沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第37回 2018年4月20日掲載
第三部 新たな風を吹かせた作詞家たち

第八章 運命的でもある不思議なめぐり合わせ

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再起に賭ける北原ミレイのために、なかにし礼は「石狩挽歌」を書き上げた。「終着駅」で奥村チヨを大人の歌手として脱皮させた浜圭介のメロディーは、北原ミレイをも新たなイメージへと解き放つ。やがて、阿久悠の詞に浜圭介が曲を付けて出来上がる「舟唄」。それぞれの背景には、歌手と作家、プロデューサー、そして作品の不思議なめぐり合わせがあった——。
浜圭介という作曲家

1975年の春、なかにし礼から小西良太郎に「面白い歌が出来た。聴いてみてよ」と、いつもどおりの事もなげな口調の電話がありました。一時期スキャンダルにまみれていたなかにし礼とは距離を置いていた小西でしたが、何はともあれ聴いてみなければと思って、赤坂にある音楽出版社の日音へ出かけました。そして試聴室で初めて北原ミレイの「石狩挽歌」を聴いた時、大作の骨格を持ついい歌だと思ったそうです。その時の様子について、次のように記しています。

「ちょっと変わってるだろ、俺の歌としてはさ」
 絵に描いたみたいな成功と転落劇の主が、にんまりする。それはそうだ。これまでの彼のヒット曲の多くは、シャンソンみたいに、こじゃれて退廃的な女心ソングだった。それが一転して北の叙事詩である。満州牡丹江市(中国東北部)生まれの彼は、戦後引き揚げて小学校二年生のころ、北海道・小樽に居たことがある。そのころの見聞がこういう形で実るのか?
《タフな奴だ。逆境の中でさえこの男は、こういうふうに居直る!》
 そう思う僕を、ギラつく眼つきで見据えるもう一人の男がいた。

(小西良太郎『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』幻戯書房)

一緒にいたもう一人の男とは、旧満州(中国東北部)生まれで北海道育ちだった作曲家の浜圭介でした。小西はその人となりを、簡潔にこう述べています。

一時歌手になるが売れず、悶々の日々から逃亡し、青森・弘前あたりで祭りの夜店の焼きそばを焼いていた。香具師やしの仲間である。そこで出会った女性の半生を歌にした「おんな道」をきっかけに、東京へ戻って作曲家に転じる。無頼の生き方では人後に落ちぬ彼が、この粘着力に満ちたいいメロディーを書いていた。

(同前)

1962年に歌手を目指して上京した浜は、同じ北海道出身だった森山加代子の付き人となって、芸能界に関わりを持ち始めました。そして1964年に牧宏次の芸名で、「波止場のロック」で歌手デビューしています。しかし、その時はまったく売れなかったために、66年に大木賢と名前を変えて再デビューしますが、そこでも前途が開けませんでした。縁あってシンコーミュージックの草野昌一(訳詞家・さざなみ健児)のもとで、浜圭介のペンネームで作曲活動を始めたのは1968年からです。そして自ら作詞作曲した「おんな道」を歌って、東芝レコードから3度目のデビューを果たしたのは1970年で、その時の芸名は浜真二でした。

「おんな道」もまたヒットしませんでしたが、一部では名曲だという声も上がったのです。そこからソングライターとして少し注目されましたが、作曲家として認められるには至らずにいたところに、奥村チヨが歌った「終着駅」が大ヒットすることになります。

1965年に渡辺プロダクションと契約した奥村チヨは、東芝レコードから「あなたがいなくても/私を愛して」でデビューしています。そして「ごめんネ…ジロー」(65年)や「北国の青い空」(67年)などのヒット曲を出して、清純派と呼ばれる歌手として活躍していました。そんな彼女が飛躍的な人気を集めるようになったのは、1969年に大ヒットを記録した「恋の奴隷」からです。そこで大胆なイメージチェンジが行われて、セクシーな小悪魔が誕生したのです。


「恋の奴隷」
作詞 なかにし礼/作曲 鈴木邦彦

あなたと逢ったその日から
恋の奴隷になりました
あなたの膝にからみつく
小犬のように
だからいつもそばにおいてね
邪魔しないから
悪い時はどうぞぶってね
あなた好みの あなた好みの
女になりたい

