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11月15日(木)開始予定と告知しておりました「阿久悠と歌謡曲の時代」の読み放題サービスですが、諸般の事情により、サービス開始を延期させていただきます。お待ちいただいている読者の皆様には大変申し訳ありません。
サービス開始日が決まり次第あらためてお知らせいたしますので、今しばらくお待ちいただければ幸いです。

2018年11月15日
Romancer Cafe編集部

 沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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「阿久悠と歌謡曲の時代」のこれまでを振り返る

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2017年7月から連載を開始した「阿久悠と歌謡曲の時代」は、2018年6月までの約1年間に第三部まで、46回をお届けしました。
今回は特別編として、この第三部までを大まかなトピックごとに分けて振り返ります。

第一部 歌謡曲の黄金時代と「ない・ソング」

それは「ない」から始まった(1章)

稀代のヒットメーカーとして昭和の歌謡曲を牽引した作詞家・阿久悠。彼の代表曲を振り返ると「ざんげの値打ちもない」「どうにもとまらない」「狼なんか怖くない」など、「ない」という言葉が数多くタイトルに使われていることに気付く。そもそもキャリアの始まりがザ・モップスの「朝まで待てない」という曲だった。

 昭和2年から昭和64年までの約62年間に生まれた流行歌やヒット曲は、まず戦前と戦中でおよそ600曲ありました。
 それに戦後のヒット曲が約2,500曲、合わせて3,000曲あまりの楽曲を調べてみました。その中でタイトルの最後が「ない」という文字で終わっていたのは32曲、それは全体の1パーセントにも満たない数字です。しかもそのうちの10曲、約3分の1が阿久悠の作品だったことがわかりました。

(『第1章 タイトルからにじみ出ている本質』より)

■ザ・モップス「朝まで待てない」

ビートルズのおかげで作詞家になれた(2~5章)

淡路島で生まれ育った深田公之ひろゆき青年は明治大学を卒業後、広告代理店・宣弘社に入社した。やがて放送作家としても活動するようになり、当時のエレキ・ブームをあてこんだテレビ番組を企画する。ビートルズのリヴァプール・サウンドに対抗し、“トーキョー・サウンド”を発信するという野心的な試みだったが、実際の番組は理想にはほど遠く、わずか半年で打ち切られてしまう。しかし、レギュラー出演していたザ・スパイダースのために歌詞を書いたことが、彼の人生のターニングポイントとなった。作詞家・阿久悠の誕生である。

 エレキ・バンドのコンテストに応募してくるグループのほぼすべてが、インストゥルメンタル志向でした。日本のエレキ少年たちは、なぜか歌わなかったのです。しかし、暗い印象の少年たちがただ黙々と演奏して見せても、テレビ番組としては面白いものにはなりません。そこで売り物にしているスタジオでのダンス・シーンで、100人以上の少年少女たちが踊る「モンキー・ア・ゴーゴー」という曲を歌にしようということになり、必要にかられて阿久悠が詞を書いたのです。

(『第4章 ニューエレキサウンドと「ミスター・モンキー」』より)

既存の流行歌への挑戦(6~10章)

来日したビートルズに刺激されたかのように、グループ・サウンズの大ブームが巻き起こった。そこでは新たな歌の作り手たちが発掘されて活躍し、その後の時代を担うようになっていく。

放送作家として多忙だった阿久悠も例外ではなく、初めての作詞依頼を請けて作曲家の村井邦彦とホテルに缶詰になった。それがザ・モップスのデビュー曲「朝まで待てない」だった。

やがて活動の軸足を本格的に作詞家へと移した阿久悠は、自らの指針として15条から成る「作詞家憲法」を定める。そこにはかつての流行歌を築いてきた先人たちに対する、挑戦の意味も込められていた。

 この作詞家憲法の根本にあったのは、それまでレコード会社によって作られてきた流行歌の定番からいかに離れて、新しい日本の歌を作ればいいのかという身構えと心構えです。それまでの常套的な作詞術と違う道は「ない」のか、それを探し出していくことが自分の役割であり、そういう歌を書けなければ自分がやる意味が「ない」と自覚していました。作詞という表現についての意志を、阿久悠は「ない」を繰り返しながら明快に綴っています。

