沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第24回 2017年12月15日掲載
第二部 「ざんげの値打ちもない」という夜明け

第四章 出会うべくして出会った人たち

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阿久悠屈指の傑作の一つ「ざんげの値打ちもない」。その誕生の経緯を追うとこの歌でデビューした北原ミレイをめぐる、奇跡的とも言える人と人の結び付きと制作環境が浮き彫りになってきた。キーマンは、阿久悠、水原弘、菅原洋一……。そして、菅原の最初のヒット曲を作詞したのは、のちに北原に「ざんげ~」と並ぶ代表曲を書く、あの作詞家だった――。
「ざんげの値打ちもない」の誕生に関わったのは?

1970年の秋に誕生した異色作の「ざんげの値打ちもない」は、阿久悠という作詞家を語る上では外せない重要な作品です。その誕生に関してこれまで不明だったことや疑問点について、箇条書きにしてみました。


(1)どうして商品性よりも作品性を優先して、大胆かつ自由に描くことができたのか?(2)作家への創作の自由を与えることができた作品づくりは、どこの誰からの依頼によるものだったのか?(3)この歌が誕生した場にいた人は誰で、どんな役割を果たしたのか?(4)阿久悠は後にこの歌の舞台をヨーロッパに設定し、ポルトガルの民族歌謡のファドをイメージしていたと述べているが、その発想はどこから生まれてきたのか?(5)レコーディングに際して4番のパートは、いつどのようにしてカットされたのか?


1970年当時、阿久悠に作品を発注してきたのは歌手を擁するプロダクション、レコードの制作と販売を行っているレコード会社のディレクター、そして原盤制作に積極的に取り組み始めていた音楽出版社のいずれかでした。そして例外的なものとして、テレビ番組にからむ企画やコマーシャルに関する仕事もありました。

最初に作詞をすることになったザ・スパイダースへの作品の場合は、テレビ番組のために必要だったからであり、作詞家デビューとなったのは1967年のザ・モップスからです。それらはいずれもホリプロダクションの仕事で、阿久悠は1968年に和田アキ子を手がける頃までは、ホリプロ御用達のブレーン的な存在でした。もちろん、それは社長の堀威夫が彼の企画力を高く評価していたからです。

その後、1970年1月に発売になった森山加代子の「白い蝶のサンバ」と、3月に発売になった和田アキ子の「笑って許して」は、ともに新しいレーベルから生まれたヒットでしたが、その後は老舗のレコード会社からの仕事も増えていきました。しかしその時点では新進気鋭の作詞家という立場でしたから、自由な発想で作品を書くにしても、事前に関係者の承諾が必要だったはずです。

阿久悠が「ざんげの値打ちもない」として世に出る歌の作詞を頼まれた段階での北原ミレイが、まだ何の色もついていない状態だったことは、阿久悠の著書の中に明記されています。

 北原ミレイのための作詞は、商品というより作品という姿勢でやらせてもらえたので、自由に大胆にかなりのタブー破りも平気で書くことができた。阿久悠という作詞家が、特異な作風や切り口を持っていることを表明できたのも、自由と大胆さのおかげ、商品ではなく作品という志の高い注文のおかげである。

(阿久悠『なぜか売れなかったが愛しい歌』河出書房新社)

この時点で「大胆なタブー破り」が認められていたのであれば、特異な作風が期待されていたのは間違いないでしょう。だからこそ、その当時の決意について、次のように述べることができたにちがいありません。先見の明を持った人がスタッフやブレーンにいたので、阿久悠に作品の依頼があったのだと考えられます。

 作詞を本気でやってみようと思ったのは、「ざんげの値打ちもない」を書いた時である。異端でも、傍流でも、存在を示そうと決心した。

(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社)

■北原ミレイオフィシャルホームページ

歴史に残る傑作だったと認められているにもかかわらず、「ざんげの値打ちもない」に関してはこれまで、なぜか担当ディレクターやプロデューサーの名前が表には出ていませんでした。なかなか人物が見えてこなかったところに手がかりが見つかったのは、2017年の10月に北原ミレイが阿久悠の未発表詞をレコーディングして発売するというニュースを知って、彼女にインタビューした時のことです。

その話の中に、これまでも取り上げてきた人物の名前が出てきたことから、「なるほど、そうだったのか!」と、次々に思い当たることが出てきたのです。つながりがあるとは思っていなかった人と人が、意外なところで結び付いて関係していることに気付かされました。

