沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第45回 2018年6月22日掲載
第三部 新たな風を吹かせた作詞家たち

第十六章 佳作から生まれ育った傑作「津軽海峡・冬景色」~その2

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1973年にデビューした石川さゆりはそれから3年間、なかなかヒット曲に恵まれない状態にあった。阿久悠は彼女が所属するホリプロの社長、堀威夫から出世作を書いてほしいと依頼されて、全曲オリジナルのアルバムを企画し、パートナーに三木たかしを選んで12曲を書き上げる——。
ヒットに恵まれなかった石川さゆり

1973年3月25日「かくれんぼ」(作詞 山上路夫/作曲 猪俣公章/編曲 小谷充)
1973年8月10日「青い月夜の散歩道」(作詞 山上路夫/作曲 猪俣公章/編曲 栗田俊夫)
1974年1月10日「おもいで」(作詞 有馬三恵子/作曲 遠藤実/編曲 斉藤恒夫)
1974年4月1日「いつでも初恋」(作詞 有馬三恵子/作曲 遠藤実/編曲 斉藤恒夫)
1974年6月1日「泣き虫列車」(作曲 冬野卓/作曲 林あきら/編曲 竜崎孝路)
1974年10月1日「白い手袋・ささの舟」(作詞 なかにし礼/作曲 司啓介/編曲 神保正明)
1975年3月1日「ちいさな秘密」(作詞 吉岡治/作曲 市川昭介/編曲 高田弘)
1975年7月1日「あなたの私」(作詞 千家和也/作曲 市川昭介/編曲 高田弘)
1975年8月10日「青い山脈」(作詞 西條八十/作曲 服部良一/編曲 佐伯亮)
1975年10月1日「私でよければ」(作詞 千家和也/作曲 市川昭介/編曲 高田弘)
1976年1月1日「霧のわかれ」(作詞 西沢爽/作曲 浜圭介/編曲 竹村次郎)

デビューから3年を経て、ヒット作を出すことができなかったならば、レコード会社やプロダクションから方向転換、あるいは引導を渡されたとしてもおかしくありません。しかしホリプロダクションの社長、堀威夫は「商売を度外視して」でも石川さゆりをスターに育てたいと、制作陣に熱意を伝えていました。後に行われた阿久悠を巡るインタビューの中で、堀がそこへのこだわりについて、新たな時代の「三人娘」を作りたかったからだと答えています。

僕は「ホリプロ三人娘」を作りたいと思っていた。二人もう持っていた。森昌子が売れたからこれをリード商品にして複数にしたい。もうすでに石川さゆりを持っていて、その準備をしていた。

(大学史紀要 第21号「特集 阿久悠・布施辰治」明治大学史資料センター)

堀威夫は1971年10月3日からオンエアされた日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』がスタートした直後に、初代のグランドチャンピオンに選ばれた13歳の中学1年生、森田昌子と契約しています。そしてあまり時間を置かずに、1972年7月に森昌子の芸名で歌手デビューさせました。それは日本テレビの番組プロデューサーたちに、なるべく早く実際にスターを誕生させてほしいと言われていたからです。

その番組の立ち上げ時から企画者として参加し、基本的なコンセプトを立てていたのが阿久悠でした。番組の構成を手がけながら自らも審査員の一人として出演し、森昌子のデビュー曲「せんせい」に始まって、「同級生」「中学三年生」と続いた学園三部作を作詞していきます。それらがヒットしたことによって、当初は司会のコメディアン萩本欽一を中心にした、バラエティーの要素が強かった『スター誕生!』が、本格的な歌手への登竜門番組となり、軌道に乗っていったのです。

それと同じ時期にフジテレビの番組『リビング4』の夏休み企画、「ちびっこ歌謡大会」で合格したのが、当時14歳で中学2年生だった石川さゆりです。彼女もその場でホリプロにスカウトされて、デビューのタイミングを待つことになりました。