あなたを知ったその日から
恋の奴隷になりました
右と言われりゃ右むいて
とても幸せ
影のようについてゆくわ
気にしないでね
好きな時に思い出してね
あなた好みの あなた好みの
女になりたい

あなただけに言われたいの
可愛い奴と
好きなように私をかえて
あなた好みの あなた好みの
女になりたい


その歌詞を読んだ奥村チヨは、男性に隷属する女性像に抵抗を感じずにはいられなかったといいます。それでもスタッフの要求に応じて、やや鼻にかかった声を甘えるような調子にして歌ってみたところ、「恋の奴隷」は大ヒットを記録したのです。そうなると同じ路線を続けるのが常という芸能界でしたから、蠱惑こわく的でコケティッシュな傾向の「恋狂い」と「恋泥棒」が連続ヒットになりました。

いずれも作詞はなかにし礼で作曲が鈴木邦彦、黛ジュンの「恋のハレルヤ」で新風を吹かせたコンビの作品です。しかし奥村チヨはその当時の心境について、一人で苦しさを感じていたと語っています。

「小悪魔という作られたイメージを演じるのがつらかった。実際の私は地味で人見知り。あなた好みの女になんてなりたくないし、そんな歌を歌うのはいや。レコーディングの後、泣いて帰ったこともありました」

(読売新聞社文化部『この歌この歌手(上) 運命のドラマ120』社会思想社 現代教養文庫)


「恋狂い」
作詞 なかにし礼/作曲 鈴木邦彦

もうこれ以上 じらすのは止めて
私あなたに 恋狂い 恋狂い
うけとめて ねえうけとめて捧げる愛を
何もかも ねえ何もかも あげるのに
あなたは横むいて じれったいじれったい

女心を もてあそばないで
私あなたに 恋狂い 恋狂い
苦しくて あゝ苦しくて死んでしまいそう
目の前が あゝ目の前が 暗くなる
こんなに愛しても 知らんふり知らんふり

逃げる恋なら つかまえてみたい
私あなたに 恋狂い 恋狂い
追いかけて あゝ追いかけてふり捨てられて
泣きながら あゝ泣きながらすがりつく
つめたくされるほど 燃えるのよ燃えるのよ
燃えるのよ


「恋泥棒」
作詞 なかにし礼/作曲 鈴木邦彦

最初は好きだと 思わなかった
一度だけ お茶なんか
のんではみたけど なんとなく
二度が三度に たび重なって
好きになったの あなたのことを

一緒にいたって 感じなかった
一度だけ くちづけを
許してみたけど 知らぬ間に
二度が三度に たび重なって
好きになったの あなたのことを

いけないことだと 言われていたの
一度だけ その腕に
抱かれてみたけど うれしくて
二度が三度に たび重なって
好きになったの あなたのことを

二度が三度に たび重なって
好きになったの あなたのことを
二度が三度に たび重なって
好きになったの あなたのことを…


こうして続いた「恋」というタイトルの三部作によって、本来の自分とはまったく異なるイメージが定着してしまったことが、奥村チヨにとっては不本意でした。そこで固定化したポジションからなんとかして脱却したい、そう思っていた頃に担当ディレクターだった草野浩二から「終着駅」を聴かされたのです。そのデモテープを聴いてとても気に入った奥村チヨは、本当に歌いたい作品に出会えたと語っています。

「終着駅」に賭けた二人

それまでの奥村チヨはプロダクションとレコード会社の意向を受け入れて、与えられる作品を歌ってきました。三部作に続いて歌っていたのも、当時の言葉でいえば“お色気ソング”でした。しかも「くやしいけれど幸せよ」「嘘でもいいから」「中途半端はやめて」と、同じ傾向の作品が続くにつれて、売り上げが下降していました。したがってその先を模索していたスタッフたちに、奥村チヨは「終着駅」を歌いたいと訴えたのです。

「『終着駅』を聴いた瞬間、これが私の歌だと感じたの。この歌の中に、何の飾りもない、等身大の私がいる。どうしても歌いたい。いつものように黙っているわけにはいかない、と思いました」

(同前)

しかし、それまでの路線と比較すると、急に暗くて淋しい歌になることから、冒険的すぎると周囲は消極的な反応でした。それでも奥村チヨは敢然と、歌手生命を賭けて自分の意志を貫いたといいます。

