沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第36回 2018年4月13日掲載
第三部 新たな風を吹かせた作詞家たち

第七章 「石狩挽歌」誕生の背景

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なかにし礼が文芸性の高い歌づくりに挑んだ背景には、事務所とレコード会社を移籍した北原ミレイの勝負作だという事情とともに、原盤制作を行っている日音からの強い要望があった。歌唱力に定評のある北原ミレイは、TBSが主催する第5回東京音楽祭に挑戦し、国内大会で日本代表に選ばれる可能性に賭けていた——。
東京音楽祭に照準を合わせたハイレベルの作品

1969年から70年は世界中が変革の波におおわれて、政治的にも文化的にも激動の時代となりました。そうした状況を反映するかのように日本の音楽シーンにも、歌や演奏を通じて自分の主張や考えを表現する若者たちが登場して来ます。自然発生的に新宿西口に集まったフォークゲリラと呼ばれる若者たちが、警察による規制で排除されて社会的な問題になったのは69年の6月です。日本初の野外フェスティバルとなる「全日本フォークジャンボリー(通称・中津川フォークジャンボリー)」が、岐阜県恵那郡坂下町(現・中津川市)のはなで開催されたのは8月上旬でした。

大阪では高石ともや、五つの赤い風船、高田渡、岡林信康、はっぴいえんどなど、優れたアーティストを輩出することになる日本初のインディーズ・レーベルのURC(アングラ・レコード・クラブ)が2月にスタートしています。東京でも規模の小さなレーベル、エレックレコードが発足して1970年から吉田拓郎や古井戸、泉谷しげるなどが輩出されます。

メジャーなレコード会社やプロダクションにも新たな動きが出始めて、中学3年の時に「プリーズ・プリーズ・ミー」に出会ってビートルズに熱中したという井上陽水が、地元・福岡の放送局の紹介でホリプロダクション(現・ホリプロ)と契約し、設立間もないレコード会社のCBSソニーから1969年に、アンドレ・カンドレという名前でデビューしています。

忌野清志郎を中心に東京国分寺に住む高校生の小林和生と破廉ケンチが結成したRCサクセションも、1970年に東芝レコードからデビューを果たしました。いずれも当時の言葉でいえば自作自演の歌手やバンドで、彼らはそれまでの歌謡曲とは一線を画したオリジナル曲によって、新しい音楽の流れを生み出していくことになります。

そうした時期に始まった音楽イベントが「東京国際歌謡音楽祭」で、これは楽器とオートバイのメーカーだったヤマハの川上源一社長が、7月にイタリアとギリシャの音楽祭を視察して発案したものです。わずか4カ月という、信じられないほどの短い準備期間で、1970年の11月に開催されました。それでも47カ国から応募があり、本選に向けて44曲が選ばれて、11月20日から東京の日本武道館で3日間にわたって、“世界一のポピュラーソング”を目指して競い合ったのです。

その時に第1回の栄冠に輝いたのは、イスラエルからやって来た男女のデュオ、ヘドバとダビデが歌った「ナオミの夢」でした。そして大会ではヘブライ語で歌った歌詞を、日本に滞在している間に日本語訳で吹き込んだレコードが年末に発売されると、予想外の大ヒットを記録したのです。その成功によって翌年以降は、名称が「世界歌謡祭」に改められて、毎年恒例のイベントとして定着していくことになりました。

■ヘドバとダビデ「ナオミの夢」

しかし主催するヤマハ音楽振興会の理事長でもあった川上源一の意向が強く反映された「世界歌謡祭」は、アマチュア向けのコンクールだった「ヤマハ ポピュラーソングコンテスト」出身者に有利な選考になって、しだいにヤマハのスペシャル・イベントといった様相を呈していきます。それに対抗するかたちで、プロのソングライターと一流歌手が参加する世界規模の音楽祭を起ち上げたのが、開局20周年を迎えるTBSでした。

財団法人ポピュラー音楽振興会を組織した同局は、渡辺正文プロデューサーを中心に1972年から「東京音楽祭」を始めることにしたのです。この音楽祭は春から初夏に国内大会を行い、そこで選抜した楽曲と歌手が海外からの応募曲および歌手と世界大会で競うことで、優秀楽曲とアーティストを顕彰する仕組みでした。そのためにTBSは2月6日には急遽、『歌は世界に』という番組を設けています。

番組では有名歌手も新人歌手も等しく厳正な審査で選ばれるという、開かれた選抜システムを謳いました。審査するのは服部良一委員長を筆頭に、中村八大、浜口庫之助、山本直純、小林亜星といった作曲家に加えて、蘆原あしはら英了えいりょうや荻昌弘、岡野弁などの評論家と、抽選で選ばれた500人の視聴者でした。