(『第9章 流行歌への挑戦』より)

阿久悠時代の到来とアマチュア精神への対抗心(11~19章)

1969年になるとグループ・サウンズの流行は終焉を迎え、それに代わって「時には母のない子のように」(カルメン・マキ)、「夜明けのスキャット」(由紀さおり)、「いいじゃないの幸せならば」(佐良直美)、「新宿の女」(藤圭子)など、女性シンガーによる暗い歌が大ヒットした。

阿久悠もまた、「白いサンゴ礁」(ズー・ニー・ヴー)、「白い蝶のサンバ」(森山加代子)などで頭角を現していく。

1971年の年末、尾崎紀世彦に書いた「また逢う日まで」が日本レコード大賞に輝き、本格的に阿久悠の時代が到来した。だが当人は自信作だった「ざんげの値打ちもない」(北原ミレイ)が、作詞賞を受賞できなかったことが不本意であったという。その時に作詞賞となったのが「戦争を知らない子供たち」(ジローズ)、元フォーク・クルセダーズの北山修が作詞したフォークソングだった。

 終戦の日を境にして、価値観が180度転換するという体験をしたことで、阿久悠は何も信じられるものがないという精神状態のなかから、自力で再生し成長していきました。それまで学んできた教科書に自分で墨を塗って消して、教えられてきたことを「なかったこと」にさせられた少年時代の忌わしい記憶、大きなトラウマを持っているからこそ、「声高なものも、美味しい言葉も、スローガンの匂いを発すると信じない」ことにしたのです。
 だから、どこかにスローガンの匂いを発する「戦争を知らない子供たち」に対して、複雑な思いを抱いたのは当然といえば当然だったのでしょう。

(『第13章 阿久悠と「戦争を知らない子供たち」』より)

第二部 「ざんげの値打ちもない」という夜明け

時代が求めていた究極の暗い歌(1~3章)

1969年9月、“演歌の星を背負った宿命の少女”というキャッチフレーズでデビューした藤圭子は、やがて時代を象徴するアイコン的存在となっていく。

藤圭子がヒットチャートを席捲していた1970年、万国博覧会が大阪で開催される一方、公害の深刻化、よど号ハイジャック事件、三島由紀夫の自決など、世相は暗く騒然としていった。そんな中で新人歌手・北原ミレイのために「ざんげの値打ちもない」を書いたところ、それを聴いたスポーツニッポンの小西良太郎が、「阿久悠によって歌謡曲には新時代が訪れる」と記事にし、周囲にも拡散して支持者を集めていく。

 藤圭子ブームが頂点に達した1970年の4月から6月にかけて、阿久悠は日本テレビの人気番組だった『紅白歌のベストテン』の構成作家として、「圭子の夢は夜ひらく」の歌詞を何度か台本に書き写したはずです。その歌が五木寛之のエッセイをきっかけにして、時代性と結び付けられてさまざまに語られていくのを見ながら、「自分だったら履歴書のような歌で、どのような物語を描けるだろうか?」と考えたこともあったでしょう。

(『第1章 静かなる衝撃、藤圭子の登場』より)

■北原ミレイ「ざんげの値打ちもない」

ヒットの陰にいた立役者たち(4~6章)

「ざんげの値打ちもない」という曲の誕生とヒットの経緯には、現在までよくわかっていないことがいくつもあった。

  1. どうして商品性よりも作品性を優先して、大胆かつ自由に描くことができたのか?
  2. 作家への創作の自由を大幅に与えた作品づくりは、どこの誰からの依頼によるものだったのか?
  3. 誰がこの歌が誕生する場にいて、それぞれどんな役割を果たしたのか?
  4. 阿久悠はこの歌の舞台をヨーロッパに設定し、ポルトガルのファドをイメージしていたと述べているが、その発想はどこから生まれてきたのか?
  5. レコーディングに際して、4番のパートはいつどのようにカットされたのか?

