沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第15回 2017年10月13日掲載
第一部 歌謡曲の黄金時代を予告していた「ない・ソング」の登場

第十五章 商業主義に迎合しなかった北山修と加藤和彦

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「帰って来たヨッパライ」の大ヒットによって一躍、時代の寵児となったザ・フォーク・クルセダーズ(通称フォークル)。ところが第2弾シングルとして出される予定の「イムジン河」が突然の発売中止、そして放送禁止になる。しかし急遽作られたサトウハチローの作詞による「ない・ソング」、「悲しくてやりきれない」がヒット、そこから日本歌謡史に残る名曲が誕生した。アマチュアリズムと遊びの精神、卓抜した才能によってもたらされたフォークルの成功は、やがて岡林信康や忌野清志郎といった新たな時代の旗手たちを誕生させていく――。
「フォークルって、ビートルズみたい」

関西で話題になっているという“変な歌”の話を耳にして、すばやく東京で行動したのはニッポン放送の子会社、設立されたばかりのパシフィック音楽出版(PMP)のスタッフたちでした。DJの草分けとして活躍していた社長の高崎一郎は、関西から帰ってきた知り合いから「帰って来たヨッパライ」の話を聞いて、すぐに大阪の放送局を通じて事実を確認し、たったひとりの社員だった朝妻一郎に命じて契約を交わすために、ザ・フォーク・クルセダーズの窓口になっていた高石友也事務所に向かわせました。

同じ頃にフォークルのレコードを聴いて即座に反応を示していたのが、ビートルズの来日で大幅に部数を伸ばした音楽雑誌『ミュージック・ライフ』を発行していた新興楽譜出版社を率いる草野昌一です。かつて訳詞家・(さざなみ)健児として大活躍した草野は、浜口庫之助が作詞作曲した坂本九の「涙くんさよなら」をアメリカのジョニー・ティロットソンに日本語でカヴァーさせて、1965年にヒットさせた経験から、グループ・サウンズやフォークソングの分野で原盤制作を積極的に手がけ始めていました。

新興楽譜出版社から1969年に創刊された雑誌『ヤング・ギター』の編集長で、音楽の時代が移り変わるいくつもの現場に立ち会ってきた山本隆士は、京都に出張した社員の水上はる子がお土産に買ってきたフォークルの『ハレンチ』をみんなで聴いているところに、草野がたまたま通りかかって鋭く反応したときのことを、こう語っています。

草野さんが嗅ぎつけて来て、「何だこれ?これ面白い!これだ!」って言って、神戸孝夫ってのが即、会いに行ったんだけど、一歩遅くて。PMP(現フジ・パシフィック音楽出版)の朝妻一郎に版権を取られちゃったんだ。それで大ヒットしちゃってさ。草野さん、悔しがってたなあ。

松永良平「20世紀に連れてって」第4回 山本隆士 後編「何かが終わって、また新しいものが始まるんだ」

ラジオで火がついたことから自主制作のレコードも売り切れて、バンド側の応対の窓口だった北山修のもとには、当時の日本のレコード会社が次々と訪れてきました。そして金の卵をめぐる激しい争奪戦が繰り広げられた結果、マスターテープを買い取るのではなく、売り上げに応じて印税計算で使用料を払うという条件を受け入れてくれた、東芝音楽工業と契約することになりました。

東芝は、私たちの愛するビートルズのレコードを発売していた会社でもありました。ラジオ関西でのオンエアから約一ヵ月後に決定され、一二月二五日には、シングル盤として『帰って来たヨッパライ/ソーラン節』が発売されるという慌ただしさでした。音源もジャケットデザインもそのまま私家版LP『ハレンチ』を流用しています。
 レコードのメジャー発売と同時に、フォーク・クルセダーズのメジャーデビューの話も東芝からなされました。その年の秋に解散したばかりで、レコードも解散記念でつくったのに、皮肉なことです。

