沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第22回 2017年12月1日掲載
第二部 「ざんげの値打ちもない」という夜明け

第二章 履歴書から生まれた歌

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無名の人たちに歌い継がれることによって命脈を保ってきた歌や、時の流れとともに忘れられていた歌に、新しい命が宿って急によみがえることがある。藤圭子がデビュー・アルバムでカヴァーした「夢は夜ひらく」は、民衆によって歌い継がれてきたという意味において、日本のフォークソングといえるものだった。その歌が「ざんげの値打ちもない」を誕生させることになったのは、1970年という時代の必然だったのかもしれない。
ヒット曲を作り出す感性を持った女性ディレクター

「夢は夜ひらく」の原曲は詠み人知らずといわれていましたが、今では、18歳だったこうめいが1951年に練馬の少年鑑別所で過ごしていた頃に作った歌だと認められています。鑑別所における曽根の生活は9カ月間ほどのものでしたが、そこでの生活はさまざまな意味で人生の大きな転機になるものになったそうです。

朝6時に起床し、7時に朝食、8時から作業が始まり、昼休みがあって、午後は国語や道徳の授業と、目一杯に組まれたスケジュールをこなさなければなりません。規則を破ったり反抗したりすると、成長期の若者にとっては恐ろしいペナルティーが待ち受けていました。たとえ理不尽であったとしても、教官の命令に口ごたえすれば独房で謹慎させられたり、一日の食事が麦飯1杯だけでおかず抜き、あるいは食事を与えられないことにもなるのです。

 おべっか使いたちが、点数稼ぎのために不満分子を目立たないように袋叩きにする事件もしばしば起きました。
 夜九時になると、眠くなくても電気を消されてしまいますが、人間、寝ろと言われて眠れるほど単純ではありません。真っ暗闇の中で目だけギョロギョロさせながら、さまざまな妄想が膨らんでいきます。
 まず闇の中に浮かんでくるのはシャバの光景、次は好物ばかりのごちそうの数々です。毎夜、そんな妄想にふけってばかりいました。
 こうして夜になるとひらかれる夢の数々。こんな気分を口をついて出た曲に乗せて歌ってみたら、これがなかなかの出来だったのです。

 いやな看守に にらまれて
 朝もよから ふきそうじ
 作業終わって 夜がくりゃ
 夢は夜ひらく

(曽根幸明『曽根幸明の昭和芸能放浪記 昭和の夢は夜ひらく』廣済堂出版)

昼休みにそれを歌って見せたら仲間たちにうけて、同房の仲間たちも面白がって各々で歌詞を追加し、みんなが勝手に歌っていきました。そして題名もない歌が、気がつけば何十番にもなっていったのです。

曽根は鑑別所を出た後に社会復帰し、紆余曲折を経てロカビリーブームの最中だった1959年、藤田功の芸名で歌手デビューします。しかし思うように売れなかったため、66年にテイチクレコードへ移籍し、芸名を藤原伸とあらためてカムバックを図りました。その時に思い出したのが、ネリカン時代に作った「夢は夜ひらく」です。

しかし、歌詞を書き換えた「ひとりぽっちの歌」で再デビューしたものの、レコードは全くと言ってもいいほど売れませんでした。


「ひとりぽっちの歌」
作詞・作曲 曽根幸明

お前のかァさん どこに居る
いいや おいらはひとりぽっち
冷たい雪の 降る夜に
淋しく死んでった

お前の父さん どこに居る
いいや おいらはひとりぽっち
おいらが生まれるその前に
ママを捨ててった

オヤジよ どこかで聞いてくれ
ママは死ぬ時 言っていた
パパを怨んじゃいけません
私が悪かった


ちょうどその頃、ポリドール・レコードの邦楽課ディレクターだった松村慶子(通称・おけいさん)のところへ、「ひとりぽっちの歌」とほぼ同じメロディーのテープを持って、レコード化できないかと売り込んできたのが後に藤圭子を売り出すことになる沢ノ井千江児、作詞家の石坂まさをでした。

おけいさんの元にはいつもフリーランスの若手作家たちが、自分の作品を携えて出入りしていました。なぜならば彼女は若手の無名作家でも、作品さえ良ければ積極的に起用してくれたからです。1965年にシャンソンの訳詞でおけいさんに見出されたなかにし礼は、それをきっかけにして自らの作詞作曲による作品「涙と雨にぬれて」を発表し、さらに菅原洋一が歌った「知りたくないの」がヒットし始めていました。

