街も人の関係も、そして歌も、それはいつも何もないところから始まる。何もないからこそ自由に創り上げていけるのだ。作詞家・阿久悠もそうだった。「ない」から始め、昭和の歌謡界に金字塔を打ち立てた。阿久に続いたソングライターたちもそう。何もないことの不安より、創作する喜びや使命感によって彼らは駆けた。時代の創造者たちの物語や足跡は教えてくれる。前を向き明日を見据えた者にしか、新しいものは生み出せないということを。そこに目を向け、耳を傾けたとき、未来への風はきっと吹く。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第7回 2017年8月4日掲載
第一部 歌謡曲の黄金時代を予告していた「ない・ソング」の登場

第七章 時代の動きをつかもうとする強い意志と閃き

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ベトナム戦争の長期化と米国における反戦運動の激化、呼応するかのように激しさを増す国内の学園紛争。そんな時代のなかで、阿久悠は反逆の思いを託して、ザ・モップスに「朝まで待てない」とその連作といえる作品を提供した。そのときには商業的な成功は得られなかったものの、時代の空気に突き動かされた阿久悠の焦燥や切迫が、一連の歌詞には込められていた――。
プロデューサー業にも進出する村井邦彦

阿久悠とは対照的にスムーズに開かれたドアから、新しい世界でのびのびと活躍し始めるのが村井邦彦です。

1968年から作曲の仕事が急増してヒット曲が次々に生まれたことで、村井を取りまく状況は激変、経営していた小さなレコード店を閉じて、作曲活動に専念することにしました。そしてモップスの「おまえのすべてを」と同じ日に発売されたザ・テンプターズ「エメラルドの伝説」(作詞 なかにし礼)で、オリコン1位の大ヒットを放ったのです。

「エメラルドの伝説」
作詞 なかにし礼、作曲 村井邦彦、編曲 川口真
 
湖に 君は身をなげた
花のしずくが 落ちるように
湖は 色を変えたのさ
君の瞳の エメラルド
遠い日の 君の幻を
追いかけても むなしい
会いたい 君に会いたい
緑の瞳に 僕は魅せられた
湖に 僕はひざまずき
緑の水に 口づける
 
会いたい 君に会いたい
緑の瞳に 口づけを

テンプターズはスパイダースのリーダーだった田辺昭知が、タイガースに対抗するグループとして、1967年に「忘れ得ぬ君」でデビューさせたバンドです。1968年3月に発売した第2弾シングル「神様おねがい」のヒットによって、彼らは先行していたタイガースのライバル的なポジションを得ると、熱狂的なグループ・サウンズのブームの先頭に並びます。そのとき、圧倒的な人気を誇るタイガースの沢田研二(ジュリー)に対抗しうる、アイドル的なスターになったのがヴォーカルの萩原健一(ショーケン)でした。

ショーケンの爆発的な人気は主にテレビと芸能雑誌によって、日本中の中高生たちの間に急速に広まり、テンプターズには女の子たちばかりでなく、男性ファンもつき始めます。似合わない美少年アイドル的なコスチュームを身にまとっていても、ひとたび演奏と歌が始まるとショーケンからは、なんとも言えない不良性と危険な匂いが漂ってきました。

横浜で活躍していた実力派のバンド、ザ・ゴールデン・カップスは6月になって東芝レコードからデビューを果たしています。英語でしか歌ってこなかった彼らのデビュー曲「いとしのジザベル」は、なかにし礼が作詞し、作曲と編曲を鈴木邦彦が担当して成功を収めていきます。

1966年にデビューしたものの軌道に乗らなかったホリプロダクションのヴィレッジ・シンガーズも、この年の8月に発売した「バラ色の雲」(作詞 橋本淳、作曲 筒美京平)が大ヒットしました。そして翌年2月リリースの「亜麻色の髪の乙女」(作詞 橋本淳、作曲 すぎやまこういち)もヒットします。

こうしてレコード会社やプロダクションによって新鮮な人材が発掘されて、その中から作詞家では橋本淳、安井かずみ、なかにし礼、山上路夫、作曲家ではすぎやまこういち、鈴木邦彦、筒美京平、村井邦彦、三木たかしなどの才能が登場してきました。若くて才能あるソングライターが本領を発揮したからこそ、グループ・サウンズが一大ブームになったとも言えるでしょう。

