沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第12回 2017年9月22日掲載
第一部 歌謡曲の黄金時代を予告していた「ない・ソング」の登場

第十二章 阿久悠時代へのステップ

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才気の片鱗をのぞかせながら、自分を迎え入れる時代の扉の前で足踏みをしていた阿久悠。それでも焦ることなく迎合することもなく、わが道を進む姿勢と気構えを崩さずにいた彼に、いよいよ時の女神が微笑みかける。時は1969年。日本の歌謡史においても画期的な一年となったこの年に、阿久悠は2作のヒット曲を放つ。ズー・ニー・ヴーの「白いサンゴ礁」とザ・キャラクターズの「港町シャンソン」。そこに現れた天才のエッセンスを、時のクリエイターたちは見逃さなかった――。
意外なヒットになった1969年の2曲

「朝まで待てない」での作詞家デビューから1年以上が過ぎた1969年を迎えても、阿久悠はまだ作詞家としては目立たない存在のままでした。放送作家として縁のあるタレントや、親しい関係にあったプロダクションの歌手のために行っていた作詞の中から、いっこうにヒット曲が生まれてこなかったのです。その頃に「君の詞は売れないよ、哀しくないもの」と、レコード会社のディレクターから言われたことがあったそうです。しかしそういった言葉を聞いて、「なるほどな」とは思っても、「それでかまわない」という態度で通したようです。

 最初の二、三年は、グループサウンズがらみの詞を書いていたが、大して売れなかった。同世代の作詞家たちがこのブームの中で、長者になっていくさまを、横目で見ていたのである。
 口惜しさも羨ましさもほどほどで、それほどの焦りはなかった。注文通りではなく、最初からこっちの勝手に書いていたから、ああ、ぼくの詞はヒットに繋がらない種類のものだと、思っていた。

(阿久悠『生きっぱなしの記』日本経済新聞社)

放送作家として活躍していた阿久悠は、コントの中でならばパロディ風の流行歌の歌詞を書くのが得意だったといいます。だから書こうと思えばそれなりに流行りそうな歌の文句は、いつでも書けると考えていたようです。しかし売れるためにという理由で、昔からの流行歌と同じような恨みと自虐的な気分をちりばめた歌、日本的なメンタリティに訴えかける歌詞には、強い抵抗感を持っていました。

それは「他人と同じような作品は書きたくない」という、彼自身の中にあった頑なともいえる思いのためだったことを、後年になって自ら言及しています。あくまで放送作家が本業という意識が強かったので、それで売れないなら仕方がないと割り切っていたのです。

そして心の底では早く小説を書きたいと、方向性の修正も考えるようになっていきます。自分自身の表現として、存分に文章を書ける場所を探し求めていたからです。

しかし1968年の後半にGSブームが急に失速したことで、新しいタイプの歌謡曲が誕生してきました。その波に乗れば作詞家への道が開けるかもしれないと感じ始めたのは、時代の寵児として華々しい活躍をしていたなかにし礼や、ビクターの専属作家からフリーになって才能を発揮し始めた山上路夫の作風などに、大いに刺激されたからでしょう。

阿久悠はエレキギターの発明と普及による楽器革命の産物として、若くて新鮮なソングライターたちが次々にヒット曲を出していく様子をじっと観察していました。そして目前で起こっている現象が一過性の流行ではないことや、これまでと違う音楽制作のシステムに移行しつつあることも理解していたのです。だからこそ1969年に入って、微妙な切り替えができたのだと考えられます。

そうやって「歌謡曲らしくない」「歌らしくない」ことにこだわり続けてきた態度を少し和らげて、相手の注文に応えられるだけのものは書こうとした作品が、春から夏にかけて中規模のヒットになりました。グループ・サウンズのズー・ニー・ヴーのために書いた「白いサンゴ礁」は、それまでの唯一のヒット曲だった「朝まで待てない」で組んだ村井邦彦に頼まれたものです。

■ズー・ニー・ヴー(日本コロムビア ホームページより)


「白いサンゴ礁」
作詞 阿久悠、作・編曲 村井邦彦
 
青い海原 群れとぶかもめ
心ひかれた 白い珊瑚礁
 
いつか愛する ひとができたら
きっとふたりで 訪れるだろう
 
南の果ての 海の彼方に
ひそかに眠る 白い珊瑚礁
 
まことの愛を 見つけたときに
きっとふたりで 訪れるだろう


1969年4月1日に発売された「白いサンゴ礁」は、「涙のオルガン」(作詞 大橋和枝、作曲 村井邦彦)のB面に収録された曲でした。にもかかわらず耳のいい音楽ファンに発見されて、ラジオのリクエストなどが増えたことからヒットしていきます。