おけいさんが沢ノ井が持ち込んできた1本のテープに興味をそそられたのは、作品もさることながら、男性歌手の歌声が魅力的だったからです。しかしそのテープには「夢は夜ひらく」というタイトルが書いてあるだけで、歌い手の名前は記されていませんでした。

 小粋な歌詞とどこかで聞いたような馴染み深いメロディーを、これまた聞き覚えのある鼻にかかった甘い低音の歌手が歌っていた。
「いいね、使えるよ」
 おけいさんの言葉に沢ノ井氏は少し照れながら答えた。
「実は僕の作品じゃないんです。作ったのは、僕ら作詞作曲家仲間の中村泰士です」

(石原信一『おけいさん──菅原洋一からTMNまで 女性音楽プロデューサーの人間記』八耀社)

無名の作家だった中村泰士もまた以前から、おけいさんのもとに通っていた一人です。中村がまだ美川鯛二の名前でロカビリー歌手をやっていた時代に、沢ノ井がデビュー曲の「野良犬のブルース」を作詞した関係から、二人の付き合いは始まっていました。

その後、歌手では全く目が出なかったので、中村は本名に戻って作詞と作曲の道を志しました。しかし一向にチャンスが来なかったために、大阪の実家へ帰って歯科技工士を目指すことになりました。そんな中村が残していったデモ・テープを、沢ノ井がおけいさんに売り込んだというわけです。

そしておけいさんが気に入ったその声の持ち主は、1960年にビクターからデビューし、当時のリバイバル・ブームに乗って大正時代の流行歌「ゴンドラの唄」をヒットさせた歌手の佐川満男でした。

ロカビリー時代に佐川の前座で歌っていた関係で、中村は歌手を辞めた後も、親友として変わらぬ付き合いを続けていたそうです。その歌を吹き込んだ経緯について、佐川が次のように語っています。

 うちのマネージャーでちょっとワルいのがいて、「佐川さん、刑務所でこんなの流行ってますよ。書き直したらヒットするんと違いますか」と「夢は夜ひらく」の原曲を聞かせてくれたんです。
〈格子窓から空見れば あの星スケによく似てる スケちゃん今頃 何してる 夢は夜ひらく〉って。それで泰士に「この曲の詞を書けよ」って渡したんです。

(同前)

そこで中村が書いてきた歌詞は「〽夢で手錠の音を聞き──」と始まる、まるでやくざ映画の主題歌のようなものでした。

大ヒットした園まりの「夢は夜ひらく」

1965年4月に公開された高倉健主演による東映映画『網走番外地』は、アメリカ映画『手錠のままの脱獄』を換骨奪胎したアクション映画ですが、2本立ての添え物作品として製作されたにもかかわらず、予想外のヒットを記録してすぐにシリーズ化されました。同じ年に続編の『続・網走番外地』と『網走番外地・望郷篇』が公開されると、どちらも1作目を凌ぐ大ヒットになって、高倉健はここで一気にスターダムにのし上がったのです。

そして彼が訥々と歌ったテーマ・ソングの「網走番外地」は、テレビやラジオでは放送禁止になりましたが、それをものともせず、ロングセラーとなっていきました。もとはと言えば刑務所の受刑者たちの中で、歌心のある者が既存の歌謡曲のメロディーに乗せて、囚われの身を替え歌にして口伝で広まった楽曲です。そのため自然発生的に生まれた多くの歌詞が、盛り場を流す演歌師たちにも歌い継がれていきました。

映画ではさまざまな歌詞のヴァージョン違いが、公開されるにつれて歌われています。


「網走番外地」
作詞 タカオ・カンベ/作曲 不詳

春に春に追われし 花も散る
きすひけ酒ひけ 酒暮れて
どうせ 俺らの行く先は
その名も 網走番外地

キラリキラリ光った 流れ星
燃えるこの身は 北の果て
姓は誰々 名は誰々
その名も 網走番外地

遥か遥か彼方にゃ オホーツク
紅い真っ紅な ハマナスが
海を見てます 泣いてます
その名も 網走番外地


佐川はいわゆる「やくざ路線」の歌詞ではなく、「もっと色っぽいのを作ってくれ」と中村に書き直しを依頼しました。そして出来上がってきたのが、「〽 雨が降るから逢えないの 来ないあなたは憎い人」という、ロマンチックなラブソングです。それはまさに佐川のイメージどおりでした。