(きたやまおさむ『コブのない駱駝』岩波書店)

北山修はメジャーデビューするのも面白そうだと思い、最終的に残っていた3人のメンバーの1人、平沼義男に声をかけてみました。ところが、平沼は家業を継がなければいけないし、あまり多くの人に注目されるのも嫌なので戻る気はない、という反応です。もちろん加藤和彦にも話を持ちかけましたが、コックを目指していてどこかの企業の食堂に就職することが内定していたらしく、プロへの誘いについては乗り気ではありませんでした。しかし何度か説得を試みた北山修から、「1年限りでどうだ」と言われて賛同したそうです。そのときに加藤は親しくしていた音楽仲間、はしだのりひこをメンバーに強く推薦しました。そして新たなザ・フォーク・クルセダーズが結成されて、メジャーデビューしてトリオで活動することになったのです。

1967年12月25日、東芝レコードから発売されたシングル盤の「帰って来たヨッパライ」には、特約店から続々と注文が入って、初日から予想をはるかに上回るヒットになりました。1週間だけで80万枚が売れたのは、日本のレコード史上でも前代未聞のことです。最終的に売り上げは280万枚にまで達して、アングラ・フォークと名付けられて社会現象を起こすまでになっていきます。

「帰って来たヨッパライ」は北山修と加藤和彦が徹底的に音楽活動を楽しみ、思い切り遊んだ結果として、面白い作品になったことで大ヒットしました。またアルバム『ハレンチ』は売れることを目的に作ったレコードではないにもかかわらず、たくさんの人の心をつかむ「イムジン河」などの作品によって、アマチュアでもプロに伍して成功することが可能であることを実証したと言えます。そうしたことは日本中の若者たちの、音楽への関心を高めることに大いに役立ちました。

当時の少年が大人になってから出した、こんなコメントがあります。これは中学生でザ・フォーク・クルセダーズのファンになり、大学を出てレコード会社の社員になった後に独立し、音楽事務所オフィスオーガスタを興したミュージックマン、森川(よし)(のぶ)の発言です。

 フォークルって、出てきた時に、あんまり芸能界の匂いがしなかった。人まねをしない、物まねをしないオリジナリティみたいなものを、なんとなく感じてた。それって、なんかビートルズみたいな感じ。坂崎さんがよく言うじゃないですか。「フォークルってビートルズみたい」だって。そんな感じを受けました。

(田家秀樹『永遠のフォーク・クルセダーズ 若い加藤和彦のように』ヤマハミュージックメディア)

レコード会社に勤務するようになった森川は、70年代の不遇だったRCサクセションに出会い、やがて担当者となって80年代の初頭から彼らがブレイクしたとき、現場で貢献したことで知られています。また連野城太郎のペンネームで、忌野清志郎の伝記『GOTTA!忌野清志郎』(角川文庫)も書いています。

森川は同世代の忌野清志郎がフォークルから受けた影響の大きさについて、このように述べています。

レコード会社に入って忌野清志郎をやり始める時に、彼とフォークルの話になったんです。清志郎も言ってましたよ、「フォークルが出てきてすごいビックリした」って。あいつの昔のノートかなんかを見てたら、フォークルと自分のバンドの比較みたいなのを、絵で描いてありましたもん。あいつがまだデビュー前ですよ。そこには、「フォークルはこうだけど、僕らはこうだ」、「僕らの方がハードだ(原文ママ)みたい」なことを書いてありましたよ。やっぱり清志郎たちもそうだったんだと思った。
 だから僕思うんだけど、フォークルが出て来なかったら、RCサクセションとか違ったスタイルになってたかもしれない。

(同前)

その頃に音楽が好きだった少年たちはベンチャーズや、ビートルズ、ローリング・ストーンズといった海外のバンドに憧れていました。だから忌野清志郎も本当は、彼らが使っているエレキ・ギターが欲しかったのです。しかし普通の家庭に育った中学生にとって、当時はギターでさえも高嶺の花、ましてエレキ・ギターはアンプも買わなければ音が出ません。忌野清志郎は最初のギターを、ベニヤ板を買ってきて自分の手で作ったときのことを、著書でこのように語っています。

