沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
もっと詳しく

第39回 2018年5月11日掲載
第三部 新たな風を吹かせた作詞家たち

第十章 美空ひばりと阿久悠

縦書きで読む
美空ひばりと阿久悠が初めて相対したのは1976年3月、場所は「森田たまパイオニア賞」のパーティー会場となった東京都内のホテルだった。二人の間を取り持ったのは、美空ひばりと母の加藤喜美枝さんから全幅の信頼を得ていたスポーツニッポンの小西良太郎。そこから阿久悠は美空ひばりが歌うことを想定して、新聞の連載企画に書き下ろしの歌詞を発表していく——。
あまりに大きな存在

1999年に発表された『愛すべき名歌たち—私的歌謡曲史—』(岩波新書)は、阿久悠が幼少期から心を揺さぶられたり、あるいは何かを考えさせられたりした歌の数々を、昭和という時代とともに語った自伝的な歌謡曲論です。自らの精神形成に影響を及ぼした歌や、一世を風靡した大ヒット曲など、100曲が取り上げられています。

その中で初期の「悲しき口笛」と「東京キッド」、中期の「柔」、そして最後の大ヒット曲になった「川の流れのように」と、美空ひばりの歌は4曲が紹介されています。原則として1歌手につき1曲でしたから、破格の扱いだったわけです。

阿久悠は自分と同じ年に生まれたにもかかわらず、美空ひばりがスターとなって歌と映画の世界で活躍している姿を、小学生の頃から強く意識していました。それは美空ひばりが生きている世界に憧れていたからであり、いつかは自分も歌や映画で描かれている東京という大都会に出て生きる、いや、同じような世界で活躍してみたいという、漠然とした目標にもなっていったのです。

しかし瀬戸内海の淡路島の中で、転勤を繰り返す巡査の家に生まれた小学生にとっては、美空ひばりも東京も手の届かないくらい遠くにあり、しかもそれはとてつもなく大きな存在でした。

ぼくは、美空ひばりは、天才少女歌手といった生やさしい存在ではない、と思っている。ファンタジーである。敗戦の焦土が誕生させた突然変異の生命体で、しかも、人を救う使命を帯びていた、ということである。
 だから、可愛いとか、可愛くないとか、子供と大人とかという常識の線引きは許されない。関係ないのである。

(阿久悠『愛すべき名歌たち—私的歌謡曲史—』岩波新書)

最初のヒット曲「悲しき口笛」を12歳で歌った美空ひばりと、野球少年だった自分を比較した阿久悠の文章には、敗戦による大きな傷跡から立ち直ろうとする時代のなか、大人の世界で健気に働くことで日本を明るく照らしていった大スターに対する尊敬とともに、田舎育ちであることに由来するコンプレックスが見られます。

 同じ十二歳のぼくは何をしていたかというと、淡路島の片田舎、人口三千ばかりの漁師町の小学六年生で、禁断の木の実を食った明けくれのように、連日野球にうつつをぬかしていたのである。
 但し、大きな世間的に見てどの程度かはわからないが、学校では秀才であったのである。音譜なしでハーモニカが吹けたから、これも天才だったのである。逆シングルでゴロがとれ、アンダースローのトスがうまかったから、達人だったのである。野球選手の似顔絵を、鉛筆の粉をすりつけて写真そっくりに仕上げることが出来たから、名人だったのである。遊びを考えるのがうまく、少年団やら、探偵団やら、冒険団を組織・統率することにけていたから英雄だったのである。
 秀才で、天才で、達人で、名人で、英雄であるぼくが、どの程度であったかは、この「悲しき口笛」の中に、実物を確認したことのないものが二つあることでも大体の察しがつくというものである。
 〽丘のホテルの赤い灯も……のホテルと
 〽夜のグラスの酒よりも……のグラスである。
 ホテルの方は、町に何軒かある宿屋のようなものというおぼろな認識は持てたのであるが、とつづいて来ると、又、わからなくなったりしていたことを覚えている。
 グラスに至っては、何のことやらさっぱりわけがわからず、日頃自分たちが使っているコップと相似のものであるなどとは思ってもみなかった。

(阿久悠『阿久悠の実戦的作詞講座』スポーツニッポン新聞社出版局)