阿久悠はここで流れに乗れないまま停滞していたのですが、村井邦彦はグループ・サウンズから歌謡曲へと、ますます活動の幅を広げていきました。

    村井邦彦の初期のヒット作

  • 1967年
    • 「朝まで待てない」ザ・モップス(作詞 阿久悠)
    • 「待ちくたびれた日曜日」ヴィッキー(作詞 小園江圭子)
  • 1968年
    • 「エメラルドの伝説」ザ・テンプターズ(作詞 なかにし礼)
    • 「廃墟の鳩」ザ・タイガース(作詞 山上路夫)
    • 「純愛」ザ・テンプターズ(作詞 なかにし礼)
  • 1969年
    • 「白いサンゴ礁」ズー・ニー・ヴー(作詞 阿久悠)
    • 「或る日突然」トワ・エ・モワ(作詞 山上路夫)
    • 「夜と朝のあいだに」ピーター(作詞 なかにし礼)
  • 1970年
    • 「経験」辺見マリ(作詞 安井かずみ)
    • 「ざんげの値打ちもない」北原ミレイ(作詞 阿久悠)
  • 1971年
    • 「翼をください」赤い鳥(作詞 山上路夫)
    • 「忘れていた朝」赤い鳥(作詞 山上路夫)
    • 「虹と雪のバラード」トワ・エ・モワ(作詞 (かわ)(むら)文一郎)

1970年に村井は自分の音楽出版社として、アルファミュージックを設立しています。彼はそこで作詞家の山上路夫をパートナーに迎え入れ、作曲家と並行してプロデュースの仕事に取り組み始めます。さらには中学2年生のときからモップスのライブに通っていた熱心なファン、高校生の荒井由実に注目して才能を育てていきます。

そして1972年にはシングル「返事はいらない」で、シンガー・ソングライターとして世に送り出していたのです。そのときのレコーディングのプロデューサーが、スパイダース解散直後のかまやつひろしだったことと、「ない・ソング」であったことについては、あらためて後ほど分析する予定です。

なお村井はその後もYMOを世界レベルで成功させるなど、日本の音楽シーンの改革者として確かな足跡を残していくことになります。

モップスに託していた「自由な表現」

モップスのセカンド・シングルでA面に選ばれた「ベラよ急げ」は、阿久悠がスパイダースのメンバーでキーボードの大野克夫と組んで作った楽曲です。二人は、2年前に担当した番組『世界へ飛び出せ! ニューエレキサウンド』のときに、放送作家とレギュラー出演者として、毎週のようにテレビ局のスタジオで顔を合わせていた間柄でした。そして数年の後には、沢田研二の代表曲となる「時の過ぎゆくままに」を筆頭に、五木ひろしと木の実ナナの「居酒屋」にいたるまで、たくさんのヒット曲を出す名コンビになります。しかしながら当時はまだその才能について、お互いによくわからない状態にあったようです。

(大野克夫とは)顔で挨拶を交わすくらいで、それほど親しくもなかった。それというのも、おたがいが無口ということもあるが、ぼくがまだ放送作家からなるべく早く小説家へと考えていた時代で、作詞に対してそれほどの意欲を感じていなかったからである。
 作詞は声がかかれば懸命に取り組むが、声がかからなければそれまでという思いで、だから、目の前に大野克夫や井上堯之やかまやつひろしという才能がいるのに、積極的に話をしなかった。

(阿久悠『なぜか売れなかったが愛しい歌』河出書房新社)

「ベラよ急げ」
作詞 阿久悠、作曲 大野克夫
 
ベラよ急げよ
お前の後を
つらい運命が
追いかけて行く
僕を呼ぶ声
胸できいたら
後ろ見ない
駈けておいでよ
早く 早く
ためらうことないんだよ
強く 強く
俺の両手にすがるのさ
ベラよ急げよ
夕陽が落ちる
夜の来間に
駈けておいでよ

これは切迫感が前面に打ち出されて、いかにもGSらしい内容の作品ですが、まったくヒットしませんでした。阿久悠はそれが納得できなかったらしく、『なぜか売れなかったが愛しい歌』という単行本のなかで、こう述べています。

 なぜかぼくはその時代、特に、モップスの詞なども特徴的な方だが、動詞とか名詞形をタイトルにしたものが多い。「待てない」「急げ」に続いての作品も、「朝日よさらば」「熱くなれない」と、徹底して名詞を拒んでいるのである。それは脱サラ三十歳の放送作家、作詞家の心かもしれないし、昭和四十三年という時代が、そういう切迫したものを感じさせたのかもしれない。

(同前)

