沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第11回 2017年9月15日掲載
第一部 歌謡曲の黄金時代を予告していた「ない・ソング」の登場

第十一章 1969年と阿久悠時代の夜明け

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人気が急速に低下したグループ・サウンズに替わって、1969年になると「ブルー・ライト・ヨコハマ」(いしだあゆみ)、「時には母のない子のように」(カルメン・マキ)、「夜明けのスキャット」(由紀さおり)、「禁じられた恋」(森山良子)など、新たなソングライターたちと個性的な女性歌手による大ヒットが次々に生まれた。そして小規模ながら「白いサンゴ礁」と「港町シャンソン」がヒットして、阿久悠の待ち望んでいた、新時代の扉が開く時も確実に近づいていた――。
1969年を象徴する「時には母のない子のように」

1968年の前半は風俗的にも華やかな時期で、ミニスカートの流行、アングラ演劇、路上ハプニング、ハレンチやサイケといった言葉に代表される対抗文化(カウンターカルチャー)が注目を集めました。各地の大学や高校で学園紛争が繰り広げられるなど、若者による既成概念や社会への反抗、自己表現への欲求が表面化したのです。

その頃に最盛期を迎えていたグループ・サウンズが急に失速し始めたのは、1968年の秋から69年の春にかけてのことでした。そして、グループ・サウンズのヒット曲を手がけることによって登場してきた新しいソングライターたちは、自然に歌謡曲を手がけるようになります。そこからフォークソングやニュー・ロック、ソウル・ミュージック、ボサノヴァなどの洋楽に影響を受けた新鮮なヒット曲が生まれてくるのです。

1968年の暮れにオープンした赤坂のディスコ「スペースカプセル」は、建築家の黒川紀章の設計で屋内がすべてステンレスにおおわれ、宇宙ロケットの内部を思わせる斬新なデザインが話題になっていました。そのオープニング・イベントの企画を頼まれたのが、前年に「演劇実験室・天井桟敷」を創立してアングラという言葉を流行させ、時代の風雲児になっていた寺山修司です。

最先端の消費文化とアンダーグラウンドが交差する場所として、寺山は天井桟敷の『時代はサーカスの象にのって』の中から、(しも)(うま)()()(しち)(らん)(よう)()などによる寸劇と、カルメン・マキの歌と詩の朗読で構成したショーを上演します。そこで歌われた中に「時には母のない子のように」がありました。


「時には母のない子のように」
作詞 寺山修司、作曲 田中未知
 
時には母の ない子のように
だまって海を みつめていたい
時には母の ない子のように
ひとりで旅に 出てみたい
だけど心は すぐかわる
母のない子に なったなら
だれにも愛を 話せない
 
時には母の ない子のように
長い手紙を 書いてみたい
時には母の ない子のように
大きな声で 叫んでみたい
だけど心は すぐかわる
母のない子に なったなら
だれにも愛を 話せない
 
時には母の ない子のように
時には母の ない子のように


アングラ劇団「天井桟敷」に所属する17歳の少女、カルメン・マキは父がアイルランドとユダヤの血を引くアメリカ人、母は日本人のハーフで神奈川県鎌倉市に生まれ、東京で育ちました。お嬢様系ミッションスクールを高校2年で中退し、新宿や渋谷のJAZZ喫茶やディスコに入り浸る日々のなかで、天井桟敷の『青ひげ』を観て感銘を受けて入団しましたが、ゴーゴーダンス大会で優勝した経験があり、芝居の中で踊る姿はひときわ目立っていたと言われています。また、マイクを通した彼女の声は誰もが(かた)()をのむほど印象的だったと、「時には母のない子のように」を作曲した田中未知が述べています。その歌を聴いてすぐにレコード化を申し込んだのが、発足したばかりの新しいレコード会社、CBSソニーのスタッフたちでした。

田中未知は当時22歳、寺山修司の秘書役を務めていましたが、その時の経緯をこう記しています。

それまで寺山の詩集を見ては好き勝手にギターで作曲し、いくつかの歌が私のもとに眠っていたことが幸いした。その歌をカルメン・マキに歌わせてみよう、寺山の発案で実現されたのだ。そして、そのスペースカプセルに現れたのがCBSソニーレコードのディレクター、酒井政利と金塚晴子の二人だったのである。
 マキの歌声は彼らの心をたちまちにしびれさせたにちがいない。

(田中未知『寺山修司と生きて』新書館)

若者たちに発見されて歌い継がれた「ない・ソング」

19世紀のアメリカで生まれた伝統的な黒人霊歌“Sometimes I Feel like A Motherless Child”を下敷きにした歌詞を書いた寺山修司は、「天井桟敷」を主宰する作家で詩人、元祖マルチ・アーティストですが、学生時代からすでに早稲田大学に天才ありと言われる存在でした。