番組が始まって1週目は、出場した5組の中から尾崎紀世彦、平田隆夫とセルスターズ、シモンズが選ばれました。しかし2週目はトワ・エ・モワしか残らず、第3週も選ばれたのはザ・ピーナッツだけで、五木ひろし、ペドロ&カプリシャス、南こうせつとかぐや姫らが落選しています。4週目には森進一ほか出場した全員が落選してしまいました。5週目も布施明とガロが通過したものの、レコード大賞歌手だった佐良直美が落ちるなど、予想外の波乱が続きました。そのためにレコード会社やプロダクションから主催者側に、苦情と不満が数多く寄せられたそうです。

東京音楽祭に日本の歌手が出場するには実力だけでなく、すぐれた楽曲に恵まれることが必須でした。そういう意味ではソングライターたちによる、楽曲のコンテストという面があったのです。ただし、後に名曲といわれるようになった阿久悠と森田公一のコンビによる作品、和田アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」も予選で選外になっています。

第1回の国内大会で難関を突破して出場資格を得たのは、加藤登紀子、芹洋子、オフ・コース、ブレッド&バター、西郷輝彦、深町純らの20組です。そして伊東ゆかり、尾崎紀世彦、トワ・エ・モワ、布施明、水原弘、雪村いづみが上位の6組に選ばれて、フリオ・イグレシアスやリック・スプリングフィールドなど、来日した歌手たちと世界大会で競い合いました。

その結果、海外からやって来たポール・モーリアなどのゲスト審査員と、各国の大使や公使による合同の審査によって、「私は泣かない」(作詞 千家和也/作曲 すぎやまこういち)を歌った雪村いづみが、グランプリに選出されたのです。

続く第2回は尾崎紀世彦、鹿内孝、坂本スミ子、布施明、森山良子の5人が国内大会を突破し、新たに設けられたゴールデン・カナリー賞を授与されました。その後の世界大会でグランプリに選ばれたのは、アメリカのミッキー・ニューベリーが歌った「祈りの詩」です。この時は来日ゲストとしてサミー・デイヴィス・ジュニアとジャクソン・ファイブがライブを披露したほか、オリビア・ニュートン・ジョンやポール・ウィリアムスなどが参加しています。

第3回の国内大会では新人部門のシルバー・カナリー賞が設けられて、麻生よう子が「逃避行」で選出されています。そしてゴールデン・カナリー賞に選ばれたのは、五木ひろし、布施明、ザ・ピーナッツの3組でした。この年は「天使のささやき」が世界中でヒットしていたザ・スリー・ディグリーズが、アメリカから同曲で参加して本命視されていましたが、本番で番狂わせが起こります。グランプリに選ばれたのはカナダから来た13歳の少年、ルネ・シマールだったのです。それを選んだのが特別審査員として参加していた、フランク・シナトラだったということが、後になって明らかにされています。

そんな経緯をたどって、年を追う毎に注目度を増していた東京音楽祭に挑むことを前提に、北原ミレイのスタッフは新曲を発売するタイミングを計っていました。したがって楽曲の依頼を受けたなかにし礼には斬新で、しかもハイレベルの作品が望まれていたのです。そうした事情を踏まえてなかにし礼は、歌づくりに関してこんな文章を残しています。

 日本の歌謡曲にはある程度の守備範囲、これまで歌にしてきた領域とでも言うべき世界があります。歌謡曲の歴史は、その世界を広げてゆく開脚運動をともなって進んできました。われわれ歌づくりをする人間は、一度でもいいからそうした、歌の世界の間口を広げてゆく作業をしないことには存在理由がありません。既存の領域や常識のなかでのみ歌をつくることは、結局は人のつくった歌の後追い三味線になってしまいます。誰も試みたことのないジャンルで新しい作品をつくり出す――そんな作業をしたときに、作詩という営みはとてつもない充実感をもたらしてくれるのです。
「石狩挽歌」が出来上がったとき、私のなかにはこんな歌はかつてなかったという想いがありました。

(『NHK知る楽 探究この世界 なかにし礼』2009年8・9月号 NHK出版)

なかにし礼は会心の作品が出来上がったことで、作曲する浜圭介に電話で「ソーラン節をよく聴けよ。あのテンポで書いてくれ」と、意向を伝えたのです。

「ざんげの値打ちもない」の呪縛から逃れて

北原ミレイはデビュー曲の「ざんげの値打ちもない」を歌うに当たって、事務所が打ち出した方針に従って、笑わない、しゃべらない、うつむいて歌うというイメージを守っていたそうです。それにより、大胆かつ鮮烈な印象を与える歌でヒットをものにしたわけです。したがって2曲目のシングルも同じ傾向の作品、「棄てるものがあるうちはいい」が阿久悠によって作られました。