これはいい。もう俺は、絶対離さないと。勇んでビクターに持って行ったんです。ところが、ビクターじゃ相手にされなかった。僕のそれまでの態度が悪すぎたんです。アイドルなみに売れてた頃は生意気だったから。取材に来た新聞記者と平気で喧嘩しちゃうし。だから何を今さらと断られちゃったんでしょうね。
 で、どうしようかとくすぶってた時に、沢ノ井がきてその歌を聞いて感動したんです。だからおけいさんに売り込んでくれたのでしょう。

(同前)

おけいさんはビクターでくすぶっているならば、佐川をポリドールに移籍させて再デビューさせたいと考えました。しかし、曲がりなりにも佐川満男といえばビクターの看板スター、名前のある歌手を移籍させるのは容易なことではありません。移籍をあきらめたおけいさんは、「この歌は佐川さんが一番。しつこいほどビクターにこのテープを聞かせて、粘って、それでもダメなら私にちょうだい」と、沢ノ井に伝えたのです。

そこでビクターに売り込みに行ったものの、当時のビクターは専属作家以外の作品を取り上げることはほとんどありませんでした。そのために沢ノ井はもう一度、おけいさんのところに持って来ることになったのです。

おけいさんは自分が手がけていた園まりに歌わせることにし、大阪の中村泰士に連絡をとってポリドールでレコーディングする承諾を得ました。園まりは10歳で安西愛子に師事してキング児童合唱団へ入団し、1956年に本名の薗部毬子名義でキングレコードから童謡歌手としてデビューしました。その後はクラシックの歌手を目指していたのですが、60年11月にNET『あなたをスターに』で優勝し、渡辺プロダクションに所属して62年5月「鍛冶屋のルンバ」でレコード・デビューしています。そして7月から始まったフジテレビ『レッツゴー三人娘』で、中尾ミエ、伊東ゆかりと“スパーク3人娘”を結成し、日本テレビの人気バラエティ『シャボン玉ホリデー』などに出演していました。

当初は「太陽はひとりぼっち」「女王蜂」「花はどこへ行った」など、洋楽の日本語カヴァー曲を歌っていたのですがヒットに恵まれず、中尾ミエと伊東ゆかりに大きく水を開けられていました。担当ディレクターとして責任を感じていたおけいさんが、やや個性に欠ける園まりの歌声を活かすためにと、囁くような唱法にチャレンジさせることを企画したのはデビュー3年目のことです。そして作られた、囁きかけるような甘い大人のラブソング「何も云わないで」は、東京オリンピックが終わった1964年の秋から翌年にかけてヒットしました。

それまで可愛い清純派と思われていた園まりが、官能的ともいえる歌声で世間の注目を集めると、66年には同じ路線の「逢いたくて逢いたくて」が、ポリドール・レコードが始まって以来の大ヒットとなっています。おけいさんは「夢は夜ひらく」の歌詞が大人びていて、園まりに不釣り合いではないかという意見が出てくることは承知の上で、あえて「夢は夜ひらく」をぶつけてみたいと思ったのです。


「夢は夜ひらく」
作詞 中村泰士、富田清吾/作曲 曽根幸明/歌 園まり

雨が降るから 逢えないの
来ないあなたは 野暮な人
ぬれてみたいわ 二人なら
夢は夜ひらく

うぶなお前が 可愛いいと
云ったあなたは 憎い人
いっそ散りたい 夜の花
夢は夜ひらく

嘘と知りつつ 愛したの
あなたひとりが 命なの
だからひとりに させないで
夢は夜ひらく

嘘と誠の 恋ならば
誠の恋に 生きるのが
切ない女の こころなの
夢は夜ひらく

酔って酔わせた あの夜の
グラスに落ちた 水色の
忘れられない あの涙
夢は夜ひらく

恋して愛して 泣きました
そんな昔も ありました
思い出しては また涙
夢は夜ひらく


レコーディングに際しておけいさんがアレンジを依頼したのは、「逢いたくて逢いたくて」でヒットに貢献した若手編曲家の森岡健一郎です。そのときに、「楽器の編成は5人でいい。しょぼい音っていうくらいで、ちょうどいいの」という注文をつけています。うら寂しい街角に流れるような歌には、音数が少ないサウンドのほうが似合うと思ったからでした。

