沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第25回 2017年12月22日掲載
第二部 「ざんげの値打ちもない」という夜明け

第五章「ざんげの値打ちもない」をヒットさせた陰の立役者たち

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「ざんげの値打ちもない」の誕生に、これまで不明だったことや疑問について引き続き触れていかねばならない。ポルトガル民族歌謡ファドの発想がどこからきたか、そして「ざんげの値打ちもない」4番のパートがカットされたのはなぜか? 残されたこれらの疑問に入る前に、ヒットを作り出す背後に隠れたキーマンたちそれぞれのつながりについて語ってみたい。
作戦参謀の役割を務めた小西良太郎

阿久悠がスポーツニッポンの記者だった小西良太郎を知ったのは、「ざんげの値打ちもない」を発表した後のことです。後に当時を振り返って、あたかも文芸時評のように作品論を展開してもらったことで、作詞家になることを決意したとも述べていました。

その人は当時スポーツニッポンの文化部の記者だった小西良太郎である。この出会いもまた、一生の中の何十年かを託すほどの、運命的遭遇であった。

(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社)

 以来37年間、二人は公私にわたって親交を深め、小西良太郎は阿久悠にとって、作詞だけではなく、小説やライフワークとなった「甲子園のうた」などで、創作の現場にも深く関わる重要な存在でした。そんな小西が菅原洋一の「知りたくないの」をヒットさせるために、草の根運動で作戦参謀を務めたのは1965年のことです。

菅原洋一の可能性に賭けたシングル盤の「恋心/知りたくないの」ですが、じつはレコーディングが終わった後になっても、発売のめどは立っていませんでした。というのは過去の実績から判断して、レコードがヒットする確率が限りなくゼロに近かったからです。そこでポリドール・レコードは1000枚をプロダクションが買い取ることを条件に、発売をしてもいいという案を出してきました。販売価格が300円なので、その7掛けとして21万円を保証しないと商品にしてはもらえない、そう言われたことになります。現在の200万円弱に相当しますから、プロダクションにとってはかなりの大金です。

1965年当時は橋幸夫と舟木一夫、そして西郷輝彦という青春スターが、御三家と呼ばれて人気を博していた時代です。レコード会社や各プロダクションは、彼らに続く人気歌手を送り出そうと躍起になりました。その結果、ルックスのいい少年ならば、歌は二の次でもいいという傾向になっていたのです。

小澤惇が菅原洋一とロス・インディオスを連れて独立したのは、それまで彼が勤めていた国際アートセンターというプロダクションが、時流に乗って若手歌手を推していく方針に切り替えたからでした。美少年とは対照的な30歳過ぎの売れないタンゴ歌手と、地味なラテンバンドが整理されることは目に見えていたのです。

自らプロダクションを起ち上げるしかないと覚悟した小澤が、そうした事情をポリドールの担当ディレクターだった松村慶子(おけいさん)に伝えると、こんな会話になりました。

「食べていかれる?」
「ホテル高輪のトロピカルラウンジで歌ってますから、それでなんとか」
 おけいさんは小澤氏の表情から、かたくなな意志を感じとった。
「小澤さん、いくつになった?」
「27歳です」
「それじゃ、失敗してもやり直しがきく年よね。好きなこと、やんなさいよ」

(石原信一『おけいさん――菅原洋一からTMNまで 女性音楽プロデューサーの人間記』八曜社)

それから数日後、おけいさんはその年の5月に結婚したばかりの夫の松村孝司とともに、新宿の喫茶店で小澤との打ち合わせの席を設けました。そしてオーダーしたコーヒーが運ばれてウェイトレスがいなくなったところで、おけいさんはバッグから貯金通帳と印鑑を取り出し、それをテーブルの上に置きました。

「あんまり入ってないけど、これが私達の全財産、使ってよ」
 小澤氏が事務所設立に金銭面の苦労をしているのを見て、おけいさんが自分でできる分ならばと協力を約束してくれたのだ。
「ほら、私達って実家にいるから、お金かかることってないしさ。月に5千円、食費として入れればいいんだし」
 お金のことを口にするのは照れくさいというように、おけいさんの方がもじもじした。
 預金通帳には30数万円入っていた。借用証もおけいさんは要求しなかった。
「ま、一応、私の亭主に『借りるよ』って了解とっといてよ」
 小澤氏は緊張した顔で、預金通帳と印鑑を両手に持つと松村氏に、
「お借り致します」
 と深々と頭を下げた。
「ああ、どうも」
 なんだか夫の立場を急に作られてしまって、バツが悪そうに松村氏は笑った。