寺山修司がおそらくは最初に作詞を手がけた商業作品が、1967年2月に東芝レコードから発売された「戦争は知らない」です。これは阿久悠の「朝まで待てない」と同じ年に、ひと足早く出ていた「ない・ソング」でした。幼い頃に父を戦争で亡くした歌の主人公には、当然ながら作者の寺山自身が投影されていました。青森県警弘前署の刑事だった寺山八郎は、招集されて出征した後、太平洋のセレベス島でアメーバー赤痢にかかって戦病死しています。

「戦争は知らない」を歌ったのは、“ラテンの女王”として知られた坂本スミ子。1961年から1965年までNHK紅白歌合戦に5年連続で出場したベテラン歌手が、意外とも思われるフォークソング調の楽曲に挑戦したのです。作曲は大阪のグループ・サウンズ、ザ・リンド&リンダースのリーダーだった加藤ヒロシが行っています。


「戦争は知らない」
作詞 寺山修司、作曲 加藤ヒロシ
 
野に咲く花の 名前は知らない
だけども野に咲く花が好き
帽子にいっぱい 摘みゆけば
なぜか涙が 涙が出るの
 
戦争の日を 何も知らない
だけども私に父はいない
父を想えば ああ荒野に
赤い夕陽が 夕陽が沈む
 
戦で死んだ 悲しい父さん
私は あなたの娘です
20年後の このふるさとで
明日お嫁に お嫁に行くの


その年の秋に京都のアマチュア・グループだったザ・フォーク・クルセダーズ(略称フォークル)の「帰って来たヨッパライ」が、関西のラジオ局から火がついて大ヒットを記録し、一世を風靡しました。1967年12月25日に東芝レコードから出たシングル盤は、200万枚を超えるセールスになったのです。

その時はもう解散していたフォークルでしたが、中心メンバーだった北山修と加藤和彦は1年だけの期間限定で再結成し、はしだのりひこを加えたトリオでプロとしての音楽活動を行いました。その活動のおかげで、まったく売れなかった「戦争は知らない」がよみがえることになります。

フォークルは1968年の7月27日に渋谷公会堂で行われたコンサート「当世今様民謡大温習会(はれんち りさいたる)」の中から、「戦争は知らない」のライブ・テイクをシングル「さすらいのヨッパライ」のB面に収録して11月10日に発売しました。この時「さすらいのヨッパライ」はさほどヒットしなかったのですが、新たな生命を吹き込まれた「戦争は知らない」が、B面にも関わらず評判になって若者たちに歌われるようになっていきます。

そして寺山修司の愛弟子だったカルメン・マキを筆頭に、本田路津子、頭脳警察、加藤登紀子、元ちとせ、坂崎幸之助などのアーティストにカバーされて、「戦争は知らない」は一度もヒットらしいヒットがなかったのに、21世紀の今日にまで歌い継がれているのです。

加藤和彦もまた、2009年10月16日に自死するまでの40年間、折にふれて歌い続けました。

1969年から始まった新たな歌謡曲の時代

スパイダースやモップスとの仕事を通じて作詞を手がけるようになった阿久悠が、そこでつながった縁でホリ・プロダクションの新人を手がけたのは1968年のことでした。社長の堀威夫自らが大阪でスカウトしたということで、スター誕生を大いに期待されていた歌手は和田アキ子です。そのキャッチ・コピーは「和製リズム・アンド・ブルースの女王」というもので、「日本初のサイケデリック・グループ」とモップスに名付けたのと似て、洋楽の最先端を邦楽に取り入れるホリプロらしい売り出し方でした。

しかし、1968年10月25日にデビュー・シングル「星空の孤独」が発売になりますが、それは期待に反してヒットしませんでした。この時のことを阿久悠がこう述べています。

大型新人歌手和田アキ子のデビュー曲ということで、堂々たるR&Bの「星空の孤独」を出したのだが、残念ながらあまり売れなかったようである。しかし、売れないということで責められることはなく、いい作品なのだが、ちょっと無理だったかな、というようなことはいわれた。

(阿久悠『何故か売れなかったが愛しい歌』河出書房新社)

1969年に入ると、それまでの歌謡曲とは明らかに異なる感触を持つ作品が次々にヒットし、音楽シーン全体を活性化させ始めました。1970年代から80年代にかけて全盛を迎える歌謡曲の黄金時代は、この年に幕が上がったと言えるでしょう。最初のヒット曲「ブルー・ライト・ヨコハマ」はグループ・サウンズの中心にいたヒットメーカーの、作詞家 橋本淳と作曲家 筒美京平コンビの作品です。

それに続いた「時には母のない子のように」は、既存の芸能界とは関係がないカウンターカルチャーから生まれた楽曲が、若者たちに発見されて大ヒットしたという意味で、1969年を象徴するエポックメイキングな歌でした。無名の新人だったカルメン・マキが歌う「時には母のない子のように」は、何の宣伝活動もない状態だったのに、深夜放送のラジオで流れただけで日本中に浸透していったのです。

