沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第43回 2018年6月8日掲載
第三部 新たな風を吹かせた作詞家たち

第十四章 演歌への道筋

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阿久悠がなんとなく避けていたという演歌に、徐々に関わりを持つようになるのは、森進一の歌にショックを受けた体験を忘れずにいたからだった。エレキブームとビートルズの来日で騒然としていた1966年6月、新たな演歌の時代を告げるロッカバラード「女のためいき」が発売になった——。
衝撃的だった「女のためいき」

それまでにない歌詞を書くことをテーマに、阿久悠が精力的に作詞の仕事に取り組んでいた1971年8月、デビューして間もない新人女性歌手のセカンド・シングルが発売されました。当時、この曲を東京・高円寺のスナックで耳にした筆者は、その場ですぐに杉並有線放送所に電話し、曲名と歌手を教えてもらってレコードを購入しています。曲名は「恋おんな」、歌手はかずみあいという名前で、発売元のレーベルはビクター傘下のMCAです。

「〽港町 あるホテル 恋おんな」と始まる歌い出しや、サビでくり返される「〽ぜいたくじゃないわ 心と心 ふれあう恋が ひとつあればいい」というフレーズからは、それまでの演歌にはない清々しさが感じられました。レコードの歌詞カードで「作詞 阿久悠」という表記を見て、さすがは「ざんげの値打ちもない」の作詞家だと、筆者は一人で納得したものです。

そのレコードを何度も聴いているうちに、歌っている主人公の凛とした佇まいが、阿久悠らしいところなのだとわかってきました。作曲は演歌のヒットメーカーだった猪俣公章、編曲は「北の宿から」を後に手がけている竹村次郎でした。しかし「恋おんな」は全く売れず、時の流れとともに忘れられたままです。

演歌調の歌は概して歌詞もメロディーも単純ですから、たとえいい楽曲であったとしても、歌い手によって命が吹き込まれて、メディアによる露出や話題で外に広がっていかないとヒットには結び付きません。歌手がある程度の注目を集めないことには、歌を聴いてもらうのも難しいのです。レコード会社によるプロモーションや、事務所のブッキング能力などに恵まれなかったために、楽曲も歌手も発見されないまま消える歌は多々あります。そうした意味で「恋おんな」は不幸な作品でした。

阿久悠が次に書いた演歌は、年末の12月25日にクラウンから発売になった北島三郎の「渡り鳥いつ帰る」(作曲 猪俣公章/編曲 小杉仁三)です。しかし人気が確立していたスターといえども、その頃の北島はレコード・セールスで苦戦を強いられていて、これも世間の反響を得られないままに終わってしまいます。

初めてヒットといえる演歌が生まれたのは年が明けてからで、1月25日に発売された藤圭子の「京都から博多まで」(作曲 猪俣公章/編曲 池多孝春)でした。阿久悠はちょうどその頃に、ビクターの巨匠として有名だったディレクターの磯部健雄に声をかけられて、森進一のシングル曲を書くことになります。

 磯部さんがぼくにいったのは「きみはいちばん売れていると思っているかもしれないが、稼ぎは猪俣の方がずっと多いぞ」であった。猪俣とは、もちろん作曲家の猪俣公章のことである。
 要するに、磯部さんのいうには、レコードというもの、演歌を書かない限り儲けにならないということである。そして、その場で森進一の詞を書くように言われた。挑発し、同時にチャンスをくれたわけである。
 それで、「放浪船」とか「波止場町」とか書いたのだが、もう一つ納得がいかず、むしろ、B面になった「悲恋」とか「夏子ひとり」といった作品が阿久悠らしかった。

(阿久悠『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』新潮社)

「波止場町」(作・編曲 猪俣公章)は4月5日、「放浪船」(作・編曲 猪俣公章)は10月25日に発売されましたが、いずれもヒットはしていません。こうして阿久悠が演歌を意識的に書いていく道筋は、「恋おんな」のかずみあいから始まって森進一にまで至ったわけです。