「悲しき口笛」
作詞 藤浦洸/作曲 万城目正

丘のホテルの赤い灯も
胸のあかりも消えるころ
みなと小雨が降るように
ふしも悲しい口笛が
恋の街角露地の細道
ながれ行く

いつかまた逢う指切りで
笑いながらに別れたが
白い小指のいとしさが
忘れられないさびしさを
歌に歌って祈るこころの
いじらしさ

夜のグラスの酒よりも
もゆる紅色色さえた
恋の花ゆえ口づけて
君に捧げた薔薇の花
ドラの響きにゆれて悲しや
夢と散る


流行歌が大好きだった阿久悠は中学生の頃から、歌詞に出てくる都会の風俗に好奇心をそそられて、必死で歌詞を覚えたと言います。それらの歌はいつまでも色褪せることがなく、『愛すべき名歌たち—私的歌謡曲史—』をまとめるときも、「千曲書かなきゃ気がすまないくらいに、あの頃の歌の存在は大きい」と語っているほどです。

そして歌を聴いて歌詞を読むことで、東京という大都会の気配を感じるとともに、美空ひばりの存在を意識し始めていました。

ビルディングも、ベッドも、地下鉄も、カーブも、ドロップも、すべて言葉を認識するだけで、実物を確認したものは何一つなかったのである。
 そんな他愛ない、哀れな小学生にくらべ、同年の美空ひばりは、ホテルも知っているし、グラスも知っている。何とすごい奴だと感心したのであるから、時代だなあとしみじみ思うのである。
 ぼくらにとって、美空ひばりは、ただ歌がうまい、芸が達者な少女というだけではなかったのである。何か少年たちの中で欠落している部分を事もなげにやりおおせている部分での「すごいなあ」だったのである。

(同前)

逃げていたことへの後悔

阿久悠はどういうわけか、美空ひばりの歌はほとんど知っていたにもかかわらず、口ずさんだ覚えがないと述べています。他の歌手の歌だとがなりたてたり、あるいはハーモニカでメロディーを吹いて楽しんだりしたのに、美空ひばりだけは別扱いだったと言うのです。そしてその理由について、「きっと恥ずかしかったに違いない」と記しています。

 何に対してどう恥ずかしいのか、そのあたりはなかなかに複雑であるが、同年齢の少年としては、美空ひばりに屈し、寄りそい、好きだとか、ファンだとか言うのがはばかられる気持ちがあったのであろう。

(阿久悠『愛すべき名歌たち—私的歌謡曲史—』岩波新書)

中学生になった昭和25年はそろそろ映画を観始めていた頃で、美空ひばりが主演するものも何本か観ています。しかし阿久悠が住んでいた町には映画館がなく、月に1回ぐらいの割合で巡回映画というのがやって来て、小学校の講堂や、夏には校庭などで上映会を開いていました。しかしそこで上映される映画は古く、比較的新しいものを観たいと思えば隣町へ行かねばなりません。

中学生になって5キロほどの道のりを自転車で往復しながら、当時の最大の娯楽だった映画を観るのは、淡路島の片田舎の生活にはない、大都会の生活を目で見て文化に触れることができる貴重な機会でした。阿久悠はそうした映画で動く美空ひばりに出会い、東京という別世界を知るようになったのです。

「東京キッド」も、れんががむき出しの殺風景な倉庫の中で見た。そして、その時の感想も、ああ、この映画でもまた美空ひばりはみなしごなんだ、ということであった。
 美空ひばりの初期の映画、実年齢でいうと十五歳ぐらいまでの映画は、ほぼ役柄としてはみなしごである。天涯孤独でないまでも、親や兄弟姉妹とはぐれているという設定が多い。これは、世相をうつす鏡のように徹底している。

(同前)

ラジオから流れてくる流行歌や映画によって知るにしたがって、しだいに全貌が見えてきた東京は阿久悠にとって、自分が何者かになるために用意された舞台だったのではないでしょうか。東京に出ていく決心はかなり早い、阿久悠が人生で選び取った最初の選択となりました。そのために高校時代の3年間は、東京に出てもすぐに空気に馴染めるようにと、情報収集も兼ねて1000本近い映画を観ています。どの区に何の建物があり、繁華街がどんなふうになっているのか、漫画も小説も読みながら必要な知識をため込んで、すぐに順応するように準備していたのだと言います。

そうしたことによって東京は阿久悠にとって、生涯のテーマにもなっていきました。その原点にあったのが美空ひばりの歌と、彼女が主演した映画でした。しかし、あまりにもその存在が大き過ぎたので、畏敬の念がいつしか畏怖になってしまい、歌番組を構成する放送作家になって距離が近付いた後も、無意識のうちに出会いを避けていたそうです。地続きの世界で活動していたにもかかわらず、なぜか逃げまわっているようなところがあったと後悔の念を記しています。