しかしレコーディング当日、森岡は少人数の編成でも十分に聴き応えのある、緻密なアレンジの譜面を持って来ました。それが流麗で見事なアレンジだったがゆえに、おけいさんの求めていたうら寂しさが足りなくて、現場でやり直すことになります。

「何か違うのね。もっと、しょぼくってかまわないから、歌謡曲だって感じのインパクトが欲しいの」
「しかしアレンジを変えるとなると、譜面も直さなきゃいけないし、時間がかかります」
 森岡氏はどこが気に入らないのか考えあぐねた。
「それは、駄目。スタジオの使用時間は限られているから、この場ですぐに録り直さないと。そうだ、この間奏を頭に持って来ちゃったら?」
 啞然とした表情で森岡氏はおけいさんを見つめた。
「そんな無茶な。音楽理論的にもおかしいですよ」
「私は理論なんて知らない。でも、間奏をどうしても頭に持ってきたいのよね。絶対にそうして」
 言い出したら後へは引きそうもないおけいさんに、森岡氏は渋々譜面を直し始めた。
 レコードは素人が買うものだ。だから、おけいさんは理論よりも素人としての自分の勘を優先させた。

(同前)

園まりのソフトな歌声によって生まれ変わった「夢は夜ひらく」は、1966年の秋に発売されるとすぐに大ヒットになり、またもやポリドールの売り上げ記録を塗り替えました。そのために音楽の道をあきらめかけていた中村泰士に、作曲家の道をめざすチャンスが訪れたのです。意を決して上京した中村はそれから1年後、「夢は夜ひらく」のレコードを出せなかった佐川満男のために、「今は幸せかい」を作詞作曲して才能を開花させていきます。

それがヒットしたことで新進のソングライターとして注目されると、ちあきなおみの「喝采」で1972年のレコード大賞にも選ばれて、押しも押されもせぬ作曲家の地位を手にすることになりました。また1970年からは阿久悠とコンビを組むようになり、73年にデビューした桜田淳子に「天使も夢みる」や「わたしの青い鳥」などを提供し、アイドルにもヒット曲を提供する幅広さを示しています。第1回のスタート時からオーディション番組『スター誕生』に出演し、審査員を務めることになったのも、阿久悠からの依頼に応じたものでした。

まるで履歴書のような「圭子の夢は夜ひらく」

園まりの「夢は夜ひらく」が1966年の秋に発売されたとき、コロムビアは俳優の梅宮辰夫、キングレコードはムード歌謡のバーブ佐竹、テイチクは作曲した曽根幸明(藤田功、愛真知子のデュエット)、そしてクラウンは新人の緑川アコと5社の競作になりました。このときに儚げな高音で切々と歌った園まりのヴァージョンに次いで、中低音を活かした力強い緑川アコのヴァージョンもヒットしています。


「夢は夜ひらく」
作詞 水島哲/作曲 曽根幸明/歌 緑川アコ

いのち限りの 恋をした
たまらないほど 好きなのに
たった一言 いえなくて
夢は夜ひらく

せっかく咲かせた 恋だもん
大事にしましょう いつまでも
雨に嵐に 負けないで
夢は夜ひらく

恋にこがれる せみよりも
なかぬほたるが 身をこがす
たったひとりの あなたゆえ
夢は夜ひらく

死んでしまえば しあわせに
めぐりあえない この世なの
生きていりゃこそ ひとすじに
夢は夜ひらく


それから3年後、「新宿の女」にヒットの兆しが見えてきた1969年の晩秋になって、石坂はディレクターの榎本襄に「女のブルース」に続く第3弾として、「夢は夜ひらく」をレコーディングしたいと申し入れています。当初は園まりのヒットからまだ時間が経っていないと、榎本の同意を得られませんでした。しかし緑川アコの「夢は夜ひらく」にも関わってヒットを体験したときの手応えから、石坂には藤圭子の歌声ならば必ずヒットするという確信がありました。

 最初はしぶっていた榎本も、しつこく迫る私に辟易して、こう言った。
「で、龍ちゃん、詞はできてるの?」
「詞、そう言えば、まだだ。できてない」
 榎本はあきれていたが、私はその場で目を閉じて頭に浮かぶ言葉を口にしていた。

 赤く咲くのは けしの花
 白く咲くのは 百合の花
 どう咲きゃいいのさ この私
 夢は夜ひらく

(石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋)