 まともなギターは高嶺の花で、庶民のガキにはとても手の届くシロモノじゃなかった。だから最初は、自分で作るしかなかったんだよ。ノコギリでベニヤを切って、それに針金を張ってね、弦やフレットの数もわからなかったから、もちろんカッコだけ。音なんか鳴るわけがないけど、ギターの形さえしていればそれだけで嬉しかった。それぐらいギターが欲しかったんだ。

(忌野清志郎『ロックで独立する方法』太田出版)

その当時、音楽活動をする大学生たちには、優等生的な、どちらかと言えば良家の子女タイプが多く、アメリカのフォークソングをカヴァーして歌っていました。しかしフォークルは、世界の民謡や日本の民謡もレパートリーに入れて歌っていたのです。型にはまらない彼らのことを、森川は「生ギターだけど、すごくビートが他とは違うような気もした」と述べています。

曲もアメリカのトラディショナル・フォークとかのコピーじゃなくて、日本の曲をやること自体ですでにオリジナリティがあったから、それもあってあの時にエレキを欲しかった少年も、「いやフォークでもロックっぽいことができるんだ!!」と思ってフォークギターを買ったんだと思う。
 清志郎たちもそれでいいんだと思って、エレキとかじゃなくてフォークギターを手に入れたんじゃないですかね。それでも、やる音楽はPP&Mスタイルじゃなくて、自分らのオリジナルで、激しいものを作ろうと思いだしたんじゃないかな。だから僕もフォークルがいなかったら、日本の音楽、日本語でやる音楽に移行したり目覚めてなかったかもしれない。フォークルが出てきたんで、「オレたちもオリジナルを作ろう」って触発されたんじゃないですかね。

(田家秀樹『永遠のフォーク・クルセダーズ 若い加藤和彦のように』ヤマハミュージックメディア)

こうしてたどってみると、確かに「フォークルって、ビートルズみたい」だったということが、リアリティーを持って伝わってきます。

プロになったフォークルが巻き込まれた事件

ザ・フォーク・クルセダーズのプロとしての活動期間は1年にも満たないものでしたが、彼らは自分たちのやり方を通しつつ、全力で駆け抜けて日本の音楽シーンにイノベーションを起こしていきます。その発端は「帰って来たヨッパライ」の次に出す予定だったセカンド・シングル「イムジン河」が、発売日の2日前に朝鮮総連から抗議を受けたことでした。そのことによって「イムジン河」はレコード会社の判断で発売中止になり、放送禁止にされてしまうのです。

1967年の暮れから「帰って来たヨッパライ」が大ヒットした直後に、フォークルの第2弾シングルとして、アルバム『ハレンチ』のなかから「イムジン河」が選ばれています。担当ディレクターになった高嶋弘之はこの歌を高く評価し、“変な歌”だと思って半信半疑だった「帰って来たヨッパライ」がヒットしなくても、「イムジン河」はヒットすると確信し、フォークルの条件をのんで契約したそうです。

ちなみに高嶋は日本で最初に出したシングル盤「プリーズ・プリーズ・ミー」と「抱きしめたい」のときから、孤軍奮闘してビートルズをマスコミに売り込んだディレクターとして、レコード業界では有名な人物でした。

■ザ・フォーク・クルセダーズ「イムジン河」

南北に分断された朝鮮半島に住む人たちの祖国統一への思いと、自由を希求する気持ちが込められた「イムジン河」は、京都の朝鮮学校で歌われていた「臨津江(リムジンガン)」が元歌です。松山猛がその物哀しいメロディーに出会ったのは、中学生の時でした。意味もないいがみ合いやけんか騒ぎが日常茶飯事だった朝鮮学校と自分たちの学校との関係を、少しでも良くできないものかと考えた松山が、サッカーの対抗試合を行うことを思いついて、朝鮮中高級学校に試合を申し込みに行ったときのことです。どこかの教室から合唱歌が聞こえてきて、松山はその歌声に魂を奪われる体験をしたと言います。

