沢田研二「時の過ぎゆくままに」、石川さゆり「津軽海峡・冬景色」、ピンクレディー「UFO」ほか、数々のヒット曲を世に送り出した天才作詞家・阿久悠。彼が、日本の歌謡曲における黄金期を支えたことは間違いありません。しかし、それにとどまらず彼こそが、ビートの時代が到来した1960年代後半から、井上陽水、忌野清志郎、松任谷由実、桑田佳祐らへと受け継がれた、“新しい歌づくり”を実現させる魂の原点であったことを見過ごしてはならないのです。
 そう語る気鋭の歌謡曲研究家・作家、佐藤剛が、高い評価を得た著書『上を向いて歩こう』や『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」~天才たちはいかにして出会ったのか』などに続いて取り上げるテーマは『阿久悠と歌謡曲の時代』。それは「ない」からはじまった――。

音楽プロデューサーとして甲斐バンド、THE BOOMなどを手がけ、作家として『上を向いて歩こう』(岩波書店)、『美輪明宏と「ヨイトマケの唄」天才たちはいかにして出会ったのか』(文藝春秋)などを上梓している。
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第44回 2018年6月15日掲載
第三部 新たな風を吹かせた作詞家たち

第十五章 佳作から生まれ育った傑作「津軽海峡・冬景色」~その1

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歌謡曲の歴史に残る作品となった「津軽海峡・冬景色」は、1976年に発表された石川さゆりのアルバム『花供養 365日恋もよう』の中の1曲として誕生した。それは「北の宿から」と同じように、阿久悠が過去に発表した歌詞を発展させたものだった——。
藤圭子のために書いた「別れの旅」

作詞家の星野哲郎が同じ時代をともに歩んだ作詞家や作曲家たちと語り合い、その作品と人生を簡潔にまとめた著書『歌、いとしきものよ』(1984年)には、阿久悠だけが対談形式で掲載されています。その中で演歌の世界では大先輩にあたる星野哲郎が、どうして「北の宿から」や「津軽海峡・冬景色」が出来たのか教えてもらいたいと、率直にたずねているところがあります。

阿久悠はそこで「北の宿から」については、以前に書いた「若狭の宿」(歌 牧村三枝子)をベースにしていたと語っていました。そして「津軽海峡・冬景色」もまた、藤圭子のために書いた歌がベースになっていたことを明らかにしています。

阿久 あのとき、日本の港町を歩いて歌を作るという企画がありまして、稚内から沖縄まで行ったんです。でも、ぼくはたとえばそこで生まれた物語には興味がなくて、函館へ来た人は何を持っているだろうかとか、函館から出ていく人はどんな服装をしているだろうかとか、そういうことを考えるんですね。

星野 阿久さんの子供時代の映画の見方と同じですね。

阿久 そうかもしれません。で、そのとき、行って見た風景を覚えていて、その状況を思い浮かべながら書いたんです。それにふさわしい季節になったら、急に触発されるんです。石川さゆりという歌手、汽車から降りた女、目にうつった風景……それに前に書いた歌がベースになって。

星野 その前に似たような設定で書いてたわけ?

阿久 藤圭子用に『別れの旅』っていうのを書いたんですよね。もう別れようっていって上野から乗って、青森駅でおりたらお別れという歌なんですけど、それがベースになってますね。

(星野哲郎『歌、いとしきものよ』岩波現代文庫)

阿久悠は会話の中で、「もう別れようっていって上野から乗って、青森駅でおりたらお別れという歌」であったと述べていました。しかし発売されたレコードの歌詞には、そうした具体的な地名は出てきません。