石坂は即興で浮かんできた歌詞を、そのまま文字に書いていきました。頭のなかにある言葉を口にすると、それがそのまま歌詞になったのです。

 自分の過去を振り返ってみれば、詞などいくらでも湧いてきた。十五、十六、十七と、たしかに私の人生は暗かった。それは純子も同じだった。
 三番をつくったところで純子に見せると、純子はポツリと感想を言った。
「先生、これなんだか古臭いんじゃない?」
 榎本が思わず苦笑した。
「じゃどういうのがいいと思う? 純ちゃん、言ってごらんよ」

(同前)

藤圭子は「夢は夜ひらく」のメロディーに乗せて、知り合いのグループ・サウンズの仲間たちの名前を、その場で「〽昨日ハー坊 今日マミー 明日はジョージかラリ坊か」と、鼻歌にして歌ってみせました。

「そうしたら、いいねそれ、って沢ノ井さんが言うの。えっ、って訊き返したんだ。それでいこうよ、って言うの。もちろん、冗談はやめてよと言ったんだけど……何日かして出来てきた歌詞を見たら、ちゃんと三番に入っていたんだ」

(沢木耕太郎『流星ひとつ』新潮社)


「圭子の夢は夜ひらく」
作詞 石坂まさを/作曲 曽根幸明/歌 藤圭子

赤く咲くのは けしの花
白く咲くのは 百合の花
どう咲きゃいいのさ この私
夢は夜ひらく

十五、十六、十七と
私の人生 暗かった
過去はどんなに 暗くとも
夢は夜ひらく

昨日マー坊 今日トミー
明日はジョージか ケン坊か
恋ははかなく 過ぎて行き
夢は夜ひらく

夜咲くネオンは 嘘の花
夜飛ぶ蝶々も 嘘の花
嘘を肴に 酒をくみゃ
夢は夜ひらく

前を見るよな 柄じゃない
うしろ向くよな 柄じゃない
よそ見してたら 泣きを見た
夢は夜ひらく

一から十まで 馬鹿でした
馬鹿にゃ未練は ないけれど
忘れられない 奴ばかり
夢は夜ひらく 夢は夜ひらく


榎本がシングルでの発売について最後まで渋っていたので、石坂は3月25日に発売されるアルバムのB面の1曲目に入れることで妥協しました。するとアルバムが大ヒットしてベストセラーを記録したことから、「圭子の夢は夜ひらく」は時代の風を受けるかのように、口コミをきっかけにしてレコード店や飲み屋、スナックなどから聞こえてくるようになります。

シングルではないのにラジオから流れるとチャートを駆け上がり、すぐにベストテン番組の上位に入りました。有線放送のリクエストもひっきりなしで、4月25日に急遽シングル・カットされると、そこからは巷に溢れ出すように流れ始めたのです。

ほとんど情感を込めず、言葉を放り投げるかのように歌う藤圭子の歌声に、多くの人々が思わず振り向いたのは、履歴書のような歌詞のどこかに自分と共通する心情を見出したからでしょう。

5番の歌詞を引き合いにして、沢木耕太郎が当時の気持ちを語っています。

 前を見るよな 柄じゃない
 うしろ向くよな 柄じゃない
 よそ見してたら 泣きを見た
 夢は夜ひらく

「これを聞くと、ぼくにも、よぎるものがある。何だか、はっきりはわからないけど、体の奥の方から泡立つようなものがある」

(同前)

練馬の少年鑑別所でひっそり生まれて詠み人知らずの歌として、それぞれの歌詞で拡散しながら歌い継がれてきた「夢は夜ひらく」には、無数の個人の過去が履歴書として重ねられています。それによって歌われてきたさまざまな心情が多くの人に共有されて、発見されてヒットしたという側面がありました。そこに新たに加わった「圭子の夢は夜ひらく」も、やはり石坂の実体験から生まれた履歴書的な歌詞ですが、そこには藤圭子の意見も取り入れられています。

まるで自分の履歴書のような歌について、「抵抗はなかった?」と質問する沢木耕太郎に対して、藤圭子はこのように答えています。

「この歌詞に抵抗感はなかった?」
「なかった」
「これ、自分のことを歌っているとは思わなかった?」
「思わなかった。ただの歌の、ただの歌詞だと思ってた」
「でも、聞く人は、その歌詞をあなたそのものに投影して、感動してたわけだよ」
「人がどう思おうと関係ないよ」
「それでは、そう思われることに対する抵抗感は?」
「ぜんぜん、なかった。思うのはその人の勝手だから」
「十五、十六、十七と、あなたの人生、暗くはなかった?」
「暗くないよ。とりあえず、いまの人生が、幸せなんだから」
「でもさ、そのときはどうだったの?」
「食べて、生きてこられたんだもん、それが暗いはずないよ」