当時の心境を「私としては『また暗い歌なの……』っていう気持ちもあって、正直いうと嬉しくなかったんです。本当はロマンティックできれいな歌がうたいたかったから……」と吐露しています。


「棄てるものがあるうちはいい」
作詞 阿久悠/作曲 村井邦彦

泣きぐせの 酔いどれが
ふらふら 行く先は
波しぶく桟橋か 男のいる町か
ぼろぼろの手紙は
別れのものだろが
死ぬことはない 泣くことはない
棄てるものがあるうちはいい

まだ若い やせた娘が
泣き泣き 行く先は
街角のうらないか はずれの教会か
星のないさだめと
うらんでいるだろが
死ぬことはない 泣くことはない
棄てるものがあるうちはいい

家を出た 二人づれ
だまって 行く先は
別々の駅なのか 手紙を書く場所か
愛さえも疑い くやんでいるだろが
死ぬことはない 泣くことはない
棄てるものがあるうちはいい


阿久悠は「ざんげの値打ちもない」と比較して、「棄てるものがあるうちはいい」について次のように解説しています。

前者が情念ならこちらは情景で、しかし、ぼくは、映像を無声で見せて悲しみと重さを想像させるこの詞は好きであった。
 二番の歌詞で、「まだ若い やせた娘が 泣き泣き行く先は……」というのがあるが、泣き泣きとか、抱き抱きとか、言葉を重ねて進行形を感じさせる使い方は、その頃意識的にやっていたことである。

(阿久悠『なぜか売れなかったぼくの愛しい歌』河出文庫)

しかし「棄てるものがあるうちはいい」は前評判の割には、ヒットに結び付きませんでした。そこでもう一度、同じ路線の「何も死ぬことはないだろうに」が作られることになります。そのために北原ミレイは本来の自分自身とはかけ離れた、時代の陰を負った主人公の歌を3作、2年間にわたって歌い続けることになったのです。

もともと活動的で明るい性格であり、白やピンク、あるいは赤などはっきりとした鮮やかな色が好きだったのに、求められるのは寡黙で黒のイメージでした。そこで生じた虚像と実像とのギャップで、心が引き裂かれるような苦しみを感じていたようです。

それでも1972年5月になって、ようやく希望していたタイプの楽曲「流れる」(作詞 阿久悠/作曲 村井邦彦/編曲 馬飼野まかいの俊一)を歌えることになりました。しかしセールス的には振るわず、さほど反応がないままに終わります。そこで5枚目のシングルではソングライターの交代が行われ、10月に「別れの匂い」(作詞 山上路夫/作曲 鈴木邦彦/編曲 青木望)が出ています。続いて1973年4月に寺山修司の作詞による「海猫」(作曲 平野秀典/編曲 小谷充)にも挑みましたが、これも振るいませんでした。

そこで北原ミレイはしばらく活動を休んだ後、1974年に設立されたばかりのプロダクション、研音に移籍しています。それにともなってレコード会社もワーナーパイオニア(現在のワーナーミュージック・ジャパン)に移り、気持ちも新たに歌っていこうと75年1月、「海を見るなら」(作詞 純愛児/作曲 かこいヒロ)という哀愁が漂う落ち着いたポップスを発表しました。

そして次作でようやく、以前から歌いたいと希望していたなかにし礼に、作品を提供してもらえることになったのです。北原ミレイはロマンティックなラブソングを歌いたいと、自分の希望をスタッフを通じて伝えています。

しかし原盤制作を行う日音のスタッフから、東京音楽祭に出場して世界大会を目指すための作品という命題を与えられていたなかにし礼は、文芸性の高い歌づくりに取り組もうと、北原ミレイの要望はもとより、あらゆる雑念を捨てて閃きを待ったと述べています。

 北原ミレイはそれ以前、阿久悠が作詩した「ざんげの値打ちもない」という作品で鮮烈なデビューを果たしましたが、それ以後五年間はなかなか売れない状況にありました。そこで私のところに依頼があったのです。「ざんげの値打ちもない」は非常によい作品でしたから、それ以下の歌は書けないという意識はたしかにあった。ヒットメーカーとしての自負として、それは当然です。でも、歌づくりの本質においては、そうした想いは「雑念」といってもいいものなのです。
 歌をつくるとき、いろいろな雑念が浮かんでは消え、消えてはまた浮かんできます。しかし、原稿用紙に向かった瞬間、あるいは鉛筆を削り始めた瞬間、それらすべての雑念は消えてなくなり、ただ作品と向き合うだけの時間が訪れるのです。つくり手のテンションを高めるためにも、雑念はあったほうがいい。雑念を燃やした炎の熱によって気球は上昇する。そしてその雑念を燃やし尽くしたとき、人間からちょっと離れた存在に自分を持ってゆくことができる。私のそうした雑念を燃料として、歌づくりに自分を捧げてきたのです。