「今まで何にもいわずに頑張ってきたし、“恋”シリーズでそれなりの結果を出しました。『終着駅』を歌えないなら、歌手をやめます」

(同前)

浜圭介にとっても「終着駅」は会心の作品で、もしもこの歌が世に出ないということになったら、故郷の北海道に帰ろうとまで覚悟を決めていました。そしてこれが背水の陣だという思いで作った楽曲に、作詞をする仕事を引き受けたのが千家和也、なかにし礼に弟子入りして2年目のことでした。

小説家を目指していた文学青年の千家和也は早稲田大学に入学した後、作品を書いては出版社に持ち込んでいました。しかしまったく相手にしてもらえないまま、大学生活も7年目になった時に町のレコード店から流れてきた歌で、身体に電流が走るような衝撃を受けます。それが菅原洋一の「今日でお別れ」でした。

その歌の2番に出てくる「最後の煙草に火をつけましょう 曲ったネクタイ直させてね」という歌詞には、特に心を打たれたといいます。なかにし礼ならではともいえるそのフレーズは、情景と心情を重ね合わせた描写に特長があり、小説にはない鮮やかさを感じたというのです。そこで自分でも詞を書くようになり、作品を見てもらうためになかにし礼のところに通いつめました。そしてとうとう内弟子として認められて、同じ屋根の下に置いてもらうまでになったのです。おそらくは見どころがあると、将来を見込まれたからでしょう。

1971年にベンチャーズの作った楽曲に付けた訳詞が採用になり、小山ルミの「さすらいのギター」としてレコード化されました。それが作詞家としてのデビュー作ですが、まずまずのヒットになっています。そこで無名の作曲家だった浜圭介から頼まれて、デモテープに歌詞を付けたのが「終着駅」だったというわけです。


「終着駅」
作詞 千家和也/作曲 浜圭介/編曲 横内章次

落葉の舞い散る停車場は
悲しい女の吹きだまり
だから今日もひとり明日もひとり
涙を捨てにくる
真冬に裸足は冷たかろう
大きな荷物は重たかろう
なのに今日もひとり明日もひとり
過去から逃げてくる
一度離したら二度とつかめない
愛という名のあたたかい心の鍵は
最終列車が着く度に
よくにた女が降りてくる
そして今日もひとり明日もひとり
過去から逃げてくる

肩抱く夜風のなぐさめは
忘れる努力の邪魔になる
だから今日もひとり明日もひとり
過去から逃げてくる
一度離したら二度とつかめない
愛という名のあたたかい心の鍵は
最終列車が着く度に
よくにた女が降りてくる
そして今日もひとり明日もひとり
過去から逃げてくる


情景と心情を重ね合わせるスタイルの描写は、なかにし礼の作品にも通じています。そして浜圭介の細かい譜割りのメロディーに合わせて、よどみなくはまっている歌詞には文芸作とでもいうべき香りが漂っています。ジャズギタリストだった横内のアレンジもまた、リズム隊を抑え気味にしてストリングスでドラマティックな面を構築し、歌の舞台がどことなくヨーロッパ的な風景を思わせるところがありました。

「終着駅」の誕生によって奥村チヨは「恋の奴隷」からの三部作で、なかにし礼に引き出された小悪魔的な魅力とは別に、大人の女性ならではの落ち着きと憂いによって、歌手としての新しいページを開くことになります。1971年12月20日に発売された「終着駅」を待っていたのは、本人の期待と予想をはるかに上回る成果でした(注)

「生まれて初めて、自分の好きな歌を好きなように歌って、それが百万を超すヒットになった。もう、うれしくて。『終着駅』を歌うと、それまでのいろんなことを思い出しちゃうんです」

(同前)

千家和也は1972年の年末に開かれた第14回日本レコード大賞で、新人にもかかわらず「終着駅」で作詞賞に選ばれています。そして、そのあとに手がけた山口百恵を筆頭に、数多のヒット曲を作っていくことになりますが、それについては後日あらためて触れることにします。