「別れの旅」
作詞 阿久悠/作曲 猪俣公章

夜空は暗く 心も暗く
さびしい手と手 重ねて汽車に乗る
北は晴れかしら それとも雨か……
愛の終わりの 旅に出る二人

指さすあなた 見つめる私
流れる町は きえてゆく思い出
何か話してよ 話してほしい……
愛のくらしが やがて終わるのに

つめたい風に 小雨がまじる
夜明けの駅の ホームに立つ二人
今も愛してる 愛ある別れ……
そんな旅路も すぐに終わるのね

終着駅の 改札ぬけて
それから後は 他人になると云う
二年ありがとう しあわせでした……
後見ないで 生きて行くでしょう
生きて行くでしょう


この歌の主人公が汽車に乗ったのが上野駅だったということを、歌詞から読み取ることにはいささか無理があるように思えます。同様に、「つめたい風に 小雨がまじる夜明けの駅」がどこの駅であるか、はっきりとは描かれてはいません。当時の東北本線の終着駅は確かに青森ですが、「もう別れようっていって上野から乗って、青森駅でおりたらお別れという歌なんです」と明言していたのは、どうしてだったのでしょうか。

1972年5月25日に発売された「別れの旅」は、順調にレコードが売れていたにもかかわらず、結果として大ヒットになっていません。当時はなんとなく尻すぼみに終わった印象でしたが、その理由が判明したのは、2013年の8月23日に藤圭子が自ら命を絶った後のことです。

彼女が自殺して2カ月後、作家の沢木耕太郎が『流星ひとつ』というノンフィクションを出版しています。それは1979年に歌手を引退してアメリカに行くことを決めていた、当時28歳だった藤圭子に対するインタビューだけで構成された異色作でした。

その年の秋に始まった取材は、最後のコンサートが行われた12月26日まで重ねられたと言います。しかし当時、そのインタビューが公になることはありませんでした。沢木は『流星ひとつ』のあとがきで、その辺の事情についてこう述べています。

 私は、この『インタヴュー』という作品を新潮社から出すことにしていた。「別冊小説新潮」に一挙掲載し、それから単行本にして刊行するというのが当初からの予定だった。それは、藤圭子にも伝えており、了解を得ていた。

(沢木耕太郎『流星ひとつ』新潮社)

沢木はそこから『インタヴュー』の執筆に集中し、翌年の5月までかけて原稿を書き終えました。そして落ち着いて完成した作品を読んでみて、インタビューするまでは想像もつかなかったほどの純粋さを持った女性の姿を、ほんとうに描き得たのかというところに疑問を持ちます。会話だけで長編ノンフィクションを成立させるという自分の表現や野心のために、引退する藤圭子を利用しただけではないか、と思うようになったのです。

 私は、手書きの原稿を製本所に頼んで一冊の本の形にしてもらうと、『インタヴュー』ではなく『流星ひとつ』とタイトルを変え、それをアメリカに渡った藤圭子に送ることにした。長い時間付き合ってもらい、あなたについてのノンフィクションを書き、出版させてもらおうとしたが出来上がったのはこの一冊だけでした。申し訳ないが、この時点での出版は断念しようと思います……。

(同前)

藤圭子からは、「自分は出版してもいいと思うが、沢木さんの判断に任せる」という返事が届きましたが、沢木は作品を葬ることにしたのです。しかしその後、一度だけ『流星ひとつ』を世に出そうとしたことがあったと言います。2002年に文藝春秋から全9巻のノンフィクション選集が発行されることが決まった時、時間を置いて未刊だった原稿を読み返して、「一人の女性の真の姿を描き出している」と思えるようになったからです。刊行を取りやめた作品をあらためて出版するには、なぜ世に出すのかを藤圭子に説明しなければなりません。

 だが、どうしても直接の連絡が取れないまま時間切れになってしまった。私はその選集の巻末に回想風のエッセイを連載していたが、そこにこの作品の存在について短く触れ、それをもって『流星ひとつ』を永遠に葬ることにした。
 ところが、この八月二十二日の昼前、思いがけない人から「藤圭子が新宿のマンションの十三階から投身自殺をした」という知らせが入った。
 テレビをつけると、NHKのニュースでも報じられている。
 私には信じられなかった。私が知っている藤圭子が自殺するとは思えなかったからだ。たとえ死の誘惑に駆られることがあっても、生の方向へ揺り戻すことのできる精神の健康さを持っているはずだった。