堀威夫は更に『スター誕生!』の第4回決戦大会で、圧倒的な評価を得て25社ものレコード会社やプロダクションから指名を受けたグランドチャンピオン、桜田淳子を採るつもりでいたそうです。森昌子と石川さゆりと組ませることで、「ホリプロ三人娘」として売り出すことができると計画していたのです。秋田県に住んでいた桜田の両親には、ホリプロへ来る時のための地図まで渡して、受け入れの準備は万全のつもりでいました。

ところが『スター誕生!』を制作していた日本テレビの、番組出身者が同じプロダクションに偏りすぎないようにとの意向から、桜田淳子はサンミュージックと契約することになってしまいます。その3カ月後、堀威夫が『スター誕生!』ではさほど目立たなかった山口百恵を採ることにしたのは、「健康美を感じて」のことだったと述べています。

 百恵は阿久さんの言う通り、一見才能があるとは思えない。潜在的な才能をあそこまで僕も〔ママ〕いているわけではないです。最初歌が下手だったから。だけど三人娘をやるためには二人じゃできない。なぜか日本人って「三」が好きなんですよね。「三羽烏」とか。
 それで、淳子を採り損なって百恵を連れてきたら、社内でもみんな大反対。

(同前)

ホリプロは石川さゆりを1973年3月にコロムビアから、「かくれんぼ」でデビューさせました。続いて山口百恵を5月にCBS・ソニーから、「としごろ」でデビューさせています。その年の夏には東京・日比谷の野外音楽堂で、森昌子、石川さゆり、山口百恵の3人によるお披露目の発表会が行われました。

しかし歌手の運命は不思議なもので、さほど期待されていなかった山口百恵が、セカンドシングルの「青い果実」で一気にブレイクしていきます。そして『スター誕生!』から登場した森昌子、桜田淳子との3人で「スタ誕三人娘」と呼ばれるようになったのです。やがて、先行する桜田淳子を追うように山口百恵にもヒット曲が続いたことによって、1年後には人気アイドルとして社会現象を起こすまでの存在に成長したのです。

そうした流れから取り残されてしまった石川さゆりにも、堀はなんとかしてヒット曲をものにしてほしいと思って、阿久悠に相談を持ちかけています。

石川さゆりは「スタ誕!」出身じゃない。しかも歳が一つ上で、これはもうしょうがないと。流れに竿をさすわけにはいかない。だけどまだ十五歳にしてさゆりは弾き飛ばされちゃったから、ともかく商売を度外視して売り出してやろうと、粘りに粘ったんですよ。阿久さんにもそういう話をしたら「そうだな」と賛成してくれた。だけど、当たらないんです。それでどれがさゆりのヒット鉱脈なのか十二曲作ってみようって阿久さんが言って。

(同前)

阿久悠はくせのない透明な声に似合うのはどんな歌なのかと考えたものの、いまひとつ焦点を絞りきれなかったようです。そこで手始めに「十九の純情」(作曲 三木たかし)を作り、次に「あいあい傘」(作曲 三木たかし)を出してみました。しかし充分なヒットとまではいえない結果だったことから、あらためて時間をかけてアルバムに取り組むことにしたのです。作曲のパートナーに三木たかしを選んだのは、演歌からポップス系、フォーク調からロックまでと守備範囲が広く、意欲的な仕事への取り組みに全幅の信頼をおいていたからでした。

早熟の作曲家、三木たかし

三木たかしの本名は渡辺ただし)、太平洋戦争末期の1945年1月に東京で生まれています。歌手になるのが夢だったという母親のもとで育ちましたが、家庭は裕福ではありませんでした。それでも母は次男の匡に続いて、3年後に待望の長女が生まれると、前もって考えていたある計画を実行していきます。

後に母の夢を叶えることになった妹の順子(後の黛ジュン)は、著書『女はみんな華になれ 私の更年期障害』(世界文化社)の中で、母についてこう記しています。

 母の、夢を実現するための計画は、私がオムツを着けているときから始まりました。オムツを換えながら屈伸運動です。足がきれいで長くなりますようにとの願いを込めての運動です。
 三歳になったころには、正座はしないよう「しつ)」けられました。正座は、足の形が悪くなるからだそうです。
 五歳くらいになると、もう歌のレッスンが始まっていました。歌のレッスンに、日舞、洋舞などの習い事もやらされる。
 内向的な性格だった私は、人前に出るのが嫌で、泣きわめいて抵抗したこともありました。母は烈火のごとく怒ります。それで仕方なく、レッスンをするという毎日でした。