(同前)

藤圭子はシンガー・ソングライターではなく歌手だったので、「新宿の女」でも「女のブルース」でも、現実の自分と歌の主人公を重ね合わせるのではなく、距離をおいて冷静な表現者として歌っています。「人がどう思おうと関係ないよ」という言葉には、たとえ娼婦の嘆きと怒りを訴える「星の流れに」でも、罪をつぐなう男の自嘲をつぶやく「網走番外地」でも、大人の男女の情愛を歌う「夢は夜ひらく」でも、聴いた客が喜んでくれるように精一杯、心を込めて歌うことで生きてきた少女の、プロの歌手であることの自信と矜持がうかがえます。

阿久悠は「圭子の夢は夜ひらく」について、「怨(うらみ)」と「履歴書」という言葉を用いてこんな感想を述べています。

 人々は、この歌を彼女の履歴書と思ったはずである。「〽どう咲きゃいいのさ この私」と「過去はどんなに暗くとも」が、何を信じていいのかわからない時代の中でキーワードとなったが、少女の履歴書にどう関連づけたかはわからない。しかし一九七〇年、怨と大国とビューティフルの混乱の年のシンボルであったことは確かである。
 果たしてこの歌が履歴書であったのかどうか知らない。彼女が怨に目を閉じる暗い少女であったのかもわからない。ある時、テレビ局で仕掛け人の石坂まさをに会ったら、「印税で入った金をかぞえていたら、夜が明けてしまった」とニッと笑った。ニッは、露悪的でもあり、逆説的でもあり、実際の怨は不明である。

(阿久悠『愛すべき名歌たち─私的歌謡曲史─』岩波新書)

その年に大きなニュースとなった公害問題でクローズアップされた「怨」という文字は、水俣病の被害者や遺族が加害企業チッソ株主総会にのりこみ、社長との直談判に臨んだときに持参した旗に、万感の思いを込めて書かれた一文字でした。その一文字を提案した作家の石牟礼道子は当時、「怨には念のようなものがこもっている。死んでも死に切れない思い。立ち切れない情念を表現したかった」と語っています。

暗い過去を持つ女性のブルースとロック

藤圭子は演歌というジャンルで呼ばれていましたが、実際には同時に日本語でブルースとロックを体現した最初の女性シンガーだったのではないかと考えられます。そして魂の叫びが歌に込められていたという点においては、同時代のアメリカで活躍していたジャニス・ジョプリンにも通じるところがあります。その歌声は時代の風を受けて団塊の世代を中心に、深く静かに広がっていきました。

それを拡散する役目を果たしたのが、作家の五木寛之が1970年6月7日の毎日新聞日曜版に寄稿したエッセイです。歌謡曲が批評の対象に取り上げられることはめったになかったことなので、そこから反響は大きく広がっていきました。

その「艶歌と援歌と怨歌」というタイトルの文章で、五木寛之は藤圭子の歌について、正真正銘の「怨歌」だと言い切っています。

 藤圭子という新しい歌い手の最初のLPレコードを買ってきて、夜中に聴いた。彼女はこのレコード一枚を残しただけで、たとえ今後どんなふうに生きて行こうと、もうそれで自分の人生を十分に生きたのだ、という気がした。
 歌い手には一生に何度か、ごく一時期だけ歌の背後から血がしたたり落ちるような迫力が感じられることがあるものだ。それは歌のこうせつだけの問題ではなく、ひとつの時代との交差のしかたであったり、その歌い手個人の状況にかかわりあうものである。
 彼女のこのLPは、おそらくこの歌い手の生涯で最高の短いきらめきなのではないか、という気がした。日本の流行歌などと馬鹿にしている向きは、このLPをためしに買って、深夜、あかりを消して聴いてみることだ。おそらく、ぞっとして、暗い気分になって、それでも、どうしてももう一度この歌を聴かずにはいられない気持ちになってしまうだろう。
 ここにあるのは、〈艶歌〉でも〈援歌〉でもない。これは正真正銘の〈怨歌〉である。