松山はその後、親しくなった朝鮮中学の友人にその歌のことを訊ねて、「イムジン河」だと教えられました。そして彼のお姉さんから、朝鮮語の歌詞と日本語訳を教えてもらったのです。


イムジン河 水清く とうとうと流る
水鳥自由に 群がり飛び交うよ
我が祖国 南の地 想いははるか
イムジン河 水清く とうとうと流る


それから2年ほどの月日が流れて、松山は一緒に歌を作るようになっていた友人の加藤和彦に、それを歌ってくれないかという相談をしています。そのとき1番だけでは短いので、「南北がいつかひとつになれば」という思いを込めて、松山が2番と3番の歌詞を書き加えました。加藤は記憶をたどって歌う松山のメロディーを採譜し、コードをつけてハーモニーを加えて完成させていきます。


北の大地から 南の空へ
飛び行く鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を 二つに分けてしまったの
誰が祖国を 分けてしまったの
 
イムジン河 空遠く 虹よかかっておくれ
河よ想いを 伝えておくれ
ふるさとを いつまでも 忘れはしない
イムジン河 水清く とうとうと流る


フォークルのメンバーたちとも話し合って、みんなで人間の自由や平等を訴えよう、根強く残っている差別意識を変えるために、歌で思いを伝えようと意見がまとまりました。初めて「イムジン河」がコンサートで歌われた時、会場はしばし静寂に包まれ、そのあとに嵐のような拍手が巻き起こったと言い伝えられています。

「イムジン河」は2月21日に発売されることになり、先行プロモーションとして2月からラジオで流れ始めました。リスナーの反響が非常に良かったので、レコード店からは多くの注文が入り、東芝レコードは全国に商品を出荷していました。ところが発売前日になって、東芝レコードに在日本朝鮮人総連合会から抗議文が届いたのです。そして、以下の4点を実行せよとの要求が突きつけられました。


(一)「イムジン河」が朝鮮民主主義人民共和国の歌曲「臨津江(リムジンガン)」であり、作詞・作曲者はともに存在しているにもかかわらず作者不明とされた上に、第二・第三節の詩の内容を勝手に変更した点について事実を認めた上で謝罪すること

(二)朝日・毎日・読売の各紙とニッポン放送の番組を通じて謝罪を公表すること

(三)日本語の歌詞をオリジナルに忠実に改訳すること

(四)原曲の作詞・作曲者名を明示すること


朝鮮戦争によって38度線の国境で分断された後に、北の国に歌い継がれていた詠み人知らずの民謡だと思い込んでいた歌には、れっきとした作者が現存しているという主張に誰もが驚きました。しかし国交が断絶していて一切の情報が得られなかったために、そうした事実を知るすべはなかったのです。不可抗力とはいえ、思わぬ事実を突きつけられて、関係者は対応に追われることになりました。しかし要求に応じて発売日までに改訳し、再レコーディングすることは不可能です。

東芝レコードは発売を中止せざるを得ないと判断し、レコードはすべて回収されて廃棄処分になりました。それ以来、ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」は、民放連の自主規制で放送禁止の扱いを受け、メディアから完全に封印されてしまいます。1970年の安保条約改定を控えて、ベトナム反戦運動や学生運動が盛り上がりを見せていた状況下では、多くの放送局が政治問題に関わる楽曲の放送を自粛する動きが広まっていました。そのために東芝が発売自粛した「イムジン河」は、あたかも放送禁止歌であるかのような扱いになったのです。