(同前)

20代の後半になってポリドールに途中入社したおけいさんにとって、洋楽部に勤務するディレクターだった松村は、3つ年下でしたが会社では先輩にあたります。そして音楽面での良きアドバイザーであったと同時に、制作者としてはライバルという立ち場にありました。

 

1966年の2月に出産したことをきっかけに、おけいさんがその年いっぱいでポリドールを退社した後、松村は邦楽部のポップス班のディレクターに異動となり、翌年2月にデビューするザ・タイガースを担当してグループ・サウンズのブームを巻き起こします。(注)

小澤はおけいさんと松村の応援を得て中野区さぎのみやにある自宅に電話をひいて事務所を設立すると、さっそくポリドールとレコード買い取りの契約を結び、1965年11月にレコード発売できるところにまでこぎつけました。そのときに何かと相談にのってもらったのが、スポーツニッポンの文化部記者の小西良太郎です。生涯の友となった小澤との出会いについて、小西は著書『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』に、こんなエピソードを記しています。

美少年なら歌はどうでもいいという風潮に嫌気がさした小澤は、昭和四十年に菅原とロスインを持って独立、小澤音楽事務所を興し、細々と商売を始めたばかり。僕は僕で前々年の三十八年夏、スポーツニッポン新聞社の五輪対策人事のはじっこで、芸能担当記者に異動した駆け出しだった。
 小澤が持ち込んできた、オープン・リールのテープに吹き込まれていたのは、菅原の「知りたくないの」と「恋心」の二曲。それまで出した何枚かのシングルは全然売れず「これが最後!」とポリドール・レコードから引導を渡されていると言う。一曲三千円ポッキリの吹き込み料で、たとえ売れても印税などない崖っぷち歌手。周囲はもはや彼が売れるなどとは思っていなかった。
「ねぇ、いいでしょう? そう思わない?」
 菅原の歌を何度も聴かせて、小澤は言い募る。

(小西良太郎『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』幻戯書房)

「知りたくないの」と「恋心」のどちらをメインにすればいいかという相談を持ちかけられた小西ですが、小澤とはこのとき、まだ一、二度会っただけの関係にすぎません。しかし歌の良し悪しやヒットするかしないかについて、小西は自分の耳に自信を持っていました。だから背水の陣で真剣に質問してくる小澤に対しては、建前ではなく本音で話しました。そのうえで知恵も働かせて、スポニチの紙面で競作になったことを取り上げることで、音楽業界内に話題性をふくらませていったのです。

「恋心」だろうと僕は即座に答えた。立場やキャリアなど度外視の乱暴なやりとりだが、僕はもともと大の流行歌好き、そこそこの聴き手の自負があったし、「恋心」は越路吹雪、岸洋子も歌う情報を持っていた。取材部門に移る前は、芸能面のレイアウトを担当、見出しをつけた体験が五年ある。とりあえず競作の話題性で、知名度を稼がせるくらいの知恵もあった。
 芸能プロ社長と音楽担当記者の“ほやほや同志”の作戦は、その後三年の長期戦になる。「恋心」は岸洋子盤がヒット、菅原の知名度はちょぼちょぼで終わった。

(同前)

このとき以来、小西は小澤の作戦参謀というべき、重要な役割を務めることになっていきます。崖っぷちで臨んだ菅原洋一の「恋心」は、買い取りの1000枚を含めて、かろうじて最低ラインの数字はクリアしました。しかし次のチャンスがいつやって来るかは見えてきません。

そこで菅原本人も含めて、関係者の誰もがひそかに本命だと思っていたB面の「知りたくないの」を、ネオン街で働く女性たちにターゲットを絞り、草の根運動によって広めて突破口を開くという作戦に切り替えていきます。それが1967年になってからようやく実を結び、菅原洋一が思いのたけを込めて歌い続けたことで、奇跡的なヒットを呼び起こすことになるのです。

有線放送から生まれた最初のヒット曲

「知りたくないの」を最初に気に入ってくれたのは、銀座や赤坂などのネオン街で働くホステスさんたちです。「あなたの過去など 知りたくないの」という歌い出しのフレーズには、彼女たちの心に訴えかけるリアリティーがあったのでしょう。しかしこの段階ではまだ東京の一部における現象でしかなく、レコードのセールスに影響が及ぶまでにはさらに時間を要しました。