「ベラよ急げ」が発売になった1968年3月5日、南ベトナム北部で取材中だったUPI通信社の峯弘道カメラマンが、地雷で重傷を負って米海兵隊病院に運ばれ、死亡したことがニュースになりました。日本に住んでいてもベトナム戦争の影が色濃く感じられた時代で、政治や社会に向けた若者たちのパワーは、大学から高校にまで飛び火していきます。それと同時に無気力、無感動に過ごす者も多くフーテンやハレンチ、アングラが日常語になっていたのも特徴です。

東ヨーロッパの共産圏の国々でも、チェコスロバキアなどでは民主化を求める人たちの推す声で、ドプチェクが共産党第一書記に選ばれます。そして検閲が廃止されるなど、学生たちによる自由化への波が見え始めていました。そうした時代の動きを見ていた阿久悠は、自身の中にある焦燥感や切迫感を伝える歌詞を、モップスのために書かずにはいられなかったのでしょう。

セカンド・シングルから1カ月後の1968年4月5日、モップスのファースト・アルバム『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』が発売になります。そこでは阿久悠がライナーノートに解説文を寄稿していました。それを読むと、モップスの5人のルックスや佇まいに時代の気分を感じて、自由な表現の意思を共有しようとしているのがわかります。

 巨大な社会機構の中で、人間の一人一人は歯車でしかなくなって来た。
 歯車が歯車で満足していればそれもいい。だが歯車だって笑いたい。泣きたい。怒りたい。考えたい。
 若い歯車は歯車であることを拒否した。
 人間になりたい。
 ヒッピーが生まれた。

 芸術活動に、サイケデリックと云う言葉が登場した。
 絵画に於いて色彩に、音楽に於いて音に、幻想に於いて生まれたイマジネーションが表現された。歯車を拒否したヒッピーたちが、はじめて手にした自由が、サイケのイマジネーションだったのかもしれない。
 ビートルズが、ローリング・ストーンズが、アニマルズが、共鳴し、サイケデリック・サウンドに取り組んだ。
 そして、日本では、ザ・モップスが初めてサイケデリック・グループとして登場したのだ。

 制服の全盛時代だった。ミリタリー・ルックと云うやつだ。その時、ザ・モップスは制服を否定し、一人一人が思い思いのコスチュームで現れた。

(阿久悠 ザ・モップス『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』ライナーノーツ)

そして文章のなかに若い芸術家やお年寄り、大学生を登場させることで、自分の気持ちを彼らの言葉として、さりげなく入れていきます。キーワードは「自由」です。

「いいじゃないか、自由な表現の意思が表れていて面白い!」
 若い芸術家が云った。
「汚いねぇ」
 お年寄りが少々眉をひそめた。
「少なくとも創作を感じる!」
 大学生が云った。
「みんなそろってた方が、かっこいいんじゃない」
 中学生の女の子が云った。
「号令で動きそうもないところがいい!」
 サラリーマンが云った。
 号令で動きそうもない感じとはうまい。成程インディアンがいたり、インドの行者がいたり、メキシコの風来坊がいたり、砂漠の思索者がいたりする。
 ザ・モップス、一人一人が考える青年なのだ。自由をつかみとろうとしている。

(同前)

ここで阿久悠が描くのは、自由をつかみとる個人が集まったモップスです。彼らの歌と演奏によって、文化の多様性を伝えたかったと考えられます。しかしモップスのアルバムは当時、さほどの評価を得られないまま忘れられていきました。

ベラとは、何者であったのだろうか

阿久悠はモップスに希望を見出して書いた解説文について、21世紀に入ってからですが、こんな謎めいた言葉を著書に残しています。

 モップスのファースト・アルバムの解説文も僕が書いたが、それは曲紹介ではなく、時代の気分の紹介のようなもので、「少女は涙を流し、半分眠っていた。半分の眠りの中に生きている世界があった。」という一節がある。
 それにしても、ベラとは、何者であったのだろうか。

(阿久悠『なぜか売れなかったが愛しい歌』河出書房新社)

ここでセカンドシングルの「ベラよ急げ」について、あえて読者に疑問を提示しているのです。ここからはあくまでぼくの推測になりますが、「ベラ」とは女性の名前であると考えられます。グループ・サウンズのヒット曲に出てくる女性の名前は、タイガースの「僕のマリー」、ゴールデン・カップスの「いとしのジザベル」、ワイルドワンズの「愛するアニタ」などが有名です。そこで想起されるのは、1964年の東京オリンピックで女子体操の個人で三つの金メダルに輝き、その実力と美貌から“東京五輪の名花”、“東京の恋人”とたたえられた、チェコスロバキアのベラ・チャスラフスカ選手の名前です。