(同前)

藤圭子の自死を知って衝撃を受けた沢木は、星が流れるようにこの世を去ってしまった一人の女性の、まっすぐな心を伝えたいと思って『流星ひとつ』を10月に刊行しました。そのインタビューの中で、自らの意思で「別れの旅」を封印して歌わなかったという事実が、詳細に語られていたのです。

「あたし、二つの歌を殺してしまったんだ。自分の歌を自分の手で。とてもすばらしい歌を、自分の手で死なせちゃったの。生まれて間もない……歌が歌手の子供だとすると、自分の子を殺してしまったわけ。駄目だよね、歌手としては、なっちゃないよね、ほんとに馬鹿だよね」

(同前)

自分の実生活を売り物にしない潔癖さ

20歳の時に内山田洋とクール・ファイブにスカウトされてヴォーカルを担当するようになった前川清は、それから1年もしないうちに出したデビュー曲「長崎は今日も雨だった」が、1969年の夏からヒットしたことで注目を集めました。そして持ち前のダイナミックな歌唱法とともに、直立不動で無表情なスタイルが話題を呼んで、安定した人気を保つ歌手になっていきます。

藤圭子は同じ年に「新宿の女」でデビューし、1970年に入ってまもなく、セカンド・シングル「女のブルース」がヒットしている中で、アルバムからシングルカットされた「圭子の夢は夜ひらく」も4月から同時にヒットしたことで、“藤圭子ブーム”という現象を巻き起こしました。

若くしてスターになった二人が婚約を発表したのは翌年の6月で、8月1日には早くも前川清の故郷である長崎県佐世保市の教会で結婚しています。ところがわずか1年たらずで、二人は離婚したことを報告する記者会見を開いたのです。

電撃的だった婚約発表や、あまりにもあっけなかった破局の背景には、二人がともにスターだったという事情がありました。前川清は当時の心境について、否が応でもマスコミに追い回されてしまうので、「隠れて会うのがめんどくさくて、だったら一緒になろうか」という理由から、交際が騒がれる前に婚約を公にしたのだと語ったことがあります。

婚約を発表した時はお互いに友達になったという意識で、恋愛関係というほどの間柄ではなく、もちろん結婚式を挙げるつもりもなかったそうです。

「寂しかったんだよね、お互いに。デビューしたばかりで、スタジオに行っても、どこに行っても、友達なんかいなくって。同じレコード会社だったし、演歌だったし、仕事なんかでよく顔を合わすようになって、少しずつ話すようになったんだ、二人で。出身はどこなのとか、そういうのを少しずつ話すようになって、友達になったの。あたしも前川さんも、芸能人同士でヤァヤァって調子よく誰とでも付き合う、ということがぜんぜんできないタイプだったでしょ、だから寂しかったわけ。そのうちに、二人だけで会うようになったの」

(沢木耕太郎『流星ひとつ』新潮社)

長崎から上京した前川清は当初、バンドのメンバーと共同生活をしていましたが、「長崎は今日も雨だった」の後もヒットが続いたことで、一人でアパート暮らしを始めていました。デビュー前からマネージャーの沢ノ井龍二(作詞家、石坂まさをの本名)の家の二階に下宿していた藤圭子は、仕事が終わって帰宅すると部屋の窓から縄を伝って下に降りて、前川のアパートに行って一緒にテレビを観たりして過ごしたと言います。

ところが婚約発表をしたことによって、所属事務所や関わってきたテレビ局などのしがらみで、盛大な結婚式を挙げざるを得なくなってしまったと言うのです。奇異ともいえるその時の経緯が、沢木と藤圭子の会話によって『流星ひとつ』に記されています。