それらの歌はすべて猪俣公章が手がけた作品でした。阿久悠は、森進一の「女のためいき」を初めて聴いた時のことを次のように記しています。

 最初に森進一の声を聞いた時の衝撃は忘れられない。
 その頃、放送作家として多くのレギュラー番組を抱えていた僕は、印刷所へ原稿を出しに行くタクシーの中で聞いたラジオで、森進一の声と出会った。深夜のタクシーの中でウトウトしていた耳に、ラジオから突然聞こえてきたその歌声に思わず目を覚ました。
 それが、森進一のデビュー曲「女のためいき」だった。
「死んでもお前を はなしはしない」
 という出だしから、まるで冷水を浴びせられたような衝撃があった。
 そして「夜が 夜が 夜が泣いてる ああ 女のためいき」という。
 明るい未来に向かってひた走っていると信じていた日本人に対して、暗いところから呼びかけるような歌声だった。

(阿久悠『「企み」の仕事術』KKロングセラーズ)

若い男性歌手に女性が主人公の歌をうたわせるというスタイルは、当時としては型破りのものでした。そして森進一のハスキーなしゃがれ声と、ソウルフルともいえる独特の歌唱法は、当時の日本においてはかなり異質なものだったのです。阿久悠はそれまで演歌のレコードを買ったことがなかったのに、作曲家の猪俣公章にとってのデビュー作となった「女のためいき」だけは、しっかり購入していました。

その後につながる二人の縁はおそらく、その時に受けた衝撃から始まっていたのではないでしょうか。

ジャズと黒人ブルーズの影響

森進一を一人前の歌手になるように指導したのは、東京パンチョスのリーダーだったチャーリー石黒です。渡辺プロダクションのプロデューサーでもあった石黒は、スカウトした森進一を自宅に住まわせて、内弟子兼バンドボーイとして面倒をみていました。そしてジャズの王様と呼ばれるルイ・アームストロングの声に近付けようと、喉がつぶれるまで歌わせて意図的にしゃがれた声にしていきます。そうした個性的かつ特徴ある声と歌い方で、あえて日本調の5音階で作られる演歌をうたい、ブルースやジャズのエッセンスを感じさせることによって、それまでにはいなかった歌手を誕生させようとしたのです。

「女のためいき」を作曲した猪俣公章はまったく無名の存在でしたが、忙しい石黒の代わりにデビューに向けて森進一のレッスンを頼まれたのが縁で、デビュー曲を作ることになりました。そして貧困家庭に育って甲府、沼津、下関、鹿児島と移り住んだ中学生までの苦労と、集団就職で大阪に出たものの満足な給与がもらえず、鹿児島に戻ってキャバレーで働くようになり、どん底から一歩ずつ這い上がって歌手になるきっかけをつかんだという経歴を知って、森進一にふさわしい歌について考えていきます。

 森の場合は怨歌、恨み節がぴったりするだろう。心ない人間や社会に対する恨みつらみ。その底にあるやさしさ、温かさ。愛にあこがれ、追い求める希望。
 それを歌にしたら、と考えた。が、それをストレートにぶつけると暗く、ぐちっぽくなる。
「そうだ、女歌にしてみよう。女の情念を男が歌うのだ」

(猪俣公章『酒と演歌と男と女』講談社)

歌謡同人誌から「女のためいき」の歌詞を見つけ出した猪俣公章は、メロディーをつけていくなかで、石黒が意図していたルイ・アームストロングのように極端なしゃがれ声を、より強く印象づける歌唱法を自らつくりあげて、口伝で森進一にそれをひとつひとつ教え込んでいきました。

両者の目論見が成功したことは、阿久悠の語ったこんな言葉で裏付けられています。

森進一がデビューしたときにやっぱりちょっとショックだったですね。ひょっとしたら、これ、横浜あたりにいる黒人が、演歌うたってんじゃないかと思った。

(阿久悠、和田誠『A面B面 作詞・レコード・日本人』ちくま文庫)

「女のためいき」のアレンジはメインの楽器としてはドラムとエレキベース、エレキギターを使ったシンプルなもので、薄く管楽器を加えています。しかも三連符のリズムから成るロッカバラードでしたから、それまでの日本調流行歌にはない新しいサウンドだったといえます。

ベンチャーズによるエレキブームが頂点に達し、そこへビートルズの来日公演が決まって、実施を目前に控えて騒然としていた1966年6月20日、新しい時代にふさわしい演歌が発売されたのです。