それにしてもレコーディング当日の話を訊いたとき、その人の名前が真っ先に出てきたことには、軽いショックのようなものを感じました。

まずはミニクラブで歌っていたところを、水原弘に偶然に見初められてデビューすることになった経緯を紹介します。

高校生の頃から浜松で歌謡教室を主宰していた佐伯一郎のもとに通って歌手を目指していた北原ミレイは、1968年に愛知県から上京しました。プロを目指す歌手たちの予備軍が出演していた銀座のミニクラブで、南玲子という本名で歌いながらジャズやポップスのレッスンにも通い、デビューのチャンスをうかがっていたそうです。

「ミニクラブで歌っていたところに、銀座に飲みにいらした水原弘さんが、『リンゴ追分』を聴いて私に声をかけてくださったんです。それがデビューのきっかけになりました。水原さんはひばりさんと仲がよかったので、『リンゴ追分』を歌う私を気にかけてくださったんですね。『どうしてここで歌ってるんだ?』って聞かれたので、『歌手になりたいんです』ってお答えしたら、『そうか、わかった』って」

たまたま店に来た水原弘に声をかけられてデビューが決まったという話について、筆者はこれまで、ありきたりのプロモーション・トークだと思っていました。音楽業界では下積み時代の経歴を言い繕うことや、年齢の詐称は宣伝上の常套手段といえるものです。一流歌手によって偶然に見初められて、幸運にもデビューが決まったというストーリーには、何らかの作り話が入っているのだと思っていました。

しかし、たまたま客としてやって来た水原弘に呼ばれて、訊かれたことに答えていたら、そのままレコード会社を紹介されてデビューが決まったというのは、本当のことだったのです。しかもそうした場合には水原弘が所属しているプロダクションか、そこに縁がある事務所に入るのが普通なのですが、東芝からデビューすることになった時に提示されたのは、水原弘がいた長良事務所と、ポピュラー音楽に強い小澤音楽事務所の2社を、自分で選んでいいということでした。

歌声だけからイメージをふくらませて

筆者が大学を卒業して音楽業界誌の株式会社ミュージック・ラボに入社したのは1974年、北原ミレイのデビューから3年半後のことです。そのとき偶然に担当することになったのが、レコード会社では東芝EMIとポリドール、プロダクションではホリプロと小澤音楽事務所、そしてシンコーミュージック(当時は新興楽譜出版社)でした。

入社早々から新人歌手の売り出し方やプロモーション展開、あるいはプロダクションとマスコミとの関係、商品価値からみたプライオリティーなど、音楽業界の実情に接する機会を得ました。またレコード会社やプロダクションに頼まれて、ファンクラブの会報づくりや雑誌へのタイアップ記事なども書くアルバイトも引き受けるようになったので、内部事情についても通じることができたと思います。

そうした経験からすると、北原ミレイの判断でプロダクションを選べたのは、実力は認められていても商品価値に疑問がもたれていたからだということがわかります。その当時もっともプロモーション効果があったのは、テレビと雑誌への露出です。もちろん当時のことですから、歌の実力が伴わなければプロとしてやっていくことには無理がありました。しかし新人の場合は、テレビが普及したことによって、ルックスの良さと新鮮さ、それにレコード会社や事務所の力の入れ方がものをいう時代になっていたのは事実です。

特に1969年から70年にかけては、二十歳前後の若い女性歌手が著しい活躍を見せていました。年頭からヒットした曲をたどっていくと、いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」、カルメン・マキ「時には母のない子のように」、由紀さおり「夜明けのスキャット」、森山良子「禁じられた恋」、和田アキ子「どしゃぶりの雨の中で」、奥村チヨ「恋の奴隷」、新谷のり子「フランシーヌの場合」、弘田三枝子「人形の家」、千賀かほる「真夜中のギター」、加藤登紀子「ひとり寝の子守唄」、ベッツィ&クリス「白い色は恋人の色」、藤圭子「新宿の女」、ちあきなおみ「四つのお願い」、辺見マリ「経験」となります。

彼女たちの売り出し方とヒットとの相関関係を見ていけば、商品価値がどこにあるのかは一目瞭然です。若い女性歌手の場合はまずルックスが肝心であり、夏になれば水着姿で雑誌のグラビアを飾るのは当たり前の時代でした。マスコミで好意的に紹介してもらうには、見た目の魅力があるかどうか、そこがもっとも大きなポイントだったのです。