代替えの歌として誕生した「悲しくてやりきれない」

加藤和彦は「イムジン河」の原盤を制作したパシフィック音楽出版の親会社、ニッポン放送の重役だった石田達郎から急に呼び出されて、重役室で「イムジン河」が発売できなくなったことを告げられました。その後に石田からは、「加藤、次出さなきゃなんないから曲作れ」と言われたと述べています。

あまりに唐突な申し入れだったので、「ギターがないと作れない」と答えると、重役室にはギターがしっかり用意されていました。観念した加藤は重役室でひとり、曲作りを始めます。

僕の部屋使っていいから、って会長室に入れられて、3時間あげるからって鍵閉められて(笑)。といってもひらめかないから、「イムジン河」のメロディを拾って譜面に書いてて、これ、音符逆からたどるとどうなるかなって遊んでたの。そこからインスパイアされてできた。実際には、「イムジン河」の逆のメロディでもなんでもないんだけど。

(文藝別冊『追悼 加藤和彦 あの素晴しい音をもう一度』河出書房新社)

フリーの映画プロデューサーを経て、1954年にニッポン放送に入社した石田は常務取締役から専務取締役、代表取締役社長などを歴任した後に、フジテレビの社長に就任した立志伝中の人物です。ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」の発売が決まった時、「この曲はオールナイトニッポンだけでかけろ」と指示を出して、全面的にプッシュした陰の仕掛け人が石田でした。後に阿久悠ともつながりが深くなる石田は、TBSの『パック・イン・ミュージック』や文化放送の『セイ・ヤング』に遅れをとっていた1967年の秋、『オールナイトニッポン』を始めるにあたって経営陣として采配を振るっています。

ニッポン放送の深夜枠はその頃、「株式会社深夜放送」に制作・営業を委託していました。この会社は資本はニッポン放送が出資していましたが、営業・制作は独立していて、34名程の社員がいる月商700万円規模の会社だったそうです。他局に負けないように深夜の時間帯の番組を若者向けの内容に変えて、ニッポン放送の制作にすることになると、この深夜放送のための社員の処遇が問題になります。

『オールナイトニッポン』を開始するように指示されたニッポン放送の元社長・()()()(しげ)(あき)が、当時の経緯を語っています。

 深夜をニッポン放送の制作にすると、この会社の社員の問題が発生する。
「深夜放送の社員はどうすればいいんですか」と、私が聞くと、
「そんなことは俺がやってやる」と即答。
 石田サンはニッポン放送の常務・編成局長だったが、当時発展期にあったポニーの専務でもあった。そのポニーに深夜放送の社員の半分を引き取り、後はニッポン放送に移籍させた。見事な裁き方であった。これなくしては「オールナイト・ニッポン」は出発できなかった。昭和42年のことである。
 10月にスタートした「オールナイト・ニッポン」は、営業局にセールスを半年待って貰った。評価が定まるまで一括セールスしてほしくなかった。揉めたことは言うまでもない。そこでまた石田サンである。半分の300万円をポニーがスポンサーになってくれたのである。破竹の勢いのミュージックテープの時代であった。「オールナイト・ニッポン」設立には、石田サンなくしては成り立たなかったのである。

PonyCanyonグループ OBの会 PC会ブログ「オールナイトニッポンと石田サン」

きっかり3時間後に部屋に戻った石田は、加藤が書き上げたメロディーの譜面とカセットテープを受け取ると、そのまま詩人のサトウハチローのもとへ加藤を連れて行きます。

戦前の「ちいさい秋みつけた」や「うれしいひなまつり」といった童謡、あるいは終戦後の日本に響き渡った「リンゴの唄」の作詞家としても知られるサトウハチローは、誰もが知る詩壇の大家でしたが当時は64歳、ソングライターとしての現役感は薄く、意外に思える選択でした。