「女のためいき」
作詞 吉川静夫/作・編曲 猪俣公章

死んでも お前を 離しはしない(四・四・七)
そんな男の 約束を(七・五)
嘘と知らずに 信じてた(七・五)
夜が 夜が 夜が泣いてる(三・三・七)
ああああ~ 女のためいき(四・四・四)

どうでも なるよに なったらいいと(四・四・七)
思いなやんだ 時もある(七・五)
なににすがって 生きるのか(七・五)
暗い 暗い 暗い灯影ほかげの(三・三・七)
ああああ~ 女のためいき(四・四・四)

男と 女の 悲しいさだめ(四・四・七)
なんで涙が つきまとう(七・五)
ほれているから 憎いのよ(七・五)
未練 未練 未練一つが(三・三・七)
ああああ~ 女のためいき(四・四・四)


歌詞も基本は七五調ですがメロディーに合わせて、歌い出しと締めは(四・四)の八音を使い、感情を込めて繰り返すパートでは(三・三・七)でたたみかけているのがわかります。中学生の時にこの曲を聴いた筆者も、「女のためいき」からはかなりの衝撃を受けました。歌詞の内容には興味が湧かなかったのに、ここから何かが変わっていくのだろうという、漠然とした予兆を感じていたことを憶えています。

1966年6月に「女のためいき」が世に出たことが当時の音楽シーンの中で、いかに革新的であったのかについてこうまもるが、『歌謡曲——時代を彩った歌たち』(岩波新書)の中で下記のように詳述しています。

 冒頭の“死んでもお前を 離しはしない”の“しィんでも”“おォまえェを”にみられる小節頭の強度のアクセントにまずは驚かされるが、続く“離しは”の頭の“は”でいきなり破裂気味に絶叫する歌唱はそれ以前の歌謡曲には存在しなかった表現である。ハスキーというよりも枯れて掠れた声質は、二番三番と曲の進行に合わせるかのように徐々に音圧が増幅され感情が高ぶっていく。きわめつけはラストの“女の~ため息”の前に配置された“あ・ァァ・あ~”の一フレーズで、これは官能ともいうべき表現が、歌唱として歌謡曲に導入された歴史的な瞬間である。また音程やリズムといった基礎的な音楽性の高さは抜群で、単なる色モノでは片付けられない質の高い作品である点が森進一の革新性の一つである。
 歌詞は伝統的な七五調だが猪俣公章の作曲は斬新の一語である。“死んでもお前を 離しはしない”を四小節にはめ込む形式はセオリー通りだが、リズムの捉え方とそこから生じる符割りは革命ともいえる新しさである。

「女のためいき」が大ヒットしたのは森進一のしゃがれた歌声と、アクセントを強調する独特の歌い方に魅力を感じる人が、日ごとに増えていったからでしょう。斬新なリズムの捉え方と、細かな符割りに合わせて母音を震わせる歌い方は、阿久悠が“横浜あたりにいる黒人が、演歌うたってんじゃないか”と思ったように、ジャズやロックのルーツとなったアメリカの「黒人ブルーズ」にも通じていたのです。

中村八大と猪俣公章に共通するもの

突然変異のように登場した「女のためいき」は当初、若い男性である森進一の官能的ともいえる歌唱が、大人たちから非難めいた口調で語られたこともあります。しかし曲がヒットして聴き慣れてくるにしたがって、都はるみの「うなり節」と同じように抵抗なく受け入れられていきました。

「女のためいき」の画期的な符割りのベースにあったのは、洋楽のレコードを聴いて母音を強調するなどの歌い方を工夫した、ロカビリーやカヴァーポップス出身の歌手たちの歌唱法です。

そこから生まれた日本語のオリジナル曲が第1回のレコード大賞に選ばれた水原弘の「黒い花びら」であり、森山加代子の「じんじろげ」や渡辺マリの「東京ドドンパ娘」などでした。なかでも1961年に誕生した「上を向いて歩こう」の歌唱法は、メロディーと譜割りの関係において、後世に少なからぬ影響を与えています。

