沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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特別編 北原ミレイ・インタビュー 2018年2月16日掲載

どうして「ざんげの値打ちもない」みたいな曲が出来たんだろう?

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『阿久悠と歌謡曲の時代』はお蔭さまで好評をいただいております。過日、本稿連載を執筆する佐藤剛による、北原ミレイへのインタビューの機会を作ることができました。ここでは、「ざんげの値打ちもない」誕生の経緯を解き明かす手掛かりとなった取材の一部をご紹介します。阿久悠の代表作にして歌謡史上の傑作「ざんげの値打ちもない」を経て、佐藤剛のさらなる探求が次回連載へと続いていきます。

同じ高校から大津美子さんが巣立ったと聞いて

佐藤僕は今『阿久悠と歌謡曲の時代』という本を書いているところで、これは阿久悠さんという作詞家が、日本の歌謡界に何を残し、今どのように歌が生きているのか、といったことを研究しているものですが、そこで柱になる方が北原ミレイさんです。
なぜならば、阿久さんが乗り越えなければならない目標だったのが、なかにし礼さんで、乗り越えられたのは「ざんげの値打ちもない」が書けた時だと思ったからです。そこから阿久さんは大活躍を始めますが、そうしたなかで、なかにし礼さんが巻き返しとも言える傑作を書く。これが、やはり北原さんが歌った「石狩挽歌」なんですね。歌謡曲の黄金時代と言われる時期は、1965年から1979年までの15年間で、この時代の前半に最も輝いていた作詞家がなかにし礼さんと阿久悠さんだったと思っています。
黄金時代だったと言っても、日本の音楽シーンを変えたと言えるようなものは、個人的には全部で10曲くらいしかないと思っていて、その意味で北原さんはその中の2曲を歌っていた特別な人です。しかも「ざんげの値打ちもない」は阿久悠さんの、「石狩挽歌」はなかにし礼さんの最高傑作ではないかと思います。

北原へぇー…って驚いちゃうようなお話ですね、私の大事なデビュー曲なんですけど(笑)。

佐藤では、まずデビューまでを伺いますが、愛知のご出身で、高校の時に浜松の佐伯一郎さんのところへ歌を習いに通われましたよね。先日、佐伯さんにもお話を伺ってきたんですが。

北原じゃあ、中学の頃から話しますね。私、勉強が嫌いだったので、たぶん周りに進学したくないって言ってたんでしょうね。母に「頼むから高校だけは行って」って言われていたんです。その傍らで、憧れの人の影響でテニス部に入ったら、これが楽しくて夢中になるんです。そして、テニスで頑張れば、勉強ができなくても特待生として高校に行けるって考えたんです。それでテニスに明け暮れた結果、隣町の強豪校に無事、特待生として入学するんです。
でも、ある日の朝礼で校長先生が「この高校からは歌手の大津美子さんが巣立ちました」っておっしゃったんです。歌は小さい時から好きでしたけど、地方に住んでいる人間が歌手になるなんて無理だと諦めていたのが、それを聞いて気持ちが変わっちゃったんです。それで、テニスをやめて、紹介していただいた佐伯先生に歌を習いに浜松まで通い始めたんです。

佐藤歌が好きな北原さんの根っこの部分にあった歌や歌手を憶えていますか。

北原美空ひばりさんですね。3歳の頃から父が歌を教えてくれて。でも、中学の時にお小遣いで初めて買ったレコードは、ブレンダ・リーの「サン・フランシスコの思い出」でした。もともと、そういうおしゃれで、きれいな歌が好きだったんですね。でも、佐伯先生のところで教わるのは演歌ばかりでした。それでもレッスンには通いまして、いよいよ高校を卒業するというところで、母に東京へ行って歌手になりたいって伝えました。「あんたみたいな田舎者はすぐにだまされちゃう」なんて言われましたが、先に上京していた姉を頼って、私も東京に出たんです。姉に自分の夢を話すと、「歌手になりたいなら、音楽関係の人が集まるような場所で歌うのが近道よ」って教えてくれたので、歌い手になりたい人が何十人も出演している銀座のミニクラブで生バンドの演奏で歌うようになりました。