戦時中にシャンソン歌手を目指していた母は、陸路でフランスのパリに向かうべく、日本が実質支配していた満州国に渡ってハルビンまで行きました。しかしナイトクラブの支配人だった男性と恋に落ちて、歌手になる夢をあきらめたと言います。そして日本に戻ってきて長男と次男を生んだ後に、焼け跡になった東京で戦後を迎えました。

当時の暮らしを三木たかしがこう述べています。なお渡辺友子とは1960年にポップス・シンガーとしてデビューし、司会や女優としても活躍した渡辺トモコ(ともこ)です。

 幼かった池袋時代には狭い家に叔父一家と同居。いとこに渡辺友子がいた。その叔父がジャズやクラシックのレコードを山のように持っていて、物心つく頃から聴いていたのがあとでプラスになった。生計は幼い妹ジュンが歌うことで成り立っていた。

(木村隆編『この母ありて』青蛙房)

渡辺家では母がホステスをして、家族の生活を支えていました。父には道楽者の面があったせいで、どこで勤めても長続きせず、職があってないような状態だったのです。戦後の混乱から復興しつつあった東京は、1949年に勃発した朝鮮戦争のおかげで景気が良くなり、やがて高度成長経済の時代に入っていきます。けれども渡辺家がそうした恩恵にあずかることは、まったくといっていいほどありませんでした。

 僕は勉強はしないが成績はよく、担任の先生が自慢の小学生だった。特に理数系に強かったが、父の都合で一ヵ所に落ち着かない。小五のときだけで四校も転校した。最後の横浜に行った頃は並のアタマになっていた。
 貧乏で掛け取りが来ても居留守をつかう日々。じっとして、空想するのが好きな子になっていた。無口で人見知りが激しかった。
 根岸中に入ってすぐ今度は一家で夜逃げをした。リアカー一台に着の身着のまま。東京に着いたら夜が明けていた。
 その頃の僕の宝物は祖母が買ってくれた質流れの小さ目のギター。これだけはどこに引っ越しても離さなかった。

(同前)

母の夢を負わされた順子は、7、8歳くらいになると次々にのど自慢コンクールへ応募し、そのうち芸能プロダクションに所属して仕事を得るようになりました。

 仕事といっても、幼い子どもです。お祭りの舞台で歌ったり、地方の巡業回りでは、当時人気のあった歌手、例えば、霧島昇さんや藤島武雄〔ママ〕さん、橋幸夫さんといったそうそうたる大物の前座で歌ったこともあります。

(同前)

中学生になった匡は9歳だった妹の順子とふたりで、飲み屋をまわる「流し」をやって働くようになります。そして祖母に買ってもらったギターで独習しながら、自分の中から湧き上がってくる音楽を譜面に書いて、メロディーに歌詞も付けていったのです。匡が最初に作ったのは「兄妹すずめ」で、それを兄妹の持ち歌にして飲み屋を回り、お客の反応を確かめながら次の歌を作っていきました。

 その兄と一緒に飲み屋などを訪ね、歌わせてもらうのです。
 お酒の匂いにも酔っ払いにも慣れていたし必死だったので、怖さも恥ずかしさも感じません。
「かわいいね、お嬢ちゃんいくつ?」
「九歳です」
「えらいね、お兄ちゃんは?」
「十二です」
 歌ったあとは、やんやの喝采とたくさんのチップ。これで明日はおいしいものが食べられると、それだけが嬉しかったことを覚えています。

(黛ジュン『女はみんな華になれ 私の更年期障害』世界文化社)

やがて兄と妹は作曲家の船村徹のところに通って、本格的に音楽の道を志しました。そのとき順子は歌唱力を認められますが、匡は歌手よりも作曲家に向いていると言われます。10曲ほど作っていた匡の譜面を見て、船村は将来の道を的確に指し示していたのです。