チャーミングだったりエキゾチックだったり、あるいは和田アキ子のように規格外れのスケール感を持っているといった目立ち方も含めて、新人を売り出す場合のポイントはわかりやすいキャッチフレーズと、見た目の注目度が重要視されていました。そうした観点に立つと、北原ミレイの場合はおそらく、どちらのプロダクションもすぐに売れるとは思っていなかったのでしょう。もしも商品的な価値を高く評価していたならば、早々にどちらかと契約が結ばれていたはずです。しかし本人が事務所を選べることになり、それによって歌手として大成する道が開けたのは間違いないでしょう。

そして彼女は自分の判断で、小澤音楽事務所を選んだのです。音楽的なセンスが近いと感じた菅原洋一がいるというのが、その理由でしたが、その話を本人から聞いたとき、彼女が持っている歌手としての存在価値、大げさかもしれませんが、運命というものを感じないわけにはいられませんでした。もしもその判断が異なっていたならば、「ざんげの値打ちもない」が誕生することはなかったからです。

小澤音楽事務所にはポリドール時代に菅原洋一を担当して、大ヒット曲「知りたくないの」を作った女性ディレクター、“おけいさん”こと松村慶子がいました。彼女は結婚と出産を機にレコード会社から独立し、原盤制作と音楽出版を扱う会社を設立して腕をふるっていたのです。以前にも触れたとおり、おけいさんは園まりの「夢は夜ひらく」を大ヒットさせた人で、自身の会社名であるJ&K(ジュン・アンド・ケイ)は小澤音楽事務所社長の「小澤惇」と「松村慶子」の頭文字から付けたものでした。

北原ミレイは阿久悠との関係について、当時の流れを次のように語っています。

「事務所が決まると、音楽出版社のJ&Kのおけいさんがおっしゃったと思うんですが、詞は阿久悠さんに書いてもらおうということになりましたって。社長の小澤惇さんからは、『本人に会うとイメージが変わってしまうから、声だけ聴きたいと言っている』と言われたので、好きな加藤登紀子さんの『つめたくすてて』と、ペギー・マーチの『忘れないわ』を録音したんです」

阿久悠は実際に北原ミレイに一度も会うことなく、カセット・テープに吹き込まれた2曲の歌声だけからイメージをふくらませて、「ざんげの値打ちもない」を作り上げたことがわかりました。そして菅原洋一というタンゴ歌手、もしくは彼の歌によって、出会うべくして出会う人たちが結び付いていったということもわかってきたのです。

菅原洋一となかにし礼の関係

菅原洋一は国立音大声楽科を出てタンゴ歌手になり、1963年からは歌謡曲に転じてポリドールと契約し、2年間で6枚のシングル盤のレコードを出しています。しかしそれらがまったく売れず、歌手としてはなかなか芽が出なかったために、1965年には専属契約を打ち切られる寸前に追い込まれました。

相応のセールス実績を残さないと、歌手としての道が閉ざされるという状態のなかで、関係者たちはなんとか生き残る方法を考えます。担当ディレクターだった藤原(おけいさんの旧姓)慶子は、専属歌手としての契約を切られないためにと、勝負を賭けた最後のシングルを出す準備に入りました。

そこで彼女は「恋心」というシャンソンが、映画と舞台で大活躍していた越路吹雪の日本語カヴァーで発売になるという情報を得ました。さらに、キングレコードの岸洋子も競作の形で、同じ曲を取り上げるという話が伝わってきたのです。前の年に「夜明けのうた」をヒットさせた岸洋子は、第6回レコード大賞の歌唱賞を受賞して、大いに嘱望される存在でした。

おけいさんはエンリコ・マシアスが歌った原曲のレコードを聴いて、二人の競作が話題になって「恋心」はヒットするであろうと予測し、それを菅原洋一にも歌わせようという計画を立てます。普通に考えれば、日本のショービジネス界を牽引してきた宝塚出身の大スターと、彗星のごとく登場して人気が出ていたシャンソン歌手を相手にして、無名のタンゴ歌手である菅原洋一がかなうはずはありません。

しかしそのことを百も承知のうえで、おけいさんは競作という話題性に乗せて、菅原洋一の名前をマスコミに売ることで、ヒットを狙うという作戦に出たのです。そして菅原洋一本人を含めて、B面に入れる曲をどうしようかと話し合う場をもちました。