 ぼくは、偉大な存在であるところの美空ひばりから逃げまわっていて、ついに、真っ正面から対してヒット曲を作らなかったことを後悔した。美空ひばりで完成している種類の歌は作らないというのは、ぼくの一つの見識であり、作家としての壮大な意欲であったのだが、やはり、逃げていたことも、また真実である。逃げた自分を責める。

(同前)

作詞家になった阿久悠が美空ひばりと最初に接点を持ったのは、1970年から71年にかけて2枚のシングル盤に歌詞を提供した時でした。しかし当時は敬して遠ざける存在だと考えていたので、作品を書いて渡したものの、レコーディングにも顔を出さず、当然ながら本人には会っていません。その後にも同じパーティーに出席していながら、決して顔を合わせることがないように、注意深く行動するなどしていたそうです。

 初めてパーティーで会ったときは、会場の端と端にいて一言も言葉を交わしませんでした。ひばりちゃん、なんてびたくなかったし、昔からファンでしたなんて言いたくもなかった。皮肉なことに、同じ音楽業界の中にいながら、僕は昭和の歌謡曲を象徴する美空ひばりを避けて、ほかの歌手に可能性を探っていたんです。

(阿久悠『命のうた「月刊you」とその時代』講談社)

放送作家のまま作詞家としての活動を始めた当時から阿久悠は、流行歌には七五調を基本にした型があり、使われる言葉や描かれる内容がパターン化され過ぎて、表現の幅や発想の自由がないと感じていました。そのことで時代の空気にそぐわなくなっていることに気付いて、それまでの流行歌にはないものを武器にして、歌謡曲の新しい時代を作り出そうとしていたのです。

日本人の好きなメンタリティーが定着していた流行歌の中で、女は男に捨てられて、じっと不幸に耐えながら泣くのが常でした。しかし阿久悠は弱くて悲しそうな女が、泣いている歌詞を書かないようにします。「美空ひばり、船村徹で確立されている歌謡曲は書かない」ということを決めたのも、そのためだったのです。

「また逢う日まで」(歌 尾崎紀世彦)や「ジョニィへの伝言」(歌 ペドロ&カプリシャス)で描かれたのは、別れる時に二人でドアを閉める関係にある「女性」であり、私は私の道を行くと言い残して立ち去る「女性」でした。したがって最初に美空ひばりに書いた作品も、女性が強く生きようと自らを奮い立たせる内容になっています。

しかしながら、惜しむらくは最初の1行が「悲しい酒」の主人公に重なることで、やや中途半端な印象を与えてしまいました。


「それでも私は生きている」
作詞 阿久悠/作曲 井上かつお

盃かさねて泣く夜でも
夜明けを待つならたえられる
おもたい運命さだめとさしむかい
それもいいじゃないか
だめ すねちゃだめよ
だめよ だめよ だめよ
すねてなにになるのさ
ただひとり生きているうちにゃ
夜もある

指からこぼれた幸福は
なんどもなんどもひろうもの
おろかな女といわれても
それもいいじゃないか
だめ すてちゃだめよ
だめよ だめよ だめよ
すててなにになるのさ
このひろい空の下であれば
夢もある

それでも私は生きている
だれよりなにより生きている
苦しみばかりの道づれも
それもいいじゃないか
だめ 死んじゃだめよ
だめよ だめよ だめよ
死んでなにになるのさ
泣くだけでいつもきたけれど
明日がある


美空ひばりとの初対面

「それでも私は生きている」の発売から5年の歳月が流れた1976年3月、阿久悠は小西の提案に同意して毎週土曜日のスポーツニッポン紙上で始めた「実戦的作詞講座」の最終回で、「第十二講 美空ひばり篇」に取りかかろうとしていました。連載の最後を飾るにふさわしいのは美空ひばりであると合意していた小西は、この機会に阿久悠を本人に引き合わせることにします。その時に起こった思わぬ会話について、小西はこのように詳述しています。