彼女はそれから4年後の1968年になって、母国チェコスロバキアの民主化を求める変革運動「プラハの春」で、知識人や文化人とともに立ち上がりました。しかし東西冷戦時代の東側から圧迫で、次第に迫害されていきます。そしてメキシコ・オリンピックの開会を目前にした8月、ソ連は軍事介入を決定して20万人の軍隊を率いてチェコに侵攻し、武力で制圧したのです。

身の危険から姿を隠さねばならなかったベラは、出場が危ぶまれる状態になります。ベラが祖国の英雄の一人として、二千語宣言(チェコスロバキアの改革運動支持を表明する文書)に署名をしたことは西側でも広く知られていました。10月にメキシコ・オリンピックが開幕した時、日本女子体操チームにはベラが行方不明であり、チェコスロバキアチームの不参加の可能性があるという情報が伝えられました。

女子体操チームのリーダーだった荒川御幸は、旧知のベラとメキシコで感動の再会を果たした時のことを、このように語っています。

 痩せて、やつれて、暗い顔をしたベラだった。目の周りに黒いくまのようなものも浮いている。かつて見たことのない姿だった。
 ワルシャワ条約機構軍の侵攻があって以降、北モラビアの山奥の小屋に隠れ、村人の世話になっていたこと、体力が落ちないように、石炭運びをしたり、木の枝を使って体操の練習をしていたこと、迷惑がかからないように誰にも連絡を取らず、その小屋で三週間余り過ごしたこと──などを荒川が知ったのは後のことであった。再会した時、ベラはやつれてはいたが、尋常ならざる決意というものがにじみ出ていた。

(後藤正治『ベラ・チャスラフスカ 最も美しく』文春文庫)

国際的な世論の高まりもあって準備不足ながら無事に出場したベラは、観客の熱狂的応援にも後押しされて跳馬と段違い平行棒、床競技で見事に優勝を飾ります。そして最高栄誉にあたる個人総合でも、東京五輪に続いて連覇を果たして喝采を浴びました。チェコスロバキアのチームはこの時、ソ連への憤りを表すために喪服を思わせる黒いレオタードで参加しています。またソ連の選手が金メダルを授与される間、ベラが表彰式という場で顔をそむけて、はっきりと態度で抗議を示した姿は世界に衝撃を与えました。彼女はメキシコ・オリンピックの後も署名撤回を拒否し続けたので、反体制の危険人物と見なされます。そして、そこからずっと長い期間にわたって、政府の監視下に置かれ続けたのです。不遇な時期は29年もの長きにわたって続きました。そして1989年に共産党政権が崩壊した後、チェコ・オリンピック委員会会長などを務めて、同国のスポーツ発展に尽力しました。

ベラの現在を伝えるテレビ番組が、日本でオンエアされたのは2015年のことです。そこには抗いがたい東西冷戦という、巨大な時代の波に翻弄されて生きて、時には抗い、時には絶望の淵に立たされるなかで、幾多の苦難を乗り越えて信念を曲げることなく生きた、ひとりの女性の凛とした姿が克明に映し出されたのです。

阿久悠は数え切れないほどたくさんの歌詞で、自らの意思と判断で生きる女性を描いています。そうした観点からすると、ベラ・チャスラフスカという女性こそは、理想のひとりであったことがわかります。1968年に「ベラよ急げ」を書いた時点で、それほど先までの未来を見据えていたのかはともかくとして、阿久悠の歌は常に時代の動きをつかもうとする強い意志と、そこから生まれる閃きによって裏打ちされていたと思えるのです。

だからこそ、半世紀も前の歌の歌詞に込められた切迫感が、ベラの人生に起こったその後の出来事にまで、重なっていったのではないでしょうか。

ところで阿久悠が「ベラよ急げ」を書いたのと同じ1968年に、作詞家と放送作家の先輩に当たる永六輔が、ベラが日本を第二の故郷のように思っていたことについて、「チャスラフスカの舞」という文章を残しています。

 彼女は体操競技の鬼である。日本の男子選手の競技に注目した。プロポーションの悪い日本の男子がなぜ金メダルをとれるのか。彼女は男子選手に他の国の選手にはない「呼吸」と「間」を発見する。競技の最中の息の吸い方、吐き方、そして止め方を会得しようとする。それが彼女自身の金メダルにつながることを感じたのである。彼女は日本人の生活の中からそれをつかもうとする。彼女の体操競技にとって日本は故郷そのものなのである。