19歳の若さで「上を向いて歩こう」をヒットさせた坂本九の歌唱法は、作曲と編曲をした音楽家の中村八大が、譜面に符割を書いて指定していたものでした。「女のためいき」の「しィんでも おォまえェを」という歌い出しには、「うえをむゥいて あァるこォゥオゥオゥオゥ」との共通点が見られます。2曲の共通点ということでは、口笛が効果的に使われていることも注目に値します。

「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」のタイトルで、1963年に世界中で大ヒットした時に、言葉の通じない世界の国々でも受け入れられたことの要因として、音楽評論家の岡野弁は間奏で口笛が使われていたことを挙げています。

「スキヤキ」はビルボード誌のチャートでNo.1になった歌だ。それは空前絶後の記録であった。大ヒットとなった理由は何だったのか? 現地から入って来た話の中で“口笛が間奏に入っているのがカッコイイ”などというのが記憶に残っているが、プロフェッショナルな評として“サビ前までがペンタトニック(五音階)で、その辺が東洋的な味わいがあって新鮮であった”というのがあった。プロの編曲者に訊くと、“その通りでしょう。そして、そこから続く、転調を含めたサビ部分が、また、優れた技術ですね”とも言っていた。

(岡野弁「REQUIEM 悼・中村八大」 週刊『ミュージック・ラボ』1992年6月29日号)

「女のためいき」は完全にペンタトニック(5音階)の曲で、印象的な口笛からイントロが始まっています。そして口笛によるメロディーは歌の中でも、たびたび流れてきます。猪俣公章がそのあたりのことを当時、どこまで意識していたのかは気になるところです。

なぜならば「上を向いて歩こう」を作曲した中村八大について、阿久悠が「黒い花びら」を取り上げて、“間違いなく日本の新しい歌”だと述べていたエピソードを思い出したからです。作詞という表現と、作詞家になることの可能性を感じさせてくれた時の話で、見出しは“「黒い花びら」に驚く”というものでした。

「黒い花びら」に驚く
 作詞家になりたいとは思わなかったが、書けないことはないと思っていた。宣弘社時代から、コマーシャル・ソングの作詞くらいはやっていた。もっとも、メインの大スポンサーのではなく、鳥取のデパートみたいなローカル・スポンサーではあったけれど。
(中略)
とにかく、ぼくは歌が好きだった。終戦直後からずっと、どんな歌が出たか、わりと知っていた。ただ、「おれが書くものじゃないな」という感じがあった。レコード界というものを、特殊な世界だと思っていたわけである。
 それが特殊世界でなく、だれだって書けるんだと思うようになったきっかけは、「黒い花びら」である。
 永六輔さんと中村八大さんがあの歌を発表したとき、「ああ、これならおれも書けるなあ」と思った。これは、軽く見た意味ではなく、前よりも評価したのである。そのときは書かなかったけれども、とにかく大きな刺激だった。非常に新しい歌が出てきて、これで歌謡曲が変わるだろうという感じだった。
 ロカビリー・ブームのときにも、歌はずいぶん変わったのだが、それはやっぱり借り物の感じでしかない。アメリカの放出物資を着ているみたいだった。その点、「黒い花びら」は間違いなく日本の新しい歌であり、永六輔さんと中村八大さんは、日本の歌謡曲を変えた人々の第一にあげられるだろう。

(阿久悠『作詞入門 阿久式ヒット・ソングの技法』岩波現代文庫)

「黒い花びら」は中村八大にとっても、作曲家としての出世作となった重要な作品です。音楽的にはジャズとロックンロールの融合といえますが、根底には「黒人ブルーズ」が脈打っていました。そして猪俣公章にとっての出世作となった「女のためいき」にも大きな影響を与えていたのです。

三連符のロッカバラード

猪俣公章の父は京都帝大を出たエリートで、東北電力に勤務していました。母は祖父が開いた料亭を引き継いで経営していました。長男には名門大学に入って医師になってほしいと思い、高校時代から東京の開成高校に通わせて下宿させています。しかし中学の頃から作曲家を目指した猪俣公章は、上京したのをこれ幸いと音楽漬けの生活になっていきます。そして両親の反対を押し切って1年間アルバイトをして、お金を貯めて自力で日本大学芸術学部音楽科に進みました。