「しかし、何だって、そんなに結婚を急いだの。まだ、あなたは、そのとき十九歳だったのに」
「急いだわけじゃないんだけど……」
「結婚したかったわけ? 前川さんと、早く」
「そんなことはない。前川さんは結婚したかったみたいだけど……あたしは、別に」
「よくわからないね、その辺の事情が。まさか営業用の結婚というわけでもないだろうし……」
「そんなことすると思う? あたしが、そんなことを」
「思わない。でも、なぜ……」
「それはね、売られたわけ」
「えっ? 売られたって、あなたが?」
「週刊誌に、ネタを売られちゃったの。あたしと前川さんの仲についてのネタを、沢ノ井さんに」
「沢ノ井さんが売ったって?」
「そうなんだ、沢ノ井さんが売っちゃったの、話題作りのために」
「そうか、四十六年はあなたに思ったようなヒット曲が出なかったんで、沢ノ井さんも焦ったのかな。〈女は恋に生きてゆく〉も〈さいはての女〉もうまくいかなかったから……」
「それであたし、意地になったの。そんなことをするなら、絶対にもう結婚してやる、って。ほんと、意地になっちゃったんだ」

(同前)

1970年に入って「女のブルース」と「圭子の夢は夜ひらく」が2曲続けてオリコンチャートの1位になった後、藤圭子のレコードはしだいに売り上げを落としていきました。ブームの渦中だったことで、数字上では大ヒットに見えた「命預けます」を最後に、その後は数字が伸びなくなっていたのです。そして婚約発表の引き金になった問題作、「恋仁義」が1971年5月5日に発売されることになります。

この歌を藤圭子が気に入ったこともあり、所属するレコード会社のRCAは低迷を打開するためにプロモーションに力を入れました。沢ノ井がその時に週刊誌を使って、藤圭子と前川清というスター同士が恋愛中だという記事を、藤圭子の告白という形で出したのは話題作りのためです。ところが潔癖で正義感の強い藤圭子は、そうした宣伝方法に怒りを抑えきれず、自ら歌を封印しなければならない事態に追い込まれていきます。

藤圭子の「二つの歌を殺してしまったんだ」という悔恨は、まず「恋仁義」から始まっていたことを、本人が沢木に語っています。

「でも、いい歌なんだよ、いちばん好きなくらいの歌なんだ。さっき、石坂まさをっていう人が、一年くらいで枯れちゃったっていう話が出たけれど、これも沢ノ井さんの作品で、久しぶりに石坂まさをとしていい歌ができたんだ。あたしも気に入って、さあって歌い始めたとき、あたし前川さんと婚約しちゃったの。それで歌うのをやめたわけ。こんなの、歌えないよって」
「どうして? 婚約なんか、別に歌と関係ないじゃない」
「関係あるんだよ。その歌の一番の歌詞はね、こういうんだよ。

 あなたと死んでも 命は命
 一人生きても 恋は恋
 惚れていながら 身を引く心
 それが女の それが女の
 恋仁義

 前川さんと婚約していながら、惚れていながら身を引く心、なんて空々しくていやだったの。前川さんを好きだった女の人はきっといくらもいただろうし、その人たちに対したって、白々しすぎると思っちゃったんだ。こんな歌は歌えないって、たった一ヵ月で違う歌を出してもらっちゃったの」

(同前)

デビュー時に立てた沢ノ井の売り出し計画によって、藤圭子には無口でおとなしい少女というイメージがついていました。しかし、実際には思ったことを何でもはっきり口にし、いつも自らの意思と判断で進む方向を選んできました。藤圭子が沢ノ井の行為への反発で意地になり、何の準備もなく婚約を発表した結果、いい歌だと思っていたにもかかわらず「恋仁義」が歌われなくなったのです。

「こんな歌は歌えない」と藤圭子にはっきり言われたことで、沢ノ井と榎本は「恋仁義」をあきらめて、すぐに東北地方の町の名前を織り込んだご当地ソングの「みちのく小唄」を作って、急遽6月5日に発売しています。そして7月5日には芸能雑誌『平凡』とのタイアップ企画で、読者から公募した歌詞による「愛の巡礼」を新曲として発売しましたが、どちらもヒットにはつながりません。