匡は中学2年になると学校にも行かなくなり、年齢を「20歳」とごまかして、喫茶店やキャバレーのボーイをして働きはじめます。しかし、自宅を出て知り合ったホステスの部屋に転がり込んでいる姿を見かねた父が、知り合いだったジャズメンの小野満に頼み込んでくれたことで、書生として面倒を見てもらうようになりました。

小野満が率いるビッグバンドのスイングビーバーズはその頃、上野にあったダンスホール「新世界」と専属契約を結んだところでした。匡はバンドのボーヤとして働きながら、先輩ミュージシャンたちの譜面を整理する仕事をしていたのですが、しだいに楽器ごとの譜面を読めるようになり、編曲についても独学で少しずつ学んでいきます。

そこへロカビリーブームが到来したことから、前座歌手として鈴木やすし(現・ヤスシ)や曽根幸明の前歌を務めるようにもなりました。しかし1960年代に入ってブームが去ると、自ら歌手になることをあきらめて、ギタリストとしてラテンバンドで働くようになります。後に最も親しい仕事仲間となった阿久悠が、三木たかしについてこう述べています。

 三木たかしを話題にする時、不良少年の美意識という捉え方をする人が多い。誹謗ひぼう)ではない、勲章として語る。時代の中に不良がいたと、テレビ演出家の久世光彦なども言う。
 その時は、どうやら、ぼくらがいう精神の不良性という意味ではなく、まぎれもなく、夜桜の下でキラリとナイフを光らせる類いの、本物の不良をさしている。
 成程そう言われると、三木たかしがポツポツと話す少年時代から、バンドボーイ時代、バンドマン時代の話などには、それを感じさせるものがある。
 何しろ、中学も途中で家出して、最初に働くつもりで入った場所がゲイ・バーでしたとか、ボクサーを志して何回戦かの試合をやったとか、いろいろ波乱に満ちた少年時代のエピソードはあるようで、それを思い描くと、不良少年の華というのも無理はない。

(阿久悠『夢を食った男たち』毎日新聞社)

妹の順子は中学生になると、ウェスタンキャラバンと渡辺順子というグループで、ジャズ喫茶を中心に活躍するようになり、ビクターから本名の渡辺順子のままデビューしました。しかしシングル盤2枚が不発だったことで、ビクターからは契約を切られてしまいます。東芝レコードのディレクターだった高嶋弘之に見出されて移籍し、黛ジュンの芸名で再デビューを飾ったのは1967年2月でした。そこで「恋のハレルヤ」が大ヒットし、翌年には「天使の誘惑」で日本レコード大賞に輝いたのです。

作曲家に向いていると言われた兄もまた、「恋のハレルヤ」を作詞したなかにし礼の推薦によって、1967年にクラウンレコードから出た泉アキのデビュー曲「恋はハートで/燃える年頃」で作曲家としてデビューを果たしました。そして68年には妹のために書いた「夕月」が、ロングセラーを記録して脚光を浴びています。

■黛ジュン「夕月」

三木たかしは69年に森山良子に提供した「禁じられた恋」が、8週にわたってヒットチャートの1位を記録し、23歳にして早くもヒットメーカーと目されるようになりました。作曲と編曲で才能を伸ばしていった兄を、妹の黛ジュンはこのように語っています。

 才能という芽があったにせよ、それに毎日水をやり育てていったのは、やはり自力でしょうか。なんのコネもないところで、自分の力で運命を切り開いていった兄を、私は尊敬せずにはいられません。
 でも、この兄さえ、さかのぼってみれば、両親が自然に作っていた音楽的な環境の中で育ったからこそ、身体にリズムやメロディがいつのまにか刻み込まれていたのでしょう。

(黛ジュン『女はみんな華になれ 私の更年期障害』世界文化社)

立派な花を咲かせた三木たかしとの関係

23歳にしてヒットメーカーになった三木たかしは、その頃からほとんど無名だった阿久悠を指名して、いくつかの意欲的な作品を書いています。放送作家としてのキャリアはともかく、作詞家としてはモップスに書いたシングル盤3枚くらいしか目立つ作品がなかったので、声を掛けられるのはありがたかったそうです。