アルバイト生活を辞めて古賀政男の内弟子になったのは、編曲を手伝ってくれる若手が必要だという話を聞いたからです。そして言いつけられた雑用をするために門下生となり、古賀邸に住み込んで食と住を保証してもらう内弟子として働きました。しかし内弟子だからといって、音楽に関して何かを教わったことはなかったそうです。

「作曲の方法は一度も教えてもらえなかった。ただひたすらきびしくしつけられただけ。ビクターの玄関口に一年間座りこんだこともある。出世作は『女のためいき』。なにくそ、なんとしても絶対にヒット曲を出してみせる、という気持ちだけはいつも持っていた」

(『平凡パンチ』「マスコミ各界人間マップ④作曲界“その数500人とも言われる中で売れっ子作曲家の明日なき戦い”」昭和49年4月15日号)

古賀邸の門を入るとすぐ目の前に倉庫があり、そこには師匠が手がけた楽曲の譜面が山積みされていました。そしてある日のこと、猪俣公章がその倉庫の整理を申し出ると、すんなり許可が下りたのです。以前から気になって仕方のなかった倉庫の中を、自由に見られるチャンスでしたから、古びた楽譜を整理しながら長い時間をかけて、丁寧に目を通していきました。楽譜を通して古賀政男の感情や温もりを感じ、五線譜の中に潜む人間性を読み取っていったのです。

また古賀がレコード会社のディレクターに出来上がった曲を聴かせる「お聞かせ会」は、なによりの勉強になっていたそうです。もちろん、内弟子がその会に呼ばれるわけではありません。そのセレモニーが始まると抜き足差し足で、「お聞かせ会」の行われる先生の居間の階段下へ潜り込んで、一部始終を盗み聞きするのです。

耳を澄ましていると、古賀メロディーが出来上がっていく過程が手に取るように聞こえてきたと言います。またレコード会社のディレクターがどういうシステムの中で、どんな役割を演じているのか、今の世の中がどんな傾向の曲を求めているかも知ることができました。

そうした4年間の内弟子生活が始まる直前に、古賀は服部良一とともに日本作曲家協会を発足させています。そしてアメリカのグラミー賞をお手本にした日本レコード大賞を制定し、1959年12月に実施しました。その第1回日本レコード大賞でグランプリに選ばれたのが、マンボやロカビリーに熱狂していた青年層を中心に支持されて、大ヒットを記録した「黒い花びら」です。

退廃的ともいえる暗さを持つ「黒い花びら」を歌ったのは水原弘で、そのしゃがれたハスキーヴォイスは衝撃的で、斬新なメロディーとアレンジとあいまって評判を呼びました。アメリカに生まれたロックの影響を受けていたことや、黒人ブルーズを内包していたという意味で、「黒い花びら」はまさに新しい時代の音楽でした。歌謡曲の未来に方向性を示した楽曲だったからこそ、レコード大賞を創設した古賀政男と服部良一の強い推しもあって、受賞曲に選ばれたのです。

三連符によるロッカバラードという点でも音楽的に共通する「女のためいき」の歌詞と、「黒い花びら」の歌詞をワンコーラス、16小節に区切ってレコードの歌い方に即して記すと、大体このようになります。

〽しィんでもー/おォまえェをー/はァなしはァしィな/いィー/
 そォんなおとこォの/やくゥそォくゥ/をー/
 うそォとー/しらずにィー/しんンじィてェ/たァあああー/
 よるゥが よるが/よるがないてる/あァァあー/
 おォんなのォォー/ためェいきー/

〽くゥろォいィ/はなびらァァー/しーずかァにィ/ちったー/
 あのひとォーは/かえらぬー/とォーいーゆ/めー/
 おれはしってる/こいのかなしさー/こいのくるしさー/
 だから だから/もうこいなァんかァー/したくないー/
 したーくないのォ/さー/

全体の構成も同じですが、三・三・七音でたたみかける後半部分の符割とビート感、歌詞で表すと「よるが よるが よるがないてる」と、「だから だから もうこいなんか」のパートは、とくに一致しています。阿久悠がとくに反応したのは、このたたみかける部分でした。