そうした状況で結婚した前川清と藤圭子は8月2日、フジテレビの人気番組だった『スター千一夜』に出演しています。15分のトーク番組のうちの10分間ほどは、出会いから結婚を決意するまでの経緯を藤圭子が、明るい笑顔を交えて話しました。

〈あの藤圭子が、笑っている〉
 多くの視聴者は、おどろきながら、こう思う。
〈艱難辛苦の末に、やっとつかんだ女のしあわせだ。藤圭子さん、おめでとう……〉
 だが、別の多くの人は、こうも思う。
〈あんな明るい藤圭子、初めて見た。まったく別人みたいだ。いままでの藤圭子は、あれは、なんだったのだろう……〉

(大下英治『悲しき歌姫ディーヴァ 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾』イースト・プレス)

新しい演歌を目指した「京都から博多まで」

5月「恋仁義」、6月「みちのく小唄」、7月「愛の巡礼」と計画性の定まらないリリースが続いた後、石坂まさをと曽根幸明のコンビによる新曲「知らない町で」が10月25日に発売されます。しかしこれも反応が良くなかったので、ヒット曲がほしいRCAはどこかに活路を見出さねばならなくなりました。そこで藤圭子を育てた石坂まさを、すなわちマネージャーだった沢ノ井ではなく、新しい時代のヒットメーカーと目されていた阿久悠に作詞を依頼することにしたのです。

アメリカンポップスを歌うアイドルだった森山加代子を「白い蝶のサンバ」でカムバックさせ、バンドのヴォーカルとしては芽が出なかった尾崎紀世彦を「また逢う日まで」によって大人のエンターテイナーに転身させ、藤圭子に触発されたと思しき怨み歌の「ざんげの値打ちもない」を書いた阿久悠ならば、結婚して幸せになった藤圭子にも新しいイメージを与えてくれるのではないか、そういう期待があったのでしょう。

阿久悠は自分が何を求められているのかを自覚した上で、それまでにない演歌に挑むことで、期待に応えようとしました。藤圭子の作詞を頼まれて「京都から博多まで」を書いた時のことを、自作を解説した『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』の中ではこう記しています。

 藤圭子の方もデビューから二年とちょっとで、薄倖の少女からの脱皮を考えているところであった。この歌では少女ではなく、完全に女である。
 さて、演歌を頼まれはしたが、何を書くのがぼくらしいかと苦労した筈である。如何にも演歌らしいのは得意ではない。そこで女を移動させた。つまり、「AからBまで」という地点移動か、二点を繋ぐ線のドラマである。ぼくの人物は定着しないし、汽車は下りである。

(阿久悠『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』新潮社)

こうした明快なコンセプトのもとに、ただ泣いて男を待つのではなく、自らの意思で「あなたを追って」いくという、それまでの演歌の世界には珍しいタイプの女性像になったのです。阿久悠は1972年に山陽新幹線が新大阪と岡山までの区間で開業し、3年後には博多まで延びるという時代性を意識していました。

そして歌詞についても、歌い出しで語尾の「い」を四回も積み重ねたことや、「重い」や「鳴る鳴る」、「ように」を繰り返すことによって、それまでの演歌にはなかったリズムを作っていると自ら解説しています。


「京都から博多まで」
作詞 阿久悠/作曲 猪俣公章

肩につめたい 小雨が重い
思いきれない 未練が重い
鐘が鳴る鳴る 哀れむように
馬鹿な女と 云うように
京都から博多まで あなたを追って
西へ流れて行く女

二度も三度も 恋したあげく
やはりあなたと 心にきめた
汽車が行く行く 瀬戸内ぞいに
沈む気持を ふり捨てて
京都から博多まで あなたを追って
恋をたずねて行く女