(永六輔『芸人たちの芸能史 河原乞食から人間国宝まで』番長書房)

永六輔によれば男子体操選手の呼吸の間は、日本の古典芸能の舞と同じだといいます。そしてベラは日本の男子体操選手の呼吸の間を会得することで、日本の芸の呼吸を身につけてしまったとも述べているのです。だから「舞が好きで、チャスラフスカが好きだった僕の勝手な想像だが」との注釈をつけながらも、こういう結論に達したといいます。

 瞬間にして息を吸い、または吐き、または止めてしまう。呼吸を感じさせないということが日本の芸の求める姿であり、チャスラフスカの求めた体操ではなかったのだろうか。

(同前)

実現していた「トーキョー・サウンド」

モップスは村井邦彦とのコンビに戻った第3弾シングル「熱くなれない」も不発で、ヒットにはほど遠い結果に終わったことから、ビクターとの契約を打ち切られてしまいます。モンキーズのカヴァー曲でヒットを狙おうとするレコード会社と、ほんもののロックをめざすバンドが衝突したことが原因ですが、それは当然のことといえるでしょう。

ホリプロダクションの若手社員で、東芝レコードへ移籍した後に原盤制作ディレクターとなった川瀬泰雄が、当時の事情をこう述べています。

 当時のホリプロにはグループ・サウンズといわれるバンドが沢山在籍していたが、僕の目からは唯一のロック・バンドがモップスだった。
 ジャズ喫茶などではジェファーソン・エアプレインの「あなただけを(Somebody To Love)」やアニマルズのカヴァー曲などをレパートリーにしていた。
 モップスがサイケデリック・バンドからスペンサー・デイヴィス・グループなどのイギリスのロックやブルースにバンドの志向が替わっていった頃、所属していたビクター・レコードからもっとわかりやすいモンキーズみたいな曲をレコーディングしろと言われ、ロックにこだわるヒロミツが断固拒否した。
 そのために契約を切られ、メインの仕事はジャズ喫茶の出演だけだった。

(大人のミュージック・カレンダー 2016年03月14日 執筆者 川瀬泰雄「本日、3月14日はモップス・鈴木ヒロミツの9回目の命日となる」)

東芝レコードに移籍することになったモップスは、そこからは自分たちのオリジナリティを追求する方向性を強めて、グループ・サウンズのブームが終わった1970年代になって、ようやくロック・バンドとして成功を収めます。そのきっかけが、阿久悠が勤めていた宣弘社のテレビ番組『月光仮面』の主題歌をパロディにした楽曲だったというのも、何か不思議なつながりを感じさせます。

なおモップスがデビューしてから10数年後、欧米で日本のグループ・サウンズが発見されたことがあります。そのときにモップスはガレージ・パンクとして、海外のマニアから高い評価を得たのですが、なかでも人気があったのは「朝まで待てない」のB面曲、阿久悠・村井邦彦コンビによる「ブラインド・バード」でした。

「ブラインド・バード」
作詞 阿久悠、作・編曲 村井邦彦
 
誰かが愛を 持ってゆく
誰かが愛を 踏みにじる
弱い小鳥は 恐ろしく
めくらになって 夢を見る
何にも見えない その中で
真赤なバラが 咲きほこる OH!
Please Kill me しあわせのうちに
Please Kill me しあわせのうちに OH! OH!
 
誰かが君を 連れてゆく
誰かが君を 傷つける
弱い小鳥は 悲しくて
めくらになって 君を見る
何にも見えない その中で
きれいな君を 抱いている OH!
Please Kill me しあわせのうちに
Please Kill me しあわせのうちに OH! OH!

この曲は日本ではまったくといっていいほど、知られていなかった幻の作品でした。というのも「めくら」という言葉が使われていたために、放送禁止になってラジオから流れなくなってしまったからです(注)。

いずれにせよ阿久悠がスパイダースと組んでロックの番組を作った時、「リヴァプール・サウンド」に対抗する夢を描いて打ち出したロマンが、「トーキョー・サウンド」というコンセプトでした。それがスパイダースではなく、モップスの「ブラインド・バード」で少しだけ実現していたことは、日本の音楽史に残しておきたい事実です。


(注)その後もCD化されない状態が長く続いていましたが、2014年に初めてCD化されています。

次号掲載:8月18日(金)※夏季休業のため、8月11日は休載します。

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