というのもA面の「恋心」だけではおそらく、まともな勝負にならないと冷静に分析していたからです。話題性で「恋心」を売った後で、B面の曲を聴いてもらったところから、初めて菅原洋一の良さを伝えられると考えていたのです。

普通レコードというものはA面が勝負。B面というのは、本来刺身のツマ程度のものにすぎません。だから、売るための曲ではなく、僕の好きな曲、歌いたい曲は何かという話になりました。
「洋ちゃん、何かいい曲ない。」松村さんにそういわれた時、僕には一曲だけこれだ、と思う曲がありました。

(菅原洋一『忘れな草の記~歌・人生・愛~』NHK出版)

菅原洋一が迷わず名前を挙げたのは、アメリカのカントリー・ソングだった「たそがれのワルツ」でした。するとマネージャーだった小澤惇もまた、同じ曲を強く推したのです。小澤は「たそがれのワルツ」に関して、菅原との間に共有する思いを持ち続けていました。

この曲を知ったのは、大学1年の時にバンドボーイを始めた頃で、福岡の米軍キャンプで聞いたんです。それからよく口ずさんでいました。菅原のマネージャーになってから、彼の車でキャバレーまわりをしている時、偶然僕がその「たそがれのワルツ」を鼻歌で歌ったら、菅原が「なんでその曲知ってんの?」ということになりましてね。彼も以前よく音楽喫茶で歌って、人気のあった曲だということでね。これを是非やりたいと思ったわけですよ。

(石原信一『おけいさん――菅原洋一からTMNまで 女性音楽プロデューサーの人間記』八曜社)

おけいさんは越路吹雪と岸洋子の「恋心」が、永田文夫による訳詞で歌われることを知っていました。そこで少しでも菅原洋一らしさを打ち出そうと、別の歌詞で歌わせようと考えます。そこで思い出したのが、少し前に手がけたシャンソン・コンクールの優勝曲「ラ・マンマ」です。それをレコードにした時に、新鮮な言葉づかいの歌詞が印象に残っていたのです。

おけいさんは「たそがれのワルツ」についても、すでに歌われていたさざなみ健児の訳詞ではなく、新たな歌詞が欲しいと感じていました。A面とB面を菅原洋一の声や佇まいにふさわしい歌詞で統一し、そこから新しい魅力を引き出したかったのです。そこで「ラ・マンマ」の訳詞をしていた、なかにし礼という名前の新人らしい女性に、思い切って仕事を頼むことにしました。

自分の感性やひらめきを大切にするおけいさんは、作品に可能性を感じた場合には、無名であろうと新人であろうと、自分の判断でチャンスを与える度胸を持っていました。ちょうど1964年の秋に出した園まりの「何も云わないで」が大ヒットしたことで、自分のやり方に自信を持ち始めていたことが影響していたかもしれません。おけいさんが出した「甘く囁きかけるようなラブソング」という注文に応えて、「何も云わないで」を書いた安井かずみも、ポップスの訳詞で認められた25歳の女性でした。

シャンソン・コンクールの事務局からなかにし礼の連絡先を聞き出したおけいさんは、菅原洋一の仕事を依頼するために電話をかけました。仕事を頼まれた時のことを、なかにし礼がこのように語っています。

突然、僕のところにおけいさんから電話がかかってきたんです。「なかにし礼さん、お願いします」というから「僕です」と答えたんですね。そしたら、「あら、男の人なの!? 名前が礼っていうから、てっきり女の人かと思っちゃった」って、電話の向こうでケラケラ笑い転げちゃってね(笑)。それが訳詞の発注の電話でした。

(同前)

立教大学の仏文科に籍をおいていたなかにし礼は、このとき25歳になっていました。しかし大学にはほとんど行かず、もっぱらシャンソン喫茶で歌う歌手のため訳詞を書いていました。その数はすでに1000曲にも及んでいて、そのうちの何曲かはレコードになったこともあります。ただし、それはたまたま採用されたものであって、当時はまったくと言っていいほど無名でした。