 三木さんの紹介でとか、三木さんがぜひ阿久さんと言っていますと間に立った人は必ず言っていたが、三木たかしがぼくの詞をどこで知ったのかわからなかった。
 それらの仕事は残念なことになかなか実を結ばなかったが、ぼくも三木たかしも、無為に終わったその時の歌には、強烈な意欲や野心があったと、今でも思っている。
 〽愛しているジャン 泣かせるジャン さよならするジャン ジャンジャン……と、それだけは記憶している「ヨコハマ・ジャン」とか、晩年の喜劇王エノケンこと榎本健一のために書いたララバイとか、あくまで型破りを心掛けて熱くなっていたものである。ボツになってしまった名も無き歌をここまで記憶しているのは、その時の取り組みがそれだけ本気であったということだろう。しかし、この無駄は将来、三木たかしとの関係に於て立派な花になる。

(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社)

阿久悠は早くから実績をあげていた三木たかしのことを、音楽業界の先輩だということからして、自分とほぼ同じくらいの年齢だと思っていたと言います。実際には8歳も年下だったわけですが、“ボーヤ”とはいえ中学生の頃からプロのビッグバンドで、楽譜を扱う仕事をしながら勉強していたのですから、キャリアにおいては確かに先輩でした。二人の関係が年齢の差にふさわしい付き合いになるのは、それからしばらくの空白期間があった後のことになります。

三木たかしは、しかし早すぎる才能の開花に対して不安を覚え、25歳の頃から睡眠時間を極端に減らし、懸命になって本を読むようになりました。さらにレコードで音楽を聴きまくり、可能な限りの知識を吸収しようと勉強に励みます。しかしながらそうした行動だけで自信が得られるわけもなく、ヒット曲の出ない時期を迎えます。

阿久悠はその頃の三木たかしに、『スター誕生!』のゲスト審査員を務めてくれるようにと声をかけて、何度か顔を合わせているうちに長時間にわたって話す機会を得ました。

 その三木たかしと、広島へ行く列車の中で、およそ八時間ばかり話しつづけたことがある。何をそんなに話したのかは、実のところ、よく覚えていない。
 ただ、その時の彼が、二、三年前に比べて異常に太っていたことが記憶に残っている。たしか、十何キロも太ったうえに、顎髭あごひげ)まで生やしていて、別人のように見えた。黙っているのも妙なので、その驚くべき印象の違いを訊ねたはずである。その時、彼は、スランプになると十何キロも太ってしまうのだと、言った。
 それをきっかけに話はつづいた。ぼくは、作家が、スランプだと認めることは、相当に勇気のいることだと思った。ぼくなどは、たとえ不調を感じても、絶対にスランプだと認めないほうで、その言葉は禁句にすらしている。他人にはスランプ知らずだと言う。
 それを、彼は、ぼくに言ったわけで、妙な感動を覚えながら、とにかく)せようよ、と答にもならないことを言った。

(同前)

三木たかしは一カ月後に元の体型になって、阿久悠の事務所を訪れました。そして『スター誕生!』のレギュラー審査員になったことで、ほとんどの時間を阿久悠と一緒に過ごしていたといっていいほど、親密な関係を築いていきます。

 たぶん、ぼくの何かを信頼してくれてのことだと思うが、ぼくが他の仕事の打合わせをしている時でも、横にいて、話を聞いていることがあった。
 奇妙な話だが、そうなると、ぼくも、彼の役に立つ話をしなければならないという気持ちになり、まるで、講演会の準備でもするように、聞かせたい話を集めたり、頭の中で整理したりしていた。

(同前)

そんな中でスランプだという悩みを相談された時のことを、阿久悠はこのように述べていました。

 スランプというのは彼がスランプだと理由付けているだけで、感覚や才能が失せてしまったということでは全くない。むしろ封印している状態だと思ったので、ぼくは言葉は悪いがこき使ってやろうと考えたのである。彼との復活第一作は、あべ静江の「コーヒーショップで」で、それが売れてからは、ぼくもこき使うだけこき使い、彼は堂々のスランプ知らずのヒットメーカーとなった。