その頃は前述したように、音楽を積極的に聴こうとするラジオのリスナーや、新しい価値基準を探していた若者たちが、自分たちにふさわしい歌や歌手を求めていました。ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」や、カルメン・マキの「時には母のない子のように」はそうした若者たちによって、ラジオから発見されて大ヒットしたのです。

グループ・サウンズがすっかり衰退期に入っていたにもかかわらず、ズー・ニー・ヴーの「白いサンゴ礁」はオリコンで最高18位にランクされました。AB面の2曲とも作・編曲は村井邦彦であったことからして、やはり才能が才能を呼んで好結果につながったということがわかります。

 GSブームの中にいれば、書ける可能性があるかもしれない。そんなふうに思わせる新しい流れが、確かに歌謡界に入ってくるのが肌で感じられた。僕が現場で感じた予感は正しかった。
 ブームは蟻の穴を突き破る濁流のように流れ込み、レコード会社の専属制も短期間のうちにあっさり崩壊してしまった。

(阿久悠『「企み」の仕事術』KKロングセラーズ)

「白いサンゴ礁」がヒットしたズー・ニー・ヴーは、ツイン・ヴォーカルだった町田義人と上地健一を擁するR&Bバンドでしたが、前身は「キャッスル&ゲイツ」というフォーク・グループです。土佐高校の同級生だった町田と上地は上京して、それぞれ成城大学と明治大学に入りましたが、同窓会で再会したことで3人組のフォーク・グループ、キャッスル&ゲイツを結成します。そして1968年の春にはフォーク・グループの登竜門だった番組、ニッポン放送の『バイタリス・フォーク・ビレッジ』の人気投票で1位になりました。しかしそれと同時にグループを解散し、町田と上地はズー・ニー・ヴーに参加しています。

そして11月に「水夫のなげき」でコロムビア・レコードの洋楽からデビューした後、5枚のシングルと3枚のアルバムを発表することになります。町田は1971年に脱退した後、ソロ活動に入っています。

キャッスル&ゲイツもまたメンバーが変わった後になって、1967年の音源だった「おはなし」がラジオのリスナーに発見されて評判になり、1969年の1月にレコードが発売されました。「白いサンゴ礁」とほぼ同じ時期に町田と上地の歌声が、ときおりラジオから流れていたのです。

あえて流行歌風に書いた「港町シャンソン」

さて、「白いサンゴ礁」がヒットチャートに登場してまもなく、ザ・キャラクターズに書いた「港町シャンソン」が発売されると、こちらもじわじわとヒットチャートを上昇してきました。

歌って踊れる5人組のムード歌謡グループ、原田信夫とファイブ・キャラクターズは、ムード歌謡の需要が減りつつあったことから宝塚歌劇団で邦賀みつるの名で活躍した仲純子を加えて、1969年に「ザ・キャラクターズ」に改名します。そして巻き返しを図って日本コロムビアの新レーベル、デノンレコードからデビューしたのです。当時のコロムビアはビクターやキング、テイチクといった戦前からのレコード会社と同様、歌手や作家の専属制を守ろうとする力が支配的でした。どこかの専属にならなければレコードが出せないという、日本独自のシステムが各社の制作と販売を支える土台として機能していたので、当然そうならざるを得ません。

しかしグループ・サウンズのブームと前後して、新たに設立されたプロダクション系や放送局系の音楽出版社は、フリーのソングライターと積極的に契約し始めていました。そしてフリーの作家による楽曲の原盤を制作し、レコード会社に対して売り込むという動きが始まっていたのです。そのとき東芝EMIやフィリップス、CBS・ソニーといった外資系のレコード会社は、TBSの子会社だった日本音楽出版(日音)や、ニッポン放送の子会社だったパシフィック音楽出版(PMP)などとの提携を進めて、フリーの作家によるヒット曲で大きな成功を収めていきます。けれども老舗のレコード会社はそうした動きに、なかなか対応することができませんでした。なぜならばフリーの作家を使うことに対して、仕事を奪われる専属作家からクレームが出されたからです。

そうした状況の中でコロムビアは、フリーの作家を使うときは洋楽レーベルを利用していました。そしてジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ヴィレッジ・シンガーズなどのグループサウンズが成功していたのです。1969年にデノンの商標を用いたデノンレコードという部署を設立したのは、時代に対応できる新しい歌謡曲を開発するのが目的でした。とはいえ少人数の寄せ集め部隊による部署だったので、社内では「1年持てばいいほうだ」と言われていたそうです。ところがそんな部署からでもヒット曲が次々に誕生したのは、時代の流れだったということでしょう。デノンレコードの名を知らしめた大ヒット曲は、「フランシーヌの場合」という反戦を訴えるメッセージ・ソングでした。