レコード会社のディレクターから依頼されて、仕事として訳詞を引き受けるのは初めてのことだったのです。

「お声を聞いたところ、まだお若いんですね」
「ええ、まあ……」
 私は二十五歳だった。
「菅原洋一っていう歌手がいるんですけど、ご存じ?」
「いえ」
「もともとはタンゴ歌手で、歌は上手いんですよ。だけどなぜか売れないのね。で、あなたにぜひ訳詩をお願いしたいんですけど、やってもらえないかしら」
「自信ないですけど」
「小林暁美の歌った『ラ・マンマ』の訳詩、あれ、あなたでしょう? 私、気に入ってるの。私がレコーディングしたのよ。あなた、スタジオにいらっしゃらなかったわね」
「すみません」
「だから、いつもの調子でさらっとやってくれたらいいのよ」
 翌日、渋谷の大橋にあるポリドール・レコードに藤原慶子を訪ねた。

(なかにし礼『黄昏たそがれに歌え』朝日新聞出版)

なかにし礼は電話の翌日、ポリドールでおけいさんと打ち合わせをすることになりました。その時の体験を次のように述べていますが、そこからはフリーの作家に仕事を依頼するディレクターへ向けられる、既存の勢力からの敵意といった空気が伝わってきます。

 僕は駆け出しのガキだったけど、大切にしてくれましたね。でも、フリーの作家がレコード会社に出入りするというのは、それだけで刺すような目でまわりから見られた時代だったから、おけいさんも、僕なんかと会社で打ち合わせするのは針のムシロに座ってる思いがしてたんじゃないでしょうか。

(石原信一『おけいさん――菅原洋一からTMNまで 女性音楽プロデューサーの人間記』八曜社)

日本人に懐かしさを感じさせるカントリー・ソング

得意としていたシャンソンだったので、なかにし礼は「恋心」の訳詞はすぐに完成させました。しかし慣れないカントリーだった「たそがれのワルツ」については、自分でギターを片手に伴奏をつけて英語の歌詞を繰り返して歌いながら、何かがひらめいてくるのを待ったそうです。

 私はギターをかき鳴らし、頭に浮かぶいろんな言葉を乗せてなんどもなんども歌ってみたが、いくら歌っても飽きのこない、不思議な懐かしさに満ちた歌だった。菅原洋一がこの歌を愛する理由が分かるような気がした。
 それにしても、この曲の持つ郷愁にも似た素朴な魅力はいったいどこから来るのだろう。カントリー・ウエスタンとはアメリカ人にとっての演歌みたいなものだが、素朴さというものは世界共通のものなのだろうか。

(なかにし礼『黄昏に歌え』朝日新聞出版)

なかにし礼はそのうちにギターでメロディーを弾いてみて、AABA形式から成るこの曲では、Aのパートに「ファ」と「シ」の音が使われていないと気付きました。4度と7度の音、いわゆる四七(ヨナ)抜き音階で出来ていたのです。ということは日本の唱歌や童謡、流行歌に多い日本人好みの音階と一緒だとわかって、目から鱗が落ちる思いだったと述べています。

そのとき、その歌が日本全国で歌われている――、そんな未来の風景が目の前に広がったのです。ひらめきが妄想にまで広がったなかにし礼は、原詞に込められた女心の切なさを、言葉数の少ない日本語でも伝えられるようにと、ていねいに詞を書き上げました。

 ギターを弾きながら、繰り返して歌っていると、――あなたの過去など――という文句がポッと出て来た。
「過去」。歌のなかで、まだ聞いたことのない言葉。私は歌謡大全集をはじからすべて目を通してみたが、やはり、「過去」という言葉はみつからなかった。

(なかにし礼『翔べ!わが想いよ』文春文庫)

「知りたくないの」では歌い出しの部分で、「過去」という単語が日本で最初に使われています。なかにし礼はそのことを、はっきりと意識していました。そして誰も使っていない新鮮な言葉だったことと、アメリカのカントリー・ソングなのに日本語の響きがよくなじんでいることに、かなりの自信を持っていました。

こうして進駐軍のキャンプを通じてアメリカから伝わってきた、郷愁を帯びたカントリー・ソングの「たそがれのワルツ」は、「知りたくないの」という日本の歌に生まれ変わることになるのです。阿久悠に先立つこと2年、これもタイトルで「知りたくない」と言い切っている、先駆的な「ない・ソング」でした。