阿久悠さんから声だけ聴きたいと言われて

佐藤歌う曲の譜面なんかはどうされてたんですか。

北原自分で用意しました。自分のキーに合わせる方法なんかはバンマスに教えてもらって。歌い方は、佐伯先生に習ったことが役に立ちましたね。「テクニックは後回しだ、とにかく声を出せ」なんて、かなり厳しく言われましたから。

佐藤いかに歌を伝えるための基本性能を高めるかということが重要なんですね。美空ひばりさんや江利チエミさんを考えたって、最初のレベルが圧倒的に高くて、その上で感情をのせたり表現を加えたりしているから素晴らしいんですよね。でも、そういう基本が大事という考え方はだんだん疎かにされるようになってしまって、それに基づいて歌ったのは、おそらく、由紀さおり、ちあきなおみ、藤圭子、和田アキ子、そして北原ミレイといった、1970年頃までにデビューなさった方たちが、最後の世代だったのではないかと思います。
ところで、そういう環境でしたから銀座ではさぞかし、競争が激しかったでしょうね。

北原すべてが競争っていう感じでした。私は、そのお店に入る時、常務さんにプロになりたいって伝えたんですが、そうしたら浜口庫之助先生を紹介してくださって、そのレッスン所に入れたんです。浜口先生は「あなたは声がシャンソンっぽいから、シャンソンを習いなさい」って教えてくださって。同時に通っていた大本恭敬先生のところでも、とにかく早く憶えて大きな声で歌うことを身につけて、そういうことが全部あとになって役立ちましたね。

佐藤浜口さんに教わったということも大きかったですね。音楽で最も大事なことを、きちんとわかっていらっしゃる方ですから。

北原ヘンリー倉田さんっていう方にジャズを習ったこともあって、とにかくいろいろ学んで、銀座のお店では民謡から歌謡曲から、歌えるものは何でもって感じで歌ってました。それで夕方から11時くらいまで銀座で歌って、食事を済ませたら次は夜中の1時から六本木の絨毯バーです。そこで4時まで歌って家に帰って寝て、昼間はレッスンという生活を続けてました。

佐藤1日のほとんどの時間、歌っていたんですね。

北原そうですね、その頃はそういうクラブ・シンガーが多くて、五木ひろしさん、八代亜紀さん、湯原昌幸さん、尾崎紀世彦さんという方たちには当時にもうお会いしてました。
そして、その頃に銀座に飲みにいらした水原弘さんが「リンゴ追分」を歌っていた私に声をかけてくださって、それがデビューのきっかけになったんです。水原さんはひばりさんと仲がよかったので、「リンゴ追分」を歌っていた私を気にかけてくださったんだと思います。「どうしてここで歌ってるんだ」って聞かれたので「歌手になりたいんです」ってお答えしたら、「そうか、わかった」って。

佐藤「リンゴ追分」はひばりさんの歌の中でも一番ジャズ色の濃いもので、海外ではインストゥルメンタルで人気になった曲なんです。北原さんがそういう歌を選んだのは、ジャズを勉強した経験や感性があったからでしょう。また、そういう北原さんが歌ったから水原さんも気になったんだろうと思いますね。

■スカタライツ「Ringo(リンゴ追分)」

北原それで東芝からデビューすることになった時に、小澤音楽事務所と長良プロダクションのどちらに入るか選ばせていただけたんです。それで私は以前から知っていた菅原洋一さんが所属していらっしゃったので、小澤さんのほうを選びました。

佐藤そこで長良さんのほうを選んでいたら、音楽の方向性もその後の展開もまた、かなり変わっていたでしょう。

北原そうだと思います。事務所が決まると、音楽出版社のジュンアンドケイのおけいさん(松村慶子氏)がおっしゃったと思うんですが、詞は阿久悠さんに書いてもらおうということになって。社長の小澤あつしさんからは、「本人に会うとイメージが変わってしまうから、声だけ聴きたいと言っている」と言われたので、好きな加藤登紀子さんの「つめたくすてて」とペギー・マーチの「忘れないわ」を録音してお渡ししたんです。