(同前)

「コーヒーショップで」は1973年5月にレコードが発売されていますから、逆算すると1月から2月の初めにかけてのことでしょうか、阿久悠の仕事部屋へキャニオン・レコード社長の石田達郎がふらりとやって来ました。そして名古屋で評判の美人DJのレコードを出すので、「ぜひ作詞をお願いしたい」と切り出されたと言います。

フジサンケイグループのニッポン放送の重役だった石田は、ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」を深夜放送の『オールナイトニッポン』からヒットさせた人物です。当時は系列の音楽出版社だったパシフィック音楽出版も掌握し、1970年にはキャニオン・レコードを創業させました。ところがまったくヒットが出なくて窮地に陥っていた時に、救世主のように登場したのが山本リンダです。「どうにもとまらない」が大ヒットしたのに続いて、阿久悠と都倉俊一のコンビによる「狂わせたいの」「じんじんさせて」「狙いうち」の連続ヒットで、キャニオンは社運が急上昇していきます。

そのことを縁に石田は自分のほうが大先輩でも、阿久悠とは互いに腹を割って話す仲になっていたのです。

 こういう風に、人を介さずに自分でやって来るところが、この人には全く勝てないなと思わせる所以ゆえん)で、まさに、ぼくの神様なのである。その時も、三木たかしが来ていた。
 ぼくは、作詞を引き受けることに否という理由もなく、やりますよと答えながら、作曲はでやりたいんだけど、と言った。
 縁というと古めかしく、何か実力以外の人情がらみのように思えるが、決して、そういうことではない。
 その部屋に、ぼくがいて、石田達郎がいて、三木たかしがいるということは、すでに選ばれたことであると思い、確信を持って、そう言ったのである。
 ヒットとは、何かに導かれたようにとか百の説得よりも有効なという心理とか、また、とかいうことで成立している。だとすると、作る側に、それらの作用が働いていいと、思ったのである。
 石田達郎は、「おうッ たかしちゃん!? それがいい」と即座に言った。後で聞いたところによると、腹案の作曲家はあったそうである。
 それが誰とは言えないが、結果、三木たかしとの初ヒットが誕生した。

(同前)

それから3年の歳月が過ぎて阿久悠と三木たかしのコンビは、1976年の2月から西城秀樹のために3部作として作った「君よ抱かれて熱くなれ」「若き獅子たち」「ブーメランストリート」をヒットさせました。この時は「少年から青年にしてください」と、西城秀樹の事務所から頼まれた阿久悠が、三木たかしと二人で一緒にホテルにこもり、イメージづくりから始めて楽曲を作っています。

■西城秀樹「ブーメランストリート」

 一人の才能のある少年を一篇の詞で劇的に青年にしてしまうことなど不可能である。可能だと思うほど自惚れも強くない。また、楽天的でもない。それでも、成長のための線引きとしては正しいし、そういう意欲を少年に見せつけたいのだろうと思って、ぼくは胸を叩いた。
 そして、一年間、ローテーションとしては三曲書くことを条件とし、早速作曲家の三木たかしと下田のホテルへ入って、「君よ抱かれて熱くなれ」「ジャガー」「若き獅子たち」の三曲、つまり、一年分のA面を一気に作り上げた。エロチシズムと情熱と志の三つで、青年にしようと思ったのである。ではなく、にはこれと信じたのである。

(阿久悠『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』新潮社)

少年をどのように成長させるかに苦しみながら、下田東急ホテルのスイートルームで曲作りを行っていた時、陣中見舞いとして部屋中を埋め尽くすほどの生花が届けられました。西城秀樹から贈られた花の香りに埋もれて、二人は若き獅子のイメージを形に落とし込んでいきました。

そして1976年の2月に「君よ抱かれて熱くなれ」、6月には「ジャガー」がそれぞれ発売と同時にヒットし、西城秀樹は順調に青年のイメージを確立させていきました。第5回東京音楽祭ではゴールデン・カナリー賞に選ばれて、6月27日の世界大会でも入賞するなど、大人の歌手として認められたのです。