(『NHK知る楽 探究この世界 なかにし礼』2009年8・9月号 NHK出版)

レコードの発売日は、日音とワーナーパイオニア、研音との間で5月30日に決まっていました。それは東京音楽祭国内大会がその年、6月29日に行われる予定だったことから逆算した日程です。出来上がってきた「石狩挽歌」には、“昭和50年―失われた時を求めて―”というキャッチフレーズがつけられました。

北海道のニシン漁が盛んだったのは明治から昭和にかけてですが、1897年をピークに水揚げの減少が続いて、1950年代になるとすっかり魚影が消えてしまいました。そうした歴史や文化が作品のテーマになっていたこともあり、なかにし礼と日音にはこれを第1作として、“―失われた時を求めて―”というシリーズにしていきたいとの思惑もあったようです。

レコードを発売するワーナーパイオニアの担当ディレクターだった塩崎喬には、小柳ルミ子のデビュー曲「わたしの城下町」(作詞 安井かずみ/作曲 平尾昌晃)で1971年に大ヒットを出した実績がありました。その後も同じ平尾昌晃の手で「お祭りの夜」(作詞 安井かずみ)、「雪あかりの町」(作詞 山上路夫)、「瀬戸の花嫁」(作詞 山上路夫)、「京のにわか雨」(作詞 なかにし礼)、「漁火恋唄」(作詞 山上路夫)と、日本情緒と地域性を感じさせるポップスが作られてきました。その当時の流行語だった「ディスカバー・ジャパン」の路線を歩んで、着実に成功を収めていたのです。

「石狩挽歌」を前にして

なかにし礼が作曲を依頼したのは自分と同じ旧満州に生まれて、幼い頃に日本に引き揚げてきたという体験を共有し、歌の舞台となった北海道にも住んだことがある浜圭介でした。「石狩挽歌」の歌詞には通奏低音のように、民謡の「ソーラン節」が鳴っています。ニシン漁のなかで沖上げといわれる作業中に歌われる「沖揚げ音頭」の別名が「ソーラン節」で、「ヤーレンソーランソーラン」はヤン衆(北海道でニシン漁に従事した男たちのこと)の掛け声からきているものだといいます。


■三橋美智也の歌う「ソーラン節」

「ソーラン節」
(作詞 高橋掬太郎/北海道民謡/編曲 山口俊郎)

ヤーレンソーランソーラン
ソーランソーランソーラン(ハイハイ)
鰊きたとて 鷗が騷ぐ
銀のうろこで 瀨が光る チョイ
ヤサエーエンヤアンサーノドッコイショ
(ハァドッコイショドッコイショ)

ヤーレンソーランソーラン
ソーランソーランソーラン(ハイハイ)
見たか沖揚げ 聞いたか音頭
浜に黄金の 花が咲く チョイ
ヤサエーエンヤアンサーノドッコイショ
(ハァドッコイショドッコイショ)

ヤーレンソーランソーラン
ソーランソーランソーラン(ハイハイ)
思い出すから 未練がつきぬ
啼くな夜ふけの 磯千鳥 チョイ
ヤサエーエンヤアンサーノドッコイショ
(ハァドッコイショドッコイショ)

ヤーレンソーランソーラン
ソーランソーランソーラン(ハイハイ)
吹いてくれるな 夜中の嵐
主は今夜も 沖泊まり チョイ
ヤサエーエンヤアンサーノドッコイショ
(ハァドッコイショドッコイショ)


しかし、北原ミレイは作曲家の浜圭介が自らギターを弾いて歌ったデモテープを聴いて、どう歌ったらいいのかがわからなかったと述べています。そしてほんとうに歌いこなせるだろうかと不安になり、浜圭介に会ってギターを弾いてもらって歌ってみましたが、当初はどこにどんなアクセントをつけるのかがわからず、全体のイメージも浮かんできませんでした。そこで思わず、「この歌、私には難しすぎて歌えません」と言ってしまったそうです。それでも浜圭介が「大丈夫さ」とニコニコ笑っていたのは、作品に自信があったからでしょう。