(五木寛之エッセイ全集『ゴキブリの歌』講談社)

当時の文壇で最も影響力があったのは行動する作家といわれた三島由紀夫でしたが、若者たちの間の人気と注目度では、1966年に『さらばモスクワ愚連隊』で直木賞候補になり、翌67年に『蒼ざめた馬を見よ』で受賞した五木寛之と、同じく『火垂るの墓』と『アメリカひじき』で直木賞作家になった野坂昭如が匹敵する存在になりつつありました。そんな作家が歌謡曲を取り上げて文章を書いたのですから、マスコミは〈怨歌〉という言葉を各々の媒体で取り上げ始めます。

そして演歌をめぐるさまざまな考察が語られるようになり、はからずも藤圭子はその出発点に立って脚光を浴びたのです。五木寛之は彼女が持っている歌の力と凄みを指摘しただけでなく、将来への不安を予言したともいえる文章を記していました。

しかし、この歌い手が、こういった歌を歌えるのは、たった今、この数ヵ月ではないか、という不吉な予感があった。これは下層からはいあがってきた人間の、凝縮した怨念が、一挙に燃焼した一瞬のせんこうであって、芸としてくり返し再生産し得るものではないからだ。彼女は酷使され、商品として成功し、やがてこのレコードの中にあるこの独特の暗く鋭い輝きを失うのではあるまいか。

(同前)

父が売れない田舎の浪曲歌手、母は盲目の三味線弾き、貧困で苦労した少女時代といった話題が、次々に新聞や週刊誌に載るようになりました。そのことから彼女の複雑な家庭環境に、少しずつ亀裂が広がっていきます。不条理な現実のなかで生きてきた少女の誇張された身の上話と、めったに笑顔を見せない藤圭子の暗い歌が重なり合い、社会的弱者たちの言葉にならない訴えという面も強調されて、虚像が出来上がって世間の耳目を集めたと言えばいいのでしょうか。

マスコミは時の人に祭り上げられた藤圭子をめぐって、次々にスキャンダラスな話題を報じるようになっていきます。スキャンダルでもなんでも宣伝に利用しようとする石坂の方針と、応急的に作られた所属プロダクションに経験を積んだスタッフがいないこともあって、演歌的な要素の全てを背負ったかのような薄幸な少女歌手という虚像は、華々しい成功者ゆえに嫉妬の対象にもなったのです。

石坂と近い立場にいて藤圭子の売り出しにも一役買っていたスポニチの小西良太郎は、時代の変化と藤圭子との関わりをこのように分析しています。

 一九七〇年、若者たちの心はうっくつしていた。彼らは学園闘争から安保闘争へ、長い抵抗の日々を過ごしたが、志は果たせなかった。挫折感と閉塞感の中でうずくまる彼らに、藤の歌声は苦渋に満ちてみ通って行く。
 十代の娘が、突然示した喪失感である。ひからびた声と投げやりな唱法が、妙なリアリティーを伝えた。仮に夢がもう一度、夜ひらくことはあったとしても、それはしょせん、夢のままでしかない…。
 作家五木寛之は、藤圭子の世界を「怨歌」と断じた。演歌の“演”に“怨”をあてはめたのだ。そういう時代の特色と、その時代に選び出された歌との、明確な位置付けである。

(小西良太郎『女たちの流行はやりうた』産経新聞社)

阿久悠もまた見えるようで見えない時代が、明らかに藤圭子という歌手を後押ししていることに気付いていたようです。その頃は1970年の初頭に大ヒットした「白い蝶のサンバ」と、春になってからヒットし始めた和田アキ子の「笑って許して」の2曲で、ようやく自分の時代が幕を開けつつあることを実感していたはずです。注文が増え始めた作詞の仕事を引き受けながら、暗く騒然としていた時代の明と暗を見極めようと、アンテナを張りめぐらしながら観察していたに違いありません。

 ぼくのイメージでは、彼女の場合、いつもピンスポットであったように思う。背景がないのである。天井から降りそそぐ筒状の光の中に、瓶詰の人形のように直立した彼女がいる。オカッパの髪形、白い顔、未熟に思える体つき、そして、紺のパンタロン、白いギターを抱えて少女が歌うのだが、その声は、見てくれのはかなさにくらべて、はるかにドスがきいていた。
(中略)
大仰に言うと、人々はこの少女の歌と姿に、時代のうらみめいたものを重ねたのである。「怨歌」という言葉がさかんに使われるようになった。
 エンカは演歌であり、艶歌であり、水前寺清子が歌う元気の出る歌は援歌と呼んだが、いつもピンスポットの中の藤圭子の歌は、まさに怨歌という言葉がピッタリとはまった。背景が黒、つまり闇なのである。