京都育ちが 博多になれて
可愛いなまりも いつしか消えた
ひとりしみじみ 不幸を感じ
ついてないわと 云いながら
京都から博多まで あなたを追って
今日も逢えずに泣く女


1月25日に「京都から博多まで」を発売するにあたって、RCAと藤圭子は実際に京都から博多まで1週間かけて移動しながら、各地で新曲キャンペーンを行うなど、久しぶりに宣伝活動にも集中できたことによって、ヒットと呼べるだけの実績を残しました。

スタッフたちが復活の手応えを感じた「京都から博多まで」に続いて、次なるステップを狙って作られたのが「別れの旅」です。阿久悠は「二点を繋ぐ線のドラマ」であることと、「汽車は下りである」ことを踏襲しつつも、「上野から青森まで」の旅をすることによって相手と別れた後は、前を向いて生きていこうとする強い女性を描きました。

マネージャーだった沢ノ井によって作られた藤圭子の伝説と、マスコミによって流布された虚実ないまぜのスター神話から距離を置き、烈しさを内に秘めている女性を藤圭子に重ね合わせたのです。

 ぼくは、大体、一人立ちしている女性が好きであるから、そして、女性はそうあるべきであると信じていたから、詞の中にもそれをとり入れたのである。
(中略)
 奪われたり捧げたりするのではなく、対等の立場で結ばれる。捨てられるのではなく、自分の意志で別れる。未練という情緒的な形ではなく、追憶とか悔恨といったやや理性的な思い方をする。愛されたり、可愛がられたりではなく、愛する女性を、充分魅力的と信じて描いていたのである。

(阿久悠『阿久悠の実戦的作詞講座』スポーツニッポン新聞社出版局)

その直後に藤圭子と前川清の離婚という現実の問題が重なってくることなど、当時の阿久悠には知る由もありません。ところがレコーディングは順調に進んだにもかかわらず、発売が目前の段階になって、藤圭子が急にこの歌は歌えないと、スタッフに訴える事態になっていったのです。

それはおそらく前川清との結婚生活に終止符を打つことを、決意したからだったに違いありません。

どうしても歌えなかった「別れの旅」

1972年5月25日に発売された「別れの旅」のレコード・セールスは順調で、オリコンのチャートでは短期間で14位まで上昇しています。それまでのシングルの動きを最高位で列記すると、「恋仁義」(21位)、「みちのく小唄」(23位)、「愛の巡礼」(44位)、「知らない町で」(46位)です。しだいに下降していたところから「京都から博多まで」が20位に巻き返したので、評判が良くて出足もいい「別れの旅」は大きく売り上げを伸ばせるはずでした。

ところが発売と同時に藤圭子が歌いたくないと難色を示し、本人が稼働するテレビやラジオの出演がなくなってしまいます。『流星ひとつ』から少し遅れて、やはり藤圭子が自殺した後の11月に刊行された大下英治のノンフィクション、『悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾』には「別れの旅」について、こんな記述が出てきます。

 いつも、ステージの脇で藤を見守っていた成田は、そんな藤の姿を見たことはなかった。涙を見せるなんてことは、一度もない。我慢強いのが藤だ。
 それが、新橋のダンスホールで歌っていた藤は『別れの旅』の終盤になり、あのフレーズになった瞬間、嗚咽して、歌えなくなってしまった。
 それでも、『別れの旅』はヒットして行った。藤が興行で歌わなくても、売れたのだ。
 阿久も、この曲を「生涯で五本の指に入る歌詞」と自負していた。
 成田は、この曲に対する思い入れがことのほか強かった。
〈確かに、歌うのは酷かもしれない。でも、この曲を、純ちゃんがまともに歌えたら、歌いきったら、また、黄金時代の純ちゃんに戻れるぞ。これで、おれも天下を取れる〉

(大下英治『悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾』イースト・プレス)

文中の「あのフレーズ」とは、最後の4番に出てくる「二年ありがとう しあわせでした……」という歌詞のことです。藤圭子がスターになった頃から常に現場についていたチーフ・マネージャーの成田忠幸は、プロの歌手としてはその4番の歌詞をしっかり歌えるようになってほしいと、強く願っていたそうです。