なかにし礼は浜圭介が作曲したテープを聴いて、アレンジャーの馬飼野俊一には「北風の吹きすさぶ日本海の灰色の荒波を思い浮かべて、マカロニウエスタンのトランペットを鳴らせ」と伝えていました。それが印象的なイントロへと結び付いて、歌としての輪郭を明確にしてヒットに貢献したと考えられます。

馬飼野俊一は「ざんげの値打ちもない」でも編曲を担当していましたが、その時にもかなり実験的なアレンジを試みています。それは4ビートや8ビートがほとんどだった歌謡曲に、意識的に16ビートを持ち込んだことです。そして「石狩挽歌」についても実験的なアレンジで、ロックの要素を取り入れたと回想しています。

「詩もメロディーも、とてもよい歌だったので、アレンジも立派にやろうと張り切った。日本人の心になじんだ民謡調をベースに、ビートを効かしたロックの要素を取り入れてみたわけです。実験的なアレンジだったこともあって、私にとって非常に思い出深い歌です」

(読売新聞社文化部『この歌この歌手(上) 運命のドラマ120』社会思想社 現代教養文庫)

北原ミレイは「この歌、私には難しすぎて歌えません」と言ってしまった数日後、アレンジが終わって出来上がったカラオケの音を聴いて、初めて「歌える!」という手応えを感じたと語っていました。彼女自身の言葉を借りれば、「あまりの感動で鳥肌が立った」し、「北海道の光景が目の前に見えた」と言います。しかしながら実際にレコーディングで歌ってみると、なかなか歌うのが難しくて、初日は途中で取りやめになりました。

スタッフ間でも意見が合わなかったこともあって、日を改めて録り直すことになったのですが、なかにし礼はこう振り返っています。

(北原ミレイは)出だしの「海猫ごめが鳴く」をまったく上手に歌うことができませんでした。二日目はまあまあ、そして三日目、ようやく彼女はあの歌を書いた私のテンションにまで登ってきました。もちろん、歌のうまさは疑いようもないので、後は気持ちの問題でした。靴を脱がして裸足にしたりと、彼女のテンションを高めるための試行錯誤を繰り返し、やっと歌うことができたのです。

(『NHK知る楽 探究この世界 なかにし礼』2009年8・9月号 NHK出版)

浜圭介から「いいか、言葉を海の向こうへ投げるように歌うんだ。でも、投げっぱなしじゃ駄目だぞ。投げた後で、こっちへ引き戻してこいよ」という、適切なアドバイスを受けたという北原ミレイは、「礼先生からも『今度、北海道へ行こう』って言っていただいて、本当に皆さんが熱かったものですから、その熱気に乗せられて歌ったんです」と述懐していました。

手元に「石狩挽歌」が発売されるに当たって、かつて筆者が勤めていた音楽業界誌の『ミュージックラボ』を訪れた北原ミレイの記事が残っています。そこには東京音楽祭との関わりについて、このように記されていました。

 この曲、“失われた時を求めて”のサブ・タイトルがついている。明治中期から昭和初期にかけてのニシン漁の最盛期に娘時代を過した老婆が、いま浜辺で“わたしゃ涙で 娘ざかりの 夢を見る”という内容の詞。
“海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると 赤い筒袖(つっぽ)の ヤン衆がさわぐ”。聞きなれない言葉が耳に飛び込んできて、異様な迫力がひとつの世界を作り出す。ディスカバー・ジャパン・キャンペーンに若者が飛びつき、公害が社会問題としてクローズ・アップされているいま、この歌が聴く人、ひとりひとりの中でふくらむ部分は小さくなさそうだ。そこがまたスタッフのねらい目とか。
(中略)
 北原はこの曲で今年の東京音楽祭ゴールデン・カナリー賞に挑戦する。賞というものにほとんど縁のなかった北原だが、これで世界大会の〔ママ〕覇もめざすという。そのためにレコードの発売もギリギリまで繰り上げた。「ざんげの値打ちもない」は50万枚のヒット、今度は100万枚をとスタッフの意気込みも大変なもの。年間2枚のシングルと、長いローテーションでこれまできた北原、今回もピークは9月頃とみている。「大成功か大失敗、中途半端では終らせたくないし、終らない作品」とこの曲に賭けている。

(『週刊ミュージックラボ』1975年6月23日号)

イメージを重視してあえて地味にも映るジャケット写真を使った当時の日音の広告や、そこに書いてある〔第4回東京音楽祭ゴールデンカナリー賞参加曲〕という文字からは、この曲に賭けるスタッフの力の入れ方が伝わってきます。

次回につづく

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