企画アルバムの最後に入っていた曲

阿久悠と三木たかしが西城秀樹のプロジェクトと並行して、本腰を据えて手がけていたのが石川さゆりでした。しかしこちらは4月に出した「十九の純情」も、7月の「あいあい傘」もヒットには結びつかなかったことから、発想を変えた阿久悠は日本の風景や風物、季節の中に石川さゆりを立たせることにします。

まだ実績のない一人の歌手のために全曲オリジナルでアルバムを制作して鉱脈を探り当てるという発想は、当時としては異例中の異例のことでした。それを可能にしたのは、ホリプロの社長である堀威夫の強い思いがあってのことです。

スパイダースやモップスで関係が出来たグループサウンズの時代から、社を挙げて売り出した大型新人の和田アキ子の成功や、『スター誕生!』に至るまで続いてきたホリプロと阿久悠との良好な関係があったおかげで、石川さゆりに思い切った投資ができたのです。

そこでヒントになったのは、キングレコードから出した『我が心の港町』という企画アルバムを作るために、九州の五島列島から本州の最北端である青森県の竜飛岬、北海道の稚内など全国の港町を旅した体験です。阿久悠自身によるエッセー風の語りで構成されたアルバム制作のために、各地を取材して歩いた体験が、後になってから作品として昇華したのです。

そのときは、宮古島の港で見た資生堂の紙袋だとかね、その手の歌ばかりつくってるんですよ。ところがそこで仕入れたものが何年かたって、「舟唄」になる。「津軽海峡冬景色」も出てくるし、「北の宿から」もそうです。

(阿久悠、和田誠『A面B面 作詞・レコード・日本人』ちくま文庫)

アルバム『365日 恋もよう』はひとりの女の恋を12カ月に分けて、それを石川さゆりがどう歌うか、どのように表現するのかに挑んだ意欲作になりました。それは1月から12月までのカレンダーであると同時に、北海道から九州までの地図にもなっているという、“ご当地ソング”集です。曲調も型にはまった演歌調ばかりでなく、フォーク調あり、ポップス調ありで、いろいろな音楽を季節や土地柄と組み合わせることによって、石川さゆりの個性と未知の魅力を引き出そうとしたのです。

1月 伊那谷を舞台にした「伊那の白梅」
2月 札幌を舞台にした「雪まつり」
3月 鳥取を舞台にした「流しびな」
4月 先行シングル「花供養」
5月 九州、日豊本線を舞台にした「日豊本線」
6月 長崎を舞台にした「雨降り坂」
7月 琵琶湖を舞台にした「螢の宿」
8月 高松を舞台にした「瀬戸の花火」
9月 淡路島を舞台にした「私の心の赤とんぼ」
10月 静岡の駿河湾を舞台にした「千本松原富士を見て」
11月 横浜を舞台にした「横浜暮色」
12月 青森を舞台にした「津軽海峡・冬景色」

アルバムの締めくくりに置いた「津軽海峡・冬景色」は、阿久悠がまずタイトルを決めて三木たかしに渡し、先に曲を書くように依頼したと言います。三木たかしは出来上がった曲を、自分で「ラララ」と歌ってテープに吹き込んで送りましたが、タイトルとの関連から津軽の風景を描く歌詞が付くだろうと想像したそうです。

出来上がったデモテープを聴いた阿久悠は三連符のリズムに合わせて、曲に歌詞を当てはめていきました。ということは、この歌の肝となった歌い出しの2行、「〽上野発の夜行列車降りた時から 青森駅は雪の中」という歌詞を導き出したのは、デモテープから流れてきたリズムとメロディーだったということになります。

ところで三木たかしは、「上野発の夜行列車降りた時から」と始まる歌詞を読んで、いささか唖然としたと後に語っています。津軽の風景を思わせる具体的な言葉が、2番の「竜飛岬」しかなかったからです。しかも「上野」を出た夜行列車が「青森」に着いて旅が終わるのではなく、そこから青函連絡船に乗って北海道の函館に渡るヒロインが、さらに旅を続ける姿と心情が映像的に描かれていました。