作曲家として初めてのヒットをものにした浜圭介もまた、そこから脚光を浴びて才能を開花させていきました。そして1年後の1973年には、第15回日本レコード大賞で作曲賞を受賞したのです。そこで対象となった2曲のうちの一つが「そして、神戸」(歌 内山田洋とクール・ファイブ)で、これは「終着駅」に続いて千家和也が詞を書いています。そしてもう1曲が阿久悠の作詞による「街の灯り」(歌 堺正章)で、評判のテレビドラマ『時間ですよ』の主題歌に使われて、どちらも息の長いヒットになりました。

そして奥村チヨと浜圭介はその後、結婚することにもなっていくのです。

北原ミレイの再起

話は「石狩挽歌」に戻ります。常に全力で歌づくりに挑む浜圭介が、「どうだ!」とばかりに眼をギラつかせていることを意識しながら、小西は「石狩挽歌」を聴き終わってひと言、なかにし礼に「いいね」と簡潔に答えました。そのひと言には「いい作品だ」という意味とは別に、「良かったな」という思いもあったと考えられます。

北原ミレイはデビュー曲の「ざんげの値打ちもない」がヒットし、そこで「棄てるものがあるうちはいい」から「何も死ぬことはないだろうに」と続いた阿久悠による三部作が重荷になったことで、思うように歌えないという状態になってしまったことがありました。インタビューでは当時のことを、このように話しています。

「ざんげの値打ちもない」を歌うに当たっては、事務所の方針や阿久先生のアドバイスがあって、笑わない、しゃべらない、うつむいて歌うというイメージを守っていたんです。そして2曲めが「棄てるものがあるうちはいい」。私としては「また暗い歌なの……」っていう気持ちもあって、正直言うと嬉しくなかったんです。本当はロマンティックできれいな歌がうたいたかったから。それを社長に話すと「わかってるから、もうちょっと頑張れ」って。それで頑張って2曲めも歌ったら、3曲めは「何も死ぬことはないだろうに」。「何これ、もう嫌だ!!」ってなって、歌をやめて田舎に帰りますなんて言ってたんです。でも、やっぱりやめるわけにもいかなくて我慢しながら仕事を続けていたら、本当に嫌になってしまって、ちょっとお休みしたんです。

そうした事情でデビューを果たした小澤音楽事務所から離れて、いちど故郷に戻った上で心機一転、1975年からは新天地で出直したのです。しかし最初の作品「海を見るなら」では、いい結果を出せずにいました。

小西はそういった再起までの経緯をわかっていたので、「石狩挽歌」との出会いによって「ざんげの値打ちもない」のイメージから脱出できるだろうとの思いから、「いい作品だ」という言葉を発したのです。

北原ミレイは「石狩挽歌」を歌って第4回東京音楽祭の国内予選を通過し、6月には20作品で争われた国内大会に出場しました。グランプリに相当するゴールデンカナリー賞に選ばれたのは、五木ひろしの「千曲川」(作詞 山口洋子/作曲 猪俣公章/編曲 竜崎孝路)、しばたはつみの「濡れた情熱」(作詞 橋本淳/作曲 三木たかし/編曲 ボブ佐久間)と、布施明が歌って最高点を得た「シクラメンのかほり」でした。これはシンガー・ソングライターの小椋佳が書いた楽曲です。

■布施明「シクラメンのかほり」

同じ時期に行われた新人大会にあたるシルバーカナリー賞に選ばれて、審査員全員の推薦で世界大会にも出場したアグネス・チャンの「はだしの冒険」を書いたのもまた、作詞家になって間もない松本隆であり、新しいソングライターたちの時代が到来していたことを象徴していました。

そんななかで「石狩挽歌」への作品評価には高いものがあり、なかにし礼が作詞賞、馬飼野まかいの俊一が編曲賞を受賞しています。ちなみに作曲賞に選ばれたのは「乳母車」の森田公一ですが、やはり高い評価を得て急遽その場で予定になかった歌唱賞が設けられて、この曲を歌った菅原洋一に贈られました。そして年末には第17回日本レコード大賞で、阿久悠が作詞賞に選ばれたのです。


