、浜がカンカンになった。無断で曲の合い間に「ダンチョネ節」をはさんだ件で、メロディーの良さをこれで口直しをして、改めて強調する僕の狙いを「詭弁だ」とまで言い募ったが、いずれにしろ後の祭りだ。

(小西良太郎『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』幻戯書房)

「舟唄」はいくつもの紆余曲折を経て、1979年5月25日に発売されることになりました。しかしテイチクの社内では、「こんな暗い歌が売れるわけがない」と、冷ややかな見方が多かったそうです。そのことについては当時、この曲を聴いた作曲家の平尾昌晃がこんな感想を述べています。

 テイチクの人が「こんな暗い歌」とこの歌を評したが、彼らの感想は決して間違いではない。
 僕もこの「お酒はぬるめの燗がいい」、「肴はあぶったイカでいい」ではじまる歌い出しのメロディには驚いた。しかも、この八五調が4行も続くのだから、浜圭介さんは「よくこんなメロディを考えたな」と思ったほどだった。
 しかし、浜さんの「石狩挽歌」を知っている人は、どこか同じ匂いと暗さを感じるだろう。「海猫ごめが鳴くからニシンが来ると~」ではじまるあの石狩挽歌につながる北の海の感じである。

(平尾昌晃『昭和歌謡1945~1989 歌謡曲黄金時代のラブソングと日本人』廣済堂新書)

小西から自然に尻下がりになる語り口の4行について、「そんなイントネーションにはこだわらずに、曲をつけたらどうか……」というアドバイスを受けたことで、浜圭介が書いたメロディーが斬新で北の海を喚起させるものになったことがわかります。

しかし女歌から男歌への路線変更が影響したせいか、レコードが発売された当初は動きが鈍く、ファンからの反応は今ひとつでした。そこでテイチクの制作陣は従来の路線上にある新曲「女だから」を作り、9月に出すことにしたのです。作詞は悠木圭子で作曲が鈴木淳という、八代にとっては師にあたる「なみだ恋」のソングライター・コンビの作品でした。それは明らかに社長の企画した「舟唄」に対する、制作スタッフからの巻き返しでしょう。

これに対抗して小西はプロダクションとともに、テレビ出演時には必ず「舟唄」を歌わせるという作戦をとっていきます。また、作品としての評価が高かったことで、年末に開催される日本レコード大賞と日本歌謡大賞にもノミネートされました。そんな話題もあって相乗効果が出てきたことで、秋も深まってきた11月から本格的にヒットし始めたのです。

新譜を出すのはレコード会社の権限だが、テレビ・ブッキングはプロダクションの勝手だろう!とやたら強気な作戦が成功した。
 年の暮れ、当時日本作曲家協会の会長だった吉田正から、
「今年のレコード大賞は、あの曲だったろうにね」
 と曲名を挙げられ、
「ええ、いい歌ですよね」ととぼけたら、
「あれは、君が仕掛けたんだろ!」
 と見抜かれていて驚いた。新聞社勤めのままやむを得ず引き受けたプロデュース業である。こっそりやったつもりの「舟唄」は、レコード大賞候補の金賞一〇曲に入っていて、僕は肩をすくめながら、この年を最後にレコード大賞の審査員を降りている。

(小西良太郎『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』幻戯書房)

「舟唄」は、歌謡大賞にもレコード大賞にも選ばれませんでしたが、八代亜紀が男歌を見事に歌ったことで、新境地を開いたという印象が強く定着していきました。そして大晦日の『NHK紅白歌合戦』でも初めて、紅組の大トリを務めてこの曲を歌ったことから、レコードの売り上げが加速していったのです。

大ヒットが誕生すれば“勝てば官軍”で、小西と制作現場とのこじれた問題は解消しないままでしたが、テイチクは阿久悠による八代亜紀の3部作を作る方向にまとまっていきます。野球に例えれば「舟唄」が先発で、「雨の慕情」が中継ぎ、最後の抑えとして「港町絶唱」で締めるというプランが立てられたのです。もちろん、2作目3作目のプロデューサーにも、南口社長から小西が指名されました。

好評を次回作につないで、レコード大賞を取ろう!と会社をあげての盛り上がり方が生まれて、改めてプロデュースの依頼が僕にくる。テイチクの制作現場をさし置いたままの空気は微妙だが、降りる訳にもいかない。
 阿久・浜の再登場で「雨の慕情」を作るのだが、阿久の詞のタイトルは当初「雨々降れふれ」だった。年末、グランプリ受賞のアナウンスで、これじゃ締まらないよ……と、僕が「雨の慕情」に替えたら、
「本気なの? あちらは……」
 と、阿久は苦笑いで応じたものだ。

(同前)

■八代亜紀「雨の慕情」

「雨の慕情」は「舟唄」から1年後、1980年4月に発売されました。楽曲の仕上がりに自信を持っていた小西が、そのときに気にしていたのは1点だけ、「〽雨々降れ降れもっと降れ、私のいい人連れてこい……」のサビの繰り返しが、やがて来る真夏のかんかん照りの時期を、生き抜くことができるかどうかだったそうです。

小西は流行歌と季節感にはきわめて緊密な関係があり、少しでもそれがズレたら最後、流行の波に乗り損なうことがあると考えていました。その頃はスポーツニッポンの紙面で、阿久悠による「甲子園の詩」を連載中だったこともあって、季節感についてはかなり神経を使っていたと言います。

 そのために僕はその次の作品も、並行して作った。タイトル決め打ちの「港町絶唱」で、もちろん阿久・浜コンビの作品。発売時期は夏の天候次第で「雨の慕情」と切り替えるつもりだったが、それは杞憂に終わった。昭和五十五年の七、八月は記録的な「冷夏」で、振りつけつきの八代の〽雨々降れふれ…は、連日テレビに登場して何の違和感もなかった。もったいないから……と「港町絶唱」も九月に発売する。

(同前)

その時はまだ「舟歌」も売れ続けていて、テイチクは「哀愁三部作」と銘打って宣伝しています。結果的には「雨の慕情」が予想をはるかに上回るヒットになり、日本レコード大賞をはじめとして、多くの音楽賞を受賞することとなりました。時代の流れに乗ったかたちの八代亜紀は、1980年の第31回『NHK紅白歌合戦』でも大トリでこれを歌って、「舟唄」との2曲で新しいイメージを確立したのです。

次回は5月11日(金)更新

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