加藤はメンバーの北山修が歌詞を書くものだと思っていたらしく、驚いたものの石田に連れて行かれたというのです。

 全然詞のことなんか聞いてないわけよね。きたやまが書くとか、そういうふうに思ってたから。いきなりサトウハチローでしょ。「これから行くから」。いきなり連れて行かれて、それは僕だけ。

(加藤和彦/前田(よし)(たけ)著 牧村憲一監修『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』スペースシャワーブックス)

加藤は石田の真意がわからなくて、どう反応していいのか戸惑ったとも述べています。サトウハチローもまた加藤が何者かを知らないまま、特に曲を聴くでもなければ歌詞についての打ち合わせもなく、お互いに簡単な挨拶を済ませると、石田が手短かに何かを話しただけですぐに帰ってきました。

そうやってすべては石田のペースで運び、それから1週間後、サトウハチローの歌詞が出来上がってきます。


「悲しくてやりきれない」
作詞 サトウハチロー、作・編曲 加藤和彦
 
胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ 涙をながす
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせない モヤモヤを
だれかに 告げようか
 
白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ わびしくゆれる
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
この限りない むなしさの
救いはないだろうか
 
深い森の みどりにだかれ
今日も風の唄に しみじみ嘆く
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このもえたぎる 苦しさは
明日も続くのか


加藤は歌詞を受け取って試しに歌ってみたとき、最初から詞があったかのように一字一句、メロディーにぴたりとはまったので大いに驚かされたと述べています。

「もやもや」とかなんとか、「なに、この詞」と思ったんだけど、歌ったらすごい合ってるのよね。それでやっぱりすごいなあと思って、アレンジとかしてレコーディングしたんだけどね、やっぱりすごいよね。

(同前)

「イムジン河」が発売中止になってからわずか1カ月で、「悲しくてやりきれない」は1968年3月21日に発売されます。そして息の長いヒット曲になり、やがて日本を代表するスタンダード・ソングとして成長していきました。さらには21世紀に入ってから、大ヒットしたアニメーション映画『この世界の片隅に』の主題歌に使われたことで、世代を超えた名曲として認められています。

そんな「悲しくてやりきれない」が誕生した陰には、戦前から活躍してきた正統派のベテラン歌謡詩人と、才能ある若者を組み合わせるという高崎の卓越したアイデアと、それをただちに実行に移したプロデューサー石田の行動力があったのです。

なおこれは単なる偶然なのでしょうが、レコードの発売日は加藤の21歳の誕生日でした。

戦前に作られた数少ない「ない・ソング」の傑作

サトウハチローは1903(明治36)年5月23日、東京府東京市牛込区市谷薬王寺前町(現在の東京都新宿区市谷薬王寺町)に生まれました。中学に入学後、父が舞台女優の三笠万里子と同棲するようになり離婚、父への反発から中学を落第して不良少年となり、退校、勘当、留置場入りを重ねていきます。やがて感化院のあった小笠原諸島の父島で、父の弟子であった詩人の福士幸次郎と生活を共にして影響を受け、詩人をめざすようになりました。そして1919(大正8)年、福士の紹介によって日本を代表する詩人であり、作詞家としても第一人者だった西條八十に弟子入りし、童謡を作り始めて数々の雑誌や読売新聞などに掲載されて人気が出ます。1926(大正15)年には処女詩集『爪色の雨』を出版、1930年代からは童謡や詩だけにとどまらず、小説や映画の主題歌なども盛んに執筆して、当時のヒットメーカーになっていきました。1938(昭和13)年には日本コロムビアと専属契約を交わしていますが、なぜか専属作家制度にさほど強くは束縛されず、多くのペンネームを使って各社に歌詞を書いています。

日本が戦争の時代に突入した1935(昭和10)年、サトウハチローは中国で始まっていた戦争を背景にして、「もずが枯木で」を発表します。その歌詞は反戦とまではいかずとも、厭戦の含みを感じさせる作品でした。そしてこれは戦前と戦中を通して、ほとんど唯一と言っていい「ない・ソング」でもあったのです。「ない」の話し言葉である「ねえ」が、2番のなかで3度も使われて強い印象を残しています。