1969年3月30日の朝、フランスのパリで、シンナーをかぶって焼身自殺した30歳の女性の遺体が発見されます。彼女の名はフランシーヌ・ルコント。遺書はありませんでした。しかし、ベトナム戦争をめぐって開催中の「拡大パリ会談」会場に近い路上で自死したこと、ビアフラ飢饉で死んでいく子供たちの写真を手にしていたことで、抗議の自殺と見なされてニュースが全世界に配信されました。

この事件を報道する新聞記事に目をとめたCM音楽のソングライター、郷伍郎はすぐに反戦のメッセージを込めた歌を作りました。事件から2カ月半という短期間で、6月15日に発売されることになったのは、それが1960年の安保闘争で、東大生だった全学連の樺美智子さんが国会突入デモで命を奪われるという、象徴的な出来事が起こった日だったからです。


「フランシーヌの場合」
作詞 いまいずみあきら、作曲 郷伍郎
 
フランシーヌの場合は
あまりにもおばかさん
フランシーヌの場合は
あまりにもさびしい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えたいのちひとつ
フランシーヌ
 
ホントのことを言ったら
オリコウになれない
ホントのことを言ったら
あまりにも悲しい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えたいのちひとつ
フランシーヌ


新谷のり子という新人歌手が歌った「フランシーヌの場合」は、マスコミでも取り上げられて、スタートしたばかりのデノンレコードに、最初の大ヒットをもたらしました。しかしそのとき、マスコミを賑わせた「フランシーヌの場合」というヒット曲の陰で、地味ながらも「港町シャンソン」が静かにヒットしていたのです。


「港町シャンソン」
作詞 阿久悠、作曲 高見弘
 
港町 今日も暮れて 恋が一つ
ブイのかげ 花びらが すすり泣いてる
どこにもあるような 男と女
霧がふり 涙ぐむ せつない別れ
 
港町 今日も暮れて 恋が一つ
カモメさえ 眠るころ たたずむ女
どこにもあるような 男と女
約束の はかなさを 知っているのに
 
港町 今日も暮れて 恋が一つ
岸を打つ 波のように すがって泣いた
どこにもあるような 男と女
真心の ふれあいが 欲しいだけさ


「港町シャンソン」はアメリカの西海岸のA&Mレコードあたりが得意とするソフトロックにも通じるサウンドと、ひと時代前の流行歌のテイストがミクスチャーされて、不思議な味わいを醸し出す歌謡曲でした。孤独な歌、重い情念が込められた暗い歌が人気を集めていた1969年にあって、一条の光が差し込んだような軽やかな印象が、ヒットの要因だったのかもしれません。

これを作曲したのは編曲家としてのほうが有名になる高見弘、奇妙に耳に残るアレンジは、後に阿久悠とのコンビで数多のヒット曲を誕生させる作曲家、三木たかしによるものです。ところで阿久悠は「港町シャンソン」がヒットしたことについて、どこかで気恥ずかしい思いを抱いていたように思えます。そのためでしょうか、この作品については珍しく、自分で歌詞を分析したり、時代性を解説したりしていません。しかもかなりヒットしたにも関わらず、自分自身が書いた109のヒット曲を取り上げたエッセイ集『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』にも収録していないのです。

そして『なぜか売れなかったが愛しい歌』のなかに、少し言い訳めいたこんな文章を残しています。

この歌の作詞は、ぼくとしてはいささかヤケッパチなところがある。意欲的でアナーキーな詞があまりにも売れないものだから、それならいっそのこと流行歌のフレーズを気楽に使って、歌らしいものを仕上げてやろうと居直ったのである。
「港町シャンソン」というタイトルからして、戦前の「港シャンソン」のパロディかと思わせる。ただし、「港町」と「港」の違いは、ぼくとしては一つの意見を持っているが、これは語り始めると長くなる。それに第一、この歌の作詞の時には、そんな理論を下敷きに書こうとしたものではなく、ちょっと上質の鼻歌ぐらいのつもりであったから、いうべきことでもない。

(阿久悠『なぜか売れなかったが愛しい歌』河出書房新社)

“意欲的でアナーキー”な歌詞で新しい時代の歌を誕生させて、聴き手に新鮮な衝撃を与えたいと思ってはいても、一向にヒット曲が生まれない日々が続き、開き直り気味に流行歌のスタイルで書いてみたら、思いのほか売れてヒット曲になったということのようです。

なお「港町シャンソン」はそれから8年後、突如としてテレビのバラエティ番組から生まれたコミックソングとして復活することになります。当時人気絶頂だったアイドルグループのキャンディーズをメインにして、コメディアンの伊東四朗と小松政夫が出演するバラエティ番組『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』のなかで、「しらけ鳥音頭」なる歌が生まれて話題になって、レコードも発売になりました。それは「港町シャンソン」から借用した、同一のメロディを使っていたのです。

父に喜ばれた「白いサンゴ礁」

「朝まで待てない」から約2年が過ぎて、ようやく「白いサンゴ礁」がヒットして少しホッとしたところもあったのでしょうか、阿久悠は著書のなかで正直な気持ちを吐露しています。