川内康範に抜擢されて書いた「君こそわが命」

中村八大は「黒い花びら」を作った時、歌手のオーディションを行って水原弘を抜擢しています。しゃがれた声にもかかわらず、低音の響きがふくよかなことと、歌唱力が安定しているという理由でした。それによってレコード・デビューが決まった水原弘は、ヒットによって一気に脚光を浴びて、映画にも次々に出演するなど勢いがあって、スターの座を確かなものにしていくかに見えました。

ところがしだいにヒットから見放されるようになり、家族的な経営だったマナセプロダクションから、近代的なマネージメント体制で成功していた渡辺プロダクションに移籍します。しかしその後も豪遊や賭博の噂などから評判を落とし、1964年には多額の借金によって活動に支障をきたす状況になりました。

若くて勢いのあるマネージャーだった27歳の長良じゅんに会いに行き、水原弘が再起をかけて頭を下げたのはその年のことです。水原弘の歌の実力を評価していた長良じゅんは、渡辺プロダクションに了解を得たうえで、借金を立て替えたり返済計画を作らせるなど、カムバックに向けた立て直しを引き受けました。

ところが1965年になって暴力団が開く賭博に関わったことが明らかになり、友人をかばって完全黙秘を貫いたことから、見せしめのために警察から名前をマスコミに公表されます。そのことによって表立った芸能活動ができなくなり、四面楚歌の状態になってしまったのです。

そんな状態になっても長良は何とか水原を復活させようと、いくらでも力になってくれると言った勝新太郎に相談し、知り合いだった作家の川内康範こうはんには歌を作ってほしいと依頼しています。「誰よりも君を愛す」「恍惚のブルース」「骨まで愛して」といったヒット曲を作詞していた川内には、ここぞという時に起死回生のヒット作を書ける達人というイメージがありました。

しかし長良の頼みにうなずいたものの、川内は1年経っても詞を書いてはくれません。低迷していた水原弘は表舞台から身を隠すように、地方のキャバレーをまわる日々が続きました。川内が重い腰を上げて作詞に着手するのは、それから2年後になります。そこには周囲に甘える水原弘をどん底にまで落とし込み、自分の手と足で這い上がってくる以外には、カムバックの見込みがないという考えがあったのだと言います。水原弘を取り巻く良くない連中たちが去っていくのを待ち、利用する者がいなくなったところで、川内はようやく作品づくりに取りかかったのです。

そこで川内に指名されたのが「女のためいき」がヒットしつつあったものの、まだまだ駆け出しの作曲家だった猪俣公章でした。川内は原爆の犠牲者に捧げる精神を背景に、被爆者の苦しみや悲しみを書いていた連載小説「君こそわが命」をベースにして、同じタイトルで書き上げた歌詞を猪俣公章に渡しています。

その時は曲には哀愁がなければならないと、きつく注文をつけたと言います。

当時のことを猪俣公章は、このように回想していました。

 昭和四十一年夏、川内康範さんに呼ばれ、一編の詞を手渡された。
「これに曲を付けてみてくれ。歌い手? うん、まあ新人歌手みたいなものだ」
 さらりと、そういった。
(中略)
おそらく、私の「女のためいき」のメロディーを注目しての指名なのだろう。
 題名を付けるのがうまかった。「君こそわが命」という詞の内容にも格調が漂っている。
 しかし、そう急ぐこともあるまい、とピアノの上に置いたままにしていた。森の歌がうまくヒットし、私も公私ともに忙しくなりかけた時期だった。
 ところが、三日ほどすると、川内さんから電話がかかってきた。
「おい、曲はもうできたのか」
 反射的に、
「はいッ、できてます」
 と答えた。「まだです」などといったら、
「なにをしているッ」
 と怒鳴られかねない。
「よし、すぐ聴きたい。持って来てくれ」

(猪俣公章『酒と演歌と男と女』講談社)

猪俣公章はタイトルだけを書いた五線譜と鉛筆、消しゴムを持ってタクシーに飛び乗ると、目黒区大橋にあった自宅から川内康範が住んでいる港区赤坂のホテルニュージャパンに向かいました。そして車中で改めて歌詞を読んで20分ほどでメロディーを書き上げました。作曲する時はピアノやギターなどの楽器は一切使わず、口笛かハミングでメロディーを作って楽譜に書き取るのがいつものやり方だったのです。