「津軽海峡・冬景色」
作詞 阿久悠/作曲 三木たかし

上野発の夜行列車 降りた時から
青森駅は雪の中
北へ帰る人の群れは誰も無口で
海鳴りだけを聞いている
私もひとり 連絡船に乗り
こごえそうなかもめ見つめ泣いていました
ああ津軽海峡・冬景色

ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと
見知らぬ人が指をさす
息でくもる窓のガラス拭いてみたけど
はるかにかすみ見えるだけ
さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする泣けとばかりに
ああ津軽海峡・冬景色

さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする泣けとばかりに
ああ津軽海峡・冬景色


「京都から博多まで」や「別れの旅」が2点を繋ぐ線のドラマだったとすれば、「津軽海峡・冬景色」は3点を繋いだ線から線へのドラマです。この歌のベースになった藤圭子の「別れの旅」は、上野から青森までの旅をすることによって、すでに覚悟を決めていた二人が儀式を済ませて、きっぱり未練を断ち切って新たな道へ踏み出す内容です。

それは新しい別れのパターンを打ち立てたと阿久悠が自負する「また逢う日まで」と同じく、理性的な男女の別れでした。ただし、「また逢う日まで」では別れる際に、「二人でドアを閉めて 二人で名前消して」とあるように、対等な関係で互いが背を向けます。そこにはまた会う可能性が、いくばくかは残されているようにも思えます。

しかし「津軽海峡・冬景色」の二人は、もう二度と会うことはないという感じがします。それはベートーベンの「交響曲第5番」を連想させる「ダダダ・ダーン」という力強いイントロが、聴き手の深層心理に「運命」という言葉や音楽を喚起させるからかもしれません。

それにしても青森駅での別れを経て青函連絡船に乗り込み、函館に向かうヒロインの描写は見事で、阿久悠ならではの映像的な手法で光彩を放っています。

 歌詞は青森駅に降り立つ女の遠景から入る。それから、海鳴りを聞く無口な人々が描写され、三ブロック目で初めて鷗を見つめて泣く「私」がクローズアップされる。そして、カメラは一気に引いて、冬景色の津軽海峡を映し出す。
 この曲は非常に映像的で、二コーラス目ではさらに主人公の女の脇を通りかかるエキストラまで登場している。サビのところで一気にヒロインの感情が描き出されるのは、一コーラス目と同様だ。
 こんな風にカメラ割りを考えながら、映画のように風景を描いていくのが僕のやり方だ。

(阿久悠『「企み」の仕事術』KKロングセラーズ)

2コーラス目のサビにおける感情の描写、津軽海峡の冷たい風の音が「胸をゆする 泣けとばかりに」というフレーズは圧巻です。それを受けて石川さゆりの歌声は哀切きわまりないものとなり、万感の思いを込めた「ああああーー」という嘆きと、決め台詞となる「津軽海峡冬景色」に着地します。

そうした起伏のある情感を表現しやすくするために、ダイナミックなサウンドが鳴り渡っているのも、「津軽海峡・冬景色」の大きな特徴です。歌詞や歌唱だけではなく、三木たかし自身によるスケール感がある編曲は、音楽と一体となって情景を映像的に浮かび上がらせています。そのことが、この楽曲の大きな特長になっているのです。

2018年4月に刊行された馬飼野元宏『昭和歌謡職業作家ガイド』(シンコーミュージック)には、このように高い評価が載っていました。

Aメロにもサビにも三連符を連続させているが、「青森駅は…」の部分は四分音符と八分音符の構成による三連。コードはナチュラルな和音進行で、サビへ向かってキーが高まっていく流れは圧巻の構成力。阿久悠の詞も日本語のアクセントと音符の高低がピタリと合っており、このコンビの技巧の高さに舌を巻く。

しかし「津軽海峡・冬景色」はこの時点で、アルバムの1曲として出来上がったのであり、特別な傑作だと認識されていたわけではありません。

■三木たかし「津軽海峡・冬景色」

(次回につづく)

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