幸いなことにといったらいいのだろう、テレビ番組などでカレッジ・フォークの流れに入れられて、ヒットした。グループ・サウンズと解釈され、分類されていたらきっと売れなかったに違いない。
(中略)
この間試行錯誤があれこれあって、半ばヤケになって人事の関わりの薄い詞を書いたものである。
 いつか愛する……と歌ってはいるが、風景と同格のものである。ただし、この歌を聴いたぼくの父は、「おまえの歌は品がいい」と喜んだ。

(阿久悠『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』新潮社)

半ばヤケになって人事の関わりの薄い詞を書いたという「白いサンゴ礁」、同じくヤケッパチな気分で流行歌に使われる常套語を用いた「港町シャンソン」、ふたつの想定外のヒットによって名前が広く知られたことが、翌年から始まる快進撃につながっていきます。

阿久悠はこの「白いサンゴ礁」には特別の思い入れがあったことも、著書の中で明かしています。夏になるとどこからか流れてくるスタンダード・ソングになってほしいと、長年にわたって願っていたというのです。

歌の中には季節とか暦とぴったり合うものがあって、何年過ぎても時が至ると思い出す。懐かしいだけではなくて、永遠に古びない魅力というものも必要になる。
 クリスマスには、そのようなのが数曲ある。夏の季節にも、サザンオールスターズやTUBEの楽曲がそんなスタンダードになっている。夏が来るから思い出すのか、歌が流れるから夏に気がつくのか、わからないほどになっている。
 そして、ぼくが、ひそかにそのようになることを願っている歌が一つあって、それが、「白いサンゴ礁」である。

(同前)

この歌を聴いた父親が「おまえの歌は品がいい」と喜んでくれたことは、ことのほか重要だったのではないかと思われます。その一言が、作詞という仕事に真剣に取り組もうとする気持ちへと、阿久悠を導いたような気がするのです。そうしたことから本格的に作詞家の道を歩む決意が固まって、15条からなる「作詞家憲法」というものを策定したのではないでしょうか。

やがて意外なヒットになった2曲によって、阿久悠を取り巻く環境に変化が起こり始めました。才能ある作曲家やプロデューサーとの出会いが、その流れの中で準備されることになります。

TBSの子会社だった音楽出版社、日本音楽出版(現・日音)の村上司は、おそらく阿久悠の才能に最初に気がついたプロデューサーでしょう。フリーの作家や歌手をもっとも積極的に育成し、原盤制作を積極的に推し進めて、日本の音楽ビジネスを改革した人物として知られていきます。

ズー・ニー・ヴーを手がけていた村上は、「白いサンゴ礁」がB面だったのに、ラジオのリスナーに発見される形でヒットしたことで、阿久悠に注目していたと考えられます。それと同時に弱小のレーベルだったデノンから出た、まったく無名のキャラクターズによる「港町シャンソン」が、宣伝もなければタイアップもない状態でヒットし始めたのです。

阿久悠の名前が音楽業界の中でいくらか広まったのは、その年に創刊されたオリジナルコンフィデンス誌(通称オリコン)のランキングで、「白いサンゴ礁」と「港町シャンソン」がヒットチャートの50位内に入り、並ぶ形で上昇するようになったからです。オリコンのヒットチャートにはタイトルや歌手と同等に、作詞家や作曲家、編曲家のクレジットが表記されました。そこに載っていた、いかにもペンネームとわかる阿久悠という風変わりな名前が、「どこの誰だろう?」と音楽業界内で噂になったのです。それもまた時代の風が吹いてきたことの証、幸運が味方し始めた現象だったと言ってかまわないでしょう。

ところで「白いサンゴ礁」と「港町シャンソン」は曲調こそかなり違っていましたが、どちらも風景描写から歌詞が始まっています。ともに恋愛をテーマにしていながら、目に映る風景を提示することによって、歌の主人公の心情を描き出すという手法で、それまでにはない新鮮な表現となったのです。そうしたことを理解した村上は、未知の才能を持つ阿久悠をもっとも期待している作曲家と組み合わせることを考えました。

フリーのソングライターを育てようとしていた村上が、当時とくに目をかけていたのはポリドール・レコードの洋楽ディレクターから作曲家になった筒美京平です。1967年にポリドールを退社してプロの作曲家に専念したときから、村上は筒美を全面的に支援することでヒットメーカーへと導いています。筒美京平作品として初めてのヒットチャート1位を獲得し、1969年の日本レコード大賞で作曲賞に輝いたいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」も、村上のプロデュースによる楽曲でした。

そして村上の目にとまった新しい作詞家の阿久悠は、筒美京平とのコンビで大きく飛躍することになります。

次号掲載:9月29日(金)

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