しかし、藤圭子は二度と人前で「別れの旅」を歌うことはありませんでした。それは単に気持ちがつらいという理由だけではなく、人間としての生き方に関わる問題だったと思われます。「自分の歌を自分の手で殺した」と言った後で、沢木の質問に答えて藤圭子はこう述べていました。

「二曲、そういうのがあると言っていたけど、もう一曲は何ていう歌?」
「〈別れの旅〉っていうの。これも好きな歌だったんだ。阿久悠さんの作詞で、ね。その一曲前に、阿久悠さんが〈京都から博多まで〉を作ってくれて、これがかなり売れて、その第二作だったわけ。あたしは、むしろ〈京都から博多まで〉より好きだったくらいなんだ」

(沢木耕太郎『流星ひとつ』新潮社)

沢木はこのインタビューをするまで、「別れの旅」を聴いたことがありませんでした。そこでどのような歌なのか知らないままだと、話が進めにくいからと藤圭子に歌ってくれないかとリクエストしています。すると藤圭子は「駄目だよ、周りに人がいるのに……」とためらいながらも、インタビューの行われていたホテルのバーラウンジで、長きにわたって封印していた「別れの旅」を小さな声でワンコーラス、歌ってみせたのです。それを聴いた沢木が「いい歌ですね、ほんとに。どうして、こんないい歌を葬ってしまったんだろう」と反応すると、藤圭子という歌手の本質がにじみ出ている、こんな言葉が発されます。

「この歌を出して、一ヵ月後に、前川さんと離婚してしまったの。いかにもぴったりしすぎるじゃない。〈別れの旅〉だなんて。そんなこと思いもよらなかったけど、宣伝用の離婚だなんて言われて、口惜しくて口惜しくて、それならもう歌いません、という調子で歌うのをやめてしまったの」
「馬鹿ですねえ」
「ほんと馬鹿なの。それで、歌う歌がないもんだから、しばらくはB面の歌を歌ってた。馬鹿ですね、われながら。でも、やっぱり、あたしには歌えなかったよ。だって、四番なんて、こんな歌詞なんだよ。

 終着駅の 改札ぬけて
 それから後は 他人になると云う
 二年ありがとう しあわせでした……
 後見ないで 生きて行くでしょう

 こんな歌詞を、離婚直後に、沢木さんだったら歌える?」
「どうだろう」
「歌手だったら、プロの歌手だったら、絶対に歌うべきなんだろうけど、あたしは駄目だった。駄目だったんだ……」

(同前)

「宣伝用の離婚だ」などと勘ぐる世間に対する口惜しさから、藤圭子によって封印されてしまった「別れの旅」は、当然ですがいつしか忘れられた歌になっていきます。そんないわくがついた歌について、大下英治の著書には“阿久も、この曲を「生涯で五本の指に入る歌詞」と自負していた”とありました。しかし自分の作品について様々な思いや解説を、後年になって数多く語った阿久悠ですが、それらの著書の中で「別れの旅」が取り上げられているのを、筆者は目にしたことがありません。それどころか「別れの旅」の発売から1年後、書き下ろしで刊行した初のエッセイ集の中では、以下のようにはっきりと藤圭子に遺憾の意を表していたのです。

 この『別れの旅』を歌っている最中に、藤圭子が離婚した。事実がフィクションのあとを追ってきて同じになったのである。
 離婚を予測してつくったのではないかと、当時、さまざまにかんぐられたが、これは、まったくの邪推であり、迷惑なことだとしかいいようがない。
 むしろ、ぼくのほうとしては、せっかく好評だったこの歌を、身につまされるからという理由で、いかなる機会にも歌わず、レパートリーからも削除する藤圭子のほうが問題なのである。彼女は、確か、身の上話とともにスターになったのではなかったか、そう思うのである。