 昭和五十一年三月九日夜、阿久と僕はホテルオークラへ出かけた。「森田たまパイオニア賞」を受賞した彼女を囲むこぢんまりしたパーティー。そこでひばりと阿久の初対面同士を紹介、今度の企画のあいさつをするのが狙いだった。
「こちら、阿久悠さんです。それからこちら、美空ひばりさん…」
 何とも不器用なやり方だが、単純明快で行く。この二人にはさまったら、僕にはスマートに見せかける知恵などない。
「クックックッ…」
 ひばりはノドの奥で笑いながら、二人を見比べた。機嫌のいい時の笑い方である。そして僕の方に向き直ると、
「ところで小西さん、あたしと阿久さんと、どっちが好き?」
 真顔で聞いたものだ。
 女王のいたずらである。緊張気味の二人にもう一つショックを与える。返事はおそらくどちらでもいいのだ。眼を白黒させる僕の肩を叩いて、より親密な空気を作る。その上で、彼女と僕の親交のほどを、阿久にアピールする…。
「しかし、びっくりしたねえ、あの時は。ああいう意表の衝き方もあるんだ…と、あとで思ったけれど…」
 後日、阿久はそう言って苦笑いした。彼もひばりも、昭和十二年生まれ、同い年である。映画少年だった阿久は、子供のころからひばり作品を見、やがて彼女の歌とそれぞれの時代を考える仕事についた。歌手として、歌の世界の先輩として、阿久はひばりを尊敬していた。そういう相手の前に出ると、この人はひどく無口になる癖があるが、それも彼女に読み取られていたかも知れない。

(小西良太郎『美空ひばり「涙の河」を越えて』光文社)

小西はこのとき、美空ひばりを阿久悠と対面させることで、あらためて両者の架け橋になったのでした。それを機に本格的な歌づくりが始まる、そんな流れが出来たとも言えるでしょう。

それから阿久悠は、「実戦的作詞講座」で美空ひばりの回になって「肩」を発表したのを皮切りに、何作もの歌詞を書き下ろしていきます。注文を受けて書くのがプロの作詞家だと自負していた阿久悠が、レコード発売の当てがない状態で作詞するのは異例のことでした。美空ひばりという特別な存在に、全力で挑んでいたことが伝わってきます。

 梅雨期かと思えるようなしとしと雨が毎日降りつづいている。
 かと思うと突然、真冬に逆戻りしたような日が間にはさまったりする。折角の桜も、身体と心が萎えていては、ただの花である。
 考えるところがあって、伊豆へ転居した。書斎の窓から春の海が見えるはずであるが、まだその青さを見たことがない。
 色づいて来た樹々の緑は春であるが、空も海もそれを知らない。
 少年時代、少年クラブの発売日を待ちわびたように晴れる日を待っているのである。
「美空ひばりが歌う詞募集」
 の精神に戻って、ぼくも毎回、詞を応募してみようかと思うのである。

    肩
作詞 阿久悠

一、別れたひとの 肩で舞う
蝶々が私の未練です
なんであなたと呼べましょう
春のうららの その中で

二、酒のむひとの 肩先の
小さなふるえが言葉です
なんで惚れたといえましょう
影の涙が見えるのに

三、去り行くひとの 肩に降る
小雨が男の重荷です
なんで私が泣けましょう
秋の日ぐれのその中で

 たまたま今週は四行詞の形式で書いてみたい気分になっただけである。影響されないでほしいと思う。来週はフォークタッチで書いてみるかもしれないし、シャンソンやボップスやファドの匂いをただよわせるかもしれない。
 あくまでも、それぞれが心の中で美空ひばりに歌わせて、感動し得るものを書いてもらいたいのである。

(阿久悠『阿久悠の実戦的作詞講座』スポーツニッポン新聞社出版局)

このように美空ひばりに歌わせて感動し得るものとして、阿久悠が第3週目に発表したのが「舟唄」です。しかも「舟唄」の歌詞の後には美空ひばりに関する考察と、自分が8歳の時に体験した日本の敗戦にまつわる詩が書かれていました。8月15日の終戦がいかに特別な体験であったのか、そのことと美空ひばりがどう関係していたのかが伝わってくる文章なので、長くなりますが最後まで引用します。

    舟唄
作詞 阿久悠

一、お酒はぬるめの 燗がいい
肴はあぶった 烏賊でいい
女は無口な ひとがいい
灯りはぼんやり ともりゃいい
しみじみのめば しみじみと
想い出だけが 行き過ぎる
涙がぽろりと こぼれたら
歌い出すのさ 舟唄を

鷗 なぜ来る お前だけ
港はなれて 何百里
もしや 鷗よ お前の名前
ハマのアケミといやせぬか

二、店には飾りが ないがいい
窓から港が 見えりゃいい
流行はやりの歌など なくていい
時々霧笛が 鳴ればいい
ほろほろのめば ほろほろと
こころがすすり 泣いている
あの頃 あの娘を 思ったら
歌い出すのさ 〔ママ〕唄を