口コミと有線放送の後押しを頼りにした草の根運動は3年にも及び、長期戦の中で新しい動きがあれば、小西のところに相談が持ち込まれてアイデアが練られる、という流れが出来ていきます。それが3年後に北原ミレイをデビューさせるときに、どういう歌手に育てていけばいいのかという方向性や、大胆な作品が書けると見込まれた阿久悠が、作詞家として起用されるところにつながっていきます。そうした関係が築かれていったのは、お互いにまだ音楽業界では駆け出しの存在であり、小西が言うところの“ほやほや同志”だったからです。

その当時、東京の品川区にある泉岳寺の隣にあったホテル高輪では、1階に併設されていたナイトクラブの「トロピカルラウンジ」が、石原裕次郎やフランキー堺といった有名スター、人気スポーツ選手などが利用する大人の社交場として重宝がられていました。深夜になると銀座や赤坂などのバーやクラブから、仕事を終えて繰り出して来る水商売の女性たちが常連さんとしてやってきます。店がはねた後で客と待ち合わせをしたり、仲間同士でウサを晴らしたりするのに、午前3時まで営業していた「トロピカルラウンジ」は格好の場になっていたのです。「知りたくないの」に確かな手応えを感じていたのは、そこで顔の見える客に歌っていた菅原洋一でした。

 毎夜、数十人のお客様を相手に「知りたくないの」を歌う。それは、広い砂漠に水をき、収穫を得ようとするにも等しい行為です。けれども、それがどんなに途方もない夢だったとしても、まずは水を撒くこと、そうしなければ絶対に収穫なんて得られないのです。限られた場であればこそ、一回一回のステージが大切。そしてその分、歌に思いのたけが込められる。そこにはそんな見えない効果もあったのかもしれません。

(菅原洋一『忘れな草の記~歌・人生・愛~』NHK出版)

菅原洋一の歌う「知りたくないの」を聴くためにという理由で、ホテル高輪の「トロピカルラウンジ」に足を運ぶホステスさんが増えだしたのは、1966年の夏頃からです。客席のカップルはお目当ての歌が始まると、待っていましたとばかりにフロアーに出て抱き合い、ダンスを踊る光景が見られるようになりました。やがて「いい歌がある」と同僚のホステスさんや客、従業員などに口コミで広がり、急速に普及しつつあった有線放送から流れることで、「知りたくないの」は喫茶店やスナック、バー、居酒屋、パチンコ屋などから少しずつ世の中に浸透していったのです。

有線放送の波及効果については、菅原洋一がこんな体験を述べています。

町を歩いていて、一軒のパチンコ店から「あなたの過去など」という僕の歌声が聞こえてきて、ちょっといい気分になって、少し歩くと、また別のパチンコ店から「あなたの過去など」と聞こえてくる……。これは偶然ではない、それだけ僕の歌が売れているんだと気づいた時の驚きにも似たうれしさ、それはもはや、言葉で表すことなんてできません。有線のリクエスト回数が増えると、「トロピカルラウンジ」に実際に歌を聴きに来るお客様も増えるようになりました。

(同前)

目立たないながらレコードも売れ始めていたのですが、ポリドールは気が付いていませんでした。ところがある日、札幌支店の支店長から本社に要望が寄せられます。それは札幌市内のダンス教室で「知りたくないの」が流行っていて、レコードが急に売れ始めて在庫がなくなったので、早急に品物を回してほしいという内容でした。そこで調べてみると、本社にも在庫がないことが判明したのです。全国から注文が入り始めたこともあって、「知りたくないの」に火がついていることに気付いたポリドールは、A面とB面を入れ替えたジャケットを作り、1967年1月に発売し直しました。そして遅ればせながらのプロモーションを開始し、各地の有線放送所を攻めていきます。やがて静かなヒットとなってきた「知りたくないの」は、ラジオからも盛んに流れるようになり、レコードの売り上げも順調に伸びてヒット・チャートを上昇し始めたのです。

6月にはマスコミ向けの「25万枚ヒット記念パーティー」が催されました。それがスポーツ新聞紙上などで大きく取り上げられて、苦労の末にやっとチャンスを摑もうとしている菅原洋一に脚光が当たります。密着取材してきた小西がスポニチに書いた、「知りたくないの」という歌に惚れ込んだ男たちのヒューマンドキュメントが決定打となりました。

こうしてキャリアを積んだ実力派の歌手として認知され始めた菅原洋一は、9月26日に東京・大手町のサンケイホールで初のリサイタルを開催し、一流歌手の仲間入りを果たします。さらには年末の『NHK紅白歌合戦』にも初出場し、日本全国に広く知られることになったのです。