■ペギー・マーチ「忘れないわ」

佐藤その2曲からイメージして、阿久さんは「ざんげの値打ちもない」を書いていったんですね。

北原私からすると、どうして「ざんげの値打ちもない」みたいな曲が出来たんだろう?って感じもあったんですけど。

佐藤「ざんげの値打ちもない」はファドを意識して書かれていたそうですから、自然と言えば言えますよね。テープで聴いた北原さんの歌声から、女性の悲しみや強さを感じて、それが「ざんげ~」に結び付いたんでしょう。舞台はどこか外国を想定して。

パリでベスト10に入っている夢を見て

佐藤レコーディングは、どちらで。

北原東芝の1スタです。私、阿久先生にお会いするのはその時が初めてだったものですから、スタジオに入ったところに立っていらした男の方に「阿久先生、北原ミレイです」って言ったら「僕は編曲の馬飼野俊一です」って言われて(笑)。阿久先生は部屋の奥に座っていらして、笑ってました。それで同録だよって言われて、同録が何かもわからないまま、とにかく5番まで歌ったんですけど、レコードになった時には4番までになりますって言われて。
レコーディングと同じタイミングでジャケット写真も撮っちゃったんですけど、歌のイメージも出来上がってない状態でしたから、自分で銀座のお店で選んできた森英恵さんのドレスを着て写っちゃってるんです。それがしばらくしたら、レコードが売れ始めて、イメージが違うから、これはジャケットを替えなきゃいけないってことになって。

■「ざんげの値打ちもない」差し替え前のジャケット

佐藤あの歌は1970年の10月に発売してからもしばらくは目立たず、すぐに火がついたわけじゃなかったんですよね。

北原そうです、それでテレビのプロ歌手だけが出る勝ち抜き番組に挑戦したんです。小澤さんに「10週勝ち抜くんだぞ!」って言われて、緊張やプレッシャーで大変でしたけど、どうにか10週勝ち抜いて、副賞が10日間のヨーロッパ旅行だったものですから、時間が取れる翌年の3月まで待ってパリへ行ってきたんです。そうしたら、旅先でベスト10に入っている夢を見たんですけど、そのすぐ後に本当に「ベスト10に入ったから帰って来い」って電話があって。それで帰国すると確かにベスト10に入っていて、そこから本当に忙しくなるまではあっという間でした。

佐藤ジャケットを替えたのは、それより先ですよね。

北原年明けくらいだったと思います。上村一夫先生のイラストになったんですけど、私は阿久先生より上村先生のほうが仲がよくて、新宿のゴールデン街に連れて行っていただいたりしてました。

佐藤そこで上村さんが加わるように、ちゃんと才能が才能を呼んで、優れた人たちが自然に集まっていたんですね。

北原そうですね、そしてレコードが売れて忙しくなったんですけど、NHKでは「細いナイフ」という歌詞が問題になって歌えなかったんです。それでB面の「その時花はアカシアだった」を歌ったりしてました。
その後OKになって、5番まで歌ったこともありましたけど。スタッフの方に「歌えますか」って聞かれて、私レコーディングで一度歌っただけだったんですけど、若い時の記憶力って素晴らしいですね。歌詞を読み返すこともしていなかったのに、歌っていなかった4番の歌詞がすらすらと出てきたんです。

佐藤それは歌の力でもあるでしょうけど、歌い手の力でもありますよね。それにこの歌が生まれる前の段階に、歌い手の歌唱力や声の魅力が大きかったということは間違いないでしょう。それまで阿久さんは歌い手に会って、そこで受けたイメージから詞を書いていたんだけれど、それで上手くいかないこともあったはずです。だから「ざんげ~」の時は、あえて従来の方法から外れて、歌声だけでイメージしたんですね。それが却って阿久さんのイマジネーションを刺激して、異端の傑作が誕生することにつながった。この歌が生まれてヒットするまでの背景には、出会うべくして出会った人たちがいて、それぞれにプロの仕事をしていたということがわかりました。