「知りたくないの」
作詞 Howard Barnes/訳詞 なかにし礼/作曲 Don Robertson

あなたの過去など 知りたくない
済んでしまったことは 仕方ないじゃないの
あの人のことは 忘れてほしい
たとえこの私が きいても言わないで

あなたの愛が 真実まことなら
ただそれだけで うれしいの
ああ愛しているから 知りたくない
早く昔の恋を 忘れてほしいの


ところがレコーディングが始まる前から、菅原洋一に「過去」という言葉がメロディーに乗りにくいと言われてしまいます。実際にスタジオのブースに入って、オーケストラと音合わせをしたところで、「もう少し歌いやすい日本語に変えてくれないか」と、なかにし礼に注文を出してきました。そこからレコーディングの現場は、急に気まずい雰囲気になっていきます。

それまでの歌詞にはない単語だったので、なかにし礼は発明であるかのように気に入っていました。だからこの歌の「ヘソ」にあたるのが、「過去」という言葉だと説明しました。しかし菅原洋一は「過去」という言い回しが、スムーズに歌えないの一点張りで埒が明きません。

「カーコ」でもおかしいし、「カコッ」でもおかしい……。そもそも純粋に音楽論的に、メロディーと日本語の関係を考えた場合、「過去」という言葉そのものが歌にはなじみにくい言葉だったのです。だから、それまでも歌の詞としては、ほとんど使われることがありませんでした。言葉をメロディーに乗せるという点では、なかにしさんの新しい歌詞よりも、もともとの「どんなにあなたが恋をしていても」のほうがよほど流れがよくて歌いやすい歌詞だったのです。

(菅原洋一『忘れな草の記~歌・人生・愛~』NHK出版)

普通ならば初めて仕事を依頼された大学生のなかにし礼が、その場で歌いやすいようにと直すところなのでしょう。しかし音楽大学の声楽科を出て何年もプロとしてやって来た菅原洋一の意見に対して、なかにし礼は「その一行は絶対に譲れない」と応じる気配を見せませんでした。

その日は暗礁に乗り上げたためにレコーディングが中止となり、おけいさんの提案で、なかにし礼にはひと晩の猶予が与えられました。ゆっくり考えてもらって翌日、もう一度スタジオに全員が集まって再開することになったのです。

しかし、なかにし礼が徹夜してその一行を考えても、それ以上いい言葉は見つからなかったのです。そのために翌日になってスタジオに集合しても、菅原洋一は「過去」のまま歌い直すことに同意せざるを得ません。

 僕の心にますます苛立ちが募ります。この人は歌というものが、あるいは歌い手の気持というものが、どこまで分かっているのだろう……。ふと、そんな不信感にも似た気持を抱いたことも事実です。すると、その気持が歌に表れて「過去など」のところが、だんだんひどい歌い方になってしまう……。
「やっぱり、これは歌いにくい」
 何度目かのチャレンジの後、ささやかな抗議の気持も込めて、僕はミキシングルームにいるなかにしさんにいいました。
 その時です。それまでずっと黙って聞いていた彼が、とても強い口調でこういったのです。
「何でそこがちゃんと歌えないんだ。あなたは歌手だろ!」
 作詞家としての、威信をかけたような一言でした。その言葉には、相手に有無をいわせない迫力と、みなぎるような信念の存在が感じられました。結局僕は、その迫力と信念に引きずられるようにして、再びレコーディングに臨みました。
 ただ、今度はそれ以前とは、歌に取り組む姿勢そのものが違っていました。
「何としても歌ってみせる」
 なかにしさんが「過去など」のフレーズに作詞家としてのプライドをかけている以上、僕もそれを見事歌い上げることに歌手としてのプライドをかけなければなりません。それは、まさにかけるに値するだけの「勝負」でした。

(菅原洋一『忘れな草の記~歌・人生・愛~』NHK出版)

表現者としての威信を賭けたふたりの勝負が始まり、スタジオの中は一気に緊張が高まっていきました。弦が奏でるイントロが流れてくると、菅原洋一が演奏に合わせて歌い始めます。

その時の様子をなかにし礼は、このように記していました。

 なんて上手いんだ。完璧だ。「過去」のところだって難なく通過していった。なぜ最初からこんな風に歌ってくれなかったのだ。
 スタジオの空気が俄に熱っぽくなった。
「いいじゃない。最高だよ」
 小澤は顔を真っ赤にして言った。
 お慶さんも私を振り向いて笑った。
 菅原は歌いつつ、ちょっと照れた笑みをブースの窓越しに私に投げてよこした。

(なかにし礼『黄昏に歌え』朝日新聞出版)

こうして、その場に立ち会っていた人たちすべての運命を変える歌、「知りたくないの」は1965年の夏に誕生したのです。

次号掲載:12月22日(金)

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