筆者はそれらを箇条書きに例示し、ひとつひとつ解き明かしていく。そして菅原洋一の「知りたくないの」を売り出したスタッフたちの多くが、「ざんげの値打ちもない」に参加していたことに行き当たる。

 プロダクションの買い取り1,000枚を含む2,000枚からスタートした「知りたくないの」は年末までに80万枚を超えて、ポリドール創業以来のセールスを達成しました。「口コミから火をつけて話題をふくらませる草の根運動によって、知りたくないの」は宣伝媒体としては重視されていなかった新しいメディア、有線放送から生まれた最初のヒット曲になりました。
 発売してから火がつくまでに時間がかかったことや、ヒットの兆しが見えたところでジャケットが変更されたことなどは、3年後の「ざんげの値打ちもない」と類似しています。

(『第5章 「ざんげの値打ちもない」をヒットさせた陰の⽴役者たち』より)

歌の原点にあったフランス映画(7~9章)

「ざんげの値打ちもない」を書いた時、ファドやシャンソンをイメージしていたと生前に語っていた阿久悠だが、その着想がどこから得られたのかは語らずじまいだった。阿久悠作品に映画のタイトルを借りたものが多いことに気付いた筆者は、同時代のヨーロッパの映画を丹念に探し、そしてついに或るフランス映画へと辿り着く。

 阿久悠の作詞に最も影響を与えたのが、戦後になって公開された旧作を含めた、膨大な数の映画であったことは本人がしばしば語っています。しかしそれがどの作品にどう役立ったのかについては、タイトルの類似だったり、台詞の引用といった部分でしか語られていないように思います。しかし阿久悠の頭の中に整理されてしまい込まれた何千本かの映画の記憶は、ストーリーや印象的なシーンだけにとどまるものではなく、音楽にも及んでいたのです。

(『第9章 「ざんげの値打ちもない」誕⽣の起点』より)

第三部 新たな風を吹かせた作詞家たち

作詞家・なかにし礼を生んだ偶然の出会い(1~4章)

大学でフランス文学を勉強する傍ら、アルバイトでシャンソンの訳詞を書いていたなかにし礼は、新婚旅行先のホテルで偶然にも大スターの石原裕次郎に声をかけられた。そこで流行歌の歌詞を書くことを勧められ、その後の人生が大きく変わっていく。

作詞に挑戦するために、なかにし礼は苦しみ悩みながらも古今東西の詩作を研究し、ギターも独学で学んだ。その苦労が「恋のハレルヤ」(黛ジュン)や「恋のフーガ」(ザ・ピーナッツ)といったヒット曲として実を結ぶ。

ほぼ同じ時期に作詞の道を歩み始めた阿久悠は、なかにし礼の斬新な歌詞に衝撃を受けながらも、「全く違う感性で、全く違う切り口の作品を書かなければ勝負にならない」と思いを新たにする。

 阿久悠は歌謡番組の構成台本に歌詞を書き写す時に、なかにし礼の場合だけは一語一語を舐めるように読んでいました。さらには「行間にひそんでいるであろうもののけすら探ろうとした」とも述べています。なんとかして作品にひそむ本質をつかもうとしていたことを、後年になってから明らかにしています。

(『第4章 いつまでも空気中にただよっている歌』より)

天に祈るほどの思いで書き上げた「⽯狩挽歌」(5~8章)

作詞家として絶頂期にあったなかにし礼は、2年連続でレコード大賞を受賞するなど、殺人的なスケジュールでヒット曲を連発していた。しかし、経済面と私生活の両方で大きなトラブルを抱えたことから、いい作品を書くための環境や情熱を失っていった。

それでも「なかにし礼ここにありというような歌」を書きたいと、ふたたび情熱を取り戻した彼に、思いがけないところからアイデアが提供される。それは不振の原因ともいえる数々の経済的トラブルの元凶となった兄との会話だった。