プロダクションの買い取り1000枚を含む2000枚からスタートしたレコードの売り上げは、年末までに80万枚を超えてポリドール創業以来の高記録を達成しました。「知りたくないの」は口コミから火をつけて話題をふくらませる草の根運動によって、宣伝媒体としては重視されていなかった新しいメディア、有線放送から生まれた最初のヒット曲になりました。

発売してから火がつくまでに時間がかかったことや、ヒットの兆しが見えたところでジャケットが変更されたことなどは、3年後の「ざんげの値打ちもない」と類似しています。

音楽出版社J&Kの原盤制作第1号「コモエスタ赤坂」

ポリドールを1967年の初頭に退社したおけいさんが、六本木にあった小澤音楽事務所と同じビルの2階に小さなオフィスを構えたのは、その年の11月のことです。そのときにおけいさんがパートナーとして連れてきたのは、浅川マキのプロデューサーとなって活躍することになる寺本幸司でした。彼はおけいさんがディレクターとしての手腕を期待されて、マイナー・レーベル「アビオン」に参加したときに知り合った若者です。

「マイナー・レーベルはアメリカでメジャーなレコード会社の発想にない、より自由で新しい音楽を求めてできたものです。既に数々のヒット曲を生み、圧倒的に若者達の支持を集め、その影響は世界的に広がっています。日本でも必ず既存のレコード会社とは違った戦略のマイナー・レーベルの時代が到来します。我々はその第一歩をこの手で記したいのです」

(石原信一『おけいさん――菅原洋一からTMNまで 女性音楽プロデューサーの人間記』八曜社)

おけいさんは寺本が熱く語る言葉に含まれていた、音楽にかける夢に賛同してアビオン入社を決めたと言います。一見すると生意気そうなタイプでしたが、寺本が語る夢には自分と共通するものがあることを、おけいさんは最初から強く感じていたのです。

専属作家制度の中でシステマティックに楽曲を作っていたレコード会社で、その保守的な体質になじめなかったおけいさんは、自らが巷に足を運んで若者たちが歌いたい歌を探してきて、それを世に出すことからキャリアを積んできました。だからこそ、まだ名もない若い作詞家や作曲家を積極的に起用し、邦楽と洋楽のジャンルも飛び越えて、自分が信じられる楽曲にこだわってきたのです。それまでにはない歌を求めて、常に新しい可能性を探してきた自分の歩みと、寺本の語る時代感覚や未来への展望は、根底の部分で重なっていました。

しかし寺本が夢を語って理想を求めたマイナー・レーベルのアビオンは、スタートして半年もたたずに、資金不足のために立ち往生してしまいました。そして新規事業からの撤退を余儀なくされてしまうのです。

ただ一人のプロデューサーだったおけいさんは、毎月2枚から3枚のシングル盤を発売するローテーションに追われて、時間をかけて楽曲に取り組むことができませんでした。そんな状況で先々について悩んでいたところに、ひょっこり顔を出したのが小澤惇です。

「おかげさまで菅原の『知りたくないの』に本格的に火がついて、事務所の方は軌道に乗りそうです」
(中略)
「そこで相談なんですが、音楽出版を作ろうと思うんですよ。日音の村上さんにお会いして音楽出版というのはどういう仕事か聞かせてもらったんです。これからは音楽出版が時代をリードしていく気がして。よかったら一緒にやってもらえませんか」

(同前)

小澤の提案は小澤音楽事務所に所属する菅原洋一とロス・インディオス、浅川マキなどの楽曲を制作するために、音楽出版社を設立するので参加してほしいというものでした。こうして経理とデスクを兼ねた机一つと応接セット、それにピアノという簡素なオフィスがスタートしたのです。

ただしこのとき、J&Kには人材が揃っていました。アビオンでは満足なデビューを果たすことができなかった歌手の浅川マキ、チャンスがあればすぐにでもソングライターとして成功が見込める中村泰士、ビクターとの契約が切れてカムバックを狙っている佐川満男、さらにはディレクター志望の若い男性2名が、無給でいいから働きたいと加ってきたのです。

とりあえず主要メンバーがしなければならなかったのは、オフィスの家賃と電話代を稼ぎ出すことでした。二人のアシスタントにも交通費ぐらいは支給しなければならないので、おけいさんと寺本幸司は当分の間、無給で働くことにします。