本当に皆さんが熱かった「石狩挽歌」

佐藤さて、北原さんにはもう一つ「石狩挽歌」という、作詞家のなかにし礼さんの代表作があります。この曲との出会いについても伺わせてください。

北原「ざんげの値打ちもない」を歌うに当たっては、事務所の方針や阿久先生のアドバイスがあって、笑わない、しゃべらない、うつむいて歌うというイメージを守っていたんです。そして2曲めが「棄てるものがあるうちはいい」。私としては「また暗い歌なの……」っていう気持ちもあって、正直言うと嬉しくなかったんです。本当はロマンティックできれいな歌がうたいたかったから。それを社長に話すと「わかってるから、もうちょっと頑張れ」って。それで頑張って2曲めも歌ったら、3曲めは「何も死ぬことはないだろうに」。「何これ、もう嫌だ!!」ってなって、歌をやめて田舎に帰りますなんて言ってたんです。でも、やっぱりやめるわけにもいかなくて我慢しながら仕事を続けていたら、本当に嫌になってしまって、ちょっとお休みしたんです。その後、研音に移りまして、レコード会社も替わって、気持ちも新たに歌っていこうと思っていました。その頃、私はなかにし礼先生の歌が好きで歌いたくて、それを願っていたら、その方に詞をいただけることになって。でも、楽しみにしていたら出来てきたのが「石狩挽歌」。もっとおしゃれな歌をイメージしていたので、どうしてこういう歌なの!?ってがっかりしたんですけど、スタッフが「アレンジが出来てくるまで待ってくれ」って言うので、仕方なく言うことを聞いたら、アレンジが出来てきて、それがまた馬飼野先生で、イントロを聴いたら「あら、これ、いいじゃない!」って思っちゃったんです(笑)。それで歌うことになったんですけど、歌の世界がよく理解できないし、リズムにも乗れなくて、レコーディングの時、迷いに迷ったんです。そうしたら礼先生が「いい加減にしろ! ハイヒールなんか履いてないで脱いで歌え」なんておっしゃって、こんなに怒られちゃって嫌だなぁと思いながら言われたとおりに靴を脱いで歌ったんです。そうしたら、レコーディング・ブースの向こうで先生たちがけんかを始めたんです。曲作りで意見が合わなかったようで、その日はそれで終わり、録り直すことになりました。
改めてのレコーディングの時は浜圭介先生が「いいか、言葉を海の向こうへ投げるように歌うんだ。でも、投げっぱなしじゃ駄目だぞ。投げた後で、こっちへ引き戻してこいよ」ってアドバイスしてくださって、礼先生には「今度、北海道へ行こう」って言っていただいて、本当に皆さんが熱かったものですから、その熱気に乗せられて歌ったんです。

佐藤2度めのレコーディングはスムースに進んだんですね。

北原お蔭さまで浜先生のご指導で歌い方が本当によくわかったんですね。それに北海道にも行きたいって思ったし。海猫ごめとか赤い筒袖つっぽとかって、実物を見ないとわからないし、それを見た上でもっといい歌をうたいたいって思いましたから。

佐藤僕も海猫だと気付くまで“ごめ”は何か、しばらくわからないまま聴いていました。それでも強く伝わってくるものがあって、とにかくいい歌だと思わされた。それは歌が言葉の意味を超えて、音楽の一部になっていたということだろうし、そういう表現ができる歌手だったということが、そこで証明されていたんだとわかりました。
その後、北海道へも行かれたんですね。

北原はい、連れて行っていただきました。雄大で荒い海を眺めたり、ニシン漁が盛んだった頃を知る漁師さんたちにお話を伺ったりして、やっぱり、その後の歌は違ったものになっていたと思いますね。

佐藤僕はリアルタイムで「石狩挽歌」を聴いていましたが、テレビ出演するごとに北原さんの歌がよくなっているのを感じていました。やっぱり、名曲が名曲として世間に広まっていく裏側では、優れた才能の持ち主たちが真剣に情熱をぶつけ合っていたんですね。
今回お話を伺えて、「ざんげの値打ちもない」や「石狩挽歌」の背景を知る上で大変に大きな手掛かりを得ることができました。『阿久悠と歌謡曲の時代』を書いていく上での支えにしていきたいと思います。新曲発売直後でお忙しいなか今日はお時間をいただき、ありがとうございました。

北原こちらこそ、いろいろ気付くことや発見がありました。ありがとうございました。

(2017年10月24日、徳間ジャパンコミュニケーションズ本社にて)

次号掲載:2月23日(金)

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