(同前)

音楽業界内で作詞家として認められるために、阿久悠は自分にしかできない表現に磨きをかけていこうとしていました。どうすれば時代の飢餓感を探り当てられるか、そのことを真剣に考えて情報収集も行っていたと考えられます。

1970年前後の新しい流行や風俗の発信地は、若者の街といわれていた新宿でした。そして「新宿の女」でデビューした藤圭子が、最初にマスコミで注目されたのは、レコード販促のために行った「新宿25時間キャンペーン」からです。無名の新人を売り出すために石坂まさをが考えた計画は、「流し」をしていた藤圭子の経験を生かして、25時間ぶっ通しで新宿を流して歩くことです。歌える所ならばどこでも歌うというゲリラ的な発想は、いささか無謀ともいえるものでした。

キャンペーンは1969年11月8日の朝9時、新宿・成子坂下にある西向天神からスタートしました。事前に新聞社や雑誌社、テレビ局とラジオ局に根回しをした石坂は、特に新宿にある放送局のフジテレビと文化放送を巻き込んで商店街を回って行きます。そしてレコード店から歌声喫茶、美容院にまで、飛び込みも含めて、とにかく歌って歩いたのです。夜になるとバーやスナックを中心にした盛り場めぐりとなり、深夜になると新宿コマ劇場前の噴水広場でも歌いました。

やがて夜明けが近づいて人通りが少なくなると、オールナイトの映画館に入って幕間に歌わせてもらい、夜が明けてからは24時間営業の食堂に入って歌い、25時間後の午前10時に終了しました。すると密着取材をしていたスポーツニッポンの小西が、その模様を月曜日の芸能面にドキュメント形式で大々的に掲載したのです。

タイトルは「流し、25時間! スターへの一念、このモーレツ少女、新宿族に訴える」というもので、「眠らない街、新宿」の「眠らない美少女、藤圭子」の名前が、ここで大きくクローズアップされました。これを土台にして認知度が上がった藤圭子は、マスメディアへの出演が増えるにつれて人気が上昇し、「女のブルース」と「圭子の夢は夜ひらく」が同時に大ヒットして、ついにブレイクを果たすことになったのです。

同じ頃にアングラとも呼ばれたカウンター・カルチャーのシーンでは、日本人ならではのブルースを歌う浅川マキが大学生を中心に注目を集めていました。長い黒髪、黒いドレス、目元が強調されたメイク、燻らせたタバコの煙、そしてアングラ文化の発信地であった劇場「アンダーグラウンド蠍座」で夜中に開催されるコンサート……。そこで歌われていたのはジャズやブルース、そしてアングラの女王らしいオリジナル曲の数々です。そしてそれらの楽曲で大半の歌詞を書いていたのは、歌人にして詩人、脚本家でエッセイスト、さらには劇作家として劇団「天井桟敷」を主宰するなど、さまざまな顔を持つ表現者の寺山修司でした。

ザ・フォーク・クルセダーズが1968年にレコード化した反戦歌の「戦争は知らない」は、寺山が作詞した“父を戦争で失くした”少女の歌です。寺山が作詞して秘書の田中未知が作曲した「時には母のない子のように」は、1969年にカルメン・マキが歌って大ヒットしました。それまでの歌謡曲にあった場面設定や起承転結にとらわれず、一味違った寺山の書く詞に対して、阿久悠は少なからず関心を持っていたようです。

そんな折に発売された浅川マキのシングル「夜が明けたら」のB面曲が、藤圭子がブレイクし始めた頃から新宿の有線放送やジュークボックス、飲み屋のレコードプレーヤーなどからよく流れてくるようになりました。それは娼婦に恋をしてしまった一文無しの水夫が、嫉妬から彼女をナイフで刺して、胸に紅い血のバラを咲かせるという物語です。

「かもめ」というタイトルが付いたその歌は、「圭子の夢は夜ひらく」と同じく6番までありました。そして浅川マキもまた、歌には特別な感情を入れず、言葉を闇に向かって放り投げるように歌うシンガーだったのです。

次号掲載:12月8日(金)

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