音楽出版は著作権を管理するのがメインの仕事ですが、当初は管理楽曲がなくゼロからの出発になりました。オフィスで待っていたところで、作品が舞い込んでくることはありません。手をこまねいて無収入でいるわけにはいかないので、おけいさんと寺本幸司は売れっ子だった作曲家の浜口庫之助のもとで、嘱託として雇ってもらいました。そして1人50000円ずつ支給される手当を、会社の収入に計上しました。しかし、何もない、まったくゼロからの出発には、どこか爽快なものがあったそうです。

「小沢さんと私で作った会社だからって遠慮することないのよ。Jが小澤さんで、Kが私なら、J&Kの&が一人分あまってるじゃない。&が寺さんよ」

(同前)

翌年の春、おけいさんはJ&Kが原盤制作する最初の作品として、小澤音楽事務所のロス・インディオスが歌っていた「コモエスタ赤坂」をレコーディングしました。2年前にポリドールのディレクターだったときに手がけたデビュー曲は、結果的に失敗に終わっています。その雪辱を期しておけいさんが選んだ「コモエスタ赤坂」は、自らが巷に足を運んで探してきた楽曲です。アビオン時代に“穴ぐらバー”という場所に行ってみたところ、小編成のラテンバンドが歌っていたのを耳にして「これはいける!」とひらめき、世に出すチャンスを狙っていたのです。

1968年6月にポリドールから発売された「コモエスタ赤坂」は、まったく無名の作家による楽曲にもかかわらず、ネオン街から火がついて順調にヒットし始めました。ここでもプロモーションの柱になったのは有線放送で、ロス・インディオスが東京の夜の盛り場で出前演奏するという、体を張った作戦で話題を盛り上げます。それがスポーツ新聞には格好のネタになりました。

幸運だったのは出前演奏に行った先のクラブで、弾き語りの歌手によって歌われていた「知りすぎたのね」という歌に出合ったことです。「コモエスタ赤坂」と同じように、おけいさんは「これはいける!」とひらめきました。するとその曲は偶然にも、おけいさんが見出したなかにし礼が作詞作曲した楽曲だったのです。「コモエスタ赤坂」に続くシングルとして、「知りすぎたのね」はロス・インディオスに連続ヒットをもたらすことになりました。

中村泰士と佐川満男の「今は幸せかい」

おけいさんが1966年に「夢は夜ひらく」のデモ・テープを聴いた時から、その歌声に強く惹かれていた佐川満男のカムバック作が生まれたのも、1968年のことです。作詞作曲した中村泰士はJ&Kに籍を置かせてもらったことによって、ソングライターとして自信を与えられたと語っています。

「今は幸せかい」を作る前に、おけいさんが浜口庫之助さんを紹介してくれたんですよ。原宿の中華料理店でお会いして僕が緊張しまくってたら、浜口先生に「君が『夢は夜ひらく』を書いたのか」って聞かれてね。何枚売れたのかと。当時50万枚ぐらいは売れたと答えたら、「君は50万人という人の数を知っているか。すごい人口だ。その中に君は一回身を置いたんだから、もう一回身を置けるよ」って言われて。それが僕のすごい自信になりましたね。

(同前)

ソングライターを育てるという仕事は音楽出版社にとって重要な業務の一つです。大ベテランのヒット・メーカーだった浜口庫之助に会わせることによって、おけいさんは中村泰士の成長を促しました。そして彼は自分に自信を持てたことで、「今は幸せかい」を生み出すのです。電話で最初に歌ってもらった時のことを、おけいさんがこう述べています。

泰士さんには、私がこれだ!って思う曲をもう一度作ってよと、いつも言ってたの。彼もJ&Kでレッスンの先生を続けてすっかり身内の気分でいてくれたしね。佐川もようやくビクターとの契約が切れて、J&Kでレコードが作れるようになって、泰士さんは何曲も歌を作ったけど、でもこれって思うものはなかなか生まれなかった。
 ある夜、泰士さんから電話がかかってきて、曲ができたって言ってきたの。電話口で彼が歌ってくれた。ぞっとして、鳥肌が立った。これだ、これだって。それが「今は幸せかい」だった。彼の実話を歌にしたものだとすぐわかった。

(同前)

おけいさんは以前に中村泰士から、アパートで一緒に暮らしていた女性が、突然いなくなったという話を打ち明けられたことがありました。なかなか道が開けてこない鬱屈の日々の中で、恋人にも愛想を尽かされたという話を聞いて、その日はひと晩、一緒に飲んで付き合ったのです。