 歌詞を書き上げた朝、なかにし礼は「大傑作が出来たぞお!」と妻に向かって声をかけたそうです。そんなことは結婚して以来、一度もなかったといいます。それほどまでに達成感があり、喜びもあったのでしょう。

(『第6章 天に祈るほどの思いで書き上げた「⽯狩挽歌」』より)

美空ひばりへの畏怖(9~12章)

スポーツニッポンの小西良太郎は、連載「阿久悠の実戦的作詞講座」を企画した。これは、様々なプロの歌手を想定した歌詞を読者から募り、阿久悠が指導・添削することで仕上げていくという内容だった。連載は約2年間にわたって続いたが、最後の対象となったのは歌謡界の女王・美空ひばりである。

阿久悠と同い年だった美空ひばりは12歳にして少女スターとなり、その後も歌謡界のトップを走り続けてきた。そのことに対して阿久悠は、終生強いコンプレックスを抱えていた。小西のはからいで二人は対面を果たし、シングルを発売していく予定も立てられたが、運命のいたずらか、それは果たされることはなかった。

 阿久悠は自分と同じ年に生まれたにもかかわらず、美空ひばりがスターとなって歌と映画の世界で活躍している姿を、小学生の頃から強く意識していました。それは美空ひばりが生きている世界に憧れていたからであり、いつかは自分も歌や映画で描かれている東京という大都会に出て生きる、いや、同じような世界で活躍してみたいという、漠然とした目標にもなっていったのです。

(『第10章 美空ひばりと阿久悠』より)

「別れの旅」をめぐる葛藤(13~15章)

本来の目的は果たせなかった「実戦的作詞講座」だったが、そこに情熱を注ぎ込んだことは、作詞家・阿久悠に大きな収穫をもたらすことになる。例えば都はるみの大ヒット曲「北の宿から」も、連載を通じて築かれた縁がなければ生まれていないものだった。

その「北の宿から」は牧村三枝子に書いた「若狭の宿」の歌詞をベースにして生み出したと、阿久悠は自著に記している。阿久悠の自他ともに認める最高傑作のひとつ、「津軽海峡・冬景色」(石川さゆり)についても「前に書いた歌がベースになって」と発言していた。それは、藤圭子のために書いた「別れの旅」だった。

 スタッフたちが復活の手応えを感じた「京都から博多まで」に続いて、次なるステップを狙って作られたのが「別れの旅」です。阿久悠は「二点を繋ぐ線のドラマ」であることと、「汽車は下りである」ことを踏襲しつつも、「上野から青森まで」の旅をすることによって、相手と別れたらきっぱり前を向いて生きていく強い女性を描きました。

(『第15章 佳作から⽣まれ育った傑作「津軽海峡・冬景⾊」〜その1』より)

■藤圭子「別れの旅」

ああ津軽海峡・冬景色(16~17章)

1973年にデビューしてからしばらくの間、石川さゆりはヒットに恵まれないままだった。彼女が所属するホリプロ社長の堀威夫と阿久悠には、スパイダースやモップス、和田アキ子などの仕事を通じて、長い付き合いがあった。堀から「石川さゆりの出世作を書いてほしい」と依頼された阿久悠は、彼女の可能性を見極めるために作曲家の三木たかしと組んで、全曲オリジナルのアルバムを制作する。その中の1曲に「津軽海峡・冬景色」があった。

 初めて観客の前で歌われた新曲の「津軽海峡・冬景色」は好評で、「あの最後の歌、もう一度聴きたい」「あれはいつレコードになるんですか?」と、コンサートの翌日から事務所やレコード会社に、問い合わせの電話が入り始めました。
 公演での好反響に加えて社内からも声が上がったことで、「津軽海峡・冬景色」は元旦にシングル発売が決まります。石川さゆりの良さを引き出そうと創意工夫をこらした制作者たちの情熱と、それに答えようとした歌唱が作品に結実し、楽曲への評価が高まったことで東北地方から状況が好転し始めます。

(『第17章 歌作りの基本にあった「七五調からの解放」』より)

(編・Romancer Cafe編集部)

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