カルメン・マキは2015年10月24日、NHK―BSプレミアム『ザ・フォーク・ソング~青春のうた』に出演して、「戦争は知らない」と「時には母のない子のように」の2曲を歌ったとき、曲と曲の間に亡き寺山修司のことをこう語っていました。

 1968年頃に赤坂にスペースカプセルというゴーゴークラブがありまして、そこのイベントを寺山修司さんがプロデュースしたのですが、その中で私のコーナーみたいなのがあって、私はそこで歌と詩の朗読をやっていました。その内容をほぼそのままアルバム化したのが、私のデビュー・アルバムの『真夜中詩集 カルメン・マキ~ろうそくの消えるまで』。それはカルメン・マキのアルバムというよりも、私は寺山修司作品じゃないかなと、今は思っています。

1969年は音楽を積極的に聴こうとするラジオのリスナーたち、新しい価値基準を探していた若者たちが、自分たちにふさわしい歌や歌手を求め始めた年でもあります。そしてフォークやロックの分野では、吉田拓郎や井上陽水(当時はアンドレ・カンドレ)、高校生だったRCサクセションなどの新たなる才能が発見されています。カルメン・マキもそのブルージーな声からにじみ出る哀感、素朴ながらも強い存在感を放つ歌声で、孤独や挫折を抱えていた若者たちの支持を集めていきました。

その一方では芸能界においても、新人もしくはそれに準ずる女性シンガーが歌う、それまでにない新鮮な歌謡曲が次々にヒットし始めます。3月10日に発売された由紀さおりのデビュー曲「夜明けのスキャット」は、クラシックでいう“ボーカリーゼ”唱法のユニークな楽曲でした。もともとはTBSラジオの詩の朗読番組『夜のバラード』のテーマ曲として作られたインストゥルメンタル曲で、ラジオでは「ルルル……」と「ラララ……」という歌声だけが流れていましたが、番組のリスナーからの反響を受けて、作曲者のいずみたくがレコード化して大ヒットします。

「ルルル……」と「ラララ……」のパートをそのまま残し、必要最小限の短い歌詞をつけたのは山上路夫です。そのメロディとサウンドは明らかに1968年のヒット曲、サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」を下敷きにしたものでした。


「夜明けのスキャット」
作詞 山上路夫、作曲 いずみたく
 
ルルル… ラララ…
パパパ… アアア…
ルルル… ラララ…
 
愛し合うその時に この世はとまるの
時のない世界に 二人は行くのよ
夜はながれず 星も消えない
愛の唄ひびくだけ
愛し合う二人の 時計はとまるのよ
時計はとまるの


和田アキ子のセカンド・シングル「どしゃぶりの雨の中で」は、1969年4月25日に発売になっています。デビュー曲がまったく当たらなかったので、ソングライターの交代が行われた結果、無事にヒットしたことによって、和田アキ子は事務所の期待に応えて人気歌手の仲間入りをすることができました。それについて阿久悠はかなり口惜しかったと、正直に語っていましたが、作詞を依頼した堀威夫は「星空の孤独」をこう回顧しています。

僕が言うとやや我田引水になっちゃいますけど、名曲だと思いますね。ただ、全然ヒットしなかったんです。言い訳になるんだけど、ブラックミュージックは時代が早すぎたかなと。後で反省すると半歩先じゃなく一歩先に行っちゃったかなと。でもいまだに和田アキ子はコンサートで歌っていますよ。全然古くない。GSブームが終わる頃に、僕は次はブラックミュージックだと考えていた。それでブラックミュージックを歌える和田アキ子をスカウトしてきた。作曲はロビー和田。RCAレコードのディレクターですから作曲は初めてなんだけど、これも苦肉の策です。

(大学史紀要 第21号「特集 阿久悠・布施辰治」明治大学資料センター)

ディレクターが作曲したということでは、「どしゃぶりの雨の中で」(作詞 大日方俊子)も、それに当てはまっています。このR&B調の楽曲を作った小田島一彦とは、ポリドールの洋楽部門で活躍した後に邦楽へ異動となり、グループ・サウンズで人気絶頂のタイガースを担当したディレクター、松村孝司のペンネームだったのです。

松村は米軍キャンプを回ってキャリアを積んできたベテランのヴォーカル・グループ、ザ・キングトーンズを、自ら書いた楽曲「グッド・ナイト・ベイビー」で1968年にレコード・デビューさせています。それが日本でヒットしただけでなく、1969年にアメリカでも発売になって、全米R&B部門で48位にランクされる快挙を遂げています。

その後も松村は浅川マキの「ちっちゃな時から」、石川セリの「八月の濡れた砂」、さくらと一郎「昭和枯れすすき」など、黒人音楽のブルースやドゥーワップ、R&Bの魅力を活かした楽曲作りで、実に個性的なヒット曲を作っていきました。ただしポリドールの社員だったので、主に「むつひろし」のペンネームで仕事をしています。

このように1969年という時代は、新しいセンスのソングライターを切実に必要としていたのであり、それに応えて多くの新たな才能が台頭してきた年でした。

次号掲載:9月22日(金)

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