「うむ、いいだろう」
 川内さんは、にっこり笑いながら、
「この歌をおミズに歌わせる。再起第一作だ」
「ええッ」と仰天した。新人歌手だと思っていたのに水原弘とは。
「新人歌手とはいっていない。新人歌手のようなものだ、といったはずだ」
 今にして思えば、これは川内さんの深謀遠慮だった。水原弘と聞けば、新人作曲家は硬くなる。そしてかならず「黒い花びら」を意識するだろう。
 それを避けたかったにちがいない。私も水原の歌と知っていれば、別のメロディーを考えたかもしれない。タクシーのなかで作曲するような離れ業は、とうてい無理な話だ。
(中略)
 レコード大賞を受けた「黒い花びら」の語呂合わせじゃないが、水原にはいつも黒いうわさが付きまとっている。それを一掃するための、純愛の詞。ほんらい中村八大か浜口庫之助に頼むべき作曲が、新人の私に回ってきたのも、そのためだ。

(同前)

かつての大スターを復活させるために絶対ヒットさせねばならないという状況で、川内は「女のためいき」を作った新人作曲家を抜擢し、プレッシャーがかからないように水原弘の名前を伏せて、歌詞にふさわしい新鮮な曲を求めました。猪俣公章は時間には追われましたが、重圧を受ける間もなく、素直に歌詞に向き合ってスケール感のあるメロディーを作ってきたのです。

それが「黒い花びら」にも通じる3連符を基調としたロッカバラードになったのは、偶然ではなく必然だったのでしょう。水原弘のカムバックにふさわしい大作といった趣の作品に、関係者の全員が納得したことからいよいよプロジェクトがスタートしました。そこにスポーツニッポンの小西良太郎が呼ばれたのは、マスメディア向けに大々的なプロモーションを展開するためです。

「彼をカムバックさせる。何かと相談に乗ってよ」
 僕に声をかけたのは、東芝音工の実力派名和治良プロデューサーだった。水原のために一肌脱ぐのは作家で作詞家の川内康範、作曲は若手の猪俣公章で「君こそわが命」という作品が用意されている。水原が所属する長良プロダクションの長良じゅん社長も“その気”だと言う。長良、名和、川内と歌世界の剛の者三人の揃い踏みを取材するのは、スポニチの音楽担当記者三年ほどの僕には願ったりかなったりの仕事。相談に乗れというのは、親交のある名和からプロモーションを手伝えという注文だ。

(小西良太郎『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』幻戯書房)

名和はその頃にヒットしつつあった菅原洋一の「知りたくないの」に関して、小沢音楽事務所が作戦参謀的な立場にいた小西に知恵を借りていることを知っていたのです。プロジェクトに関わることになった小西は、宣伝マンの田村廣治とメディア対策の作戦を立てていきました。その時に制作費、宣伝費、その他諸々の経費を細々と数え上げていくと、およそ3千万円になるとわかったので、プロモーション計画「三千万円作戦!」が実行に移されることになります。

「君こそわが命」のレコーディングが行われたのは、「女のためいき」がヒット中だった1966年10月15日のことです。デビューする前から歌唱力には定評があった水原弘は、渡された楽曲を上手に歌いこなすのは造作もないと思っていたようです。オーケストラによる録音が完了していたスタジオに行くと、歌入れを待つ状態になってスタッフが集まっていました。

ところが音楽を聴きながら確認のために軽く歌ってみると、名前を聞いたこともない若い男が作曲家だといって、「そこんところは、こう歌ったら……」と歌い方を指導し始めたのです。森進一に対して一から十まで手取り足取りして指導してきた猪俣公章にすれば、ごく当たり前のことでしたが、水原弘にすればとんでもなく失礼な話でした。