 戦後の美空ひばりの歌をどう受けとめればいいかというと、それは孤児の論理として共感を呼んだといえないだろうか。
 あの戦争で日本人誰もが孤児になったのである。肉親を失ったという意味ではない。精神的によりどころをなくしたさまよえる民族となったわけで、たとえ、家族というものが構成されていたとしても、それは、大人の孤児と子供の孤児が、寒さと飢えをしのぐためにだけ寄りそっていたといえないだろうか。
 美空ひばりの歌、美空ひばりの映画、評判になったもののほとんどが孤児である。
 靴みがきの少年がそうである。花売り娘という形もある。牧場の少女とかリンゴ園の少女とかもそうである。嵐寛寿郎の鞍馬天狗を慕う杉作少年もそうである。
〽私は街の子 巷の子
 というフレーズが、その時代の日本人を一番象徴しているように思う。誰も彼もが街の子であり、家の子でも国の子でもなかったのである。映画や歌は、それを生活の孤児として具象化していたが、人々は精神の孤児として受けとめ、美空ひばりに共感していたのだろうと思う。
 ぼくはどうかというと、次のような詩で始まった戦後を感じる少年であった。

 ……(前略)……
 のろのろと人が歩いている
 病人みたいに歩いている
 空気がないみたいにパクパクしている
 ぼくだけが大声で泣いている
 泣きながら走っている
 みんなのろのろしている
 なんで泣かんのや
 日本負けたんやで
 それなのにみんなのろのろしている

 一九四五年八月十五日
 快晴
 ぼく 八才

 泣けて泣けてとまらない
 日本負けたんや
 明日から日本人は牛にされるんや
 鼻の穴塩でもんで
 輪を通されるんや
 車ひっぱらされるんや
 田圃耕やさせられるんや
 よう働かん奴は
 皮はいで障子紙にされるんや
 ぼくら子供は何やらされるんやろ
 犬の代りに番するんかいな
 猫の代りに鼠とるんかいな
 牛みたいなことでけへん
 〔ママ〕けへんいうても、
 アメリカ人は許してくれへんやろな
 日本負けたんや
 負けてしもたんや
 女は何にされるんやろ
 肉食べられるんとちゃうか
 きっとそうや
 食べられるんや
 アメリカ人は肉好きやもん

 兄ちゃんは死ぬし
 広島も長崎もピカドンで
 七年間も草は生えんいうし
 日本負けるし
 どないするねん
 ……(後略)……

 しかし、美空ひばりの歌も映画も明るかった。孤児の共感を抱き合いながら、人々は笑い、そしてぼくは野球におぼれていた。
 それから三十年、すべては変わったとしても、美空ひばりとぼくらが抱き合う孤児の共感というものは変わっていないと思うのである。

(同前)

美空ひばりに歌詞を書くことは素人にはハードルが高かったのか、応募作品の数はそれまでの11回に比べて、かなり少なかったようです。そのために阿久悠は何度か、応募者を鼓舞するような文を書いています。そこには自らを励ます意味もあったに違いありません。

「我が心の内なる巨像に向かって詞を書いても、書けるものではない」とか、「巨像は心のうちであるから巨像であって、目の前に見すえてひれ伏す種類のものではない」「美空ひばり、あゝ美空ひばりと思い悩みながら、ふつふつと湧いてくる熱情がイメージにつながらないということで、もしも書けないのなら、一度美空ひばりを否定するところからスタートし直すのもいいかもしれない」といった、読者に向けた言葉からそのことを感じてしまうのです。

そして吉田拓郎の「旅の宿」や井上陽水の「心もよう」、キャンディーズの「春一番」を具体的に挙げて、そういった楽曲を歌う美空ひばりだって、すばらしいと想像できるではないかという意見も語っています。その上でやはり、美空ひばりの存在は重くのしかかってくるものだと、正直に告白していました。

 この重さは、ぼくが何らかの方法でとばしてしまわなければならない。考え過ぎ、思い悩みすぎと他人にはいいながら、僕も又、何やらそんなるつぼで詞を書いているということを告白しなければならないだろう。

(同前)

阿久悠は4月から連載された「美空ひばり篇」の中で、「肩」と「舟唄」に続いて重さに苦しみながらも「母の想い出」を発表し、5月に入っても「春夏秋冬」を書いています。

 また書いてみたのである。
 美空ひばりの歌う詞をである。
 注文なしにこんなに書いたことはない。そして、あてなく詞を書いたこともない。
 なぜか書きたいのである。

(同前)

こうして最終的には「肩」「舟唄」「母の想い出」「春夏秋冬」「男と女・昭和篇」「野郎の唄」「少年」と、合わせて7編もの書き下ろし作品を発表したのです。

次回につづく

ご意見・ご感想を
お待ちしております。

お名前

メールアドレス

本文