「乳母車」
作詞 阿久悠/作曲 森田公一/編曲 川口真

めずらしく晴れた日の
坂道をあのひとと
肩並らべ歩いている
このぼくは手ぶらでも
あのひとはカタカタと
乳母車を押している

三年のとしつきがそこにある
うめられぬとしつきがそこにある
盗み見た横顔は
今もなおあの頃の
あのひとのままだけど

風車くるくるとまわり出し
おさなごがあどけなく
手を伸ばす風が出て来たからと
あのひとは乳母車
押しながら去って行く

三年のとしつきがそこにある
うめられぬとしつきがそこにある
ぼんやりと見送って
このぼくはオーバーの
えりを立て歩き出す


この「乳母車」はもともと、作曲のパートナーとして波長が合っていた森田公一が、自ら率いるトップギャランと最初のリサイタルを開く時に、阿久悠が「ブルース・リー・カムバック」という歌とともに、歌詞をプレゼントしたものでした。久々に昔の恋人と坂道で出会った二人が、坂を下り終わって別れるまでの話について、阿久悠は短い小説を書くつもりで仕上げたと述べています。

レコーディングするつもりはなかったが、評判がよかったのでレコード化し、二度目のレコード大賞作詞賞を貰った。
 坂道、乳母車、風車などがうまく生きて、いい掌編小説の味わいになったと自讃している。

(阿久悠、和田誠『A面B面 作詞・レコード・日本人』文藝春秋)

いささか場当たり的なところはあるにせよ、東京音楽祭というイベントが当時のプロの作曲家や作詞家、編曲家の競争意識と創作意欲をすくい取って、歌謡曲のレベルアップに貢献していたことがわかってきました。そこではライバルだったなかにし礼と阿久悠が、菅原洋一や北原ミレイといった実力のある歌手を介して、作曲家と組んで作品の質で静かに闘っていたのです。

そして「石狩挽歌」は小西が思ったとおりに、北原ミレイの実力を改めて世に問う作品になっていきます。5月に発売されていたレコードは地味な動きで、ヒットチャートではベスト50にも入っていません。それでも少しずつ売れてロングセラーとなり、再起に賭けた思いが着実に叶っていったのです。とくに有線放送での人気に根強いものがあり、発売から半年が過ぎた11月になっても、リクエストの順位では上位30曲に食い込んでいました。

小西は北原ミレイをめぐって阿久悠となかにし礼が、それぞれに代表作と呼ばれる歌を書いたことについて、こんな感想を記しています。

阿久となかにしの挑戦が、一人の歌手で暗と明の交錯をしたのが不思議なめぐり合わせだった。

(小西良太郎『昭和の歌100 君たちが居て僕が居た』幻戯書房)

確かにそのことについては筆者も当時から、不思議なめぐり合わせだと思っていました。しかし東京音楽祭について調べていくうちに、浜圭介が阿久悠の三部作による呪縛から「石狩挽歌」で北原ミレイを解放し、それ以前にもなかにし礼の三部作から奥村チヨを救い出した「終着駅」を書いていたことがわかりました。

そんな浜圭介がスランプに陥るのは、「石狩挽歌」を作曲した後のことです。なかなかヒットが出せずに作曲の仕事が減ってきて、焦っていた浜圭介からの相談に乗ったのが小西でした。そのことをきっかけに誕生した歌が、1979年に八代亜紀によって歌われた「舟唄」です。

この歌は正式に頼まれたわけではありませんが、いつの日か美空ひばりに歌ってもらうことを願って、阿久悠によって書かれた作品でした。しかしその歌詞が小西の判断で浜圭介に渡ったことで楽曲が完成し、方向転換を図っていた八代亜紀によって歌われてヒットし、彼女の代表曲になっていきます。

そしてスランプを脱した浜圭介は阿久悠とのコンビで八代亜紀に「雨の慕情」を提供し、それが連続ヒットしたことで1980年の日本レコード大賞に選ばれたのです。歌手と作詞家、作曲家の不思議なめぐり合わせについて、筆者はなんと運命的なものかという思いを、今さらながら強くしているところです。


(注)「終着駅」のA面だった「気ままぐらしの女」は、作詞が阿久悠で作曲が筒美京平という、「また逢う日まで」のコンビによる作品でした。娯楽映画研究家の佐藤利明によると、香港映画『死亡の塔』の劇中に出てくる新宿歌舞伎町のクラブにおけるシーンで、「気ままぐらしの女」がほぼフルコーラスで流れたことから、世界中にいるブルース・リーのファンの間では、よく知られている曲になったということです。(戻る)

次回につづく

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