作家の村松友視が書き下ろした水原弘の評伝『黒い花びら』に、その模様が描かれています。

 このレコーディングの日、長良氏は少し遅れてスタジオ入りをした。すると、スタジオの中に怒りまくっている水原弘の姿があった。長良氏が、理由を聞いてみると、水原弘は苦々しい表情で猪俣公章を指差し吐き捨てるように言った。
「この駆け出し野郎が、ちりめんじゃこみてえな声出しやがって、俺に歌唱指導しやがった。もういやだ、俺はやめた」
 水原弘は、それまで作曲家に歌唱指導など受けたことがなかった。ところが、駆け出しの新人作曲家に注文をつけられたことにプライドを傷つけられ、我慢ができなかったのだった。
「ふざけやがって、俺は命を賭けてるんだ」
 そう言った水原弘を、長良氏はおどしつけるように怒鳴った。
「馬鹿野郎、命を賭けてるのはおまえだけじゃねえんだ。みんながおまえのために入れ込んでいるときに何言ってんだ。そんな訳の分らねえことを言うんなら、本当にやめるぞ!」
 水原弘は長良氏の剣幕にぐっと唇を噛んでいたが、
「ちょっと待ってくれ……」
 と言って、気を鎮めるためかトイレへ行った。トイレの中で水原弘がどんな自問自答したのか、どんな思いを胸に去来させていたのか、それは誰にも分らない。水原弘は、五分ほどしてスタジオに帰って来た。

(村松友視『黒い花びら』河出文庫)

それから始まったレコーディングでも「もっと柔らかく」「ロマンがない」「声が抜けない」「もう一回いきましょう」と、川内康範とディレクターの名和治良、そして猪俣公章からも注文がついて、最後には裸になった水原弘がヤカンの水を飲みながら、マイクロフォンに立ち向かって歌いきったそうです。オーケーが出たのは開始から12時間後で、誰もが「お疲れさま」というあいさつもできないほど疲れ切った状態だったと言います。

それからまもなくして、小西が書いた「水原弘復帰へ、三千万円作戦!」という見出しの記事が、スポーツニッポンの芸能面のトップに掲載になり、カムバック作戦が展開していきました。

 金の話はあざといが、スター歌手にからめればかなり刺激的だ。業界をアッと言わせるこの記事を皮切りに、田村がテレビ、ラジオ、雑誌から有線放送にまで、話題を拡散させる作戦も大筋を決めた。しかし、根底にあるのはやはり作品の良さだ。

(同前)

1967年1月に発売されたレコードは、初動から好調で大ヒットを記録していきます。水原弘はその年の12月に日本レコード大賞の歌唱賞を受賞し、完全復活を印象づけて『NHK紅白歌合戦』にも出場しました。

しかし、水原弘はスターとしての羽振りを気にする気性が治らず、二度三度と借金地獄に陥ってしまいます。その都度、なんとか立ち直ろうと試みましたが、キャバレーからキャバレーの旅の中で歌いながら身体を酷使して倒れ、救急搬送された入院先で1978年7月5日に急死しました。

旅先で水原弘に会った時の思い出を、阿久悠はこう述べていました。

 後年、作詞家になってから、偶然水原弘さんに会った。地方のホテルのバーで、ブランデーのグラスを五つ並べて飲んでいた。ぼくにいい歌がほしいといい、ぼくも気持ちよく頷いたが、結局、その約束は果たせなかった。

(阿久悠『愛すべき名歌たち—私的歌謡曲史—』岩波新書)

一方、猪俣公章は「君こそわが命」のおかげで音楽業界のなかで有名になり、「女のためいき」がヒットしたこともあって、ビクターレコードの磯辺ディレクターに認められて、念願だった専属作曲家となります。その後は「ひとり酒場で」「港町ブルース」「おふくろさん」(歌 森進一)、「噂の女」(歌 内山田洋とクール・ファイブ)、「女のブルース」(歌 藤圭子)など、演歌の大ヒット曲を放っていきました。

そして阿久悠もまた1973年に「冬の旅」、74年に「さらば友よ」と、猪俣公章とのコンビで自らも納得できる森進一作品を発表していったのです。さらにはヒットしなかった「若狭の宿」(歌 牧村三枝子)をベースに都はるみの「北の宿から」を書き、「別れの旅」(歌 藤圭子)で受けた屈辱をもとにして、石川さゆりに「津軽海峡・冬景色」を書くことになります。

次回につづく

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