(阿久悠『36歳・青年 時にはざんげの値打ちもある』角川文庫)

世間の邪推や勘ぐりに阿久悠も口惜しい思いをしたようですが、それよりも憤懣の矛先が藤圭子の売り方に向けられているように見えます。ところが阿久悠はこの文章を書いてから1年後、スポーツニッポンの『阿久悠の実戦的作詞講座』を始めて、「藤圭子が歌ってうそにきこえないものをかいてほしい」と読者に呼びかけて、積極的に藤圭子の歌づくりに協力していました。

そうした阿久悠の行動に対する「なぜ?」という気持ちが解消されたのは、藤圭子の担当ディレクターだったRCAレコードの榎本じょうが、2017年になって当時の経緯を明らかにしたからです。

それによると「別れの旅」は初めて阿久悠に作詞を依頼した前作、「京都から博多まで」が好評だったことから続編として作られたものでした。そして別れを覚悟した二人が北へ向かうという、いわば演歌の王道に挑んだ作品が完成したのです。しかし、レコーディングの段階になって榎本が、阿久悠の了承を得ないまま、ディレクターの権限だという考えから歌詞の一部に手を加えていたのです。

「京都から博多まで」も好きですが「別れの旅」は特にお気に入りです。最初阿久悠の詞は「上野は暗く」から始まる所謂“ご当地ソング”だったのですが。それを「夜空は暗く」に変え、2番以降に出てくる「仙台」「八戸」「青森」も同様に勝手に変えてしまったんです(笑)。この日にレコーディングしないと発売に間に合わないというタイミングで、でも阿久悠に連絡をしても捕まらないとマネージャーが言うので、事後承諾でと決めてGOしました。作品というのはディレクターが作家に発注して書いてもらうものです。もちろんコンセプトや内容はきちんと説明しますが、そうして上がってきたものは作家の手を離れ、ディレクターのものになるんです。だから料理の仕方は何も言われたくないですし、僕はレコーディングに作家は呼びませんでした。当時はそういう考え方で仕事をしていました。「別れの旅」は発売されても何事もなかったのですが、しばらくしてから阿久悠さんから「あれは僕の詞じゃないので、クレジットを外してください」と連絡がきました。謝罪に伺いたいといっても会ってくれなくて、でも阿久さんのマネージャーさんがお店で偶然会うように仕向けてくれました。阿久悠とは何時間話しても、話しが合いませんでしたけどね(笑)。最後は納得してくれました。

otonano『藤圭子劇場』スペシャルインタビュー 榎本襄(音楽プロデューサー)

歌詞が無断で書き換えられたことに対して、阿久悠がマネージャーを通して「あれは僕の詞じゃないので、クレジットを外してください」と申し入れたというのですから、不快に思ったのは間違いありません。阿久悠にとって、勝手に歌詞を変えられたことの口惜しさは、許しがたいものだったのでしょう。そうだったとすれば、自らの代表作97曲を解説した『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』にも、ヒットしなくても愛着があるという50曲を取り上げた『なぜか売れなかったぼくの愛しい歌』にも、「別れの旅」が入っていなかったことに納得がいきます。

ではオリジナルから消されてしまった歌詞がどうなったのかと思ったとき、阿久悠が「津軽海峡・冬景色」について星野哲郎に説明したなかで、“上野から乗って、青森駅でおりたらお別れという歌なんですけど、それがベースになってますね”と語ったフレーズが、きれいにつながってきました。「別れの旅」で体験した口惜しさを忘れずにいた阿久悠は、新たな作品として「上野発の夜行列車降りた時から」と到着地点から始めて、そこから北海道へ渡る過程を歌にするという、それまでにない斬新な演歌を作り出したのです。

それが石川さゆりという十代の歌手をスターにしただけでなく、歳月を経て歌手とともに成長し、日本を代表する演歌の一つになったことで、結果的に屈辱を晴らすことができたのではないでしょうか。

次回につづく

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