電話で聴いた歌に鳥肌が立ったのは、自らの心情を包み隠さずに、誰にでもわかる素直な言葉で歌にしていたからでした。


「今は幸せかい」
作詞・作曲 中村泰士

遅かったのかい 君のことを
好きになるのが 遅かったのかい
ほかの誰かを 愛した君は
僕をおいて 離れてゆくの
遅かったのかい 悔んでみても
遅かったのかい 君はもういない

若かったのかい ふたりとも
傷つけあうのが 恐かったのかい
君は君の 心を知らず
僕は僕の 心を知らず
若かったのかい 悔んでみても
若かったのかい 君はもういない

今は幸せかい 君と彼は
甘い口づけは 君を酔わせるかい
星を見つめて 一人で泣いた
僕のことは 忘れていいよ
今は幸せかい 悔んでみても
今は幸せかい 君はもういない


その翌日、中村泰士は佐川満男のアパートに行ってデモ・テープを作りました。そして出来上がったデモ・テープを聴いてもらうために、スポニチの小西に連絡します。

「できました! これです!」
 ある日僕は、息せき切った二人に呼ばれた。聴かされたのが「今は幸せかい」で、中村の作詞・作曲、佐川が歌ってなかなかの作品である。二人が何とか窮地を脱出しようと、合宿まがいの暮らしをしてやっと作りあげたという。

(小西良太郎『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』幻戯書房)

小西はデモ・テープを聴いて、ヒットは間違いないという判断を下しました。いずれのレコード会社でも触手を動かすのではないか、そう考えて小澤惇とともに動き始めます。

 悪のり癖強めの僕は、さっそく二人の売り出しにかかる。相棒は菅原洋一の「知りたくないの」で当てた小澤音楽事務所の小澤惇社長。無名の菅原を第一線に送り出すには、三年の月日を要したが、僕はその作戦参謀だった。誤解を避けるために書けば、僕は歌社会側へ片足を突っ込み、二足のわらじをはいて収入を得ていた訳ではない。いい楽曲があり、それに賭けた男たちが居れば、その芽を育てて話題性をふくらませ、体験したエピソードを織りまぜたヒューマンドキュメントをスポニチに書く。手間暇はかかるが、これが僕流の取材と記事づくりの一つだった。

(同前)

ところが佐川満男をカムバックさせるプランを小西が考えても、思ったようには協力者が集まってきませんでした。声をかけたレコード各社のディレクターたちは、「作品は買うが、佐川はいらない」という反応だったのです。

佐川は人気の峠を越えたいわば落ち武者。ビジネスにするにはリスクが大きいと、判断は冷酷である。ロカビリー時代の彼らは相当に羽目をはずした。その反感が一部に残っていたかも知れない。

(同前)

「いい楽曲だから、他の歌手で」というオファーもありました。しかしおけいさんは、「今は幸せかい」という楽曲と佐川満男の歌に、絶対とも言える自信を持っていました。音楽出版社が制作するレコードは本来、企画の段階か、あるいはデモ・テープを作ってからレコード会社に持ち込みます。しかしこの作品に限っては自分たちの手で完成させた音源を、巷で評判にしてレコード会社の方から買いに来るようにしたいと思っていたのです。

そこで小西は作戦を変更し、その頃に大ヒットしていたザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」からヒントを得て、「自費制作で突破口を開こう!」というアイデアを形にしていきます。綿密に組まれた作戦のメンバーは小澤音楽事務所の小澤惇社長、楽曲を制作するプロデューサーの松村慶子、プロモーション部隊は寺本幸司と東芝レコードの宣伝マンだった田村廣治です。作戦参謀だったスポーツニッポンの小西良太郎を含めて、このメンバーはそっくりそのまま、2年後に北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」をヒットさせる陰の立役者たちだったのです。


 

(注)松村はプロデューサーとして1972年に独立するとダイヤモンド音楽出版を設立、「くちなしの花」(渡哲也)や「昭和枯れすすき」(さくらと一郎)など、演歌のヒット曲を世に出していきます。その一方では作曲家としても活躍、小田島和彦の名義で書いた「どしゃぶりの雨の中で」は和田アキ子の最初のヒット曲となり、「むつひろし」のペンネームでは「グッド・ナイト・ベイビー」(ザ・キングトーンズ)、「ちっちゃな時から」(浅川マキ)、「八月の濡れた砂」(石川セリ)といったユニークな作品を残しています。(戻る)


次号掲載:1月19日(金)

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