「もずが枯木で」
作詞 サトウハチロー、作曲 徳富繁
 
もずが枯木で 鳴いている
おいらは藁を たたいてる
綿ひき車は お婆さん
コットン水車も まわってる
 
みんな去年と 同じだよ
けれども足んねえ ものがある
(あん)さの薪割る 音がねえ
バッサリ薪割る 音がねえ
 
兄さは満州へ 行っただよ
鉄砲が涙で 光っただ
もずよ寒いと 鳴くがよい
兄さはもっと 寒いだろ


着実に迫っていた戦争への不安を、当時の庶民の話し言葉を使って描いた発想は、子供の頃から高圧的な父親への反発が強かった少年らしいと言えます。そして哀切な歌から伝わってくるのは、時代を見つめることで生まれる思いでした。

詩をみていくと、「もずが枯木で 鳴いている」と冒頭にまず「ない」が提示されています。そこから時代の移り変わりのなかで、足りないものやなくなったものが歌われていきます。「ある」ものと「ない」ものの対比のなかで、身近になってきた戦争が静かに浮かび上がってくるという、サトウハチローの仕事は見事というしかないものです。その音韻の使い方の巧みさにも、目をみはらされます。

サトウハチローは戦後になってからも、戦時中に書いていた「リンゴの唄」が大ヒットし、平和の到来を象徴する歌として愛唱されました。また原爆への怒りと平和への祈りを込めた「長崎の鐘」という大ヒットも生み出しています。しかし次第に商業主義の流行歌づくりからは遠ざかり、子供に向けた純朴な童謡や物語だけを書くようになったのです。

そんな大家と、アングラ・フォークで登場した若者の組み合わせから、「悲しくてやりきれない」は誕生しました。そして加藤和彦の卓越したソングライティング能力は、この1曲によって証明されることになったと言えるでしょう。全編に通底する「もやもや」とした感覚には、生きることのやるせなさが含まれています。それをわかりやすい口語体で表現したサトウハチローの歌詞は、加藤が書いた美しいメロディーとともに、時代を超えて歌い継がれていくことになりました。

さらには京都の大学生だったフォークルがメジャーデビューして成功し、自分たちのやり方を貫きながら活動したことは、日本初のインディーズ・レーベルとして発足するアングラ・レコード・クラブ=URC誕生にも影響を与えています。URCができたことによって、岡林信康、高田渡、五つの赤い風船、はっぴいえんど、遠藤賢司、加川良、ザ・ディランⅡ、高石友也などのアーティストは、自分たちが思うようなアルバムを制作して発売する表現の場を得られたのです。そして、それらのフォークやロックのアルバムが、日本の音楽史に大きな足跡を残しました。そのことについて北山修はこう分析しています。

 アマチュアの、いわば持たざる者たちが、エスタブリッシュメントを認めさせたわけです。
 この瞬間、私は音楽によって、一種の革命が成功したのだと思っています。たとえ一瞬であったとしても、あの時、確かに革命的なことが起きたのです。

(きたやまおさむ『コブのない駱駝』岩波書店)

1969年にURCから発売された岡林信康のファースト・アルバム『わたしを断罪せよ』がヒットしたことによって、後に続く者たちに新しい道が開かれました。しかし1970年代にかけて「フォークの神様」なるレッテルを貼られると、それが独り歩きして、岡林はマスコミだけでなく聴衆からもカリスマ的な存在に祭り上げられます。そのことで、純粋な表現への渇望と周囲の期待との間で、彼は苦しみ悩むことになっていきます。

なおそのアルバム『わたしを断罪せよ』のなかで、岡林は「もずが枯木で」をア・カペラで歌っています。それは地味ながらも声高ではないメッセージ・ソングとして、若者たちの間では深く静かに支持されていたのです。

次号掲載:10月20日(金)

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